片翼の召喚士

ユズキ

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奪われしもの編

39)メルヴィンとキュッリッキのキモチ

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 ベルトルド邸に運び込まれてから、もう12日になる。
 優秀な名医であるヴィヒトリの執刀で、通常よりもずっと早く傷口は塞がっていっている。それに食事を少しずつでも摂るようになって、更に治りも早まっていた。
 上半身を起こして枕にもたれていても大丈夫になったキュッリッキは、メルヴィンから桃のコンポートを食べさせてもらっていた。
「左手で食べてみる」と挑戦したが、あまり首がかがまないこともあって、自分で食べることは断念した。

「利き手がずっと塞がってると、やっぱ不便」

 化物に切り裂かれた胴の右側は、腕ごと包帯でガッチリ固定されて動かせないでいる。しかしあともう2,3日我慢すれば、包帯は取ってもいいとのことだった。

「そうですね。でも、治りが早くて本当に良かったです」

 メルヴィンはにっこり微笑みながら、空になった皿をワゴンに置いて、まだほんのりと温かい紅茶のカップを取って、キュッリッキの左手に持たせた。

「こうして身体も起こせるようになったし、元気が出ればもっと早く治りますよ」

 ちょっと躊躇うように言うメルヴィンに、キュッリッキは苦笑を向けるにとどめた。
 相変わらず夜中に目を覚まして泣き喚いたりすることがあり、朝にはぐったりとしてしまっているのだ。そのことをメルヴィンは暗に言っている。理由もずっと話せずにいるが、こうして心配し続けてくれていることはとても嬉しかった。



「メルヴィンって優しいなあ…」

 空の食器を片付けに行っているので、部屋の中にはキュッリッキしかいない。ルーファスはこのところ、午前中は部屋で寝ている。
 なんでも、夜中にやしきのメイドと大人の付き合いがあるそうだ。それがどんな付き合いなのかキュッリッキには判らなかったが、ルーファスはいつもご機嫌なので、きっと楽しくゲームでもして遊んでいるんだと想像していた。
 その為午前中は、ほぼメルヴィンだけがキュッリッキの傍に居てくれる。

「改めて思い起こしてみると、このやしきに来てからずっとそばで励まし続けてくれてるんだよね。あのナルバ山の遺跡で倒れている時も、左手を握って励ましてくれていたし。身体が氷のように冷えていく中で、メルヴィンが握ってくれていた左手だけが唯一優しくってあったかかったな」

 手に今でも残るメルヴィンの感触ぬくもり

「メルヴィン…」

 その名を囁くように呟く。すると、心がちょっとドキドキとした。頬にもじんわりと熱が広がる。

「そういえばアタシ、メルヴィンのことなんにも知らないかも」

 それを思うと、急に心が寂しくなった。ライオン傭兵団に入ってまだひと月あまりだ。ただ、優しい人だということだけは判っている。

「もっと、メルヴィンのこと知りたい」

 誰かのことを知りたい、と思ったことが、実は初めてだということにキュッリッキは気づいていなかった。



「戻りました」

 食器を片付けに行っていたメルヴィンが戻ってきて、キュッリッキの心臓が一瞬ドクンッと跳ねた。

「お、おかえりなさいっ」

 なんだか慌てた物言いと、妙に赤らんだ顔で出迎えられて、メルヴィンは小さく首をかしげる。

(び、びっくりしちゃったのっ)

