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今夜もプレイクラブは大勢の客で賑わっている。
天井からぶらさがる無数の電飾に妖しく照らし出される広々としたフロアには、カウンター席とソファ席が複数ある。そのどれも埋まっており、立ち話に興じている人たちまでもいる。その中からまた一組、スピーカーから流れるムーディーな音楽に合わせるような足取りで、プレイルームへと続くドアを潜っていく様は、なんだか映画のワンシーンみたいだと思う。
「店員さーん、注文お願いできる?」
「あ、はい」
盛況なプレイクラブのスタッフに、ぼうっとしている暇などない。
真紘が呼び出された方向に早足で向かうと、そこには赤いドレスを纏った華やかな女がいた。その傍には気が弱そうなスーツの男がいる。
オーダー用のスマホをポケットから取り出し構えようとしたのだが、それより先に、顎にひんやりとしたものが触れた。女の指先だった。
「君、かわいい顔してるわね」
ドレスと似た赤に塗られた唇の端がにっと持ち上がる。真紘は、またはじまった、と内心で肩を竦めながら「どうも」と答える。
「それで、ご注文は——」
「ねぇ、君、私と遊ばない?」
「えっ、ぼ、僕とプレイしてくれるんじゃ……」
スーツの男がか細い声で訴えると、女性はわずかに首を傾げた。
「あなたもなかなか好みの顔立ちだけれど、気が少し弱すぎるわ。君もあまり強そうには見えないけれど、目つきが悪くない」
顎の裏をこそりと撫でられ、くすぐったい。
真紘は営業スマイルを保ちながら、女から距離を取るように半歩後ずさる。
「仕事中ですので」
「上がり時間まで待ってあげる」
「……それに、相性がよくないですよ」
「相性?」
真紘は女の手首にある青色のラバーバンドに目を向ける。
「俺も、Domですから」
「本気で言ってる?」
「保険証をお見せしましょうか」
女はぱちりと瞬き、それからぷっと吹き出した。
「こんなにDomっぽくないDomは初めて見たわ」
ひとしきり笑ってから、スーツの男を一瞥した。
「あーあ、残念。じゃあ、あなたでいいわ。プレイルームに行きましょ」
「注文はそっちでするから」と女はひらりと手を振りこつりとヒールを鳴らしながら、プレイルームの受付へと向かう。「あなたでいい」と言われた男は不満そうに眉を顰めながらも、しかし、女の後についていき、受付を済ませた二人はやがてドアの向こうへ消えていった。真紘はひとつ、息を吐く。
(Domっぽくない、ね)
真紘がこの店で働きはじめてからまだ二週間ほどだが、同じような言葉をもう何度も向けられていた——Domっぽくない、と。
人には男女の他に、第二の性が存在する。Dom、Sub、Switch、Neutralの四種に分けられ、DomはSubを支配する欲望を、SubはDomに奉仕する欲望を本能的に持つ。その両方の性質を持つものがSwitch、どちらの性質も持たないものがNeutralである。
プレイクラブは第二性による支配と奉仕の性欲を発散するための場所だ。この店では、入店時にDomには青、Subには赤のラバーバンドが手渡され、それをもとにフロアでプレイをしたい相手を探す。一緒に酒を飲んだり話したりして気が合ったペアは追加料金を支払うことで店の奥にあるプレイルームという個室でプレイが行える。
(まぁ、今の二人は気が合ったって感じではないけれど……)
真紘が生まれるよりいくらか前の社会には第二性による格差意識が強く存在していたらしい。本能的に持つ奉仕欲にDomに抗えない体質もあいまって、Subが軽んじられていたのだ。奉仕させてやっているのだからといって、Subの人間にあれやこれやと仕事を押し付けたりなんてのはざら。賃金を中抜きしたり、無理に犯したり、とんでもない認識と言動が横行していたという。
