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21:狂愛
しおりを挟む「な、なに言ってるんだよ……? こんな時に笑えない冗談、桧野さんらしくな……」
「冗談なんかじゃないですよ」
桧野さんがふざけているわけじゃないことは、声音や表情を見ればわかる。ただ、頭が理解することを拒絶しているのかもしれない。
頬に触れていた指が首から胸元を辿るように滑り落ちて、悩ましげな溜め息が聞こえる。
「あたし、ずっと清瀬先輩のことが好きだった。でも、先輩はあたしのことなんて見てくれてなかったですよね。いつもあの人のことばっかり」
彼女の視線が向けられた先には、高月さんがいる。そこには明らかな敵意が含まれていて、こんな風に他人を敵視する桧野さんを見たことはない。
「このまま生き残っても、外に出たらまた同じ繰り返しになる……でも、この電車の中だったら違う」
「桧野さんは、電車から降りたくないの?」
「降りたくないですよぉ! ここで清瀬先輩とループして、一緒に死にたいんです」
恍惚とした表情で僕を見つめてくる彼女の手が、腰元へするすると移動していく。
見た目よりも豊満な胸元を惜しげもなく密着させて、僕に囁きかけてくる声には甘ったるさが増している。
「あたし、先輩になら何されてもいいですよ? だから、この電車であたしと幸せに死にましょう?」
「ッ……!」
背伸びをして妖しく微笑む桧野さんの顔が近づいてくる。
大怪我を負っていることに気遣う余裕もなく、僕は彼女の身体を思いきり突き飛ばしていた。
「きゃあっ……!!」
「桧野さん!」
「ご、ごめん……! だけど、桧野さんの言ってることおかしいよ。僕はここに残るつもりはない」
「なんで……あたしじゃダメなんですか? こんな女のどこがいいの!?」
「ダメとかそういうことじゃなくて、とにかく落ち着いて……」
「あたしを選んでよ!!」
説得を試みようとしても、桧野さんには僕の言葉が届いていないように見える。
転んだ彼女を助け起こそうとした喜多川の手を払い除けて、立ち上がった桧野さんは僕に飛び掛かってきた。
おかしくなってしまった桧野さんは、背中の痛みも忘れてしまったのかもしれない。
車体の右側を足場にした不安定な場所で、僕はどうにか体当たりに近い彼女の身体を避ける。
「ぎゃっ……!! うぅ……なんで、清瀬先輩……」
「桧野さん、きみは今普通じゃないよ。頼むから僕の話を……」
「その女が、いなくなればいいの……?」
「え……?」
狂気的な視線が、僕から高月さんへと矛先を変える。
ゆらりと立ち上がった彼女は、足元に転がっていた消火器を手に取った。横転した拍子に設置場所から転がり落ちたのだろう。
「あんたがいなくなれば、先輩はあたしのことを見てくれる」
「ま、待って……琥珀ちゃん!?」
桧野さんのやろうとしていることを理解して、青ざめた表情の高月さんが後ずさる。
けれど、横倒しの上に狭い車内では逃げられる距離にも限界があって、4両目に戻る貫通扉のところまで追い込まれてしまう。
「邪魔、死んでよ」
消火器を振り上げた桧野さんは、なんの躊躇もなくそれを高月さんの頭目掛けて叩きつけようとする。
咄嗟に駆け寄った僕は彼女の腕を掴んで、高月さんから引き離そうと桧野さんの細い首を羽交い絞めにした。
「やめろって!!」
「やっ……離して先輩!! この女殺さなきゃ!!」
「そんなことしても意味ないよ!!」
「やだ!! あたしのものにならないなら殺してやる!!」
「痛っ……!」
腕の中で彼女がもがく度に、剥き出しの背中が擦れて血や肉片のようなものがこびりつく不快感がある。
自由な片腕を振り回した拍子に、桧野さんの爪が僕の顔面を引っ掻いた。
全力で抵抗しようとする相手を押さえ込むのは、いくら女性相手といえども至難の業だ。
「き、喜多川……ッ! 手を貸してくれ、喜多川……!!」
