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2章 兄と恋人6

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 クローネは見る。
 鬼神にも似た表情だ。眉間には深い皺を寄せ、深いエメラルドの瞳の奥には漆黒の炎が立ち上る。親の仇を見る目でキキョウはクローネを見下ろしていた。
 ……見たくなかったな。
 何が彼女をそこまで変えたのか。それが分からずクローネは口を開く。

「キキョウ姉。どうし──」

 パンッ。

「っ!?」

 二度目の平手打ち。芸のない反復にクローネは瞼も閉じずにただ受け入れていた。
 しかし、異変に息を飲んだのはキキョウだった。彼女は振り抜いた手を抱えるが、添えた指の間からは赤黒い血液が滲み出ていた。
 クローネは八重歯をギラつかせて笑う。

「キキョウ姉。私だって馬鹿じゃないんだよ。喧嘩売られたら買わない訳にはいかないんだ」

「そうね、そうよね」

 視線が交差する。
 このままつかみ合いの喧嘩が始まる、誰もがそう思っていた。不敵な笑みは狩りの前を思わせる攻撃性があり、短く繰り返される呼吸はタイミングを計っているようにしか見えない。

「そこまでだ」

 そこへ水が差される。白銀の光線が二人の間を貫いたからだ。
 アダムが腰から得物を抜いていた。クローネもキキョウも、抜き身の剣を間に挟んで喧嘩するほど馬鹿ではない。
 怒気が霧散する。クローネは無意識に膨れ上がっていた肩を落として視線を泳がせていた。

「二人とも、付き合え」

「でも……」

「荒れた女を抱ける男などいない」

 アダムの強い言葉を前にキキョウは口をつぐむ。
 ……ん?
 お咎めの言葉だったかもしれないが、引っかかりを覚えてクローネは首を傾ける。
 だって、

「なっさけないわね。女はあんたたちのママじゃないのよ。ちょっと機嫌が悪いくらいで日和るんじゃないわよ」

 クローネの思っていたことをエレーナが代弁していた。アダムの言葉に深く頷いていた男性陣は、周囲から突き刺さる女性の目線を避けるように一様に天を仰いでいた。



「──で、何があった?」

 アダムは部屋に入るなりそう告げる。
 そこは下層で用意された個室だった。鉄のフレームに海綿状のマットレス、羽毛の掛布が敷かれているベッドが一つと鉄板、鉄管を組み立てた無機質なテーブルと椅子が一つ。他に何もない部屋は暖かいはずなのにどこか寒々しい。
 アダムは椅子に腰かけていた。テーブルに肘をつき、入り口の扉付近に立つ二人の少女には目も向けない。その配慮はどこか壁を感じるものでもあった。
 ……どうしよう。
 クローネは後ろ手を組みながら考える。キキョウとの喧嘩は二人の問題だ。それに巻き込んでしまった責任がある。事情を話さなければ不義理であることは間違いない。
 しかし、なぜ。キキョウの触れられたくない琴線がわからず、話の切りだし方がわからない。不必要に追い詰めるような真似をすることは不本意で、最初に出す言葉に迷っていた。

「……昔、好いていた男性がいました」

 クローネがまごまごしている間に、キキョウが話しだしていた。
 その姿勢は打ち付けた鉄の柱のようにまっすぐで、気弱さなど微塵もない。よく透き通る声が歌唱のごとく言葉を紡いでいた。

「十五までともに過ごし、その後も共にある半身として疑っていませんでした。ただ孤児院から出る日、彼に言われたのです。妹が心配だから、あいつが一人前になるまでは考えられないと。それでも私は待ちました。待って待って……いつまでも迎えに来ない彼の気持ちに気付いたのです」

 アダムは口を挟まずにただ聞いていた。視線はミリも動かず、地を這う虫を眺めるような無為を漂わせていた。
 ……違うんだ。
 クローネは目を閉じて考える。今キキョウが話しているのはアダムに対してではない。自分なのだと。
 今まで何があって、今こうしているのか。その不条理をぶつけられていた。

「彼の心の中に私がいなかったのです。優しくて残酷な彼は察してくれることを期待して、拒否の言葉をシルクで包んで優しく手渡した。それを私が勘違いしただけ、ただそれだけの事です」

「……」

 アダムは答えない。答える気がないからか懐から出した鉄紙手帳を広げ、メタルペンを走らせていた。
 ……レン兄。
 クローネも言葉を探して視線を迷わせる。そんな話聞いたことも無く、傍迷惑な話だ。仮に指輪を持って関係を迫られていたらにべもなく断っていたことだろう。
 そう告げることは今更でしかない。愛する人を二年も待ち続けるキキョウの気持ちなど分からずとも、待つだけの辛さは分かる。だから恋敵から懸想していた男の名前が出れば我を忘れるのも仕方がないことであった。それはそれとして売られた喧嘩は買う、中層の流儀だから変えられない。
 ……はぁ。
 めんどくさいとクローネはため息をつく。この状況を打破する冴えたやり方が思いつかない以上話すことも出来ない。のしかかる無力感に救いなどあるはずも無かった。

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