奉仕欲はあっても決して奴隷願望があるわけではない、Subにも心があり人権があるのだと必死に訴えた人たちがいたことによって、現代では第二性に対する認識や対応がだいぶフラットになった。
だがDomはその支配欲から自分が優位に置きたがる傾向があり、Subをぞんざいに扱うものもいまだ少なくない。先の女もその手合いだろう。
Subの男はそれに不満そうでありながらも結局抗うことはしなかったのは、果たして、欲が溜まっていたのか、はたまた欲とは別の部分で惹かれたのか。真紘にはちっとも判別つかない——欲も恋も抱いた試しがないのだから。
十五歳になると、国から第二性判別検査の受診を強く推奨される。真紘も例に漏れず受診しDomと診断が下されはしたが、それから三年が経過した今も支配欲の類を一度も抱いたことはなかった。むしろ、受身気質な自覚がある。教師からあれこれと雑用を任されたり、頼み事をされたら断れなかったりする。高校生でありながら二十歳未満は出入り禁止のプレイクラブで真紘が給仕に勤めているのもその一端だった。
プレイクラブに出入りはできなくとも、学校に通っていれば出会いというものがある。いつだか美容室でなんとなしに開いたファッション誌には、高校生のうちに初プレイを済ませている人が大半だと書かれていた。だが、欲もなければ高校でもたまに「Domっぽくない」の評を下されるような真紘に経験などあるはずがなく、なんなら生涯行わないのではないかとさえ思っている。
だから、プレイクラブに消えていく人々を見ていると、映画のワンシーンみたいだと思う。遠いフィクションのようだと。
「そこの店員さん、注文お願いできますか」
「はい」
近くのソファ席から、女の声が飛んでくる。水曜日、平日の折り返しにもかかわらず賑わう店内で店員を呼び止める声にきりはない。
呼ばれた先に向かうと、複数の女がそこに群がっていた。中央には、男がひとり。女たちは彼に媚びるように腕や胸を寄せている。
「ご注文をお伺いします」
真紘がスマホを構えたとき、その女たちの誰よりも早く、中央の男が真紘の方に顔を向けた。薄色の瞳と視線が絡む。
ハーフアップに纏められた金髪、色白で眉目秀麗な顔立ち。組んでいる足はすらりと長い。いかにもモテそうな華やかで美しいその男に、真紘は見覚えがあった。
城戸璃凪——真紘と同じ高校に通う二年生。その容姿の端麗さから学内で一、二を争う有名人だ。
どうして彼がここに。
つい驚きの声をあげそうになったが、なんとか飲み込んだ。
城戸は大人びた容姿をしてはいるが、ばりばりの十代、この店に入店できる年齢じゃない。だから本来は注意すべきなのだが……いかんせんこの状況で違反を犯している彼だけではない。真紘も十代で、しかも、アルバイト禁止の校則も破っている。そのうえ、真紘と彼にはちょっとした縁があってしまった。
だからバレてしまってはマズいと真紘は思わず顔を背けたが、いやまてよと内心で首を振った。むしろ動揺を見せた方が怪しまれるのではないか……彼と真紘の縁は本当にささやかなものだ。それに、学校の有名人である彼に対して、こちとらぱっとしない凡人。城戸が真紘のことを覚えていない可能性は十分あるのではないか。
つい乱れた意識と呼吸をさっと整えてからもう一度彼らの方を向けば、城戸の視線はすでに外れていた。城戸は女の頬を撫でて、微笑んでいる。その手首で青色のラバーバンドがかすかに揺れる。
(ほら、やっぱり。ちっとも気にされてない)
ほっと息を吐いて、女のひとりが口にしたソフトドリンクと、カクテルをいくつかをオーダー用のスマホに打ち込む。一礼し、踵返そうとしたとき。
『黛くん、ちょっと男子トイレ行ってきてくれる?』
インカムに先輩からの連絡が入った。
『しばらく出てきてない客がいてさ。二人組で、万が一もあるから……』
含みのある言葉に真紘は苦く笑った。
「分かりました。行ってきます」
『ごめんね、よろしく』
真紘は早速トイレへと足を向けた。