どうにかしなければと助けを求めたのだが、僕の後ろにいるはずの喜多川は、どうしてだか動こうとしない。
消火器を取り上げようと近づいてきた高月さんは、バタバタと動く桧野さんの両脚に阻まれてしまう。
「っ、頼むから大人しくしてくれよ……!!」
「ガッ……!!」
このままでは押さえ込む僕の腕だって限界だ。
言葉で説得することは難しいと判断した僕は、桧野さんの身体を投げ飛ばした。
嫌な音を立てて網棚の角に頭を打ちつけた彼女は、倒れ込んだまま動かなくなってしまう。
「……ひ、桧野……さん……?」
うつ伏せの状態でピクリともしない桧野さんの頭の下から、真っ赤な血だまりが広がっていくのが見える。
恐る恐る近づいてみると、彼女は両目を見開いたまま事切れているのがわかった。
「死ん……でる……?」
「琥珀ちゃん……うそ……」
同じように近づいてきた高月さんも、それが気絶しているだけではないと察したのだろう。
震える声で彼女の名を呼びながら、その場にへたり込んでしまった。
「僕が、殺したのか……?」
桧野さんは明らかに僕や高月さんを殺そうとしていた。これは正当防衛だとわかっているが、手を下したのは間違いなく僕だ。
「違う……清瀬くんは、守ろうとしてくれただけ」
「でも……」
「その桧野って女に殺意があったのは、オレの目から見ても明らかだった。自分を責めることはない」
「幡垣さん……僕……」
「こんな状況じゃ、狂う奴が出てもおかしくない。それが友人だろうが同僚だろうが、躊躇すれば死ぬのは自分だ」
幡垣さんなりに、僕の行動を正当化してくれているのだろう。
彼女を殺してしまった事実に変わりはなく、取り返しはつかない。福村を見捨てた時と状況は違っていても、結果は覆らない。
シャツに付着した血が不快だったけれど、僕たちは先に進む必要がある。
桧野さんの死体から目を背けて高月さんに手を貸そうとしたところで、呆然と佇む影に気がついた。
「……喜多川」
桧野さんの死体を見下ろしている喜多川の顔からは、表情が消え失せている。
何度も彼女を手助けしてきた喜多川は、本当に桧野さんのことを想っていた。そんな大切な人を、僕は殺してしまったのだ。
「ごめん、喜多川……だけど、ああするしかなくて……」
「…………」
電車は揺れているはずなのに、そこだけ時が止まってしまったみたいに、喜多川は微動だにしない。
他にかける言葉が見つからないまま、もう一度口を開こうとした時。
『次は、焦熱駅。次は、焦熱駅。お出口は左側です』
僕たちの状況なんかお構いなしに、電車は先へと進んでいく。
4両目の怪異はあっさり引き下がってくれたが、次もそうだとは限らない。
死を悼む時間を取れなかったのは、これまで犠牲になってきたどの仲間も同じだ。今だけ特別扱いをすることなんてできない。
「喜多川、行こう。つらいだろうけど、このままこの場所にはいられない……」
「……し、のに」
「え?」
思考が停止してしまっているのだと思っていた喜多川が、僕の言葉を遮って口を開く。
上手く聞き取ることができずに問い返した僕の方へ、彼の視線がゆっくりと持ち上がる。
「あんなに、尽くしたのに」
「喜多川、それは……」
「桧野さんはお前を選んだ」
喜多川が桧野さんを好きだったことは知っていた。そんな彼女が僕に対して好意を向けてきたことに、僕は今日まで気がつかなかったけれど。
もしかすると喜多川は、彼女の気持ちを知っていたのだろうか?
「なのに、お前は彼女を拒絶した」
事実を確認するみたいに、ぽつりぽつりと落とされる言葉。
僕が喜多川の想い人を知っていたように、喜多川だって僕が高月さんを好きなことを知っているはずだ。
それならば、僕が彼女の想いを受け入れることができないとも、理解しているはずなのに。
喜多川の瞳は、恨み一色に染まっていた。
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