852 / 882
最終章 永遠の翼
episode789
しおりを挟む
キュッリッキはバスルームに隣接したドレッシングルームでドレスと下着を脱ぎ捨てると、温かい湯気の立つバスルームに飛び込んだ。キュッリッキがいつでも使えるように、すでに湯がはられている。
ふと、湯気でくもった大きな鏡に映った自分に気づいて、キュッリッキは握り拳を作ると、鏡のくもりをゴシゴシと拭う。
じっと見つめていると、鎖骨や肩、よく見ると腕や胸にも、赤い痣のようなものがある。なんだろうと胸にある痣に触れた瞬間、キュッリッキはゾワッと顔を強ばらせ、その場にしゃがみこんだ。
「こ……れ……ベルトルドさん…の……」
あの時、ベルトルドの唇が触れて、激しく吸いたてられた場所。己の所有物と言わんばかりに顕示した証。
「い、いや…」
細っそりした身体がカタカタと震えだし、キュッリッキは両手で腕(かいな)をぎゅっと握り締めた。
つい今しがたまで忘れていた。それをはっきりと思い出し、涙があとからあとから溢れてくる。
思い出した瞬間、ベルトルドの唇や舌が身体をイヤらしく這っていった感触も、そして、身体の中へと入ってきた感触も、全部思い出してキュッリッキはその場に吐いた。
怖くて、怖くて、そして気持ちが悪い。
胃が締め付けられるほど苦しくても、とにかく吐くだけ吐く。そうして涙と吐き気が落ち着いてくると、身体の震えも少しずつおさまってきた。
萎えた足でゆっくり立ち上がると、シャワーのハンドルを倒して湯を出す。吐瀉物を洗い流し、嫌な味のする口内をすすいで、キュッリッキは身体を洗うスポンジを取った。
薔薇の香りのするソープをスポンジに沢山出して、泡をたてると身体を擦り始める。
シャワーを出しっ放しにしているので、泡はすぐに流れてしまう。それでもまたソープをスポンジに出して、身体を擦った。
繰り返し繰り返し、何度も同じことを続けた。もうボトルからソープは出てこない。
「なくなっちゃった……」
ぽつりと呟いたあと、水気を吸ったスポンジで、痣のところを擦りだした。手に力を込めて、ゴシゴシと強く擦る。
「メルヴィンに見られないようにしなくちゃなの」
一生懸命擦った。
「痣を見たら、メルヴィンはきっと嫌な思いをするの」
たとえメルヴィンが許してくれても、これはメルヴィンを裏切った証なのだ。
ベルトルドに身体を与えてしまった証。
「消しちゃうんだから」
必死に擦り続けた。すると、次第に皮膚が赤みを増し、ついには擦り切れて血が滲みだした。それでもキュッリッキは手を止めず、痣のある部分を徹底的に擦り続けた。
「アタシはメルヴィンのものなの……メルヴィンだけのものなんだもん」
主が変わるということで、ベルトルドの私物などは整理され、きれいに掃除されてはいるが、まだベルトルドの残り香のする部屋で、メルヴィンは入浴を済ませてホッと息をついていた。
入浴中にセヴェリが置いていってくれただろうウィスキーをグラスに注ぎ、一口含んでため息をつく。
椅子に座ってベッドの方を見ると、キュッリッキがいきなりベルトルドにキスをして、大騒ぎになったことを思い出して苦笑する。
あれからまだ半年も経っていない。
短い間に、なんと色々なことが起こったのだろう。そのことに思いを馳せ、メルヴィンはベルトルドやアルカネットを失った痛みを、改めて噛み締めた。
今回の件がなければ、彼らは恐ろしくても、頼りになる後ろ盾だった。厳しい言動や態度が多かったが、特にベルトルドの場合は、その中に愛情のようなものも感じられた。
好かれていたのかと思うと気持ちは複雑だが、キュッリッキとのことを認めてもらえていたのだと判ると、亡くしたことが悔やまれてならない。
歳は11離れていて、自分とキュッリッキと同じだ。
