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記憶の残滓編
episode222
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フェンリルが町の中に消えて暫くすると、とても美味しそうな匂いが、キュッリッキの鼻先を掠めていった。これは、パンの焼ける匂いだ。
キュッリッキはフラフラと立ち上がると、匂いを辿ってトボトボと歩き出した。パンの匂いに刺激された胃袋が、もう止まらないほど鳴きっぱなしだ。
焼きたての美味しそうなパンが、露天の台の上に山ほど積まれている。温かな湯気がまだたっていて、辺りを香ばしい匂いで包み込んでいた。
それが、露天だということをキュッリッキは知らない。そして、台の上のパンが、売り物であるということも知らなかった。露天など初めて目にするのである。
キュッリッキは必死に手を伸ばし、台の上のパンを手にとった。その時、
「なっ、なんだいこの薄汚い子は!」
痩せぎすの中年の女が、驚いた顔で大声を上げた。
「この私の目の前で、堂々と盗みを働くとか、とんでもない子だよ!」
キュッリッキは唖然として、ただただ女を見上げた。細長い四角いパンを、無意識にギュッと胸の前で抱きしめた。
「大事な商売品を、お返しよ!!」
中年の女は長い腕を伸ばし、キュッリッキの抱きしめるパンを掴み、力いっぱい引っ張った。その拍子に、キュッリッキは前につんのめって、仰向けに地面に倒れてしまった。
「なんの騒ぎだ」
「アンタ」
露天の前に、恰幅のいい男が怪訝そうに寄ってきた。
「この薄汚いガキが、パンを盗もうとしたんだよっ」
「なんだってぇ?」
男は禿げ上がった額を押さえて、ハァ…、と息を吐き出すと、倒れているキュッリッキの横腹を思い切り蹴りつけた。
(!?)
重い衝撃と痛みがいきなり襲ってきて、キュッリッキは目を見開き、そして胃液を吐きだした。目からは涙が弾け飛ぶ。
「このあたりじゃ見かけねえガキだな。どっから流れてきたんだ、この乞食が」
男はもう一度、激しい蹴りを腹に見舞った。
痛みと酷い吐き気で目眩がして、キュッリッキは起き上がることも声を出すこともできない。それ以上に、恐怖に包まれて震えだした。
(こわいよ…、こわいよ…)
「裏のドブ川にでも、捨てときなよ」
「ああ、そうすっか」
男はキュッリッキの襟元を掴んで持ち上げると、小さな左右の頬を何度も平手打ちする。
「テメーの親の代わりに、躾てやる。泥棒は悪いことだってな」
再び強く打ち付けられて、キュッリッキはついに意識を手放した。
「どれ、捨ててくるか」
キュッリッキを片手にぶら下げたまま、男は町の裏に流れるドブ川までくると、キュッリッキの顔にヤニ臭い唾を吐きつけた。
「二度とくるんじゃねえ」
軽々とキュッリッキをドブ川に放り込むと、男は愉快そうにゲラゲラと笑って、町へ戻っていった。
溺死する寸前、駆けつけたフェンリルに助け出され、キュッリッキは命を取り留めた。
(泥棒しちゃったのはアタシが悪いけど、あの時は、悪いことだって、知らなかったんだもん…)
本当に何も知らなかった。誰も、教えてくれなかったから。
(もう思い出したくない……。思い出したくないよ)
キュッリッキの意識は、やがて闇色の中に、ゆっくりと溶け込んでいった。
キュッリッキはフラフラと立ち上がると、匂いを辿ってトボトボと歩き出した。パンの匂いに刺激された胃袋が、もう止まらないほど鳴きっぱなしだ。
焼きたての美味しそうなパンが、露天の台の上に山ほど積まれている。温かな湯気がまだたっていて、辺りを香ばしい匂いで包み込んでいた。
それが、露天だということをキュッリッキは知らない。そして、台の上のパンが、売り物であるということも知らなかった。露天など初めて目にするのである。
キュッリッキは必死に手を伸ばし、台の上のパンを手にとった。その時、
「なっ、なんだいこの薄汚い子は!」
痩せぎすの中年の女が、驚いた顔で大声を上げた。
「この私の目の前で、堂々と盗みを働くとか、とんでもない子だよ!」
キュッリッキは唖然として、ただただ女を見上げた。細長い四角いパンを、無意識にギュッと胸の前で抱きしめた。
「大事な商売品を、お返しよ!!」
中年の女は長い腕を伸ばし、キュッリッキの抱きしめるパンを掴み、力いっぱい引っ張った。その拍子に、キュッリッキは前につんのめって、仰向けに地面に倒れてしまった。
「なんの騒ぎだ」
「アンタ」
露天の前に、恰幅のいい男が怪訝そうに寄ってきた。
「この薄汚いガキが、パンを盗もうとしたんだよっ」
「なんだってぇ?」
男は禿げ上がった額を押さえて、ハァ…、と息を吐き出すと、倒れているキュッリッキの横腹を思い切り蹴りつけた。
(!?)
重い衝撃と痛みがいきなり襲ってきて、キュッリッキは目を見開き、そして胃液を吐きだした。目からは涙が弾け飛ぶ。
「このあたりじゃ見かけねえガキだな。どっから流れてきたんだ、この乞食が」
男はもう一度、激しい蹴りを腹に見舞った。
痛みと酷い吐き気で目眩がして、キュッリッキは起き上がることも声を出すこともできない。それ以上に、恐怖に包まれて震えだした。
(こわいよ…、こわいよ…)
「裏のドブ川にでも、捨てときなよ」
「ああ、そうすっか」
男はキュッリッキの襟元を掴んで持ち上げると、小さな左右の頬を何度も平手打ちする。
「テメーの親の代わりに、躾てやる。泥棒は悪いことだってな」
再び強く打ち付けられて、キュッリッキはついに意識を手放した。
「どれ、捨ててくるか」
キュッリッキを片手にぶら下げたまま、男は町の裏に流れるドブ川までくると、キュッリッキの顔にヤニ臭い唾を吐きつけた。
「二度とくるんじゃねえ」
軽々とキュッリッキをドブ川に放り込むと、男は愉快そうにゲラゲラと笑って、町へ戻っていった。
溺死する寸前、駆けつけたフェンリルに助け出され、キュッリッキは命を取り留めた。
(泥棒しちゃったのはアタシが悪いけど、あの時は、悪いことだって、知らなかったんだもん…)
本当に何も知らなかった。誰も、教えてくれなかったから。
(もう思い出したくない……。思い出したくないよ)
キュッリッキの意識は、やがて闇色の中に、ゆっくりと溶け込んでいった。
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