「もっと、メルヴィンのこと知りたい」などと言っていたら当人が戻ってきたので、聞かれたんじゃないかと内心焦っていた。

「顔が赤いですよ。熱でもあるのかなあ」

 メルヴィンはそう言いながら、キュッリッキの額に大きな掌をあてる。

「んー、ちょっと熱いけど、大丈夫ですか? 身体を起こしてるとまだまだ辛いのかな。横になりますか?」

 顔を覗きこまれて、キュッリッキは首を横にブンブン振った。その拍子に傷口に響いて顔が歪む。

「だいじょうぶなの!」

 モロ痛そうな顔で「だいじょうぶなの!」と言われても、そう内心で思いながらも、メルヴィンは身体を起こしてベッドの傍らの椅子に座る。

「横になりたい時は、すぐ言ってくださいね」
「うん、ありがとう」

 キュッリッキは心の中で、大仰に溜息をついた。

(アタシ、何をそんなに慌ててるの…。ヘンなの)

 チラリとメルヴィンを見ると、穏やかな表情で新聞を広げて読んでいる。
 このやしきでは、新聞はアルカネットが一番最初に読んで、それから執事代理のセヴェリが必要欄だけ目を通す。ベルトルドは「出仕したら大量の書類を読まねばならんのに、出仕前に細かい文字の羅列なんか読む気になれん!」と言って全く読まない。それで最近ではメルヴィンが新聞を借りてきて読んでいた。
 背筋を伸ばし、長い脚を組んで新聞を読む姿が素敵で格好良い。そんな風に思って、キュッリッキは更に顔を赤くした。

(ばっ、やっぱりアタシの頭の中、ヘンになっちゃったかもっ! 今までドキドキしながら誰かのことをこんなに意識するなんて一度だってなかったのに。急にアタシ、どうしてしまったのかなっ)

 意味もなくジタバタしたい衝動に襲われた。

(ヘンっ! ヘンっ! ヘンなのっ!!)

 キュッリッキは左手をギュッと握ると、ベッドをポスッと叩いた。

「ん? どうしました?」

 新聞から顔を上げたメルヴィンと目が合ってしまい、キュッリッキは笑顔と焦りを同居させた奇妙な表情をした。

「ううううんっ、なんでもナイの!」
「そ、そうですか…」

 挙動不審、という言葉がメルヴィンの頭を過ぎったが、必死に否定してくるので小さく頷いた。深く追求したら物が飛んできそうな雰囲気なのだ。

(女の子は難しい生き物)

 新聞の続きを読むために、メルヴィンはそう自己完結してしまった。
 難しい生き物にされてしまったキュッリッキは、

(穴があったら、入りたいの…)

 ジワジワと恥ずかしさがこみ上げてきて、ガックリとショートしてしまっていた。



 昼食をとるためにメルヴィンが部屋を出て行くと、キュッリッキはホウッと切なげに息を吐き出した。
 長椅子に置かれた青い天鵞絨張りクッションの上に寝そべっていたフェンリルは、身を起こしてクッションから飛び降りた。そしてゆっくりとベッドに歩み寄ると、ヒョイっとベッドに飛び乗る。

「フェンリル…」

 仰向けに横たわるキュッリッキの胸に飛び乗ったフェンリルは、頭でキュッリッキの顎を小突く。「なに悩んでるんだ」と言いたげな仕草に、キュッリッキはムゥっと口をへの字に曲げた。

「なんかアタシ、ヘンになっちゃった」

 左手の人差し指で、フェンリルの小さな頭をクリクリと弄る。それを嫌がるように、フェンリルは全身を大きく振った。

「メルヴィンのこと考えるとね、胸がドキドキしたり、恥ずかしくなったりするんだよ。近くにいるとソワソワするし、いなくなるとガッカリしたり…。前はそんなことなかったのに、最近そうなっちゃうの。何でかなあ?」

 フェンリルはフンッと鼻を鳴らす。「そんなの知るか」と言いたげだ。キュッリッキは「あーあ」と呟く。

「こんなの初めてだから、ワケワカンナイ。しんどいし、疲れちゃった…」

 拗ねたように唇を尖らせ、左手の甲を額にあてた。考えれば考えるほど、気が重くなっていった。

「色んなことありすぎて、きっと壊れちゃったんだね、アタシ」



 キュッリッキが”ワケワカンナイ悩み”にモヤモヤしている頃、ベルトルドは激しい睡魔と戦っていた。
 かれこれ12日以上も睡眠不足が続いている。「人間無理が利くもんだ」などと胸中でぼやく。

