Nude

爼海真下

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 夏休み明けに課題作品として提出した油彩画はいつにない好評が下された。
 会との再会により地獄の淵に立っていたが、倉庫での一件ですっかり立ち直った……というよりかは、スタンスが変わったおかげだろう。
 いままではトラウマに苛まれもう二度と否定されたくないという恐怖に怯えながら筆を握っていたが、今はどうせ遠くないうちに死ぬのだからそれまで精一杯楽しんでやろうと思えるようになっていた。
 何度も描き直しては間に合わないだろうと思っていた課題はすんなりと解決し、完成した作品を燃やしたい衝動に駆られることはなくなった。講評から二週間が経った今もその油彩画は、会に売る予定の絵と並んで睦月の作品棚に置いてある。
 会との作品制作も、睦月と彼のスケジュールに合わせて週に一、二度のペースで行っていた。絵を描いて、休憩時間に体を重ねて、会に甘やかな言葉と行為を齎されるほどに、描きたい会の図が深まっていった。
 今日の放課後も睦月はバイトの予定がなく、会も空いているとのことで倉庫で待ち合わせる約束をしていた。
 大学の食堂で昼食を食べながら、その確認のメッセージを交わしていると、会がふいに写真を一枚送ってきた。濡れた路地に佇む小さな猫の写真だった。
『さっき見かけた。睦月みたい』
 という吹き出しが現れて、どこが、と思った。猫と睦月の共通点は毛の色が黒いことと瞳の色が黒いことぐらいなものだ。
「彼女か」
 隣からかかった声に目を向ければ、九十九がいた。
「隣いい?」と聞かれ頷けば、うどんをのせたトレーを机上に置き、睦月の隣に腰を下ろした。
 あのグループ展でかかわりを持って以来、九十九はたびたび睦月にかまってくる。夏休み明けからはこうして昼を共にしようとしたり、かぶっている講義や作品制作の際にはよく睦月の隣席を取るようになった。
 学校では浮いている自分なんかとつるんでもともと親しくしていた面々から白い目で見られたりしていないのだろうか。そう案じて尋ねれば九十九は「さぁ。でも俺がつるむ相手は俺が決めるし、それに口出して縁をちらつかせるような人はこっちから願い下げかな」とあっさり答えた。はじめて話したときから九十九は愛想も雰囲気もよく社交性が高いが、自分の価値観をしっかりと持って物言いも清々しい。そういうところに気安さを覚え、睦月は九十九と過ごすのは嫌いではなかった。
「グループ展明けから調子悪そうだったじゃん、稗田。だから、悪いことしちまったなって思ってたんだけど。夏休みの終わり際になって急に持ち直したっていうか、雰囲気明るくなったから、気になってたんだよなぁ。なるほど、そういうことか」
「何一人で問いかけて一人で納得してんの」
「違うの?」
「違う」
「でも今、メッセージ画面見てにやついてたじゃん」
 思わず口元に手を添える。にやついていた自覚はなかった。むしろ、怪訝を抱いていたのに。
「嘘」
「え」
「でもにやつく可能性のある相手と連絡を取っていたと」
「お前……」
「いやぁ、稗田くんはかわいいねぇ」
 にやにやとしながら九十九はうどんを啜る。嚥下したのを見計らってから踏みつける。
「そういう妙に律儀なところもよ」
 へらへらとする九十九を睨みつけたとき、座っている椅子ががたっと揺れた。誰かがうっかりぶつかっただけかと思った。だが、反射的に振り返った先で目が合った男はなんだか睦月のことを睨んでいるように見えた。気のせいかと思ったが、視線は逸らされないどころか男は動かない。
 いったいなにがあるというのか、睦月の方は彼のことを知らないのだが……いや、アトリエで見かけたことはあるような。同学年ではないから、上級生か下級生だろう。直接な接点はないはずなのだが。
「お前、稗田だろ」
「そうですけど」
「自分の作品を無価値だって言ったり、燃やしたり、コンテストにもろくに参加しないずいぶんと謙遜の気があるプライドがお高い作家様なんだってな」
「えっと」
