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第一章<異世界生活編>

01:アラサー、異世界へ行く

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 猫という生き物は、驚くほどに愛らしい。
 世界中には数多くの生き物がいるが、俺にとって猫以上に完璧だと思える存在はいない。
 鳴き声、フォルム、動き。そのどれを取っても俺を魅了してやまないのだ。

 けれど、俺と猫の間には大きな障害があった。それは、自分の意思だけではどうにもならないほど、高すぎる壁だともいえる。
 俺、市村 陽いちむら ようは、重度の猫アレルギーだった。
 くしゃみが出たり、蕁麻疹が出る程度で済むものではない。場合によっては、命に関わるアナフィラキシーを起こす危険性があった。
 それゆえに、俺はこんなにも大好きな猫に近寄ることすらままならない。
 実物の猫に触れたいという思いを胸に抱いたまま、今日も猫グッズに溢れた部屋で、寂しく猫動画を眺めるのだ。

 そんな俺にも、ひとつの貴重な楽しみがあった。
 それは、毎日仕事を終えて帰る途中にある公園に住む、野良猫のヨルとの会話だ。
 会話といっても俺が一方的に話しかけるだけで、ヨルというのも勝手に名付けたものだった。夜の闇ように真っ黒で、満月のような金色の瞳をした鍵尻尾の子猫だ。

 今日もヨルに会うのを楽しみに家路を急いでいた。とはいえ会えるかは運次第なのだが、公園に近づくにつれて違和感を覚え始める。
 複数人が何かを話しているような声が聞こえるのだが、それに混じってか細い猫の声が聞こえたような気がしたのだ。
 ここの公園は時々、若者の溜まり場になっていることがある。そういう集団がいるのだろうかと、公園の中をそっと覗いた時だった。

「うわ、きったねーな! マジでどうにかしろよ」

「俺さぁ、猫とか大ッ嫌いなんだよね。焼いちゃう?」

 とんでもない言葉が耳に飛び込んできて、俺は急激に指先が冷えていくのを感じる。
 そこにいたのは、明らかに不良だと思われる五人組の男たちだった。そして、その五人に囲まれるように蹲っているのは、小さな黒猫だ。

(ヨル……!)

 薄暗くてよく見えないが、明らかに衰弱している様子だ。不良たちに暴行を加えられたのかもしれない。
 そう思った俺の考えを肯定するように、不良の一人がポケットからライターを取り出す。
 それで何をしようとしているのかは考えるまでもない。
 別の不良がヨルの首根っこを掴んで乱暴に持ち上げると、ヨルが悲鳴にも似た声を上げる。俺は咄嗟に飛び出し、体当たりをするように割り込んでヨルを奪い取った。

「痛って……! 何だコイツ、急に何しやがんだよ!?」

「よ、ヨルに酷いことするな……! 警察に通報するぞ!」

「ハァ? それテメェの飼い猫か? だったら首輪でも着けとけよ。つーかイイトコで邪魔すんな!」

 不良の一人に頬を殴られて、俺はその場に倒れ込む。そんな俺を囲むや否や、彼らは容赦なく身体を蹴りつけてきた。
 全身を次々と襲う痛みに涙が滲むが、腕の中のヨルは自力で逃げ出せる様子もない。せめてヨルには攻撃が当たらないように、俺は必死に身体を丸くした。

「キミたち、何をしてるんだ!? やめなさい、警察を呼ぶぞ!」

「チッ、また邪魔かよ。冷めたわ、もういいから行こうぜ」

 遠くから通行人らしき第三者の声が聞こえると、不良たちは唾を吐き捨ててその場を去っていく。暴行が止んでホッとしたのも束の間、息苦しさと共に咳が激しさを増していく。
 視界が揺らぐし、喉が腫れたように塞がり、まともに言葉を発するどころか呼吸もままならない。
 暴行によって全身が痛むのだが、これは間違いなく猫アレルギーによるものだ。
 そう思った時には、すでに視界は暗くなっていく。腕の中には、ふわふわとした小さく柔らかな感触だけが残っていた。

(……ああ、猫ってあったかいんだなあ)


 ◆


 暖かな風に頬を撫でられて、俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。
 眩しさに何度か瞬きを繰り返すと、靄がかかったようだった視界が少しずつ開けていく。見上げた先には晴れ晴れとした青空が広がっていて、ここが屋外なのだということがわかった。
 俺はまだあの公園で倒れたままだったのだろうか? 人の声はしていたはずなのだが、暗くて気付かれずに放置されたのかもしれない。
 そんなことを思いながら身体を起こすと、俺は目の前の光景に唖然とした。
 もし俺の見ている景色が正しいのであれば、ここは見知らぬ森の中だ。

「森……? 何でこんなところに……」

 誰かが気を失った俺を運んでくれたとしても、森の中を選ぶ理由はないだろう。普通は病院に連れて行くか、せめて交番にでも預けてほしいところだ。
 そう考えたところで、俺は身体の痛みや息苦しさが無くなっていることに気がつく。
 上体を起こして、土埃だらけのスーツの袖を捲ってみても、汚れに反して怪我ひとつしている様子はない。あれだけの暴行を受けたにも関わらずだ。
 ここは夢の中なのかもしれない。そう思ったが、試しに頬を抓ってみると確かに痛みはあった。

