呪配

真霜ナオ

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18:正しさ

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「お前はこの事件の担当から外すってよ」

 署に戻った加苅は、顔を合わせた同僚に開口一番にそう告げられて職場を追い出される。

 呆然と見上げる空はすっかり日が沈んでしまっていて、星一つない曇り空のせいでこのまま闇に飲まれそうだと思った。

 どのようにしてあの場所から署まで戻ってきたのか、記憶は定かではない。

 ただ、それはもう無意味なことだと理解をしていたというのに、緊急通報によって現場に救急車が到着したことだけは覚えている。

 内ポケットを定位置とする煙草を手に取って中身を取り出すが、持ち慣れたはずの細いそれを上手く指に挟むことができず、結局は地面に落としてしまった。

 風に押されて転がっていく煙草を視線だけで追いかけていると、黒いサンダルを引っ掛けた足先にぶつかる。

 煙草を拾う指につられて顔を上げると、柔らかな亜麻色が目に留まった。

「こんな場所で吸っていたら、上にうるさく言われるよ。螢クン」

「……弓慈きゅうじ

 歩み寄ってきた男は、指の間で器用にくるりと回転させた煙草を加苅の持つ箱の中へと押し戻していく。再びそれを取り出す気にもなれず、そのまま定位置へと収めた。

「今日は災難だったね。その様子だと、帰宅命令が出たかな」

 察しているのであれば止めてくれるなと思うのだが、言葉を発してまで反論をする気にもなれずに、口を閉ざしたままの加苅は男の横を通り過ぎようとする。

「八一クン、これから解剖をしてくるよ」

「ッ……!」

 思わず足が止まってしまう。ようやく反応があったことに気を良くしたのか、男は瞳を細めて加苅の方へと向き直った。

 鬱陶しく伸ばした前髪のせいで左側の目元は隠れていて、相変わらず感情を読み取りにくい人間だと思う。

「彼も死後にデリマスの注文をしていたらしいね」

 怪死事件の被害者たちは皆、例外なく司法解剖に回されていた。それは倉敷も同様だろうと考える頭の片隅に、この男の顔が無かったといえば嘘になる。

 法医学者の透葉とおば弓慈は、確かな腕と人並み以上に整った容姿で署内でも厚い信頼を寄せられている男だ。しかし、加苅に言わせれば良いのは外面だけでもある。

 というのも、透葉の”死”に対する興味と執着は異常なまでのものがあり、ひとつ間違えれば手錠を掛けられる側の人間だと確信を持てるほどだ。

 本人にも一応はその自覚があるからこそ、本音と建て前を使い分けているのだろうが、加苅の前では別であるらしい。

 それは加苅自身が現実には起こり得ないような現象にも理解を示すためなのか、あるいは他に理由があるからなのか、事実は本人にしかわからないのだが。

「夕方に運び込まれた遺体も、その前も、欠損部はとても綺麗な断面をしていたよ」

「…………やめろ」

「八一クンの身体も、見るのが楽しみだな」

「弓慈!!」

 明確な悪意を向けてくる佐伯のような男の方が、かえって対処はしやすいのかもしれない。

 透葉にそうした意図が無いと理解をしているからこそ、加苅は上手く感情をやり過ごすことができずに、彼の胸倉を掴み上げていた。

「解剖すんのが家族でも、同じことが言えんのか」

 怒りをぶつけられていることが、わからないはずはない。だというのに、目の前の男は表情ひとつ変えることがないのだ。

「不思議なことを言うね、螢クン。遺体は等しく遺体だよ」

 瞬きを繰り返す透葉は邪気の無い子どもそのものを見ているようで、彼の身体を突き放した加苅は今度こそ背を向けて歩き出す。

「っ…………クソ野郎」

 衣服の乱れを直しながら加苅を見つめる瞳は、それ以上彼を引き留めようとはしなかった。




 * * *




 事件現場にいた人間は加苅だけだったが、倉敷八一殺害の犯人として疑われることがなかったのは、駐車場に設置された監視カメラのお陰だ。

 上層部は事象を把握していながらも、頑なに霊的な存在による事件を認めようとはしないため――そんな理由を世間に公表できないことも理解はしている――倉敷の死についてはあくまで事故として処理されると耳にした。

 世の未解決となっている事件の中には、そうした事例がいくつも含まれていることを、大多数の人間は知らずに過ごしているのだ。

 今回の連続怪死事件だってそれ自体を解決したところで、世間的には未解決事件として風化を待つことになるのだろう。

 遺族や関係者はその結末に納得しないだろうが、それが昔からの上のやり方なのだ。

 上層部や一部の権力者による隠蔽体質が気に食わず、それを変えてやりたいと加苅は思っていた。正しく人を救いたくて、加苅は刑事になったのだ。

 それが何より難しいものであることを、現実を突き付けられたとしても、前だけを向き続けてきた。

 ――――けれど、その結果がこれだとしたらどうなのだろうか?