「あんま調子乗ってんじゃねぇぞ」
 一体何の話だと首を傾げたが、男はいっそう機嫌を悪くした様子でふんと鼻を鳴らし去っていく。
「あー……ごめん、稗田」
「なんで九十九が謝るんだ。もしかして、知り合い?」
「前に話したことあるだろ。四年にパトロンがついている先輩がいるって」
「そういえば……それがさっきの人?」
「そ。遠藤先輩」
「なんで俺に突っかかってきたんだ?」
 九十九が少し罰が悪そうに目を逸らす。
「遠藤先輩のパトロンがさ、たまたまあのグループ展見に来たみたいで。その……稗田の絵に興味持ったらしい」
 曰く。
 睦月の作者名は「1」というハンドルネームにしていたけれど、あのグループ展自体は所属している大学名を出していた。そのことからパトロンにあの絵を描いた人間と知り合いかと尋ねられた遠藤は、二年生の知り合いに探りを入れた。そしてパトロンが興味を持った作品の制作者が睦月であることを知った。遠藤は自分のパトロンが睦月に心変わりしないかが心配らしい。
「ハンドルネーム作戦提案したの俺なのに、こんなことになっちゃって……俺がグループ展に誘ったせいで、稗田がスランプになったり厄介な先輩に目をつけられたりしちゃったのかなと思うとなんか申し訳なくて」
「いや、全部九十九のせいじゃないだろ」
 よくよく考えずとも、睦月が提出した作品はもともと大学の課題として制作したもので、同級生の前では堂々と講評されている。同じ大学内の人間には最初から作者を隠しようがなかった。
「それに、グループ展に誘ってくれたこと、感謝してるから」
 九十九がグループ展に誘ってくれたおかげで、睦月は陰鬱とした日々から一歩踏み出すことができた。
 なにより、会と再会できた。
 その直後は参加したことをひどく後悔したけれど、しかし今は長年彷徨ってきた迷路にようやく光と出口が兆していた。いつかの終わりまで睦月は希望と幸福を持って生きることができるようになっていた。
 それで、ふと、思い出す——会はどうしてあの絵が睦月のものだと分かったのだろうか。
 会はあの絵を最初に見たときから、睦月が描いた絵だと分かっているようだった。大学のアトリエで再会したときには、睦月の絵にすごく懐かしいものを感じたとも言っていたけれど、しかし、会の中の睦月の絵は小学二年生時のもので止まっているはずだ。さすがにあのときと今の睦月が描く絵は大きく異なっている。どこから懐かしさを見出せたというのか。あの再会からこれまで何度も顔を合わせているが、そういえば尋ねたことがなかった。
「本当? 気遣ってない?」
 慮る九十九の声に、はっと意識が現実に戻る。
「遣ってないよ」
「まぁ、稗田ってあんま気遣うタイプでもないもんな」
「普通に失礼だな」
「俺は稗田のそういうところが好きだぜ」
 素直に喜んでいいのか。とりあえず「どうも」とだけ返しておく。
「あの様子だと遠藤先輩は多分、パトロンに稗田のこと話してないだろうけれど。でも、どっかしらからは漏れてるだろうなとも思うんだよなぁ。そのパトロンに絵を買いたいって頼まれたら稗田はどうするの」
 どうするもなにも。
「売らないよ」
「それは先輩のことを気遣って?」
「俺は気遣いしないタイプなんだろ……あの絵はもう買い手が決まってるから」
「え、そうなの」
 九十九は驚いてすぐに「でもまぁ、そっか」と零した。
「稗田の絵は売れるよなぁ」
「そんな納得すること?」
 遠藤とやらがそこまで睦月を恨む理由も、九十九の納得も、睦月にはあまりピンときていない。
 パトロンについて詳しくは知らないが、その作者が産む全てを気に入り支援すると決めた存在なのではないか。そこには相当の熱意があるだろうし、それが睦月のあんな絵を見たごときで心変わりするものか。そこまでの価値や魅力があるとは思えない。
 会があの絵を買いたいと言い出したのだって——思い馳せ掛けて、地獄からそっと目を背ける。
「稗田の絵って、めちゃくちゃ真剣に絵と向き合ってきたことが分かるんだよね。丁寧さが、真摯さが、情熱がひしひしと伝わってきて、上手いってこういうことなんだなって思わされる。それが凄い魅力で、強い引力になってるっていうかさ。見るたびに、目を奪われて、触れたくなる。すげえ悔しくなるし、すげえ尊敬する」
 これまでにも、会の幻影に否定され睦月にとっては無価値である絵を褒める他人は少なからずいた。それらには特に感慨を抱くことはなかった。先に遠藤のパトロンが睦月の絵を気に入ったらしい、時いたときも、ふぅん、程度の気持ちだった。
 だが、九十九の賞賛は妙に面映くなるというか、心に引っかかった。久々にできた友達……だからだろうか。多分、相手が九十九でなければ、あの絵に買い手がついたことも明かさなかったかもしれない。
「あのさ、こんなこと聞くの、なんだけど」
「なに?」
「俺と九十九って友達?」
 九十九は目を丸く見開いた。
「おっまえなぁ……!」
 瞳を細めたり、口角を上げたり、肩をいからせたり、九十九は挙動不審になった末、睦月の髪をぐしゃぐしゃと混ぜた。
「え、ちょっと、なに」
「友達! 友達だから! お前マジでなにかあったら相談しろよ。絶対力になるから!」
「ありがとう?」
「稗田くん」
 ふいに割って入った声に、先の出来事が過ぎった警戒があったのだろう、睦月と九十九は揃って振り返った。そこに立っていたのは同級生の男子だった。
 二人に同時に目を向けられた彼はわずかに驚きながらも、睦月の方を見て口を開いた。
「三角教授が話があるから、時間があるときに研究室に来るようにって」
 三角教授は油絵専攻二年、つまり睦月たちの学年の担任のである。
 白髪に白髭をたくわえた老父で、物腰はやわらかで、おっとりとした雰囲気を持っている。美術家としての活動はもう行っていないようだが、過去作品を見ればその才技は明らかで、見る目も非常に優れており、講評の際にはコンセプトと技術に分けて的確な意見を述べてくれる、尊敬できる教授の一人だ。
 昼食ののち本日最後にして必修である三講義目を終えてから、睦月は三角教諭の研究室に向かった。
 椅子に腰掛けた三角教授は睦月を捉えると、白い髭を撫でながら告げた。
「稗田くん、先日の課題作品をコンテストに出してみる気はないかい?」
「コンテスト、ですか」
 三角教授は机上から一枚の紙を取って睦月に渡した。それは、とある市の名を冠した国際コンテスト開催と募集要項を記載したチラシだった。
「稗田くんは表に出る活動にあまり興味がないのかとも思っていんだけれどね。大学入学前からコンテストや展示の類に一度も参加していないようだし、他教授からの呼びかけも断っているみたいだから。でも、夏休み中に九十九くんたちのグループ展に参加したんだろう。それに、今回の作品、とてもよかったから。どうかと思ってね」
「はぁ」
「参加費はかかるが、もし君が参加するならというなら私が推薦状を書くから、大学持ちになる。一次審査後の作品搬入においてももしよければ私が車を出そう」
 一次審査は作品画像を提出しての審査、二時審査は実作品を見ての審査らしく、市民会館への搬入が必要になるらしい。
 見たところ、チラシのデザインはしっかりしているし賞金も多額。しかも国際コンテストというからにはきっと国内外から様々な素晴らしい作品が集まるに違いない。三角教授の物言いはまるで睦月が一次審査を通過することを確信しているように聞こえた。
「募集締め切りまでまだあるから、少し考えてみてくれ」
 話はそれだけだったようで、睦月は一礼して退出した。
 もらったコンテストのチラシを眺めながら睦月は廊下を歩いていく。
 睦月の中にはもう、万が一会に作品を見られまた否定されてしまったら、という恐怖はなかった。だから、作品を公に出すことに問題はないのだけれど。
 コンテストというものに興味がないといえばない。しかし、それなら参加してもしなくてもいいという気持ちになりそうなところ、睦月の心情は参加したくないに寄っていた。
 どうして参加したくないのだろう。
 自問自答している間に、校舎を出る。と、やけに正門の方にやけに人だかりができて賑わっていた。駅に近いのは別の門だからそちらを使おうと思いつつ、何があったのだろうかという野次馬心はどうしても芽生える。ちょこっと近づいて耳を傾けてみると。
