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1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹13

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「返してよ!」

 クローネが必死に訴えるが、その声は男性の前で霧散する。
 ……もう容赦しないわよ。
 病人に手荒な真似はしたくなかったが、盗人となれば話が別だ。
 腰を落として足に集中する。毎日飽きるほどに気性の荒い男共と仕事をしているのだ。錆び付いた鉄棒を砕くくらいなら造作もないことだった。
 飛び出す。決意が先に決まる。脳が下半身に発破をかける寸前だった。

「で、あと何個調達出来るんだ?」

「へ?」

 言葉と同時にアグニの花が目の前に降ってきていた。
 驚きのあまりクローネは両手で拍手するように手に包む。勢いをつけすぎて掌に石が刺さっていた。
 投げて返された。それよりも質問の意図が頭をすり抜けていく。
 正しい返答がわからない。何を言われたのか考えるうちになんと言ったのかすら疑問に持ち始めていた。
 思考とともに固まる表情筋を見て、男性は手を伸ばす。なすがままクローネは顔を掴まれて、親指と人差し指で両頬を押しつぶされる。
 歯が当たる。優しい痛みに目前に迫った目の存在を強く認識させられた。

「聞いてるか?」

「ひゃい」

 石筍のように細く冷たい指だ。
 クローネはどうにか頷く。そして、

「これ、たまたま拾ったものだから他にはないわよ」

 石の形に跡のついた手を開く。
 薄々勘づいてはいた。見ない振りもした。たったひとつのちっぽけな希望では夢は叶わない。
 ……もとより期待はしてなかったけど。
 役立たずならまだいい。中途半端に価値があるように見えるからむしろ害悪だ。
 だから、頭上から降るため息の音を聞いてもクローネは顔を背けない。文句があるなら自分でどうにかしろと言えるのだから。

「仕方ない。一個でもどうにかすればいい」

「どうにかって、どうにもならんだろう。ジェットエンジンは燃料をバカ食いするんだぞ、アグニの花無しではどうにもならん」

 男性の言葉をドクターが首を振って否定する。
 ……ジェット、エンジン。
 その言葉が頭から離れない。
 甘美な、脳を溶かす言葉だった。

「ねえ見せてよ、そのエンジンで飛ぶところ」

 こいつらは、空を飛ぶ。出来はわからないが飛ぶことに必要な物を持っている。
 クローネは拳を強く握り殴るように手を前に突き出す。男性の腹に当たった手の中にはアグニの花が入っていた。
 男性は目を数回開き閉じして、

「死ぬかもしれないぞ?」

 酷く醜い笑みを浮かべていた。
 ……上等。
 クローネは薄く笑う。そして男性に石を握らせる。
 その上から男性の手を包み込む。

「クローネよ。今はドロッパー乗りだけど、そのうち空を泳ぐ者スカイスイマーになるわ」

「ソクラティスだ。覚えなくていい、そのうち死ぬからな」

 ソクラティスと名乗った男性が自虐的に笑う。
 ……笑えねぇ。
 確かに死相が出ている。食べるものも満足に得られる環境では無い。それを遅かれ早かれと諦めるソクラティスに信用を置くことが躊躇われる。
 彼が患っている病気にクローネは覚えがあった。山中病と呼ばれる病だ。中層一階に住むものにたまに出る症状で身体中に斑点が出来て、倦怠感に襲われる。症状が悪化すればいずれ壊死まで至るという。
 病気とは黒い霧で出来た死神だ。薬など満足に用意出来ない環境では感染症にかかったら広まる前に隔離、消毒、もしくは焼却しなければならない。十分な換気など出来ないからだ。
 だから病気にかかることを人々は過剰に恐れる。しかし山中病だけはちがっていた。
 簡単に治るからである。中層五階に入れば一週間程で快癒する。一度かかると癖になるが、他人に伝染る病気でもない。
 山中病で死ぬなんて一階から出ない怠け者という冗談でしか聞いたことがない。
 ではそれより下ではどうだろうか。

「ソクラティスも下層から?」

 ドクターがそうであるならばその友人も同じであって不思議では無い。
 クローネの声は真っ直ぐに向かう。

「あぁ。不治の病で使えなくなった男など養う余裕は無い、とな。要するに棄民だ」

「不治の病って、ただの山中病のくせに大袈裟な」

 誇大された言葉が可笑しくて、クローネは声に出して笑う。
 ……下層ってユーモラスねぇ。
 原因のわからなかった昔ならそう捉えてもおかしくないかもしれない。しかし今山中病で亡くなる人などいない。いたらおかしいのだ。
 傍目から見てもおかしいと気づく斑点に倦怠感から来る脱力した目と曲がった背筋。元から寝たきりでもない限り、誰かが注意してそのまま搬送される。
 おおかたソクラティスも療養のために上層に来たのだろう。それにしては悪化しすぎている、もっと早く対処しなかったのは本人のせいか周りのせいか。
 
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