「ミャオ」

 その時、猫の鳴き声が聞こえてくる。振り返ると、そこにいたのは真っ黒な子猫だ。

「え……もしかして、ヨル?」

 俺の問いかけを肯定するように、猫はもうひと声鳴いてみせる。そっくりな猫だとは思った。しかし、全身真っ黒な毛並みに金色の瞳、そして特徴的な鍵尻尾は間違いなくヨルだ。
 すっかり衰弱しきっている様子だったのに、今はすっかり元気そうに見える。
 安心した俺の傍に歩み寄ってきたヨルは、腰元に身体を擦りつけてくる。今までこんなことはなかったので、俺は素直に感動していた。
 けれど、感動している場合じゃないこともよくわかっている。

「よ、ヨル……! ダメなんだ、俺はお前に触れなくて……!」

 慌ててヨルから距離を取ろうとするのだが、当のヨルは構わずに俺の肩にまで飛び乗ってきた。
 ヨルを抱き締めた時の逃れようのない苦しさが思い起こされて、俺は身構える。こんなに至近距離まで迫られては、確実にまたアナフィラキシーを起こしてしまう。
 そう思ったのだが、ここまでヨルを間近にしても、俺の身体に変化は見られない。

「え、何で……」

 息苦しくなるどころか、くしゃみや蕁麻疹などの症状が出る様子もない。
 恐る恐るヨルに触れてみるのだが、やはり身体中のどこにも症状が出ることはなかった。

「俺、アレルギーじゃなくなってる……?」

 長年苦しめられてきた猫アレルギーだったが、こんなにも突然完治するという話は聞いたことがない。けれど、理由はどうあれ俺にとっては朗報以外のなにものでもなかった。
 ふわふわとした毛並みが、頬を掠めるのがくすぐったい。
 猫に触れられるという事実が嬉しくて、それからしばらく俺はヨルと戯れていた。

 やがて日が沈み始めた頃、現状を把握しなければならないと思い、俺はようやく腰を上げることにする。ヨルは俺の肩の上が気に入ったようで、立ち上がっても逃げることはなかった。
 周囲を見渡しても、木と草ばかりで景色はまるで変わらない。森であるという情報以外は得られず、ここがどこなのかもわからない状態だ。
 ひとまず適当な方向へと歩き始めてから、ほどなくして舗装された道を見つけることができた。
 この道を通っていけば、人に会うことができるだろう。そう予想して歩き続けていると、やがて人の声が耳に届き始める。視界が開けた先にあったのは、ひとつの町だった。
 確かに町はあったのだが、そこは俺が想像していたような現代的な光景ではなかった。

 活気に溢れたその町は、明らかに俺の知る日本の町とは風景が違っている。
 建ち並ぶ家は見慣れないレンガ造りで、行き交う人々は中世のヨーロッパに登場するような、現代的とはいえない衣装を纏っている。海外に来たと言われた方が、恐らくはまだしっくりくるだろう。
 これは大規模なドッキリ企画か何かなのだろうか? だとしても、一般人である俺に対してドッキリを仕掛けるメリットとは何なのだろう?
 まるで現状を把握できないままだが、森で目覚めた俺は鞄どころか財布やスマホすら所持していない状態だった。ここがどこであろうと、このままでは家に帰ることもできない。
 ひとまず通行人に話しかけてみて、ここがどこなのかを知る必要がありそうだ。

(……日本語、通じるのかな)

 どう見ても日本人らしき外見の人物が見当たらない。不安はあったが、立ち尽くしていても仕方がない。
 俺の背中を押すかのように、ヨルが肩の上で小さく鳴く。意を決して歩き出していくと、50代くらいと思しき優しそうな女性に声をかけてみることにした。

「あの、すみません……ちょっといいですか?」

 できる限り怪しい者ではないことを訴えるように、俺は営業の仕事で培った笑顔を貼り付けて近づいていく。
 こちらを向いた女性は、不思議そうに俺の顔を見る。やはり優しそうな人だと思ったのだが、その女性は次の瞬間、突然引きつったような表情を浮かべて後ずさった。

「ヒッ……!? いや、誰か……!!」

「え、ちょっと……!」

 抱えていたパンの入った紙袋を落とした女性は、それを拾おうともせずに逃げ出していく。転がり出した丸いカンパーニュが、俺の足元にぶつかった。
 女性の悲鳴を聞いた他の人々が、何事かと一斉にこちらを見る。集中する視線に、俺は何も悪いことはしていないと慌てて否定しようとしたのだが、彼らもまた俺を見て青ざめた顔をする。

「ま、魔獣だ……!!」

「早く逃げろ!!」

 非難の声が飛んでくるかと思いきや、町の住人たちは皆そう叫ぶと、一目散に逃げ出していった。
 賑わっていた町の大通りは、あっという間に人気が無くなってしまう。

「……魔獣……?」

 わけもわからずその場に取り残された俺は、ヨルと顔を見合わせたのだった。
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