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2章 兄と恋人5

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 ……ん?
 興味なく通り過ぎる集団を横目に見ていたクローネは、違和感に引っ張られるように目を横に向けていた。
 微かな記憶の中にいた朧気なビジョンが、一人の女性を見た時に輝くように形作られていく。
 そして気がついた時にはクローネの手が女性の腕を掴んでいた。

「あっ……」

 手が、腕が。先に進もうとする女性に引っ張られてクローネは釣られるように一歩踏み出す。
 驚いたのは女性の方だった。急に腕を掴まれて振り払うことも出来ずに子供のように震えていた。
 目が合う。お互いの姿を確認し合う。

「……キキョウ姉?」

 それは在りし日の姿そのまま、いや過去より数倍女性らしく綺麗になった義姉の姿だった。

「……クローネちゃん?」

 推定が確信に変わる音がした。
 実に三年ぶりの出会いだった。クローネは空白の時間を埋めるように足を前に出す。手を握り直し、両手でキキョウの手を包むと、

「ほんとにほんと? うわぁうれしい、会いたかったんだよ?」

「え、えぇ……そうね」

 クローネは手を大きく上下に振って喜びを表現していた。
 背が低くとも肉体労働で男たちに混じり鍛え上げた腕力には、針金のように細いキキョウの身では抗うこともできない。腕が一往復するたびに体勢を大きく崩し、苦笑いとともに首を左右に振って言外に状況を伝えていた。

「どうした……知り合いか?」

 周囲の視線が集まる中、アダムが一歩前に出る。
 列は既に止まっている。キキョウとクローネを中心に予定通りにいかない先導の苦い表情がクローネを捉えていた


「あ、うん。ごめんね、邪魔したかな」

「いや別に。大差ないさ」

 主賓の言葉に男性の目つきが和らぐ。
 ……ほっ。
 段取りを横紙破りしたのはクローネだ。それで怒られるならまだいい。しかし巻き込まれたキキョウにまで被害があってはいけない。
 クローネは柔らかく吐息する。と、同時に沸き上がる疑問が眉に出ていた。
 キキョウは孤児だ、クローネと同じく。ならば特別な事情がない限り下層に来る許可が下りない。ならばなぜここにいるのだろうか。彼女はメカニックでもないはずなのに。
 質問が口に出る前に、アダムが二人の間に入ってくる。クローネに背を向けて、しかしその声は隠すような真似はしない。

「どうする? 知り合いがいるなら別に──」

「大丈夫です」

 ……はて?
 まるで密談のような雰囲気が漂う。
 ただ、それならそれでかまわないとクローネは考えていた。何か事情がある、大いに結構。何でもかんでも首を突っ込むほど子供ではなかった。
 ただ話を聞いてしまえば口を挟まないでいられるほど大人でもなかった。

「……アダム? その子を気に入ったとか言わないよね?」

 定位置のように人垣の中から飛び出してきたエレーナが言う。
 彼女はアダムの横に立つと、その力なく伸ばされた腕を胸に抱えていた。子供らしい牽制する姿は周囲を朗らかな気持ちにさせる。
 アダムは動じず、キキョウを見つめたまま小脇にエレーナの頭を抱える。そして指通りのいい髪を梳きながら、

「俺は誰も相手にしない。他の男共を頼む」

 一族の長がする謝辞には確かな敬意が込められていた。
 ……ちょっとまって。
 帰るために意識を割いていたクローネの心が立ち止まる。
 まだ確定はしていないが、明らかにあることを意識させていて、それを確かめるためにクローネは踵を返していた。
 足取りは重く、しかし数歩先にいるエレーナまでは大した時間はかからない。背を向けている彼女に顔を近づけると、その肩を軽く突く。

「ん、クローネ?」

 振り返る彼女は能天気な薄い笑みを浮かべていた。

「この女性達って……もしかして」

「あぁ、血を交えるためよ。知らなかったの?」

 知るかよ、と毒づきたい気持ちをクローネは飲み込む。
 エレーナの中では当然のことであるようだった。そして事前に説明を受けていたことも思いだしていた。
 冬燕の目的は交易と交雑。血が濃くならないように外部から遺伝子を持ってくるというならば、受け取る側の人間が必要なことくらい少し考えればわかることだった。
 それ自体は不思議でもなんでもない。この厳寒の時代を生きる術だと言われれば否定する気持ちなど湧くはずもなかった。
 ただそれが顔見知りだとすれば話が別だ。
 クローネはアダムとエレーナの間をかき分けて前に出る。再度キキョウの前に立つと、瞳に敵意すらにじませてにらみを利かせていた。

「キキョウ姉。レン兄──」

 クローネが口を開いた時だった。
 空気が破裂する。誰の耳にも乾いた音が届き、さざ波打つ会場が死に絶えたように静寂を連れていた。
 平手打ちだ。あっけにとられるクローネは焼き印を押し付けられたように熱くなる頬に触れる。
 痛くはない。枯木のような細腕では勢いばかりで体重が乗っていない。
 しかし心は揺れ動く。
 記憶の中の彼女は下の子がどれだけ愚かな行動に出ても声を荒らげることは無かった。手を出すなんてもってのほかだ。クローネには目の前にいる女性が誰だか分からなくなるほどに動揺していた。
 そしてそれ以上に、ふつふつと湧き上がるマグマが身を焦がす。
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