(せめて、昼寝できればまだいいんだが…)

 減る気配のない書類の山にイラッとするものを感じ、デスク前に立つ下級士官を険悪な目つきでギロリと睨みつけた。睨まれた下級士官は訳が判らず、背中で大量の冷や汗を流しまくる。
 今日は総帥本部の執務室で、軍関係の仕事に従事していた。ここでの仕事が終われば、次は宰相府である。
 現在水面下で進んでいるとある計画に関連して、軍関係の仕事の量がどんどん増えていくのだ。そのせいで、昼食をとる休憩時間も返上だった。

(ああ、眠い…)

 分刻みの仕事が夜更けまで続くこともあり、真夜中はキュッリッキのことでちょくちょく目を覚まし、身体を休める暇もない。休日も返上で働いていて、顔色も悪く、目の下には隈が住み着いていた。

「ベル」
「ん?」
「ちょっと休む? さすがに顔色悪くて心配だわ」

 傍らで書類整理を手伝っていたリュリュが、心配そうに眉を寄せる。

「…いや、大丈夫だ」

 本当は今すぐにでも寝たいところだったが、寝ると朝まで起きない気がしていた。なので気が抜けない。

「そお? 心臓発作起こさない程度になさいね」
「ンなもんならんわっ!」

 フンッと気合の鼻息を噴き出し、ベルトルドは書類にペンを走らせた。


* * *


 近いうち大規模に軍を動かすことが予定されていることもあり、正規部隊は頻繁に演習を行っていた。
 軍総帥ともなるとデスクの前に座して、書類だけさばいてればイイというわけにもいかない。その為総帥の地位を押し付けられてしまったベルトルドは、仕上がり具合を見るべく演習の視察に出向いていた。

「3年前のヘタレっぷりを見ているからな、あんな腑抜けどもを出陣させるのは気が気じゃない。正式に出撃するまでまだ日もある。存分に心ゆくまで、トコトン徹底的に、しっかりしごいて仕上げておくように」

 言い含めるように、を通り越し、脅迫するような口調で釘を刺す。

「承りました、閣下」

 にこやかに応じて、ブルーベル将軍は恭しく一礼した。第一正規部隊のエクルース大将と第二正規部隊のアークラ大将も、同時に敬礼して表情を固くした。
 ベルトルドの言う3年前とは、両大将とも骨身に滲みて判っている。あの場にはアルカネットもいて、2人の鬼神の如き暴れっぷりに、開いた口が塞がらないほど驚いたのである。
 これで3年前より出来が悪かったら、その場で全員粛清されかねないのだ。
「この穀潰しの役立たずどもめがー!!」というベルトルドの怒号が脳内に幻聴のごとく轟いて、エクルース大将はゲッソリと内心溜息をついていた。指揮する大将たちも一切手を抜けない。
 Overランクの〈才能〉スキルを持つベルトルドの超能力サイは、正規部隊全てを投入しても易易と退けるだけの力があると言われている。3年前その力の程を散々見せつけられて、しかも本気を出していなかったと言う。本気を出したらと思うと想像を絶するレベルである。
 そんなベルトルドが仕上げろというのだから、毎日血反吐を撒き散らし、全力で訓練を積まなくては期待に応えるのは難しいだろう。

「それにしても…、陽射しが強いな」

 空を仰ぎ見て、ベルトルドは目を眇める。額のところに左手を翳して、カンカンと照りつける陽射しを避けた。寝不足の身体には、この陽射しはキツイ。
 皇都イララクス郊外にある正規部隊の演習場の一つは、だだっ広い荒野があるだけだ。むき出しの地面はヒビ割れ乾いており、そよ風が吹いただけで砂塵が舞う。地平線には陽炎が揺らめいていた。
 もう6月も半ばを過ぎており、本格的な夏は目の前だ。
 足が重く感じられて座りたくなり、仮設テントに戻ろうとした瞬間、不意に身体がグラリと傾いで目の前に闇が射す。

