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2章 雪兎と冬燕4

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 撃鉄が心の臓を打つまであと数秒。
 クローネは全身に鳥肌が立つような思いでゴールを見つめていた。
 左手はグリップ、右手は噴射レバーに。呼吸を止めて、その時を待つ。
 永遠にも近い時間が経過する。世界が凍てついて見えていた。
 ……大丈夫。
 大丈夫。いける。出来る。勝てる。
 呪詛のように何度も何度も繰り返す。不備はない。百篇繰り返した。師匠にもチェックをしてもらった。大丈夫。問題はない。
 グリップを握る手に力が入る。汗が滴り、しかし拭う余裕すらない。
 ……まだ?
 流石に長い気がして、クローネは視線を横に向ける。一瞬の緊張のゆるみが大敵とわかっていても、永遠に気を張り詰めていることなどできなかった。

「えー、二番機が整備不良を理由にリタイアです。再スタートまで少々おまちください」

 ……はぁ。
 頭上を飛び回るアナウンスにクローネは身体を座席に預けていた。深く沈み、べとべとした手を腹で拭う。
 調子を外されたが怒ることではない。むしろ称賛すべきことだ。
 無理をして事故を起こしてきた選手を何人も見てきた。機体の調子だけではなく体調も考慮して万全だと判断してレースに臨む。それが長生きの秘訣だ。
 リタイアした機体が一歩下がっていく。新人のうちの一人だった。その表情はどこか解放されたことによる安堵と、レースが出来なかった悔しさがにじんでいた。
 その後ろ姿を一瞥してクローネは前を向き、定位置に手を添える。散らかった集中力を取り戻すように深く呼吸をして、腹に力をこめて、
 ……いける。
 心臓に燃料がくべられて、大きく駆動し始める。後頭部がざわついてむずかゆい。

「再スタートです。よーい――」

 カウントダウン。三、二、一で発射する。
 三。
 勢いよく押し出された血液が指先を温める。
 二。
 音が消え、視界が透明度を増す。
 一、

「パンッ」

 待望の号令に身が震える。クローネはさびつきを感じさせない動きで噴射レバーを引き、グリップを倒す。
 直後、加速が始まった。
 空気に押し潰されるように身体をシートに預ける。一秒後には頭一つ抜け出して機体は羽ばたいていた。
 スタートは上々。口の端が持ち上がる。
 それは青と黒の流星だった。風を斬ると白い筋を後方に残していた。

 勝った。クローネは確信する。
 問題はスタートだけだった。加速に難があるため、逃げ切りされたら負ける可能性もあった。
 その不安は払拭された。もう彼女に手を伸ばしても届くことは無い。
 ゴールは既に目前だ。横には小さな観客の、喜悦と絶望の表情がコマ送りのように流れていく。
 完璧に仕上げた準備とコンディション。最高の手出しに一箇所の瑕疵のない操縦。クローネの機体が一番でゴールを超えるのは最早当然のことであった。

 ……はぁ。
 十秒と少し。終わってみればこんなものかとクローネは肺の中に淀んだ空気を吐き出す。
 減速装置に突っ込んだ機体は弧を描いて天を向く。吐き出されそうな強く前に引っ張られ、胸にベルトがくい込んでいた。
 その一瞬の浮遊感に様々な光景が浮かんでくる。あの日手を伸ばした高揚感はなく、ただ真っ黒な虚無感だけが胸中を支配していた。

 ……ん?
 ありふれた歓声に異物が混ざる。
 耳障りな声の原因は後ろからやってきていた。
 後頭部が焼けるような感覚にクローネは振り返る。その目の前を通り過ぎたのは巨大な火の玉だった。

「は?」

 思わず声が出た。
 遅れて熱気が顔を焼く。眩い橙の炎が人魂のように上空に上がり、そのまま落ちてくる。
 当たる、いや当たらない。
 瞬時にクローネは風防を上げる。バネに飛ばされるようにまだ揺れる機体から飛び出して、熱された空気をかき分けてワイヤーを溶かし落ちてくる機体の落下地点に駆け寄った。

 ぐしゃり。良くない音がした。
 鉄が曲がる音だ。中の人間のことなど一切考慮されない破壊的騒音が、目の前で業火とともに引き起こされていた。
 ……まずい。
 クローネは周囲を一瞥する。こちらに向かってくる人がいる。しかしそれでも間に合うかわからない。
 グローブに手を通す。
 原因は加熱炉周りのガス漏れだ。加熱が大きければ大きいほどパワーセルの排気は安定して勢いを増す。そのためレースに必要以上のガスを注入して、整備不良で炎上する可能性があった。
 ガスさえ尽きてしまえば他に燃えるものがないドロッパ―はすぐに鎮火する。
 ……いや。
 ちがう。クローネは楽観的な推測を否定する。
 パッキンやシートに使われている合成ゴムはよく燃える。だから黒煙が魔物のように渦を巻いていた。

 クローネは拳を握りしめる。炎の奥に見える鉄塊に振り下ろして、道を作る。
 炎が身体を舐める。気にせずに一歩一歩と進んでいくと、
 ……いた。
 そこには先ほど見た顔があった。
 幸いなことに、後ろから地面に衝突したため身体に欠損は見られない。半壊した機体に押しつぶされているようなこともなく、肩を持つと軽い身体がするりと抜けていた。

「意識は!?」

 肩を貸しながらクローネが怒鳴る。浅い呼吸をしているのか、胸の上下は感じるが返答はない。
 生きてりゃ十分。背中にへばりついた溶けたゴムを払いながら、クローネは煉獄の道を帰っていく。
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