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15:5両目
しおりを挟む『次は、叫喚駅。次は、叫喚駅。お出口は右側です』
貫通扉を抜けて5両目に足を踏み入れた途端、車内アナウンスが響く。
やっと移動ができたばかりだというのに、もう次の駅に到着してしまうのか。
駆け込むと同時に背後の扉を閉めれば、やはり化け物が追いかけてくる様子はない。
触れた取っ手に違和感があると思ったのだが、白い布のようなものがぶら下がっているのが目に入った。これはなんだろうか?
「こりゃまた、随分と大所帯だなあ?」
そう考えていた僕の耳に、聞き覚えのない声が飛び込んでくる。
車内へ向き直ってみると、先にこの車両に駆け込んだ福村たちよりも奥に、一人の男が立っているのが見えた。
「……あの、あなたは……?」
「人に尋ねる時はまず自分から名乗るモンだが、まあ……こんな場所で礼儀もクソもないか」
僕たちはここまで、同じバイト先の仲間同士で行動を共にしてきた。
そこに突然現れた見ず知らずの男に、みんなの警戒心が強まっていくのがわかる。
背は喜多川よりも少し高いくらいに思えるが、男の方が細身なので力では勝てそうだ。
無造作に纏めた黒髪はボサボサで、無精ひげを生やしている。
オリーブ色のモッズコートは所々が破れたり、赤黒く染まっていて、もしかすると彼もあの化け物と戦ったのかもしれない。
「……その前に、生き延びたけりゃ気持ちを切り替えた方がいい。間もなくお客さんの到着だ」
「え……?」
男が顎先で示したのは、進行方向に向かって右手側の乗降扉だった。
アナウンスが聞こえた後なのだから、電車が止まればその扉が開くのだろう。彼は注意を促してくれている。
男の言葉を受けて全員が身構えるのとほぼ同時に、電車がブレーキを掛けたのがわかる。
あの扉の向こうから、今度は何がやってくるのだろうか?
「これ……なんの音だ?」
開かれた扉に視線を向けながら、その音に最初に気がついたのは喜多川だった。
ブ……ブ……と、なにかが振動しているみたいな。アラームをセットしたまま、枕の下に滑り込んだスマホみたいな音が聞こえる。
扉の外を見ていても、なにかが這い出してくる様子はない。
「い、今のうちに隣の車両に向かうのは……」
「でも、さっきみたいに扉が開かなかったら……?」
「考えててもしょうがないし、ひとまず、熱ッ!?」
化け物が急に飛び出してこないとも限らないが、目指す先は決まっているのだから行動した方が早い。
そう思って4両目の方へと歩き出そうとした僕は、鼻の頭に飛んできた何かを避けられず、急な熱さに顔を背ける。
「清瀬くん、大丈夫?」
「は、はい……今のなんだ……?」
じんじんと痛む鼻先は、擦り傷のように軽い怪我を負っていた。
どこからか黒い液体の飛沫が飛んできたのかもしれない。そう思いながら視線を戻した時、目の前に再び小さな黒い何かが飛んできた。
「うおっ……!?」
今度は反射的に避けることに成功したものの、僕の真横を通り過ぎたそれは、後ろの壁に付着する。
やはり飛沫のように見えたのだが、奇妙な感覚に僕は目を凝らしてみる。
よく見れば、その飛沫は動いていた。
小指の長さほどの小さな羽虫に見える。けれど、それは確かに人間の形をしていた。
小さすぎて顔の判別はできないが、人の頭に胴体があって、左右に五本ずつ長さの異なる腕が生えている。それらがそれぞれに意思を持って動いているのだ。
背中には羽が生えていて、飛び上がったかと思うと、ブブブ……と不快な羽音を立てながら僕の方へと飛び掛かってきた。
「うっ、うわああッ!!?」
気味の悪さに、思わずそれを片手で叩き落とす。
黒い液体を纏っているせいで掌に痛みが走ったが、地面に落下したそれはもう飛び上がることはなさそうだ。
「ど、どうしたんだ!?」
「わからないけど、虫みたいな……でも、人の形をしてた」
「なんだよそれ、気持ち悪すぎるだろ……」
「この電車には、あらゆる怪異が乗り込んでくる」
「怪異……?」