天井からぶらさがる無数の電飾に妖しく照らし出される広々としたフロアには、カウンター席とソファ席が複数ある。そのどれも埋まっており、立ち話に興じている人たちまでもいる。その中からまた一組、スピーカーから流れるムーディーな音楽に合わせるような足取りで、プレイルームへと続くドアを潜っていく様は、なんだか映画のワンシーンみたいだと思う。
「店員さーん、注文お願いできる?」
「あ、はい」
盛況なプレイクラブのスタッフに、ぼうっとしている暇などない。
真紘が呼び出された方向に早足で向かうと、そこには赤いドレスを纏った華やかな女がいた。その傍には気が弱そうなスーツの男がいる。
オーダー用のスマホをポケットから取り出し構えようとしたのだが、それより先に、顎にひんやりとしたものが触れた。女の指先だった。
「君、かわいい顔してるわね」
ドレスと似た赤に塗られた唇の端がにっと持ち上がる。真紘は、またはじまった、と内心で肩を竦めながら「どうも」と答える。
「それで、ご注文は——」
「ねぇ、君、私と遊ばない?」
「えっ、ぼ、僕とプレイしてくれるんじゃ……」
スーツの男がか細い声で訴えると、女性はわずかに首を傾げた。
「あなたもなかなか好みの顔立ちだけれど、気が少し弱すぎるわ。君もあまり強そうには見えないけれど、目つきが悪くない」
顎の裏をこそりと撫でられ、くすぐったい。
真紘は営業スマイルを保ちながら、女から距離を取るように半歩後ずさる。
「仕事中ですので」
「上がり時間まで待ってあげる」
「……それに、相性がよくないですよ」
「相性?」
真紘は女の手首にある青色のラバーバンドに目を向ける。
「俺も、Domですから」
「本気で言ってる?」
「保険証をお見せしましょうか」
女はぱちりと瞬き、それからぷっと吹き出した。
「こんなにDomっぽくないDomは初めて見たわ」
ひとしきり笑ってから、スーツの男を一瞥した。
「あーあ、残念。じゃあ、あなたでいいわ。プレイルームに行きましょ」
「注文はそっちでするから」と女はひらりと手を振りこつりとヒールを鳴らしながら、プレイルームの受付へと向かう。「あなたでいい」と言われた男は不満そうに眉を顰めながらも、しかし、女の後についていき、受付を済ませた二人はやがてドアの向こうへ消えていった。真紘はひとつ、息を吐く。
(Domっぽくない、ね)
真紘がこの店で働きはじめてからまだ二週間ほどだが、同じような言葉をもう何度も向けられていた——Domっぽくない、と。
人には男女の他に、第二の性が存在する。Dom、Sub、Switch、Neutralの四種に分けられ、DomはSubを支配する欲望を、SubはDomに奉仕する欲望を本能的に持つ。その両方の性質を持つものがSwitch、どちらの性質も持たないものがNeutralである。
プレイクラブは第二性による支配と奉仕の性欲を発散するための場所だ。この店では、入店時にDomには青、Subには赤のラバーバンドが手渡され、それをもとにフロアでプレイをしたい相手を探す。一緒に酒を飲んだり話したりして気が合ったペアは追加料金を支払うことで店の奥にあるプレイルームという個室でプレイが行える。
(まぁ、今の二人は気が合ったって感じではないけれど……)
真紘が生まれるよりいくらか前の社会には第二性による格差意識が強く存在していたらしい。本能的に持つ奉仕欲にDomに抗えない体質もあいまって、Subが軽んじられていたのだ。奉仕させてやっているのだからといって、Subの人間にあれやこれやと仕事を押し付けたりなんてのはざら。賃金を中抜きしたり、無理に犯したり、とんでもない認識と言動が横行していたという。
奉仕欲はあっても決して奴隷願望があるわけではない、Subにも心があり人権があるのだと必死に訴えた人たちがいたことによって、現代では第二性に対する認識や対応がだいぶフラットになった。
