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2章 兄と恋人9
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ただそれを好ましく思わない人も当然いた。
「遊びに来たわよ」
そう言って現れたのはエレーナだ。
彼女は闇に紛れて現れる。陽気な振る舞いとは違い、影を好み人目を避ける傾向があった。
「あら、今日も慣熟飛行かしら?」
整備中のクローネは集中しているため外からの声には基本反応しない。そのため客に応対するのはキキョウの仕事となっていた。
一瞬汚物の臭いでも嗅いだように顔を顰めたエレーナは、挨拶もせずにズカズカと足音を鳴らして脇を過ぎる。
クローネがちょうど整備していたのが彼女の機体だった。寝板から顔を覗かせると、真上にそびえるエレーナの身体があった。
「慣熟? だったら今日は駄目よ」
クローネはレンチを振り、オイルまみれの顔に笑顔を貼り付けていた。
慣熟飛行とは、文字通り技量が落ちないよう定期的に訓練するための飛行だ。エレーナはまだ十四でしかなく、冬燕の中でも一番若い。そのため他人より多くのフライト経験を積む必要があった。
つい先日も自主的に慣熟飛行をしたばかりだった。その際エンジンが何時もより調子が悪いと注文があって、急遽整備を依頼されていた。不調の原因はフィルターの目詰まりとオイルだ。下層の用意した精製オイルがエンジンの規格と合わず、必要以上の煤が吸気口を塞いでいた。
一歩間違えれば空中でエンジンが止まる大事故に繋がりかねない。この後ドクターにオイルの成分調整を依頼して、その試運転が終わるまではすべてのグライダーを動かすことが出来なかった。
「違うわ……ちょっといい?」
見下す彼女の口元は固く結ばれている。普段の、人を食ったような態度はなりを潜め、彼女なりに深刻な表情を浮かべていた。
……はて?
その理由に思い当たる節のないクローネは、首を傾げながらも軽く頷く。そして寝板から起き上がると、いつの間にかに格納庫の隅へと向かう少女の背中を追いかけていた。
「で、何なの?」
壁に腹を向け、それどころか手をついてエレーナは項垂れていた。
落ち込んでいる。なにに? 訳がわからず、向こうが話し出すまでレンチを回し投げては手中に落とす手遊びをしていた。
耐火耐熱のツナギは重く暑い。袖を腰周りで縛り、大きくさらけ出した肩には薄い汗が浮いていた。
改めて下層は平均気温が高いことを認識していると、排気のように大きく、そして長くエレーナは息を吐く。
そして振り返った顔には朱が差していた。
「あのさ……アダムとキキョウってどういう関係なの?」
「知らん」
あーくだらないと踵を返したクローネの一歩は前に出ない。
全身が細い糸で締め付けられている。いつの間にと考えるよりも早く拘束は解かれていた。
モーター音とともに地面に散らばる無数の糸がのたうちまわりながら回収されていく。その先はエレーナの腕の中だった。
なにあれ……。
クローネが見たのは隠されていた腕。アームカバーの下は肘から先が鈍色に光る義手だった。
「……どうしたの、それ?」
片腕、もしくは両腕。ワイヤー仕込みの暗器を携えた少女に問う。
エレーナは自身の腕に注目されていることに気付き、腕を突き出す。静かな駆動音とともに機械的に指を曲げて見せると、
「機械義肢のこと? クローネもそうじゃないの?」
「いや、私は生身だけど」
向けられた目にクローネは首を振る。
同じように突き出した手は筋繊維特有の柔らかなしなりがあり、サイズに統一感のないばらつきがある。そしてなにより生体由来の温かみがあった。
誰がどう見てもたんぱく質と骨、その他からなる生きた人体だ。
「嘘よ!」
えぇ……。
「嘘じゃないし嘘つく必要ないでしょ」
強情に否定されたのでクローネは歩み寄る。
同じぐらいの背丈、顔が正面に来る。クローネは両手でエレーナの頬を包み込んだ。
とくとくと鼓動の音が移っていく。
血潮が通い、生命の音がする。
「――ほらね」
クローネは手を離す。熱が残り香のように薄黄色の肌へ紅葉を残していた。
「ほんとだ……って、じゃああの馬鹿でかいメガネレンチは普通に持ち上げたって言うの?」
驚く彼女にクローネはそんなこともあったなぁと思い出しながら頷く。
銀のメッキが輝く特大レンチ。確かに重いが一人で持てるものだ。あくまで安全に使うために二人以上が好ましいだけであって、クローネと同様に振り回せる人は仕事仲間に何人かいた。
もっとも、その中に女性は一人も入っていないが。
「ゴ、ゴリラ……」
エレーナは感想を口にする。
……皆それ言うなぁ。
実物を見たこともない幻獣がイメージだけ先行してクローネに襲いかかる。
「そんなことよりさ、アダムとキキョウ姉の関係だっけ? そんなこと本人に聞けばいいじゃん」
強引に話を戻すと、エレーナは全身に虫が這っているかのようにおずおずと身体をよじり、身体を抱いて地面をむく。
そして、風に消されそうなほど小さな声で呟いた。
「……恋仲って言われたら立ち直れないもん」
「あっそ」
心底興味が無いと言葉だけ残して立ち去ろうとするが、また糸が邪魔をする。
今度は喉にまで絡むせいで振り切ることも出来ず、引きちぎろうにも指に深く食い込むばかりで上手くいかない。
「わかった、わかったってば。なんか協力すればいいんでしょ?」
めんどくさいなぁとクローネが言うと、拘束が緩んでいく。
