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06:黒い繭
しおりを挟む「……さすがに、降りてみようって人はいないよな」
独り言にも近い喜多川の言葉に、意見する者はいない。
開いた扉の向こうは、変わらず真っ黒な闇が広がっているだけだった。
確かめる気も起こらないが、外に出ようとすればおそらくは8両目と同じことになるのだろう。
どうせ出られないのであれば、わざわざ扉なんか開かなければいいのに。そう思う反面で、終着駅に着くまでの微々たる時間稼ぎになるのかとも感じていた。
「扉には近づかないようにして、早く行こう」
「そうだな。次の車両もこっからじゃ見えないっぽいし、やっぱり同じなのかな?」
「わからないけど、そうだといいとは思うよ。移動できないような状態なのが一番困る」
「それは、確かに……」
遠目に見た6両目の車内も、窓が真っ黒に塗り潰されていて、覗き見ることはできない。
進む先が同じ状態だとは保障されていない。貫通扉を開ける時には、またあの緊張感を味わわなければならないのか。
「あれ……なんスかね?」
足を進めながら僕が憂鬱な気持ちを抱えた時、後ろでそんな声が聞こえる。
振り返ってみると、開いた扉のひとつを湖山が指差しているところだった。
この車両には左右それぞれに、乗降用の四つの扉がある。僕と喜多川は、7両目から6両目に向かう三つ目の扉の辺りにいた。
残るメンバーはそれよりも後方にいるのだが、湖山が見ているのは二つ目の扉の方だ。
始めは他と変わらない黒一色に見えて、僕は首を傾げる。
けれど、その直後に暗闇が大きく盛り上がったことに気がついた。まさかあのドロドロとした液体が、車内に流れ込んでくるのではないか。
そう身構えた僕の想像とは裏腹に、縦長の巨大な黒い繭のような形をしたものが、ビチャッと不快な音を立てて車内に倒れ込む。
「うわっ!? 熱っちぃ!! クソ、跳ねやがった……!!」
その拍子に繭の纏う黒い液体が四方へと飛び散り、福村の方にもかかったらしい。
慌ててコートの袖で拭った頬は、火傷のように赤く腫れあがっていた。いい気味だと思わなくもないが、今はそれどころではない。
「なんだこれ、中になにか入ってるのか……?」
「いや、触ったら溶けるんだし。なにか入ってるとは思えないけど……」
「……でも、床は溶けてないよね」
人間を溶かすほどの液体なのだから、そんなものを纏って形を保っていられるはずがない。
けれど、高月さんの指摘を受けて僕たちは足元へと視線を落とした。
鮎川さんが死んだ時も、今もそうだ。
触れた身体もコートも溶けているのに、大量の液体を受け止めた床には傷一つついていない。液体が飛び散ったはずの座席も同様だ。
「こんな塊が落ちてきたら、普通は溶けて床が抜けてもおかしくないよな……?」
喜多川の声が震えている。
繭の大きさは、乗降用の扉の高さと同じくらいある。それが横たわる床の上には、間違いなく液体が飛び散っているのに。
「俺たちだけを溶かす、ってことか……?」
そんなことがあり得るのだろうか? そう疑問を抱いたとしても、目の前で起こっている事実は変わらない。
「だとしても、触らなきゃ問題ないよ。みんななるべく離れて……」
こんなものに直接触れたがる人間はいないだろうが、近寄らなければ大丈夫だろう。
そう判断した僕の目の前で、繭が粟立ったような気がした。
「え……?」
目の錯覚かと思ったのだが、それを意識した途端、まるで鳥肌のようにプツプツと小さな気泡のようなものが増え始める。
集合体恐怖症というわけではないが、僕はゾッとして思わず一歩後ずさった。
やがて気泡だらけになった繭は波打つように蠢いて、中身の輪郭に沿って溶け落ちていく液体の中から、何かが生まれ始める。
「なん、だよ……これ……?」
その塊は、人の形をしているように見えた。
うつ伏せになっていた人間が、両手をついてゆっくりと起き上がっていくような光景。
違うのは、それが明らかに人間ではないということだ。
溶け落ちた赤黒い皮膚のような場所からは、所々に黒ずんだ骨が剥き出しになっている。
女性なのだろうか? 胸元と思われる箇所には二つの膨らみが見えるのだが、ドロドロとした液体が垂れ流されていた。
繭の中では膝を折って、正座したまま上体を倒していたのだろう。背丈は電車よりも高いらしく、膝立ちの状態で僕たちを見下ろしている。
いや、見下ろしているという表現が適切なのかはわからない。
なぜなら、見上げた顔面と思しき縦長の場所には、大きな口がぽっかりと開いているだけだったのだから。
「きゃああああああああッ!!!!」
「なんだ……!? なんなんだ!!??」
「うわああああああ!!??」
それが繭の中から生まれる様子を呆然と見つめていた僕だったが、一斉に響いた悲鳴によって意識が呼び戻される。
ゆらりと動いたその化け物は、垂れ下がったままだった片手を、下から掬い上げるように動かしていく。
女性一人分ほどもある巨大な手だ。その先にいた湖山が、運悪く捕まってしまった。
「ぎゃああああッ!! い、いやだっ……!! 離せぇ!!」
「湖山!!」
「ダメだ清瀬!!」
咄嗟に駆け寄ろうとした僕は、喜多川に腕を掴まれる。
「おい、喜多川……!」
「バカ、触ったら溶かされるぞ!?」
喜多川の言う通り、あの化け物は全身に黒い液体を纏っている。
捕まっている湖山の身体からは、ジュウジュウという音と共に煙が上がっており、涙を流しながら抜け出そうと藻掻いているのが見えた。
しかし、抜け出そうとする手は液体で滑る上に、触れた先から掌が溶かされているらしい。
こんなの、武器もない僕たちじゃ助けようがない。
そんな湖山に追い打ちをかけるみたいに、化け物はもう片方の手を持ち上げて、両手で湖山の身体を握り締める。
「があああ痛てぇっ……!! いやだ、痛いよ……清瀬先輩……ッ」
「湖山……っ!」
溶かされる痛みだけでなく、力で締め付けられているのかもしれない。
ギシギシと骨が軋むような嫌な音が聞こえてきて、湖山は口から血を吐きながら懸命に助けを求めている。
僕の方に伸ばされた腕の先端は、もう手の原型を留めておらず、手首の骨が突き出していた。
「ぅ……あぐっ……」
そうして息も絶え絶えの湖山の顔は、闇に呑み込まれてしまった。
化け物の大きな口が、湖山の上半身を一口で食いちぎったのだ。
残りは不要ということなのか、下半身はゴミのようにその場に捨てられる。
黒い液体に混じって噴き出した真っ赤な血が、優しい白茶色の床を染めていく。
「に、逃げなきゃ……」
とても現実とは思えない光景に全身が硬直してしまう。
それでも、喜多川の絞り出したような声音によって、この場に留まれば僕も殺されるのだと理解できた。
「逃げ……こんな狭い車内で逃げ場なんて……」
「考えてる時間ないって、隣の車両に行くしかないだろ……!」
「だけど、他のみんなは……っ」
確かにここでもたついている時間はない。
本来であれば喜多川と二人ですぐにでも走り出したいのだが、僕にはそうできない理由があった。
化け物を挟んだ向こう側に、高月さんたちがいる。
みんなを置いて、僕たちだけ逃げ出すなんてできない。高月さんを見捨てて助かったとしても、僕はきっと後悔するだろう。
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