駆け寄ってきた喜多川は、足元の黒い点を見下ろして顔を顰めている。
一方で、僕の反応を見ていた男は、一人だけ冷静な様子でそんなことを言い出した。
「オレがそう呼んでいるだけだが、こうも化け物だらけだと呼び名がある方が便利でな」
「化け物だらけ……ってことは、やっぱりあなたも化け物と戦ったんですか?」
「生き残ってるんだから、そういうことになるだろうな」
敵か味方かわからなかったが、やはりこの男も僕らと同じように、不可解な現象に巻き込まれた一人なのだろう。
「ねえ、あれ……まさか、その虫みたいな怪異じゃないよね……?」
「え……?」
青ざめた顔をした高月さんが、扉の向こうを指差している。
そちらに目を向けても、そこには何も無いように見えた。しかし、僕はすぐに彼女の言わんとしていることを理解する。
暗闇しか見えない扉の向こう。そこから、じわじわと車内に闇が広がってきているのだ。
真っ白な紙に垂らした墨汁の染みが滲んでいくみたいに、車内を浸食し始める闇。
それは闇ではなく、黒い液体を纏った羽虫だった。
おびただしいほどの羽虫の大群が、壁や天井を這い車内へと入り込んできているのだ。
「うわあっ、逃げろ……!!」
「逃げろったってどうやって!?」
「隣行くしかねーだろ!!」
駆け出した福村は4両目へ向かおうとしているが、行く手を羽虫の怪異に阻まれてしまう。
群がってくるそれらを両手で払おうとしているものの、あまりにも数が多すぎる。降り注ぐ雨を素手で避けようとしているようなものだ。
「コートを使って!!」
そう叫んだ高月さんは、自身のコートを脱いでバサバサと仰ぐようにしている。
腕で払うよりも面積が大きい分、羽虫たちも叩き落とされたり、風圧で別の場所に吹き飛ばされているのが見えた。
僕も彼女に倣ってコートを脱ぐと、滅茶苦茶に腕を動かして羽虫を払いながら移動していく。
自然と全員が背を預ける形で、ひと塊になる。
「数は多いけど、一匹ごとの力が強いわけじゃない。このままどうにか隣の車両まで……」
「そうは言ってられないんじゃないか?」
僕の言葉を否定した男は、自分のコートを掲げて見せる。それは先ほどまでよりも明らかに穴だらけになっていて、上着としては使い物にならない状態だった。
「私のも、ダメかも……」
見れば、高月さんのコートもズタボロになっている。
そうだった、あの羽虫は黒い液体を纏っているのだ。払うことができたとしても、当たれば少なからず液体が付着する。
同じことを繰り返していけば、いずれ布はすべて溶かされて無くなってしまう。
それだけではない。僕らが叩き落とすよりも、ずっと早い速度で羽虫の数が増えているのだ。その証拠に、耳障りな羽音が大きくなっているのがわかる。
「ッ、僕が開けに行きます……!」
「清瀬くんっ!?」
このままでは数秒と持たずに羽虫の大群に囲まれて、全員やられてしまう。
相談している時間なんてない。そう判断した僕は、まだ形を保っている自分のコートを盾にして、羽虫の大群に体当たりをするように駆け出した。
一匹は小さくとも、密集すれば巨大な液体の塊だ。
コートは瞬く間に面積を失っていくが、どうにか貫通扉のところまで辿り着いた僕は、それを開くために取っ手を掴もうとする。
「ぐああああっ!!!!」
けれど、あまりの痛みに反射的に手を引っ込めてしまった。
4両目に続く貫通扉。その取っ手の部分には、びっしりと羽虫が纏わりついていたのだ。
うぞうぞと蠢く羽虫は、顔なんか見えないはずなのに、なぜだかすべてが僕の方を見ているような気がして鳥肌が立つ。
「……ヨ、セ……テ……」
「え……?」
羽音に混ざって小さく声が聞こえたように感じて、僕は無意識に問い返してしまう。
それは左側の耳元で囁かれた声。そんな風に感じて左肩を見ると、そこにいた三匹の羽虫が僕を見ていて。
「キ、ヨセ……タス、ケテ……」
「うっ……うわああああああああッ!!!!」
羽虫の姿をした一ノ瀬が、僕に話しかけていた。
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