「いかん、目の前が…」

 呟くように言うと、ベルトルドは突然昏倒してしまった。

「ベル!?」

 ドサッと俯せに倒れたベルトルドに、リュリュは悲鳴を上げた。ブルーベル将軍たちもギョッと目を剥いて慌てて跪く。

「閣下!」

 ブルーベル将軍がベルトルドを抱き起こしたが、意識を失っている。その様子に辺りは一気に騒然となった。

「ベル、ベルッ!」

 いつになく取り乱したリュリュは、悲痛な声で呼びかけた。ベルトルドは血の気を失った顔色でピクリとも動かない。それに負けないくらいリュリュの顔も蒼白になっていた。
 この頃顔色が悪く寝不足続きだと言っていた。それ以外は特に不調を訴えていなかったので、まさかこうして倒れることになるとは思っていなかったのだ。

「無理するからよ! 見かけは若いけど、もうアラフォーのオッサンなんだから。若いつもりでも無理が効かなくなってくるお年頃なのよ、もぉ。――あんまりにも目を覚まさないと、覚ますまで暴れん棒をしゃぶりつくすわよ!」

(それはヤメてあげてっ!)

 そうエクルース大将とアークラ大将は、心の中で搾り出すように叫んだ。
 リュリュのお仕置きシーンは、過去何度か目撃している。その時のことを思い出すと、同じ男として悲劇としか思えない。お仕置きにさらされているベルトルドには、同情しか湧いてこないのだった。

「さしあたって深刻な病気を患っているというわけではなさそうですし、とにかく病院へお運びしましょう」

 ブルーベル将軍は軽々とベルトルドを両腕に抱き抱える。その言葉に2人の大将はハッとなった。

「至急、こちらに車を回せ!」

 エクルース大将は慌てて副官に命じる。

「演習の指揮は小官とエクルース大将で引き継ぎます。将軍とリュリュ殿は、閣下と病院へお急ぎください」
「お願いしますよ」

 アークラ大将に頷いて、ブルーベル将軍はベルトルドを抱え車に乗り込んだ。

「あとは任せるわ」

 リュリュも続いて乗り込むと、運転手の士官がドアを閉めた。
 電力を使って動かす車である。皇王一族、宰相、副宰相のみが使用を許される特別公用車だ。
 超古代文明の遺産なので数がとても少なく、公用のものが数台あるだけだ。ハーメンリンナに住む貴族たちですら、車は所有していない。
 シュイーンというエンジン音を響かせながら、車は演習場をあとにした。


* * *


 キュッリッキの寝ているベッドの傍らに座り、メルヴィンは不機嫌を露骨に貼り付けた顔で己の膝を睨みつけていた。
 規則正しい寝息をたて寝ているキュッリッキの顔には、明らかな疲労感が漂っている。目元も腫れているし、今日もまたこの様子だ。
 ベルトルドのやしきにきてから、今日で2週間になる。キュッリッキの怪我も順調に快方に向かっていた。この数日で半身を起こして過ごすことも出来るようになっている。それなのに、いつまでもこの様子なのだ。
 こんな風になっている原因をいまだベルトルドたちから聞き出すことも出来ず、キュッリッキも話そうとしない。

(仲間になってまだ日も浅いけど、少しでもなにか話してほしい)

 愚痴でもいいし、話せばすっきりすることならいくらでも聞く。そのために自分はここにいるのだから。
 毎日それとなく言うのだが、キュッリッキは困ったように小さく微笑むだけで、口を閉ざしたままだ。

(一体、何に苦しんでいるんだろう…)

