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23:執念
しおりを挟む絶体絶命とは、こんな状況のことを言うのかもしれない。
乗降扉の向こう側から姿を現したのは、まさに巨漢と呼ぶに相応しい体格の怪異だった。
「……梨本さん、っ」
狭すぎる入り口に無理矢理押し込まれた身体は、不自然に形を変えながら車内に侵入してくる。
ゼリーみたいにぶよぶよと波打つ腹やたるんだ顔には、拳ほどの大きさの赤黒い出来物がいくつもあって、その一つが扉に擦れて破裂した。
ブチュッと音を立てて弾けたその中からは、膿のような黄白色の粘ついた液体が飛び散る。生温かさのあるその飛沫が、僕の頬に付着した。
「うえっ、オエッ……! なんだこれッ!?」
黒い液体のように、皮膚が溶け出したらどうしようかと焦ったのだが、痛みを感じるようなことはなかった。
代わりに、とんでもない悪臭が鼻をついて反射的に嘔吐く。
魚が腐ったような、それすら比較にならないような、とてもじゃないが我慢できるレベルの臭いではない。
肩でそれを拭い取ったのはいいが、やってから僕は後悔する。布地に染みたその臭いは、消えるどころかずっと傍で臭い続けることになるのだ。
こんな強烈な悪臭、どれだけ洗っても落ちる気がしない。
ただ、臭いに気を取られている場合ではない。車内に入り込んできた怪異は、全身から無数の黒い糸を引きながら車両の床に張り付いている。
汚い餅のようなその身体は、重力にも負けず床にくっついていることができるらしい。
幸いにも動きは鈍いようだが、この状況で真上にでも落下されればひとたまりもないだろう。
「高月さん、網棚のほうに移動できますか?」
「や、やってみる……!」
このまま腕だけを使って、手すりを移動していくのは厳しい。
優先席まで扉一つ分だ。そこに辿り着きさえすれば、幡垣さんの待つ貫通扉の方まで行ける。
吊り革に掴まっていた高月さんは、どうにか網棚の方へと移動することができた。
網棚や広告、車内案内表示装置の僅かなでっぱりを利用して、高月さんは上へと登っていく。
続いて後を追いかけようとした僕の耳に、ギチッ、ギチッという音が聞こえる。
それはどうやら足元から響いてくるもので、見下ろした僕の目にもう一人の怪異が映ったように見えた。
「清瀬えぇ!!!!」
「き、喜多川……っ!?」
さっきまで距離があったはずの喜多川が、僕のすぐ足元にまで迫ってきていたのだ。
彼は吊り革を使って、腕力だけでここまで登ってきたらしい。
逃げなければと動き出す前に、僕は左の足首を掴まれてしまう。明らかに僕を引っ張り落としてやろうという強い意思を感じる。
「やめろ、喜多川ッ……!! 今はそんなことしてる場合じゃないって……!!」
「死ねって言ってんだよ!! 落ちろ落ちろ落ちろッ!!」
「バカ!! このままじゃお前も死ぬんだぞ!?」
「知ったことかよ!!」
狂ってしまった喜多川は、自分の命など惜しくはないらしい。僕の脚にしがみついて、体重をかけたまま登ろうとしてくる。
喜多川の全体重を支えることになって、いよいよ自分の腕が限界を訴えているのがわかった。
両手で手すりを掴んではいるが、掌から溢れる血が手首から腕へと伝い落ちてくる。いつ落下してもおかしくない。
「ふざけんな、っ離せ!!」
僕は自由な右足を使って、喜多川の顔面を思いきり蹴りつける。攻撃を受けた喜多川の身体はずり落ちていくが、まだ手を離そうとはしない。
こんなところで共倒れなんて御免だ。僕は高月さんと一緒に電車を降りると決めたんだから。
何度も何度も蹴ることで、反撃ができない喜多川の顔面は腫れ上がり、ボロボロになっていく。
やがて分が悪いと判断したのか、喜多川は一つ下の手すりへと飛び移った。チャンスは今しかない。
「清瀬くん、上ッ……!!」
「っ……!!」
そう思って顔を上げた時、巨大な影が視界に飛び込んでくる。
それが何なのか考えるよりも先に、僕は反射的に網棚の方へと飛びついていた。
「ぐああぁっ!!!!」
間一髪、飛びついてきた怪異を避けることに成功する。けれど、左肩から脇腹にかけて、落下していく怪異の巨体が接触していった。
熱した油を浴びせられたような感覚に叫ぶが、手を離さなかったのは運が良かっただけかもしれない。
「うぐううぅ、っ……!! おごっ、やめ、ぉよぉッ!!!!」
痛みと悪臭で朦朧とする中、耳に届いた苦悶の声に足元を見る。僕の横を落下していった怪異は、その下にいた喜多川をターゲットにしたらしい。
あの巨漢に纏わりつかれた喜多川は必死に手すりにしがみついているが、あれではもう助からないだろう。
怪異が喜多川に集中している間に、僕たちは2両目に向かって移動していく。
高月さんを引っ張り上げた幡垣さんが、僕に向かって腕を伸ばしてくれる。どうにか優先席のところまで辿り着いた僕は、唯一の命綱となるその手を取った。
「清瀬、上がってこられるか?」
「はい、っ……あと少し、引っ張ってもらえますか」
「待って、私も手伝うから……!」
歯を食いしばって痛みを堪えながら、二人に両腕を引っ張ってもらって2両目へと乗り込んでいく。
車内が見えて、どうにか助かったのだと思った瞬間、僕の身体が急激に重さを増した。
「う、わっ……!?」
「きゃっ!! 清瀬くん……!?」
左脚を締め付けられるような感覚。
焼けるような痛みを伴わないことから、それが怪異ではないのだと瞬間的に判断する。妙に冷静に状況を分析している自分の頭は、どこか他人事のようだ。
まさかと思って下を見た僕は、狂った笑みを浮かべながら、ガッチリとしがみついてくる喜多川と目が合った。
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