『もしもし、加苅さん? あの――』

「……比嘉くん」

 短い呼び出し音の後に応答した慧斗は、選ぶ言葉を迷っているようだった。電話口の向こうには、おそらく來やセラも一緒にいるのだろう。

 彼の話を聞くために電話をしたわけではなく、加苅はただ静かに言葉を紡いでいく。

「もう、來とは関わらない方がいい」

『え? な、なんですかいきなり……』

「引き寄せちまってるんだ、きっと……だから、八一も死んだ」

 正しく人を救いたかった。だから既存の概念に囚われずに、物事を自分の目で見て判断を下す必要があると思っていたのだ。

 何事にも適した職があるように、誰かの命を脅かす悪意が人間以外のものであるというのなら、対抗できる手段を持つ者に力を借りるべきだと。

 けれど、その判断自体が間違いだったのかもしれない。その判断が、彼を巻き込んだのかもしれない。

「來といたら、お前も……危険だ」

『加苅さん、ちょっ――』

 慧斗は困惑している様子だが、伝えるべきことは済んだとばかりに加苅は一方的な通話を切る。

 数時間前に同じように乗り込んだエレベーターの箱の中は、点滅していたはずのライトがとうとう切れてしまったらしく、階数表示板だけがぼんやりと光を放っている。

 何かあった時のためにと、以前に半ば押し付けられる形で渡されていた倉敷の家の合鍵は、キーケースの中に収まったままだった。

 差し込んだ鍵を捻れば施錠は簡単に解除され、開いた扉の先は暗闇に包まれている。

 壁のスイッチを押して室内へ上がり込むと、部屋の奥から小さな声が聞こえた。帰宅した家主を呼んでいるのだろう。

「ピャッ……!」

 木製の柵を開けてリビングに続く扉を潜ると、加苅の顔を見上げた子猫は悲鳴のような声と共に、踵を返して逃げ出した。

「……悪いな。お前の主人はもう戻らねえんだ」

 部屋の明かりをつけてソファに身を沈めると、加苅は長く大きな溜め息を吐き出す。

 私物のいくつかは捜査のために回収されたようだが、あくまで表向きは事故として処理するために、この部屋への立ち入りを規制するものはない。

 はっきりと尋ねたわけではなかったものの、倉敷は幼い頃に事故で両親を失くしていて、天涯孤独の身の上であるという。

 事故死という判断が早かった背景にはそうした事情もあり、上にとっては都合も良かったのだろう。

 部屋は近いうちに引き払われるのだろうが、手続きを頼める相手はいるのか、そもそも訃報を知らせる人間はいるのか、加苅にはわからなかった。

「……お前は、どうするよ。タヌ公」

 部屋の隅でぶわりと尻尾を膨らませた子猫は、小さな耳を後ろへ反らせて必死に加苅を威嚇している。

 その姿を横目に内ポケットから取り出した煙草を手に取る。口元に銜えたそれに火を点けようとした加苅を、馴染みの声が静止した。

『加苅さ~ん、まーた煙草吸ってるんスか?』

「……うるせえな、わかってんだよ」

 小言を向けてくる存在が現れたことを、始めは鬱陶しいと感じていたのだ。

 百害あっても利になるものは何一つ無いのだから、いい加減やめなければいけないとは、加苅自身も常々考えてはいた。

 現行犯逮捕のために犯人を追いかけた時も、いつの間にこれほど体力が無くなっていたのだろうかと驚かされたものだ。

 それでも、足の速さには自信があるのだという相棒があっという間に駆け抜けていくものだから、自分が衰えても若者が先を行けばいいとも思っていた。

 犯人を捕らえて戻ってきたその足が、よろめいて怪我をするとは思いもしなかったものだが。

 いい奴ほど長生きできるとは限らない。むしろ、出来た人間ほど先に逝くのが世の理だ。

 あの時も、いつものように倉敷に車を取りに行かせた。車内で吸うと小言を向けられてしまうので、その隙に加苅は離れた場所で一服しようと企んだのだ。

 一緒に車に向かっていれば、倉敷を助けることができたのかもしれない。

 人ならざる存在を視ることも、戦うこともできない加苅にとって、それが意味を成さないと理解していても、後悔せずにいられなかった。

『彼も死後にデリマスの注文をしていたらしいね』

 透葉の言葉が脳裏を過る。担当を外された加苅には与えられなかった情報だ。

 常識では考えられないものに関わらせてしまった。普通であればあり得ないと避けるものを、信用させてしまった。

 考えるほどに加苅の中にじわりじわりと、ほの暗い感情が渦巻き始める。

「呼び寄せてんだ……來が、アイツが……」

 血の繋がった甥だからと懐に入れてしまったが、それが間違いだったのだと立ち上がった加苅の頭上から、ぽたりぽたりと黒い粘液が伝い落ちる。

 天井に浮かぶ小さなシミは徐々に広がっていき、そこから這い出す暗澹あんたんとした影が加苅の身体を抱き締めるように纏わりつく。

「このままじゃ……比嘉くんも……」

 正しく人を救わなければならない。己が犯した過ちならば、それを正すために動くのも自分自身だ。

 何を成すべきかを見定めた加苅は、黒い影を背負ったまま玄関に向けてゆらりゆらりと歩き出す。

 その場を動くことができずにいる子猫は、彼が家を出た後も部屋の隅で小さな体躯を震わせ続けていた。

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