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1章 ドロッパーレース8

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 十秒に全てを賭ける。文字通り命でさえも。その時間が刻一刻と近づいていた。
 撃鉄が鳴ればフルスロットル。パワーセルを全開放して高らかに蒸気を吐き散らし、気付いたころにはゴールを先頭で通過している。
 レースに参加しようと思ったときから変わらぬ想像は今も確固たるものとして存在していた。後はそれを現実に塗り替えるだけだ。
 滝のように滴る汗が指を湿らせる。今更拭く時間もなく、クローネはごまかすように強くグリップを握っていた。
 いけいけと急かす気持ちが噴射レバーを引かせようとする。当然フライングは失格で、周りにも迷惑をかける。また今日最初のレースにケチが付くと観客の熱気も冷めてしまう。それだけは避けよとクローネは自分を律する。

「よーい──」

 四機並んだドロッパ―の鼻先が揺れる。その横で男性が腕を上げ、合図となる拳銃に指をかけていた。
 クリアな視界でそれを見つめる。あの撃鉄が下りれば──

「……あっ!」

 寸前、クローネは気付く。遮るもののない景色ということは──
 ……下がってないじゃん!
 手を伸ばし、上がっていた風防キャノピーを渾身の力で叩き落とす。
 強化プラスチック製の分厚いキャノピーはかすかにたわむだけで傷一つない。これがないと初速で目玉が潰れる可能性があった。
 そしてクローネが一息つく間もなく、無情にも紙火薬が火を噴いていた。
 空を裂く雄たけびとともに一斉に蒸気が吹きあがる。周囲を濃厚な白煙が舞い、その中から三機の鉄の船が顔をのぞかせる。

 ……出遅れた。
 感想に構っている時間はなかった。何度も何度も手に焼き付けた動作は考えるよりも早く始動の準備にかかる。
 コンマ五秒遅れてクローネの機体は穹色を観客に見せつける。
 我在此われここにあり。悠々と先行く機体を見つめる顔はいっそ優雅でもあった。

「行くわよっ!」

 手痛い失敗でもクローネの顔に陰りはない。理論上最速の機体にとってこの程度ならば捲れる自信があった。
 加速が始まる。躊躇いがちな蒸気は後ろから押されるように勢いをまして、機体を光にする。
 初速が十分に乗り、レールを滑る。身体がシートに縫い付けられるが、先を行く鮮やかな鋼鉄の尻との距離はまだ縮まらない。
 ……ここからっ!
 クローネは押し付ける圧に逆らってシート両側にあるレバーを引く。
 瞬間、光を超えた。

 バイラル型がどうして理論上最速なのか。それにはある仕組みが理由だった。
 メインのセルと制御用のセルとは別に取り付けられた二つのパワーセル。それは単純に空気を後ろから吐き出す目的で積み込まれてはいなかった。
 クローネが引いたレバーに連動するように機体に穴が空く。小さな通風口は速度を上げるとともに多量の空気を取り込んでいた。
 取り込まれた空気は出口を求めて後方へと向かう。しかし徐々に狭くなる構造に空気溜まりが生まれ圧力を高めていく。
 その濃密な空気を蒸気で吹き飛ばす。ラムジェットと呼ばれる仕組みは速くなればなるほど加速を増して安定する。最終的には単純に三倍とは比べ物にならない推力を生んでいた。
 小手先では無い。設計による狂気とも呼べる加速は空気の壁をも突き破るほどだった。
 そして同時に大きすぎる欠点をもその中に抱えていた。

「くっ……」

 全身を万力で潰されているような感覚に、クローネは残った空気を肺から吐き出す。初めての速度に目が霞み、鼻からは鮮血が垂れ、意識すら繋いでいることが難しい。
 早々に他の機体は抜き去っていた。通り過ぎる際に生じた衝撃波はスクリムの機体を大きく流すほどだった。
 勝った。間違いない。そう確信したクローネは気だるさを振り払い、急ぎ減速のためセルを閉じる。
 このまま加速を続けてしまえばゴールの減速装置でも軽減が不可能になる。止まりきれない機体は大きく円を描いて一回転、それでは済まない可能性すらあった。

 バキッ。

「えっ──」

 制御用セルの逆噴射による急ブレーキと同時に、不快な音が会場を包む。
 ひび割れクラックだ。それも一度ではなく二度三度、最終的には機体のあらゆる箇所で悲鳴を轟かせていた。
 鉄板が加速に耐えられなかったのだ。空いた隙間から漏れだしてくる空気がクローネの顔にかかる。
 ゴールは目前。このまま行けば惰性でもゴール出来る。
 しかしそんな上手くいくことはなかった。
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