だがDomはその支配欲から自分が優位に置きたがる傾向があり、Subをぞんざいに扱うものもいまだ少なくない。先の女もその手合いだろう。
Subの男はそれに不満そうでありながらも結局抗うことはしなかったのは、果たして、欲が溜まっていたのか、はたまた欲とは別の部分で惹かれたのか。真紘にはちっとも判別つかない——欲も恋も抱いた試しがないのだから。
十五歳になると、国から第二性判別検査の受診を強く推奨される。真紘も例に漏れず受診しDomと診断が下されはしたが、それから三年が経過した今も支配欲の類を一度も抱いたことはなかった。むしろ、受身気質な自覚がある。教師からあれこれと雑用を任されたり、頼み事をされたら断れなかったりする。高校生でありながら二十歳未満は出入り禁止のプレイクラブで真紘が給仕に勤めているのもその一端だった。
プレイクラブに出入りはできなくとも、学校に通っていれば出会いというものがある。いつだか美容室でなんとなしに開いたファッション誌には、高校生のうちに初プレイを済ませている人が大半だと書かれていた。だが、欲もなければ高校でもたまに「Domっぽくない」の評を下されるような真紘に経験などあるはずがなく、なんなら生涯行わないのではないかとさえ思っている。
だから、プレイクラブに消えていく人々を見ていると、映画のワンシーンみたいだと思う。遠いフィクションのようだと。
「そこの店員さん、注文お願いできますか」
「はい」
近くのソファ席から、女の声が飛んでくる。水曜日、平日の折り返しにもかかわらず賑わう店内で店員を呼び止める声にきりはない。
呼ばれた先に向かうと、複数の女がそこに群がっていた。中央には、男がひとり。女たちは彼に媚びるように腕や胸を寄せている。
「ご注文をお伺いします」
真紘がスマホを構えたとき、その女たちの誰よりも早く、中央の男が真紘の方に顔を向けた。薄色の瞳と視線が絡む。
ハーフアップに纏められた金髪、色白で眉目秀麗な顔立ち。組んでいる足はすらりと長い。いかにもモテそうな華やかで美しいその男に、真紘は見覚えがあった。
城戸璃凪——真紘と同じ高校に通う二年生。その容姿の端麗さから学内で一、二を争う有名人だ。
どうして彼がここに。
つい驚きの声をあげそうになったが、なんとか飲み込んだ。
城戸は大人びた容姿をしてはいるが、ばりばりの十代、この店に入店できる年齢じゃない。だから本来は注意すべきなのだが……いかんせんこの状況で違反を犯している彼だけではない。真紘も十代で、しかも、アルバイト禁止の校則も破っている。そのうえ、真紘と彼にはちょっとした縁があってしまった。
だからバレてしまってはマズいと真紘は思わず顔を背けたが、いやまてよと内心で首を振った。むしろ動揺を見せた方が怪しまれるのではないか……彼と真紘の縁は本当にささやかなものだ。それに、学校の有名人である彼に対して、こちとらぱっとしない凡人。城戸が真紘のことを覚えていない可能性は十分あるのではないか。
つい乱れた意識と呼吸をさっと整えてからもう一度彼らの方を向けば、城戸の視線はすでに外れていた。城戸は女の頬を撫でて、微笑んでいる。その手首で青色のラバーバンドがかすかに揺れる。
(ほら、やっぱり。ちっとも気にされてない)
ほっと息を吐いて、女のひとりが口にしたソフトドリンクと、カクテルをいくつかをオーダー用のスマホに打ち込む。一礼し、踵返そうとしたとき。
『黛くん、ちょっと男子トイレ行ってきてくれる?』
インカムに先輩からの連絡が入った。
『しばらく出てきてない客がいてさ。二人組で、万が一もあるから……』
含みのある言葉に真紘は苦く笑った。
「分かりました。行ってきます」
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真紘は早速トイレへと足を向けた。
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