 それも判らない。頼ってもらえない寂しさもあってメルヴィンの機嫌を損ねていた。

「メルヴィン…」

 か細い声で名を呼ばれ、メルヴィンは弾かれたように顔を上げた。
 ベッドに顔を向けると、不安そうに見つめてくるキュッリッキの視線とぶつかる。

「起きたんですね。気分はどうですか」
「……うん、大丈夫だよ」

 おっかなびっくりといった声音に、メルヴィンは首を傾げた。

「なんだか怒ってる感じがするから…、ちょっと怖い、かも」
「あ…」

 メルヴィンは咄嗟に顔に手をあてると、頬を軽く叩く。

「すみません、考え事をしていたから」

 そう言って苦笑を浮かべる。

「考え事?」
「……あなたのことを、考えていました」
「アタシのこと?」

 キュッリッキは思わずドキリとした。

(なっ、何を考えてくれていたんだろう)

 それを思うと心が妙にザワザワとして、でも嬉しさがこみ上げてきた。
 目を見張って見つめてくるキュッリッキから目をそらし、メルヴィンは再び膝に視線を落とした。

「もっと、頼ってほしいなと…、思ってるんです」

 穏やかな口調だが、どことなく拗ねた響きがある。実際メルヴィンは拗ねていた。
 その言葉に、キュッリッキは萎れたように目を伏せた。
 毎日のように遠まわしに問われている。夜中、何があったのかと。
 メルヴィンの気持ちは痛いほど感じている。こんなにも真剣に心配してくれているのだ。それが判っているのに、本当のことを話す勇気がまだ出せないでいた。
 ベルトルドとアルカネットは、あらかじめ自分のことを知っていた。それでいて、惜しみない愛情を注いでくれる。だから全てを包み隠さずさらけ出すことができた。

(メルヴィンは何も知らない。過去のことも、自分がアイオン族であることも。そして、片方しかない翼のことも)

 もしこれらのことを話せば、彼はどう思うのだろうか。
 ライオン傭兵団の中では、メルヴィンが一番話しやすい。優しくて格好良いし、一緒に居て嫌じゃない。それでも全面的に信用するのはまだ無理だった。

(隠していることを全部打ち明けたら、優しくしてくれなくなるかもしれない。そして嫌われるかもしれない。嫌われたくない…)

 メルヴィンに嫌われるのは、絶対イヤだった。それで話すことが怖い。そのことがかえって、メルヴィンにはいらぬ心配をかけさせていることも判っているのだ。

(もっとメルヴィンのことが判れば、話すこと出来るの、かな…)

 それもあるだろう。しかし、

(嫌われちゃっても、平気でいられるくらい、アタシが強くなれば大丈夫なのかもしれない)

 きっと後者のほうだろうとキュッリッキの心は判っていた。

(人のせいにしないで、自分が強くさえあれば堂々と話せるはずだよね。今すぐには無理だけど)

 キュッリッキは左手をシーツの中から出すと、メルヴィンにそっと伸ばした。
 自分に伸ばされた細い手に気づいて、メルヴィンはそっと両掌で包み込む。この2週間で一回り小さくなった頼りなげな手がほのかに温かい。

「アタシね、昔、イヤなことがいっぱいあったの。それをずっと思い出さないようにしていたのね。でも最近、毎日夢に見て、思い出しちゃって…」

 そのことで夜中に泣いたりしているのだと、暗に告げた。

「でね、もうちょっとだけ時間くれる? メルヴィンにもルーさんにも、傭兵団のみんなにもちゃんと話すから。話せる勇気が持てたら、絶対に話すから」

 必死に言うその表情かおを見て、メルヴィンは表情を和ませた。

「はい。勇気が出るまで、待っています」
「ありがと」

 心が伝わったと感じ、キュッリッキはホッとしたように微笑んだ。

「あの山の遺跡でみんなが助けに来てくれたとき、メルヴィンずっと、アタシの手を握ってくれてたでしょ」
「ええ」
「あったかくて、嬉しかったんだよ」

 出血が酷く体温も下がる中で、メルヴィンが握ってくれていた左手に感じる温もりが、とても嬉しかった。安心できた。

「ここにきても、ずっとそばにいてくれてありがとう。だから、メルヴィンには一番に話すから、もうちょっと待っててね」
「そう思っていてくれて、オレのほうが嬉しいですよ。毎日催促するようなことをして、すみませんでした」

