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1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹11

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 痛みすら感じるような力強さに、クローネがただただ身を縮ませていると、

「何があったんだ?」

 その声色は昔を思い出させる柔らかなものだった。
 耳元で囁かれた言葉に、虫が這うようなくすぐったさを感じてクローネは身をよじる。
 子供の頃より硬くなった胸を押しのけると、熱が急に逃げていく。まだ残る感触が消えるまでクローネは身体を強ばらせていた。

「たまたまアグニの花を拾っちゃって、ドクターはそれが欲しいってだけ。あんまり言いふらすもんじゃないでしょ、何があるか分からないんだし」

 つまらない真実を告げる。
 言葉にしてしまえばただそれだけの事だ。ちゃんと人払いが出来ていれば隠すこともなかった。
 ……全部ドクターのせいだし。
 場所を考えない不用意な言葉のせいでやきもきさせられたのだと、クローネはかすれた声で独りごちる。
 そもそもドクターがどういう人物なのか。その疑問をぶつけようとしたクローネは、見つめた先にいるレンがさらに険しい顔をしていることに気付く。

「それ……下層で盗んだひろったんじゃないよな?」

「レン兄、そのやり取りもう二回目なんだけど」

 アグに続いて、どうして素直に言葉を受け取れないのか。
 冗談だと手を振るレンだが、それは嘘だと看破する。子供の頃によく見た怒る寸前の時と同じ目同じ顔をしていたからだ。
 ……子供扱いして。
 そういえば向こうが勝手に納得するとレンは未だに思っている事に腹が立つ。表情は口より正直だ。それが分からないほどクローネは幼くはない。
 このことで今度たかろうかと算段を立てていた時だった。

「まだ、下層に行くつもりなのか?」

「ん? そうだけど」

 クローネは軽く頷いて返す。
 レンの言うことは正しい。ただ正確には下層に行って空に必要な物を集めるということが目的だった。
 そのためのドロッパーレースだ。下層に行くには金か技能がいる。その両方を得る為にクローネは鉄の棺桶に足を入れることを選んでいた。
 それも確証のある話ではない。夢見がちな子供に言い聞かす寝物語のようなものだとクローネも半ばわかっていた。わかっていても他に下層へ行く方法は何一つとしてない。縋る寄る辺がそれしか無かった。

 問題は初手で大きく躓いていることだが今は考えないようにしていた。

 今更な質問にクローネは疑問符を浮かべていると、レンはただ首を縦にふる。
 そして、

「分かった。ならドクターとは仲良くしておいた方がいい。元々下層の人だし、来客も多いからな。そこで目に止まればもしかしたら……いや、無理か」

 レンの目線が一瞬だけ下がり、また元に戻る。
 何を見たかは一瞬で理解出来た。

「スケベ。何見てんのよ」

 胸だ。女性らしさのない、鉄板のような胸部を見てレンは諦観の表情を浮かべていた。
 ……今関係ないじゃん。
 クローネはいきなり飛び火した侮辱に唾を吐きかける。
 それよりも気になったことがある。ドクターが元々下層の人間であることだ。
 赤子以外で下層から追い出されるということは、ただの犯罪者だということだ。それと仲良くしろというレンの言葉に神経を疑う。

「私がどうなってもいいの?」

「は? ……あぁ。いや別にドクターは下層から追い出されたわけじゃない。自分から出てきたんだよ」

 意図を察したレンが言う。
 嘘だ。そんなはずがない。
 わざわざろくに食べられもしない、仕事もたいしてない、寒いだけの所へ来る理由がない。いるとしたら頭のネジが五、六本外れているような犯罪者予備軍くらいだ。
 考えて、クローネはちらっと横目でドクターを見る。
 ……犯罪者予備軍じゃん。
 少なくとも頭のネジは外れていそうである。だとしたらありえないことでは無いかと、納得していた。

 しかしおかしいことがある。何をしに上層に留まるのか。自主的にであれば中層でもいいはずだ。わざわざ上層を選んだのは何故なのか。
 クローネは唇を引いて思考する。上層にしかないものなど基本的にない。昔は銅鉱石が豊富に取れていたらしいが今は枯れて、そもそも加工する術もない。加工されたものなら下層の方が手にする機会が多いはずだ。
 興味本位なら留まる理由にはならない。唯一あるとするならば空に近いことくらいだが、それでも十もある門番のような隔壁が開くのを待つ必要があった。
 ……なんだろ?
 わからない。わからないことだけがわかる。
 クローネの頭の中で疑問が層を作っていた。小首をかしげ、唇を尖らせる姿に、レンは破顔していた。

「ははっ……ま、詳しく知りたきゃ本人から聞きな。俺も全部知ってるわけじゃねえから」

 無責任なと、クローネが鼻の下に縦皺を作ると、背中を押される。
 もう行けということなのだろう。空にかかる分厚い雲の中のような不自由さを胸に抱いたまま、クローネは待ちくたびれて座り込むドクターの元へと向かっていた。
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