おっかないアニキといった感じであり、キュッリッキのためにもまだ生きていてほしかったと、今はそう思えた。
グラスの中のウィスキーを飲み干して立ち上がると、バスローブ姿のまま部屋を出た。
キュッリッキの部屋を出て、かれこれ1時間は経っている。
「待ちくたびれてるかな…」
少し急ぎ足でキュッリッキの部屋へ向かい、ノックもそこそこに部屋へ入ると、まだバスルームからは出ていないようだ。
ソファにある青い天鵞絨張りのクッションの上には、仔犬姿のフェンリルとフローズヴィトニルが、仲良く並んで丸くなっている。
数時間前、巨大化した狼姿の二匹を見ているだけに、なんとなく引き気味になってしまう。
「キュッリッキはまだ出てきていない」
突っ慳貪な口調でフェンリルに言われて、メルヴィンは焦って苦笑った。
「判りました。ありがとうフェンリル」
今回の件があるまでは、言葉も交わしたことがなかった。でも今こうして話しかけてくれるのは、少しはキュッリッキの恋人として、認めてもらえたのだろうか。
ベッドに腰を下ろし、キュッリッキが出てくるのを待っていたが、刻々と時間は過ぎ、あっという間に30分が経った。
「おかしいな…」
いくらなんでも長風呂過ぎる。もしかしたら貧血でも起こしたのではと、急に不安を覚え、メルヴィンはバスルームへ向かった。
ドレッシングルームの扉を開けると、シャワーの音が聞こえてくる。
奥の磨ガラスの向こうには、キュッリッキの姿がぼんやりと見えた。それに安堵して、ドア越しに呼びかける。
「リッキー、あまり長湯をすると身体に悪いですよ。そろそろ出てきませんか?」
しかし返事はなく、シャワーは一定の水音を出したままだ。
「リッキー?」
メルヴィンは眉をひそめると、ドアノブに手をかけた。
「ごめん、開けるよリッキー」
ドアを開けてメルヴィンはギョッとした。
床にぺたりと座り込み、頭からシャワーをかぶったまま、ノロノロと手を動かし身体を洗っている。しかし、その白い肌を伝って、赤い筋がいくつも流れ、湯に溶けて床を流れていく。
「なんてことっ」
メルヴィンは慌ててハンドルを上げてシャワーを止めると、ドレッシングルームにある大きなバスタオルを取って、キュッリッキの身体を包み込んだ。
「リッキー」
キュッリッキは顔を上げると、涙ぐんだ目でメルヴィンを見る。
「アタシは、メルヴィンだけのものなの……ベルトルドさんのものじゃないの」
「リッキー…」
「ベルトルドさんのつけた痣、全部洗うの」
「とにかく出ましょう、身体に障ります」
メルヴィンはキュッリッキを抱き上げると、急ぎ足でバスルームを出た。
ふと、湯気でくもった大きな鏡に映った自分に気づいて、キュッリッキは握り拳を作ると、鏡のくもりをゴシゴシと拭う。
じっと見つめていると、鎖骨や肩、よく見ると腕や胸にも、赤い痣のようなものがある。なんだろうと胸にある痣に触れた瞬間、キュッリッキはゾワッと顔を強ばらせ、その場にしゃがみこんだ。
「こ……れ……ベルトルドさん…の……」
あの時、ベルトルドの唇が触れて、激しく吸いたてられた場所。己の所有物と言わんばかりに顕示した証。
「い、いや…」
細っそりした身体がカタカタと震えだし、キュッリッキは両手で腕(かいな)をぎゅっと握り締めた。
つい今しがたまで忘れていた。それをはっきりと思い出し、涙があとからあとから溢れてくる。
思い出した瞬間、ベルトルドの唇や舌が身体をイヤらしく這っていった感触も、そして、身体の中へと入ってきた感触も、全部思い出してキュッリッキはその場に吐いた。
怖くて、怖くて、そして気持ちが悪い。
胃が締め付けられるほど苦しくても、とにかく吐くだけ吐く。そうして涙と吐き気が落ち着いてくると、身体の震えも少しずつおさまってきた。
