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1章 ドロッパーレース2

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 そんな頭のネジが七、八本外れているようなレースに出る理由がクローネにはあった。

 到着したエレベーターには管理者が乗っている。その人に向けて選手登録をした際に貰ったメタルタグを見せてクローネは乗り込む。
 この時間は選手しか乗れないからだ。乗らないのではなく乗れない。過去に観客に混じった工作員が機体に細工をして大事故を引き起こしたことがあるからだった。
 痩せた年寄りの男性は見ているのかいないのかわからないほど顔を動かさずにクローネが乗るのを待って、上昇のベルを鳴らす。乾いた甲高い音が響くとエレベーターは蒸気を吐いて滑らかな上昇を始めていた。

 二階から乗り込んだのはクローネだけだった。タイミングの問題だ、他の選手は先か後かの話でしか無かった。
 ここまで来ればひとまずは安心とクローネは大きく深呼吸をしていた。期待と不安に鷲掴みされた心臓が無理やり動かされている。耳に響く鼓動の音が鬱陶しくて、押さえつけるのに必死だった。

「やぁ、アンバー。調子はどうかな?」

 突然声を掛けてきた男性にクローネは固まった頬を緩める。

「ハロー、シルバーJr。決まってるでしょ、今か今かと燃えて仕方がないの」

 そんな軽口に男性は優しく微笑み返していた。
 今エレベーターに乗っているのは管理者を除けば全員がイカレ野郎ライバル達だ。試合前の緊張している時に積極的に交流を図ろうと思う人間は数少ない。
 その例外が彼であった。セナ ムハマド、通称シルバーJr。その名前は中層で生きているならば赤子ですら知っていた。

 特徴的なのがその身長だ。同年代でも小さい方のクローネよりもさらに小さく、十歳の子供程しかない。これで三十近くの子持ちなのだから違和感しか感じない。
 綺麗に手入れされた明るい銅色の髪は長く、後ろで尾っぽのように揺れている。他の選手同様に筋肉質な身体は彼自身がドロッパーの部品のように小さくまとまっていた。
 ドロッパーレースにおいて特に重要視されているのが選手の体重だった。大した費用も掛けずにキロ単位で減らせるものは他になく、コンディションを保てるギリギリまで減量するのが常識だった。
 当然身長が低い方が体積も減る。セナはドロッパーとして理想的とも言える身体をしていた。

「力むのはいいが死なないでくれよ? 可愛いレディを口説けなくなるのは辛いからな」

「えぇ。貴方に見せる背中は用意しておくわ」

 傲慢にも取れる台詞をクローネは吐く。
 セナはそれに気を悪くした様子もなく声を出して笑っていた。
 相手にしていない訳ではなく、本当に楽しみにしていると彼は態度に表していた。

 セナの父親も有名なドロッパー乗りだった。今は現役を引退しているが五十連勝という記録を残した偉人の名前はまだ人々の記憶に色濃く残っている。
 それを超えたのもセナだった。父の記録を優に抜き連勝を八十三まで積み重ねた。誰もが父親を超えたと認めるなかで、当の本人だけが謙遜し未だ二番手シルバーと名乗っていた。
 決して驕らず、かと言って技術は飛び抜けている。そういうところが女性のみならず男性をも魅了するところだった。

「アンバー、幸運を」

「えぇシルバーJr、幸運を」

 クローネは決まり文句を返す。
 女性を宝石の名で呼ぶのはセナしかいない。ルビー、ダイヤ、ターコイズ。性別が女なら誰彼構わず口説くが決して手を出すことは無い。それを面白がって女性選手もセナに宝石の名で呼ばれる事を容認していた。仮に他の男性選手が真似をしたら誰一人反応することはない。強く貴い彼だからこそ出来る芸当だった。

 エレベーターは風を押しのけて上昇している。急激な加速と減速を繰り返すせいで慣れていない人は欄干に手を付けていないとよろける危険があった。
 三階、四階と幾人かを乗せてさらに上を目指す。エレベーターに多く空いた余白から搭乗者の少なさが伺える。噴火のせいでレースどころでは無い人もいるからだ。
 セナが他の女性に話かけている姿を一瞥して、クローネは幾分か凪いだ気持ちでいた。まもなく五階に到着する。不安よりもやってやるという気持ちの方が強く背中を押していた。
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