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28:運転席
しおりを挟む扉を開けた先は、狭い運転席の中だった。
あまりまじまじと観察したことはないが、先頭車両へ乗った時に窓越しに目にしたことはある。
電車を動かすためのハンドルや通話装置、速度などを表示する計器が設置されていて、それらは普通の電車にあるものと変わらないように見える。
窓の外はやはり真っ暗闇に覆われていて、今どんな場所を走行しているのかはわからない。
唯一違っているのは、運転席に怪異が乗っているということ。
「怪異……なのか?」
疑問を持ったのは、その怪異がハンドルを握って運転をしているからだった。
見た目は確かに人の形をしているのだが、全身にはあの黒い液体を纏っている。それでも、こちらを見向きする様子はない。
凹凸の無い頭の上には、車掌が被る帽子が乗っていた。
「近づいても平気なのかな?」
「わからないですけど……これが喜多川の言ってた車掌の悪霊なら、この人も電車を停めてほしがってるんだと思います」
僕たちがこの電車を停めない限り、この車掌もずっとこの悪夢のような電車を運転し続けなければならないのだろう。
意を決してそっと歩み寄ってみると、車掌が僕の方へとその頭を向ける。
ぎくりとして足を止めるが、襲い掛かってくるような素振りは見られない。かなり不気味ではあるものの、それならば好都合だ。
「……あの、電車を停めてもらえませんか?」
「…………」
「無理……だよな」
試しに話しかけてみる。無理だろうとわかってはいるのだが、人の形をしているのだから、言葉が通じるかもしれないなんて思ったのだ。
けれど、わかりきったことだった。車掌は反応を見せるわけでもなく、電車は動き続けている。
こうなれば僕たちの手で、どうにかして電車を止めるしかない。
ただ、電車の運転なんか当然したことはない。というか、僕は車の免許だって持っていないので、乗り物の運転経験は皆無だ。
「……これって、どれがブレーキなんですかね?」
「わからないけど、車掌さんが握ってるレバーのどちらか……とか?」
普通の自動車であれば、なんとなく操作の仕方はわかるけれど。電車のそれは車とはまったく異なっている。
車掌は別々のレバーに両手を添えており、高月さんはそのどちらかが電車を動かしていて、もう一方がブレーキだと推測する。
本来なら、操作について何か表記されているシールが貼られていたりするのかもしれない。
けれど、レバーやその周囲には車掌の腕から黒い液体が滴り落ちていて、表記を確認することはできなかった。
「と、とにかくやってみます」
コートがあれば液体を拭うことができたかもしれないが、満身創痍の僕たちにはもう使える道具なんて残されていない。
「お客様は立ち入り禁止です」
「え……うわっ!?」
手前のレバーに腕を伸ばそうとした僕に向かって、車掌が突然喋りかけてきた。
そこには何もなかったはずなのだが、纏う液体で隠れていただけなのだろうか? ぽっかりと口らしき穴が開いているのが見える。
「いや、電車を止めなきゃいけないんです! あなただって、それを望んでるんでしょ!?」
「お客様は立ち入り禁止です」
僕の言葉に反応するわけでもなく、車掌はただ無機質に同じ言葉を繰り返す。
車掌と意思疎通を図ることは無理だと判断した僕は、再びレバーに腕を伸ばした。
「お客様は立ち入り禁止です!!!!」
「ぎゃああッ!!??」
「き、清瀬くん……!!」
レバーを握る車掌の手ごとそれを掴んで、レバーを動かそうとする。そんな僕に向かって、突然語気を強めた車掌が僕の首を鷲掴みにしてきたのだ。
身体が浮き上がってしまいそうなほどの握力と、液体に皮膚を溶かされる痛みで目の前に火花が散る。
反射的に車掌の身体を蹴りつけたことで、僕はどうにか腕から逃れることができた。
「ゲホッ……!! うっ、げほ、っ!!」
「大丈夫!? 待ってて、私が行って……」
「っいや、高月さんはここにいてください……!!」
「でも、清瀬くんそんなに怪我してるのに……!」
代わりに車掌に立ち向かおうとする高月さんの腕を慌てて掴んで、僕の後ろへと移動させる。
僕だって戦える保証はないが、車掌はとんでもない握力の持ち主だった。あんな怪異に女性の高月さんが捕まれば、どうなってしまうかわからない。
もうどこが痛むのかわからないくらい、全身が傷だらけだ。歯を食いしばって立ち上がった僕は、もう一度車掌に向き直る。
幸いにも車掌は、膝をついた僕に追い打ちをかけてくるようなことはしなかった。それならば、一気にカタをつけてしまえばいい。
「……帽子」
「え?」
「いや、試してみます」
片腕しか使えない僕は、正直言って圧倒的に不利だ。レバーを掴むことすら、黒い液体のせいで短時間しかできないのだから。
そう思った時、ふと車掌の頭に目が行く。車掌は全身黒い液体を纏っているというのに、帽子は溶けることなく頭の上に乗っているのだ。
それを見て、車内のロングシートを思い出す。この電車にあるものは、黒い液体によって溶かされることはない。
それならば、あの帽子を使えば手を溶かされることなく、レバーを握ることができるのではないだろうか?
「間もなく、終点です」
このまま黙っていても、終点に着くまで電車が止まることはない。
一か八かに賭けた僕は、車掌の頭に手を伸ばすと帽子を奪い取る。それと同時に、僕は手元の動きを見逃さなかった。
「お客様は……」
「こっちがブレーキ!!」
終点に着くという電車を止めるために、車掌はブレーキをかけ始めたのだろう。
右手で握っているレバーを僅かに動かしていたのを見て、僕はそちらに狙いを定める。
手にした帽子を叩きつけるようにして、車掌の手ごとブレーキを握る。そして、そのまま渾身の力を込めてレバーを引っ張った。
「きゃあっ!!」
「うっ!!」
その瞬間、車体が大きく揺れて僕の身体は後ろの壁へと叩きつけられる。
後頭部も強かに打ちつけてしまって視界が揺れるが、レバーから手を離してしまったことに焦って顔を上げた。
「え……?」
そこには、ほんの一瞬前までいたはずの車掌の姿はどこにも見当たらなくなっていて、僕は瞬きを繰り返す。
狭い運転席の中で、移動できる場所など限られている。姿自体が消えているのだ。
その直後、もうひとつ変化が起こっていることに気がついた。
「……電車、動いてない……?」
床に尻もちをついた状態であるにも関わらず、車体の揺れが一切感じられない。
外の様子はわからないものの、明らかに電車が動きを停止しているのだということがわかった。
「や、やった……電車を停められたんだ!!」
終着駅までどのくらいの距離があったのかはわからないが、電車は明らかに急停車をしていた。
だとすれば、この電車は終点に着いたのではなく、僕が停めたのだと考える方が正しいのだろう。
「良かった……清瀬くん、これで帰れるね」
「はい。とりあえず降りましょう、また動き出したりしたら困るし」
「そうだね……そうしよう」
運転する者がいなくなったとはいえ、何が起きても不思議ではない電車だ。万が一にも動き出してしまう前に、この場を離れるべきだろう。
そう判断した僕は、高月さんと共に電車を降りる選択をした。
1両目に戻る扉は閉じられていて、これまでの経験を踏まえれば、もう一度そこを開ける気にはなれない。
運転席の横には、車掌が外へ出るための扉も設置されているのが確認できる。
僕たちはその扉から、電車の外へと降りることにした。
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