「やっば! ホンモノの会くん、マジで顔小さい!」
 会くん。
「今日の午前西棟が封鎖されてたの、撮影のためだってマジ?」
 撮影。
「雑誌? ドラマ?」
「ドラマでしょ。ほら、今度の木曜九時枠のやつ。美大生と社会人の恋愛もの」
 女子たちのはしゃぐ声の向こうを背伸びして覗けば、柔らかな金髪が髪に靡くところが見えた。
「あれ、でももう西棟解放されてたよね? なんで会くんあそこにいるの?」
「なんかうちの大学に知り合いいるらしいよ」
「出身だっけ?」
「さぁ?」
 もしかして、もしかしなくとも。
 睦月は咄嗟にスマホを取り出して、会にメッセージを入れた。
『もしかして今、うちの大学に来てる?』
 既読はすぐにつき、返事はいい笑顔を浮かべながらサムズアップするシャチのスタンプ。それから『サプライズしようと思ったんだけど、バレちゃった』というメッセージが届いた。
 さすがにこの人波を掻き分けて会に声をかける気は起きなかった。他人にどう思われようとあまり気にしない性質だが、変に目立つのは御免だ。面倒なのは好きじゃない。
 それにしても、会がここまで人気の有名人だったとは。雑誌の表紙を飾っていたしそれなりに売れているのだろうとは思っていたが、人を集めすぎて正門をほぼ使いものにならない状態にできるレベルだったなんて。
 返事をせずにいたら、『睦月今どこ』とメッセージが来た。これで素直に返せば、会はあの大量のファンを引き連れて睦月のところまで来てしまいそうだ。
 メッセージよりも電話の方が手っ取り早く睦月の現状を伝えられる気もしたが、あの人に囲まれている中で睦月の名前を呼ばれたり情報を漏らされたら厄介である。仕方なく指を忙しく動かして『注目されるのが嫌なので先に倉庫に向かいます』と返事をして、睦月は別の門を潜って駅へと向おうとしたのだが——。
 電話が着信を告げる。先に懸念を浮かべたばかりなのに、本能的に〝電話はかかってきたらよほどの事情がない限り出るもの〟だと睦月には刷り込まれていた。それでうっかり応答したら、案の定。
『睦月、もう大学出ちゃった?』
 会はあっさりと睦月の名前を出した。
「メッセージ、読んだ?」
『読んだから電話掛けたんだよ』
「注目されるのが嫌って言葉、見えなかった?」
『見えたよ』
 躊躇のない素直な回答に睦月はたまらず眉間を抑えた。
「じゃあなんであっさり俺の名前出すかな」
『ふふ、ごめんね』
 ちっとも悪びれる様子のない会に、睦月の米神は少し痛くなる。
「ごめんねじゃないよ、もう」
『周りにそんなに俺の知り合いだって思われるのそんなに嫌?』
 嫌というか。複雑な靄が胸に渦を巻く。
「……お前について質問責めされたら面倒臭い」
 それに質問してくる人たちはきっとこう思うに違いない。どうしてこんなやつがあの華やかな芸能人と連んでいるのか、とか。
 幼馴染と答えれば終わる話ではあるけれど、睦月はそれをうまく口にできない気がした。
 だって、睦月と会はただの幼馴染じゃない。二人の間にはどうしようもない溝があり、睦月に至っては重たい感情も抱いている。嘘を言えないほど素直でもなければ不器用でもないとは思うけれど、それでも口にするたびに睦月は痛みを覚えそうだ。それは、嫌だった。
『じゃあ、俺も大学から離れる。それで、適当なところで拾っていく分には問題ないでしょ』
「拾う?」
『タクシーで行こうと思ってたから。乗ったら連絡する。またあとでね』
 通話がぷつりと切れる。睦月はひとりため息を吐いた。
 果たして、明日の睦月は周囲から妙な目を向けられやしないか。目を向けられるくらいならいいが、勘づいた人間から根掘り葉掘り会について聞かれたりしないか。もしかしたら学内に「ムツキ」という名前の人間が他にもいるかもしれないしそちらに疑いが向いてくれれば、向いてくれと思いながら、睦月は歩みを進めた。
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