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夏、海、カツオ3
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輝ける太陽の下、海岸から伸びる釣り糸を眺めながら、舞はレジャーシートに座っていた。そもそも経験が5歳くらいの時に釣り堀でマス釣りを1度した程度しかない舞にとって、まず何からすればいいかに戸惑い、辛からやり方を教わっても餌のイソメを潰し針に自分の指を刺すなど、いるだけで邪魔な存在に成り果てていた。遠投の際も服を引っ掛けるお約束までして、戸事から終始冷めた目で見つめられるなど、バカンスが台無しと不貞腐れていた。
その感情は言葉に乗り、
「……釣れない」
ピクリともせず揺蕩う釣り糸に、釣りとはこんなにもつまらないものなのかとため息、すっかり意気消沈した少女は体育座りをしながら虚ろな目で砂浜の砂に奇怪な文様を刻んでいた。
「変ねぇ。スレてるなんて聞いてないんだけど、いつもは嫌になるほど入れ食いだって言われてたのに……」
スレるとは魚が警戒して餌に食いつかなくなること、人を積極的に襲うモンスターが寄り付かなくなるほどの乱獲をしたならばしばらく間引きすら不要のはずで、ただ異変と考えるには些か理由が弱い。たまたま近くにいないだけという可能性が否定できない以上、座して待つ以外の行動案はなかった。
何が起きているのか不思議がっている辛は舞の横に座り、強い日差しの下、腕をぴったりと貼り付けてくる、滲んだ汗が気持ち悪いということはなく、汗すら吸収するスライムの身体が羨ましい。
「……随分その身体に慣れましたね」
「そーねー。初めはびっくりしたけど慣れたら昔の身体より楽だわ。弱点もあるけど風呂要らずなのは助かるわ」
「水道代値上がりしてますもんね」
「そういう訳じゃないんだけど……確かにそういう見方も出来るわね」
やや呆れ顔の、しかし一理あると辛は頷く。人間の身体ではなくなったことを自虐的に話したつもりだったけれど、流石モンスター化10年も先輩である舞には悲観するところなどないようだ。
さざ波が打ち寄せては消えていく、空にはミルクを零したような濃い雲が1つ2つと浮かんでおり、潮の香りが鼻をくすぐる。並んで座る2つの影はカップルのようで、しかし5分もすれば耐えきれず欠伸、目尻に涙を浮かべた舞は、
「網とかで掬ったほうが早いんじゃないですか? もしくはダイナマイト」
「過激ねぇ……あ、引いてるわよ」
隠れているなら炙り出してやろう、と猟奇的な発想に至ったことへ、実行されてはたまらぬとなったのだろうか、先程までストライキを起こしていた竿の先端がピクピクと痙攣するように小さく跳ねる。先程までの有閑な雰囲気はどこへやら、ようやく訪れた変化に舞は飛び跳ね立ち上がり、アワセなど知らないため震える竿を掴んで思いっきり引き上げる。
「……なんですかこれ?」
糸が張り、リールが唸る。幸運なことにバラさずすんだのだろう、次第に魚影が水面に浮かび、現れたのは老婆のごとく背の曲がった魚、ではなく、
「海老……かしら?」
技術の進歩とは素晴らしく、スマホをかざして数秒待てば会社のデータベースにアクセスしてそれがなんなのかを示してくれる、釣竿を持つ舞の代わりに雑務をこなす辛がまだ活きのいい赤いそれを画面におさめると、程なくして結果が表示されていた。
「でたわ、『不味い海老』ね」
あまりに安直な名前だが、わかりやすさ優先ということなのだ。既に茹だったように真っ赤な甲羅は薔薇を思わせる棘が無数に生えており、糸に吊るされフラフラと振り子に揺れる姿に力はなく磯臭さだけが鼻につく。