萎えた足でゆっくり立ち上がると、シャワーのハンドルを倒して湯を出す。吐瀉物を洗い流し、嫌な味のする口内をすすいで、キュッリッキは身体を洗うスポンジを取った。
薔薇の香りのするソープをスポンジに沢山出して、泡をたてると身体を擦り始める。
シャワーを出しっ放しにしているので、泡はすぐに流れてしまう。それでもまたソープをスポンジに出して、身体を擦った。
繰り返し繰り返し、何度も同じことを続けた。もうボトルからソープは出てこない。
「なくなっちゃった……」
ぽつりと呟いたあと、水気を吸ったスポンジで、痣のところを擦りだした。手に力を込めて、ゴシゴシと強く擦る。
「メルヴィンに見られないようにしなくちゃなの」
一生懸命擦った。
「痣を見たら、メルヴィンはきっと嫌な思いをするの」
たとえメルヴィンが許してくれても、これはメルヴィンを裏切った証なのだ。
ベルトルドに身体を与えてしまった証。
「消しちゃうんだから」
必死に擦り続けた。すると、次第に皮膚が赤みを増し、ついには擦り切れて血が滲みだした。それでもキュッリッキは手を止めず、痣のある部分を徹底的に擦り続けた。
「アタシはメルヴィンのものなの……メルヴィンだけのものなんだもん」
主が変わるということで、ベルトルドの私物などは整理され、きれいに掃除されてはいるが、まだベルトルドの残り香のする部屋で、メルヴィンは入浴を済ませてホッと息をついていた。
入浴中にセヴェリが置いていってくれただろうウィスキーをグラスに注ぎ、一口含んでため息をつく。
椅子に座ってベッドの方を見ると、キュッリッキがいきなりベルトルドにキスをして、大騒ぎになったことを思い出して苦笑する。
あれからまだ半年も経っていない。
短い間に、なんと色々なことが起こったのだろう。そのことに思いを馳せ、メルヴィンはベルトルドやアルカネットを失った痛みを、改めて噛み締めた。
今回の件がなければ、彼らは恐ろしくても、頼りになる後ろ盾だった。厳しい言動や態度が多かったが、特にベルトルドの場合は、その中に愛情のようなものも感じられた。
好かれていたのかと思うと気持ちは複雑だが、キュッリッキとのことを認めてもらえていたのだと判ると、亡くしたことが悔やまれてならない。
歳は11離れていて、自分とキュッリッキと同じだ。
おっかないアニキといった感じであり、キュッリッキのためにもまだ生きていてほしかったと、今はそう思えた。
グラスの中のウィスキーを飲み干して立ち上がると、バスローブ姿のまま部屋を出た。
キュッリッキの部屋を出て、かれこれ1時間は経っている。
「待ちくたびれてるかな…」
少し急ぎ足でキュッリッキの部屋へ向かい、ノックもそこそこに部屋へ入ると、まだバスルームからは出ていないようだ。
ソファにある青い天鵞絨張りのクッションの上には、仔犬姿のフェンリルとフローズヴィトニルが、仲良く並んで丸くなっている。
数時間前、巨大化した狼姿の二匹を見ているだけに、なんとなく引き気味になってしまう。
「キュッリッキはまだ出てきていない」
突っ慳貪な口調でフェンリルに言われて、メルヴィンは焦って苦笑った。
「判りました。ありがとうフェンリル」
今回の件があるまでは、言葉も交わしたことがなかった。でも今こうして話しかけてくれるのは、少しはキュッリッキの恋人として、認めてもらえたのだろうか。
ベッドに腰を下ろし、キュッリッキが出てくるのを待っていたが、刻々と時間は過ぎ、あっという間に30分が経った。
「おかしいな…」
いくらなんでも長風呂過ぎる。もしかしたら貧血でも起こしたのではと、急に不安を覚え、メルヴィンはバスルームへ向かった。
ドレッシングルームの扉を開けると、シャワーの音が聞こえてくる。
奥の磨ガラスの向こうには、キュッリッキの姿がぼんやりと見えた。それに安堵して、ドア越しに呼びかける。
