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2章 プロローグ

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 クローネが雲を越えてから二年の月日が経過していた。
 十八になった彼女はいまだ生きることを許されていた。本来なら処刑は免れないはずのところを山中病の解決に導いたという功績をもって減刑ということになっていた。

 棚ぼたではあった。中層では常識となっている知識をただ伝えただけに過ぎなかったからだ。
 下層では何をしても快癒することはない。どんな高い薬も手術も、祈祷でさえも意味を成さない。唯一の治療法が下層から出ること以外にないからだ。
 下層の人間にとってそれは耐え難いことであった。中層・上層へ行くということは犯罪者であるという認識が強いせいだった。一度行けばもう戻れない。患者が人目に触れれば棄民されかねないこともあって、死ぬまでの時間を家族とともにひっそりと暮らすことを選ぶのは当然でもあった。
 過去百年の間に山中病でなくなったのは二万人以上に及ぶ。特徴的な痣を見られることを嫌がって山中病患者が公の場、中層の人間とのやり取りをするところへとこなかったことも被害が治まらなかった原因の一つだ。誰か一人でも気づいていたならばもっと早くに解決していたことだった。

 その後より早く治るという理由で上層に治療場を設ける計画が急ピッチで進んでいた。何しろ上層は温室育ちの下層の人間がまともに住むには厳しい環境だった。涙も凍るほどの冷気に対して暖房設備などどこにもない。凹凸の激しい岩肌に横たわり、排泄物の臭いを嗅ぎながら眠るしかないのだから。
 工事の計画は下層と中層の人間が共同で開発を行うこととなっていた。療養所を建設しようにもまずは開けた土地を用意しなければならず、そこに割く人員が片方では圧倒的に不足していた。もちろんクローネもそこに参加をしていた。
 そして工事が終わるまでに八人の作業員が死んだ。

 事故だった。突貫作業には付き物であるため皆深くは考えない。例えそれが人為的なものであったとしてもだ。
 落盤事故を人為的に起こすことは可能だ。発破や掘削により出来た亀裂にゆっくりと手で溶かした水を注ぎ入れ、根気よく何度も何度も繰り返す。手が霜焼け、破れて血が出たらそれも注ぐ。後は凍結によって水分が膨張すれば亀裂は大きくなり、作業による振動で予想だにしない落盤を引き起こせる。
 身を削った悪意の塊は呪いとなって作業員を殺す。しかし都合よく落盤に巻き込まれるかどうかは運次第、作業員も危険箇所はハンマーで検査するなどして対策のしようもあるため、工作が上手くいった箇所など一割にも満たないだろう。
 それに本当に悪意によるものかどうかも判断が出来ない。人が多く出入りし、蒸気機器を多く使うようになったため上層の温度は明確に上昇した。そのため溶けた氷が隙間に入り込んだとしてもおかしい話ではなかった。

 疑心暗鬼を払拭するためには丁寧な仕事をするしかない。直接手を出してくる不届き者には制裁を加えながら、作業員は固く口を閉じて己の作業に打ち込んでいた。
 かくして上層とそれ以下の層の確執は解消されないまま、ひと月という期間で療養所は完成した。下層の人間はしばらくの間様子見をしていたが一人また一人と完治し始めると、病による死と上層への恐怖の天秤が一気に傾き出していた。
 そうなると面白くないのが元々上層に住んでいた人達である。親が犯罪者だからと下層へ行くことが出来ず、身近なものがろくな死に方をしない土地すら奪われる。彼らの怒りは療養所へと向かい、爆発まで秒読みというところまで来ていた。

 それを執り成したのは、驚くことにドクターであった。
 自称発明家である彼は上層に灯りをもたらしていた。上層に僅かに噴出するガスではなく、人が滑車を回して発電した電気による電灯でだ。
 灯りがあれば活動が増える。活動が増えれば生産も増える。ドクターの発明によって上層での暮らしは見違える程に良くなった。だから上層で彼を害そうと思う人間はいなかった。
 とはいえ一度掘られた溝は簡単に埋められない。それでも表立って暴力に訴えないだけ十分な成果と言えた。
 また、クローネの減刑を嘆願したのも彼だった。あの日、下見として連れてきた下層のお偉いさんと鉢合わせした瞬間、バネのように跳ねて地面に土下座をしたのだ。命の恩人である彼に、クローネも頭が上がらない。

 そして、二年後。クローネは舞台に立つ。
 あの日、地面を転がり辛酸を舐めたレースへ。彼女は再び舞い戻る。
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