舞の腿よりも太くどんな高級旅館でもこれほどまでに大きい伊勢海老はいくら金を積んでも出てこないだろう、惜しむらくはその味にマイナスの太鼓判が押されているということだが、それよりも初の釣果に1寸も心を動かされなかった不満たらたらにしなる竿先を眺めていた。世界中に愛好家の多い趣味とはいえ、合う合わないは当然あるのだが、えらく待たされた挙句に小物が1匹、どうにも性が合わない。素人考えではやはり大漁、大物釣りというわかりやすい派手さを求めたくなるもので、
「……これ餌にすれば大物狙えそうですね」
「大物を狙う意味あるのかしら……」
仕事という事を忘れかけていた舞が獲物を砂浜に落とすと急に生き生きと動き出した海老、恐らく海へ戻ろうと足掻く上から辛がむんずと掴み無情にも頭と胴を引きちぎる。垂れ出てくるは脳髄か内臓か、黄色みがかった何色とも言い難いどろりとした液体を舐め取る姿は官能的でもあり、
「……鮮度が良ければ味がマシになる、って訳でもないのね」
「私が釣ったのになんで先に食べちゃうんですか!」
食べたかったのにと苦情をいれると毒見よと返される。そして硬い殻のむかれた身で口を塞いでいる間に新しい餌を針につけ、もごもごと物言いたげな目を向ける舞の口から海老を抜き取ると代わりに大きく1口かぶりつく。女性同士であってもどきりと驚くような仕草に目を丸くする舞は、微笑むだけの辛を前にして気恥しいのは自分だけなのかと、
……やられたなぁ。
手玉に取られ遊ばれているようで、ぷいと顔を背けて釣り糸を垂らす。
打ち寄せ返す波は何処から来るものなのか、漣に耳をすませば生命の音が弾け、有限の大海はそれでも人を小さく見せるには十分で、
……。
……。
無音、つまりは大きな変化がなく暇を伝えて揺れる釣り糸だけが虚しい。
ザパッ。
ようやく訪れた変化が耳に届く。舞の手にはなんの振動もなく、しかし確かに聞こえた水音がゆるりと閉じかけた目を開かせるには十分で、見る、隣に座る辛の横、数メートル向こうにいたのは、
……?
痩せてはいるものの程よくついた筋肉が眩しい、ブーメランパンツ姿の男性だった。
その感情は言葉に乗り、
「……釣れない」
ピクリともせず揺蕩う釣り糸に、釣りとはこんなにもつまらないものなのかとため息、すっかり意気消沈した少女は体育座りをしながら虚ろな目で砂浜の砂に奇怪な文様を刻んでいた。
「変ねぇ。スレてるなんて聞いてないんだけど、いつもは嫌になるほど入れ食いだって言われてたのに……」
スレるとは魚が警戒して餌に食いつかなくなること、人を積極的に襲うモンスターが寄り付かなくなるほどの乱獲をしたならばしばらく間引きすら不要のはずで、ただ異変と考えるには些か理由が弱い。たまたま近くにいないだけという可能性が否定できない以上、座して待つ以外の行動案はなかった。
何が起きているのか不思議がっている辛は舞の横に座り、強い日差しの下、腕をぴったりと貼り付けてくる、滲んだ汗が気持ち悪いということはなく、汗すら吸収するスライムの身体が羨ましい。
「……随分その身体に慣れましたね」
「そーねー。初めはびっくりしたけど慣れたら昔の身体より楽だわ。弱点もあるけど風呂要らずなのは助かるわ」
「水道代値上がりしてますもんね」
「そういう訳じゃないんだけど……確かにそういう見方も出来るわね」
やや呆れ顔の、しかし一理あると辛は頷く。人間の身体ではなくなったことを自虐的に話したつもりだったけれど、流石モンスター化10年も先輩である舞には悲観するところなどないようだ。