「リッキー、あまり長湯をすると身体に悪いですよ。そろそろ出てきませんか?」
しかし返事はなく、シャワーは一定の水音を出したままだ。
「リッキー?」
メルヴィンは眉をひそめると、ドアノブに手をかけた。
「ごめん、開けるよリッキー」
ドアを開けてメルヴィンはギョッとした。
床にぺたりと座り込み、頭からシャワーをかぶったまま、ノロノロと手を動かし身体を洗っている。しかし、その白い肌を伝って、赤い筋がいくつも流れ、湯に溶けて床を流れていく。
「なんてことっ」
メルヴィンは慌ててハンドルを上げてシャワーを止めると、ドレッシングルームにある大きなバスタオルを取って、キュッリッキの身体を包み込んだ。
「リッキー」
キュッリッキは顔を上げると、涙ぐんだ目でメルヴィンを見る。
「アタシは、メルヴィンだけのものなの……ベルトルドさんのものじゃないの」
「リッキー…」
「ベルトルドさんのつけた痣、全部洗うの」
「とにかく出ましょう、身体に障ります」
メルヴィンはキュッリッキを抱き上げると、急ぎ足でバスルームを出た。
0
お気に入りに追加
151
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

覚悟はありますか?
翔王(とわ)
恋愛
私は王太子の婚約者として10年以上すぎ、王太子妃教育も終わり、学園卒業後に結婚し王妃教育が始まる間近に1人の令嬢が発した言葉で王族貴族社会が荒れた……。
「あたし、王太子妃になりたいんですぅ。」
ご都合主義な創作作品です。
異世界版ギャル風な感じの話し方も混じりますのでご了承ください。
恋愛カテゴリーにしてますが、恋愛要素は薄めです。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ヒロインは始まる前に退場していました
サクラ
ファンタジー
とある乙女ゲームの世界で目覚めたのは、原作を知らない一人の少女
産まれた時点で本来あるべき道筋を外れてしまっていた彼女は、知らない世界でどう生き抜くのか。
母の愛情、突然の別れ、事故からの死亡扱いで目覚めた場所はゴミ捨て場
捨てる神あれば拾う神あり?
人の温かさに触れて成長する少女に再び訪れる試練。
そして、本来のヒロインが現れない世界ではどんな未来が訪れるのか。
主人公が7歳になる頃までは平和、ホノボノが続きます。
ダークファンタジーになる予定でしたが、主人公ヴィオの天真爛漫キャラに ダーク要素は少なめとなっております。
同作品を『小説を読もう』『カクヨム』でも配信中。カクヨム先行となっております
追いつくまで しばらくの間 0時、12時の一日2話更新としております
公爵家に生まれて初日に跡継ぎ失格の烙印を押されましたが今日も元気に生きてます!
小択出新都
ファンタジー
異世界に転生して公爵家の娘に生まれてきたエトワだが、魔力をほとんどもたずに生まれてきたため、生後0ヶ月で跡継ぎ失格の烙印を押されてしまう。
跡継ぎ失格といっても、すぐに家を追い出されたりはしないし、学校にも通わせてもらえるし、15歳までに家を出ればいいから、まあ恵まれてるよね、とのんきに暮らしていたエトワ。
だけど跡継ぎ問題を解決するために、分家から同い年の少年少女たちからその候補が選ばれることになり。
彼らには試練として、エトワ(ともたされた家宝、むしろこっちがメイン)が15歳になるまでの護衛役が命ぜられることになった。
仮の主人というか、実質、案山子みたいなものとして、彼らに護衛されることになったエトワだが、一癖ある男の子たちから、素直な女の子までいろんな子がいて、困惑しつつも彼らの成長を見守ることにするのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる