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36:エピローグ
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移動している最中に、被っていた綿帽子が風で飛ばされてしまった。
拾いに戻りたいと訴えたのだけど、白緑は後で拾って帰ればいいと聞いてくれない。
あれを盗んでいくようなあやかしはいないだろうから、紛失の心配はないだろうけれど。
降り始めたと思っていた雨は、目的地に到着する頃にはすっかり上がっていた。
「ついたぞ。ここなら邪魔も入らないだろう」
「邪魔って……なにも言わずに、みんなを置いてきちゃった」
「構わん。やっとお前を手に入れられたんだ、文句など言わせるか」
白緑によって森の奥へと連れ去られた私は、背の高い木の上にいた。自分でこんなところに登ることはないので、下を見るのは少し怖い。
けれど、自由に飛び回ることのできる白緑は違うのだろう。そのまま枝に腰を下ろすと、横抱きの体勢のまま私を膝に乗せた。
「……白緑、この格好はちょっと……恥ずかしいというか」
「ん? もう夫婦になったんだから構わないだろう?」
「そういうことじゃなくて、地面に下りた方が……」
「下に降りると豆狸がお前に寄ってくる。それでは独り占めにならない」
白緑の言う通り、すでに木の下には何匹かの豆狸らしき小さな生き物の姿が見える。しかし、さすがの豆狸でもこれだけ高い木には登ることができないらしい。
同じく私も自力で下りることはできないので、この体勢については諦めるしかないようだ。抵抗して落ちたとしても、助けてくれるだろうという信頼はある。
ただ……心臓の音が、白緑に聞こえてしまわなければいいんだけど。
「怖いか?」
「……ううん、怖くないよ。白緑と一緒なら、私はなにも怖くない」
下を見るのは怖かったけれど、私の傍には白緑がいる。それが何よりの安心材料であると同時に、無敵になれたような気さえするのだ。
怖いことがあるとするなら、彼を失うことだった。だからもう、私にはなにも怖いものなんてない。
「俺はあの日、お前に救われていた」
「あの日?」
「俺と依織が、初めて出会った日のことだ」
私たちが初めて出会った日というのは、おそらく夏の話ではない。まだ幼かった頃、記憶から消されてしまっていたあの日のことだ。
どうして記憶を取り戻すことができたのかはわからないけれど、もう一度会う約束を、果たすことができたのは奇跡だと思う。
「王になったばかりだった俺は、ただ王であることに必死だった。いつの間にか、心の許容量を超えていることすら気づかずに、無我夢中になっていたんだ」
両親に捨てられて、王になるしかなかった白緑。
事実は異なっていたのだけど、あの頃の白緑はどんな思いで王の務めを果たしていたのか、考えるだけで胸が痛む思いがする。
「そんな時、依織と出会って……俺は心が癒されていくのを感じた。いつかお前が戻った時のために、この妖都を守る立派な王になろうと改めて誓ったんだ」
「そんな、私はなにも……」
「お前はなにもしていないつもりでも、俺たちあやかしは多くを受け取っている。それは、紫土や淡紅たちも同じ気持ちだろう」
そんなことを言ってもらえるようなことは、なにもしていない。私はいつだって、みんなに喜びや幸せを貰う側なのに。
「本当は、お前を伴侶に迎えるつもりはなかったんだ」
「え……?」
「依織を愛しているからこそ、この世界の仕組みにお前を巻き込みたくはなかった。王の伴侶となれば、お前も同様に命を削られる恐れがあったからだ」
「そう、だったんだ……」
白緑が頑なに、私を”仮の婚約者”としていた理由。それは、私を想ってのことだったのだ。
「だが、俺も意思が弱いな。巻き込みたくないと言いながら、仮でもお前を婚約者に仕立て上げた。伴侶にするなら依織がいい。その欲を、捨て去ることができなかった」
「……捨てられなくて良かった。全部忘れたまま、別々の世界で生きていくなんて悲しすぎるよ」
紫黒さんと奈々さんは、そんな悲しい結末を迎えてしまった。違う世界を生きる者同士、これまでもそんな人たちがいたのかもしれない。
悲しみの連鎖。そう形容した白花さんだって、きっと悩み抜いてあの決断を下したのだ。
「王様じゃなくなって、やりたいことはある?」
「そうだな……依織と一緒に寝る」
「それは、その……もう少し、心の準備ができてからなら」
「なら、依織とどこかに遠出をする」
「それはまあ、行ける範囲なら構わないけど」
「あとは依織と……」
「なんだか、全部私とやることじゃない?」
私の指摘にきょとんとした後、白緑は頬に口付けを落としてきた。そのまま至近距離で見つめてくる瞳が、私を捉えて甘く蕩ける。
「当然だろう。お前とやりたいことが山ほどある」
ずっと私に甘かった気はするのだけど、妖都に戻ってからの白緑はなんというか……甘ったるくてくすぐったい。
気恥ずかしさから居心地の悪さを感じている私をよそに、白緑は何やら自身の袖の中を探っている。移動中に落とし物でもしたのだろうか?
「依織、少し目を瞑れ」
「目をって、なにする気?」
「いいから。すぐに済む」
また何か悪戯を企んでいるのかとも思ったけれど、なんだか楽しそうな様子に水を差すのも悪い気がした。
促されるままに目を閉じると、私の左手を取った白緑が何かをしているのが伝わってくる。
「……よし、開けていいぞ」
合図と共にそっと目を開けた私の視界は、何も変化がない。そう思ったのだけれど、左手に違和感があることに気がついた。
そうして手を持ち上げた私は、薬指に嵌められている細身の指輪を見つける。
「これ……」
「結婚指輪だ。あやかし同士の結婚なら、肌に直接紋様を刻むこともあるんだがな。人間の世界の習わしに従って、あやかしと人間との結婚は指輪を用意する決まりになっている」
「ありがとう……! あの、白緑のは……?」
結婚指輪というのなら、互いに身に着けるものではないかと思ったのだけれど。彼の手元を見ても、指輪が嵌められている様子はない。
「俺の手を取って、愛情を具現化するイメージをしてみろ。依織の力で作り出すことができるはずだ」
「わ、わかった」
私は白緑の左手を握ると、その薬指をじっと見つめながらそこに気持ちを集中させる。自分の中にある愛情が指輪になって、そこに存在する様子を思い描く。
しばらくそうしていたものの、彼の薬指に変化が現れる気配はない。もしかして、私の愛情が足りていないということなのだろうか……?
「ふ……っ、くく」
「……白緑?」
その時、噛み殺したような笑い声が聞こえた気がして顔を上げる。
私に見えないように顔を背けた白緑の肩が、明らかに震えている。もしかするとこれは、騙されたのではないだろうか?
「白緑?」
怒りの気持ちを込めて、もう一度名を呼ぶ。すると観念したように、白緑は私の方を向いた。
その目尻には涙すら滲んでいて、そんなに笑っていたのかとさらなる怒りが込み上げる。
「いや、すまない……ッ、お前が真剣だから、つい」
「からかうなんてひどい!」
「悪かった、謝る。ほら、これが俺の指輪だ。嵌めてくれるか?」
笑う白緑の手元から現れたのは、私のものよりも大きいサイズの指輪だ。
拒絶してやろうかとも思ったけど、それを手に取ると白緑の左手の薬指へと通していく。
彼の悪戯に怒っていたのは本心だというのに、揃いの指輪を目にしたら、喜びの方が勝ってしまった。私は案外、単純な人間なのかもしれない。
「ありがとう、依織」
「次にからかったら、一緒に寝られるのはずっと先になるんだから」
「それは困るな、善処しよう」
「からかわないって選択肢はないの?」
「お前が可愛いから、それは無理な話だ」
軽口を叩き合う、こんな何気ないやり取りも、これからは当たり前の日常になっていく。
幸せだらけの毎日に慣れるには、少し時間がかかるだろうけれど。それもまた、贅沢な悩みだ。
大好きなひとたちのいるこの世界で、私は新しい人生を歩んでいく。
これは私に幸せをくれた、とてもおそろしい妖隠しのお話。
拾いに戻りたいと訴えたのだけど、白緑は後で拾って帰ればいいと聞いてくれない。
あれを盗んでいくようなあやかしはいないだろうから、紛失の心配はないだろうけれど。
降り始めたと思っていた雨は、目的地に到着する頃にはすっかり上がっていた。
「ついたぞ。ここなら邪魔も入らないだろう」
「邪魔って……なにも言わずに、みんなを置いてきちゃった」
「構わん。やっとお前を手に入れられたんだ、文句など言わせるか」
白緑によって森の奥へと連れ去られた私は、背の高い木の上にいた。自分でこんなところに登ることはないので、下を見るのは少し怖い。
けれど、自由に飛び回ることのできる白緑は違うのだろう。そのまま枝に腰を下ろすと、横抱きの体勢のまま私を膝に乗せた。
「……白緑、この格好はちょっと……恥ずかしいというか」
「ん? もう夫婦になったんだから構わないだろう?」
「そういうことじゃなくて、地面に下りた方が……」
「下に降りると豆狸がお前に寄ってくる。それでは独り占めにならない」
白緑の言う通り、すでに木の下には何匹かの豆狸らしき小さな生き物の姿が見える。しかし、さすがの豆狸でもこれだけ高い木には登ることができないらしい。
同じく私も自力で下りることはできないので、この体勢については諦めるしかないようだ。抵抗して落ちたとしても、助けてくれるだろうという信頼はある。
ただ……心臓の音が、白緑に聞こえてしまわなければいいんだけど。
「怖いか?」
「……ううん、怖くないよ。白緑と一緒なら、私はなにも怖くない」
下を見るのは怖かったけれど、私の傍には白緑がいる。それが何よりの安心材料であると同時に、無敵になれたような気さえするのだ。
怖いことがあるとするなら、彼を失うことだった。だからもう、私にはなにも怖いものなんてない。
「俺はあの日、お前に救われていた」
「あの日?」
「俺と依織が、初めて出会った日のことだ」
私たちが初めて出会った日というのは、おそらく夏の話ではない。まだ幼かった頃、記憶から消されてしまっていたあの日のことだ。
どうして記憶を取り戻すことができたのかはわからないけれど、もう一度会う約束を、果たすことができたのは奇跡だと思う。
「王になったばかりだった俺は、ただ王であることに必死だった。いつの間にか、心の許容量を超えていることすら気づかずに、無我夢中になっていたんだ」
両親に捨てられて、王になるしかなかった白緑。
事実は異なっていたのだけど、あの頃の白緑はどんな思いで王の務めを果たしていたのか、考えるだけで胸が痛む思いがする。
「そんな時、依織と出会って……俺は心が癒されていくのを感じた。いつかお前が戻った時のために、この妖都を守る立派な王になろうと改めて誓ったんだ」
「そんな、私はなにも……」
「お前はなにもしていないつもりでも、俺たちあやかしは多くを受け取っている。それは、紫土や淡紅たちも同じ気持ちだろう」
そんなことを言ってもらえるようなことは、なにもしていない。私はいつだって、みんなに喜びや幸せを貰う側なのに。
「本当は、お前を伴侶に迎えるつもりはなかったんだ」
「え……?」
「依織を愛しているからこそ、この世界の仕組みにお前を巻き込みたくはなかった。王の伴侶となれば、お前も同様に命を削られる恐れがあったからだ」
「そう、だったんだ……」
白緑が頑なに、私を”仮の婚約者”としていた理由。それは、私を想ってのことだったのだ。
「だが、俺も意思が弱いな。巻き込みたくないと言いながら、仮でもお前を婚約者に仕立て上げた。伴侶にするなら依織がいい。その欲を、捨て去ることができなかった」
「……捨てられなくて良かった。全部忘れたまま、別々の世界で生きていくなんて悲しすぎるよ」
紫黒さんと奈々さんは、そんな悲しい結末を迎えてしまった。違う世界を生きる者同士、これまでもそんな人たちがいたのかもしれない。
悲しみの連鎖。そう形容した白花さんだって、きっと悩み抜いてあの決断を下したのだ。
「王様じゃなくなって、やりたいことはある?」
「そうだな……依織と一緒に寝る」
「それは、その……もう少し、心の準備ができてからなら」
「なら、依織とどこかに遠出をする」
「それはまあ、行ける範囲なら構わないけど」
「あとは依織と……」
「なんだか、全部私とやることじゃない?」
私の指摘にきょとんとした後、白緑は頬に口付けを落としてきた。そのまま至近距離で見つめてくる瞳が、私を捉えて甘く蕩ける。
「当然だろう。お前とやりたいことが山ほどある」
ずっと私に甘かった気はするのだけど、妖都に戻ってからの白緑はなんというか……甘ったるくてくすぐったい。
気恥ずかしさから居心地の悪さを感じている私をよそに、白緑は何やら自身の袖の中を探っている。移動中に落とし物でもしたのだろうか?
「依織、少し目を瞑れ」
「目をって、なにする気?」
「いいから。すぐに済む」
また何か悪戯を企んでいるのかとも思ったけれど、なんだか楽しそうな様子に水を差すのも悪い気がした。
促されるままに目を閉じると、私の左手を取った白緑が何かをしているのが伝わってくる。
「……よし、開けていいぞ」
合図と共にそっと目を開けた私の視界は、何も変化がない。そう思ったのだけれど、左手に違和感があることに気がついた。
そうして手を持ち上げた私は、薬指に嵌められている細身の指輪を見つける。
「これ……」
「結婚指輪だ。あやかし同士の結婚なら、肌に直接紋様を刻むこともあるんだがな。人間の世界の習わしに従って、あやかしと人間との結婚は指輪を用意する決まりになっている」
「ありがとう……! あの、白緑のは……?」
結婚指輪というのなら、互いに身に着けるものではないかと思ったのだけれど。彼の手元を見ても、指輪が嵌められている様子はない。
「俺の手を取って、愛情を具現化するイメージをしてみろ。依織の力で作り出すことができるはずだ」
「わ、わかった」
私は白緑の左手を握ると、その薬指をじっと見つめながらそこに気持ちを集中させる。自分の中にある愛情が指輪になって、そこに存在する様子を思い描く。
しばらくそうしていたものの、彼の薬指に変化が現れる気配はない。もしかして、私の愛情が足りていないということなのだろうか……?
「ふ……っ、くく」
「……白緑?」
その時、噛み殺したような笑い声が聞こえた気がして顔を上げる。
私に見えないように顔を背けた白緑の肩が、明らかに震えている。もしかするとこれは、騙されたのではないだろうか?
「白緑?」
怒りの気持ちを込めて、もう一度名を呼ぶ。すると観念したように、白緑は私の方を向いた。
その目尻には涙すら滲んでいて、そんなに笑っていたのかとさらなる怒りが込み上げる。
「いや、すまない……ッ、お前が真剣だから、つい」
「からかうなんてひどい!」
「悪かった、謝る。ほら、これが俺の指輪だ。嵌めてくれるか?」
笑う白緑の手元から現れたのは、私のものよりも大きいサイズの指輪だ。
拒絶してやろうかとも思ったけど、それを手に取ると白緑の左手の薬指へと通していく。
彼の悪戯に怒っていたのは本心だというのに、揃いの指輪を目にしたら、喜びの方が勝ってしまった。私は案外、単純な人間なのかもしれない。
「ありがとう、依織」
「次にからかったら、一緒に寝られるのはずっと先になるんだから」
「それは困るな、善処しよう」
「からかわないって選択肢はないの?」
「お前が可愛いから、それは無理な話だ」
軽口を叩き合う、こんな何気ないやり取りも、これからは当たり前の日常になっていく。
幸せだらけの毎日に慣れるには、少し時間がかかるだろうけれど。それもまた、贅沢な悩みだ。
大好きなひとたちのいるこの世界で、私は新しい人生を歩んでいく。
これは私に幸せをくれた、とてもおそろしい妖隠しのお話。
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