さざ波が打ち寄せては消えていく、空にはミルクを零したような濃い雲が1つ2つと浮かんでおり、潮の香りが鼻をくすぐる。並んで座る2つの影はカップルのようで、しかし5分もすれば耐えきれず欠伸、目尻に涙を浮かべた舞は、
「網とかで掬ったほうが早いんじゃないですか? もしくはダイナマイト」
「過激ねぇ……あ、引いてるわよ」
隠れているなら炙り出してやろう、と猟奇的な発想に至ったことへ、実行されてはたまらぬとなったのだろうか、先程までストライキを起こしていた竿の先端がピクピクと痙攣するように小さく跳ねる。先程までの有閑な雰囲気はどこへやら、ようやく訪れた変化に舞は飛び跳ね立ち上がり、アワセなど知らないため震える竿を掴んで思いっきり引き上げる。
「……なんですかこれ?」
糸が張り、リールが唸る。幸運なことにバラさずすんだのだろう、次第に魚影が水面に浮かび、現れたのは老婆のごとく背の曲がった魚、ではなく、
「海老……かしら?」
技術の進歩とは素晴らしく、スマホをかざして数秒待てば会社のデータベースにアクセスしてそれがなんなのかを示してくれる、釣竿を持つ舞の代わりに雑務をこなす辛がまだ活きのいい赤いそれを画面におさめると、程なくして結果が表示されていた。
「でたわ、『不味い海老』ね」
あまりに安直な名前だが、わかりやすさ優先ということなのだ。既に茹だったように真っ赤な甲羅は薔薇を思わせる棘が無数に生えており、糸に吊るされフラフラと振り子に揺れる姿に力はなく磯臭さだけが鼻につく。
舞の腿よりも太くどんな高級旅館でもこれほどまでに大きい伊勢海老はいくら金を積んでも出てこないだろう、惜しむらくはその味にマイナスの太鼓判が押されているということだが、それよりも初の釣果に1寸も心を動かされなかった不満たらたらにしなる竿先を眺めていた。世界中に愛好家の多い趣味とはいえ、合う合わないは当然あるのだが、えらく待たされた挙句に小物が1匹、どうにも性が合わない。素人考えではやはり大漁、大物釣りというわかりやすい派手さを求めたくなるもので、
「……これ餌にすれば大物狙えそうですね」
「大物を狙う意味あるのかしら……」
仕事という事を忘れかけていた舞が獲物を砂浜に落とすと急に生き生きと動き出した海老、恐らく海へ戻ろうと足掻く上から辛がむんずと掴み無情にも頭と胴を引きちぎる。垂れ出てくるは脳髄か内臓か、黄色みがかった何色とも言い難いどろりとした液体を舐め取る姿は官能的でもあり、
「……鮮度が良ければ味がマシになる、って訳でもないのね」
「私が釣ったのになんで先に食べちゃうんですか!」
食べたかったのにと苦情をいれると毒見よと返される。そして硬い殻のむかれた身で口を塞いでいる間に新しい餌を針につけ、もごもごと物言いたげな目を向ける舞の口から海老を抜き取ると代わりに大きく1口かぶりつく。女性同士であってもどきりと驚くような仕草に目を丸くする舞は、微笑むだけの辛を前にして気恥しいのは自分だけなのかと、
……やられたなぁ。
手玉に取られ遊ばれているようで、ぷいと顔を背けて釣り糸を垂らす。
打ち寄せ返す波は何処から来るものなのか、漣に耳をすませば生命の音が弾け、有限の大海はそれでも人を小さく見せるには十分で、
……。
……。
無音、つまりは大きな変化がなく暇を伝えて揺れる釣り糸だけが虚しい。
ザパッ。
ようやく訪れた変化が耳に届く。舞の手にはなんの振動もなく、しかし確かに聞こえた水音がゆるりと閉じかけた目を開かせるには十分で、見る、隣に座る辛の横、数メートル向こうにいたのは、
……?
痩せてはいるものの程よくついた筋肉が眩しい、ブーメランパンツ姿の男性だった。
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