そこには満足そうにうなずくエレーナの姿があった。
……こっちは便利屋じゃないんだっての。
「遊びに来たわよ」
そう言って現れたのはエレーナだ。
彼女は闇に紛れて現れる。陽気な振る舞いとは違い、影を好み人目を避ける傾向があった。
「あら、今日も慣熟飛行かしら?」
整備中のクローネは集中しているため外からの声には基本反応しない。そのため客に応対するのはキキョウの仕事となっていた。
一瞬汚物の臭いでも嗅いだように顔を顰めたエレーナは、挨拶もせずにズカズカと足音を鳴らして脇を過ぎる。
クローネがちょうど整備していたのが彼女の機体だった。寝板から顔を覗かせると、真上にそびえるエレーナの身体があった。
「慣熟? だったら今日は駄目よ」
クローネはレンチを振り、オイルまみれの顔に笑顔を貼り付けていた。
慣熟飛行とは、文字通り技量が落ちないよう定期的に訓練するための飛行だ。エレーナはまだ十四でしかなく、冬燕の中でも一番若い。そのため他人より多くのフライト経験を積む必要があった。
つい先日も自主的に慣熟飛行をしたばかりだった。その際エンジンが何時もより調子が悪いと注文があって、急遽整備を依頼されていた。不調の原因はフィルターの目詰まりとオイルだ。下層の用意した精製オイルがエンジンの規格と合わず、必要以上の煤が吸気口を塞いでいた。
一歩間違えれば空中でエンジンが止まる大事故に繋がりかねない。この後ドクターにオイルの成分調整を依頼して、その試運転が終わるまではすべてのグライダーを動かすことが出来なかった。
「違うわ……ちょっといい?」
見下す彼女の口元は固く結ばれている。普段の、人を食ったような態度はなりを潜め、彼女なりに深刻な表情を浮かべていた。
……はて?
その理由に思い当たる節のないクローネは、首を傾げながらも軽く頷く。そして寝板から起き上がると、いつの間にかに格納庫の隅へと向かう少女の背中を追いかけていた。
「で、何なの?」
壁に腹を向け、それどころか手をついてエレーナは項垂れていた。
落ち込んでいる。なにに? 訳がわからず、向こうが話し出すまでレンチを回し投げては手中に落とす手遊びをしていた。
耐火耐熱のツナギは重く暑い。袖を腰周りで縛り、大きくさらけ出した肩には薄い汗が浮いていた。
改めて下層は平均気温が高いことを認識していると、排気のように大きく、そして長くエレーナは息を吐く。
そして振り返った顔には朱が差していた。
「あのさ……アダムとキキョウってどういう関係なの?」
「知らん」
あーくだらないと踵を返したクローネの一歩は前に出ない。
全身が細い糸で締め付けられている。いつの間にと考えるよりも早く拘束は解かれていた。
モーター音とともに地面に散らばる無数の糸がのたうちまわりながら回収されていく。その先はエレーナの腕の中だった。
なにあれ……。
クローネが見たのは隠されていた腕。アームカバーの下は肘から先が鈍色に光る義手だった。
「……どうしたの、それ?」
片腕、もしくは両腕。ワイヤー仕込みの暗器を携えた少女に問う。
エレーナは自身の腕に注目されていることに気付き、腕を突き出す。静かな駆動音とともに機械的に指を曲げて見せると、
「機械義肢のこと? クローネもそうじゃないの?」
「いや、私は生身だけど」
向けられた目にクローネは首を振る。
同じように突き出した手は筋繊維特有の柔らかなしなりがあり、サイズに統一感のないばらつきがある。そしてなにより生体由来の温かみがあった。
誰がどう見てもたんぱく質と骨、その他からなる生きた人体だ。
「嘘よ!」
えぇ……。
「嘘じゃないし嘘つく必要ないでしょ」
強情に否定されたのでクローネは歩み寄る。
同じぐらいの背丈、顔が正面に来る。クローネは両手でエレーナの頬を包み込んだ。
とくとくと鼓動の音が移っていく。
血潮が通い、生命の音がする。
「――ほらね」
クローネは手を離す。熱が残り香のように薄黄色の肌へ紅葉を残していた。
「ほんとだ……って、じゃああの馬鹿でかいメガネレンチは普通に持ち上げたって言うの?」
驚く彼女にクローネはそんなこともあったなぁと思い出しながら頷く。
銀のメッキが輝く特大レンチ。確かに重いが一人で持てるものだ。あくまで安全に使うために二人以上が好ましいだけであって、クローネと同様に振り回せる人は仕事仲間に何人かいた。
もっとも、その中に女性は一人も入っていないが。
「ゴ、ゴリラ……」
エレーナは感想を口にする。
……皆それ言うなぁ。
実物を見たこともない幻獣がイメージだけ先行してクローネに襲いかかる。
「そんなことよりさ、アダムとキキョウ姉の関係だっけ? そんなこと本人に聞けばいいじゃん」
強引に話を戻すと、エレーナは全身に虫が這っているかのようにおずおずと身体をよじり、身体を抱いて地面をむく。
そして、風に消されそうなほど小さな声で呟いた。
「……恋仲って言われたら立ち直れないもん」
「あっそ」
心底興味が無いと言葉だけ残して立ち去ろうとするが、また糸が邪魔をする。
今度は喉にまで絡むせいで振り切ることも出来ず、引きちぎろうにも指に深く食い込むばかりで上手くいかない。
「わかった、わかったってば。なんか協力すればいいんでしょ?」
めんどくさいなぁとクローネが言うと、拘束が緩んでいく。
そこには満足そうにうなずくエレーナの姿があった。
……こっちは便利屋じゃないんだっての。
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