 メルヴィンは心の中にわだかまっていたものが、ほぐれていくような感じがしていた。
 血だまりの中で、息も絶え絶えになっているキュッリッキを見たとき、魔法〈才能〉スキルも医療〈才能〉スキルも持たない自身が心底腹立たしかった。できることは傍にいて励ますくらいで。今も傍にいることしか出来ないでいる。
 しかし傍にいることがキュッリッキにとって少しでも慰めになっているのなら、無駄ではないのだと、メルヴィンは救われた気持ちになっていた。

「少し外の空気を吸いませんか? 天気もいいし、庭のバラが綺麗ですよ」

 気持ちを切り替えるように、メルヴィンは明るく言った。

「ベッドから出ても、大丈夫なの?」
「ええ。ヴィヒトリ先生の許可は、もらっていますから」

 パッとキュッリッキの顔も明るくなった。怪我をしてからずっと、外には出ていないのだ。

「そうなんだ。じゃあ、バラ見たい」
「はい」

 傷に触らないように気をつけながら、キュッリッキをそっと抱き上げる。

「うーん、前より更に軽くなりましたねえ。もっと食べないと」
「うっ。だって、動いてないからお腹空かないんだもん」

 首をすくめるキュッリッキを見ながら、メルヴィンは苦笑した。
 とても華奢な身体だが極端に軽いのだ。同じ年頃で華奢な体格をした少女でも、もう少し重いはずだ。
 キュッリッキがアイオン族であることは知らない。アイオン族は空を翔ぶことができるせいか、肥満とは疎遠な体質の種族である。どんなに食べても太らない。そしてヴィプネン族と比べると、見た目は似ていても体重には大きな差があった。
 ヴァルトなど身長は2メートル近くあるが、体重は30キロ前後しかない。筋肉も増やすのに苦労をしている有様だ。キュッリッキは20キロ程度しかない。今は殆ど食べないので、ますます体重は減っていた。
 メルヴィンはバルコニーに出ると階段を降りた。
 キュッリッキの部屋のバルコニーには、庭に降りるための階段が特別に付けられているのだ。元からそう造られていたらしい。

「おひさまの光、気持ちいいね。眩しいくらい」

 久しぶりの外の空気は清々しく気持ちが良かった。庭には沢山の緑や花が溢れている。空気がとても澄んでいた。
 やしき同様広い庭の一角にはバラ園があり、全体を真っ白なバラが包み込むように咲き誇っていた。その白バラに囲まれ、特別に作らせたと言われる淡い青紫色のバラも美しく咲いていた。

「アタシね、青い色が大好きなんだけど、ベルトルドさんとアルカネットさんも青色が大好きなんだって」
「この青紫色のバラも、それで作らせたそうですよ。リトヴァさんから聞きました」
「なんか、おやしきの中とかこのバラとか、あの2人徹底してるね」

 クスッと笑うキュッリッキに、メルヴィンもつられて笑い返す。バラ園の中には白と青紫色のバラだけで、赤やピンクや黄色のバラはなかった。

「この青紫色のバラ綺麗だなあ~。1本だけもらっちゃっても平気かな?」
「リッキーさんが欲しいなら、全然構わないと思いますよ」

 ここにあるバラ全部欲しいと言っても、あの2人なら反対することは絶対ない。そうメルヴィンは確信していた。

「えへへ、じゃあ1本だけ」

 キュッリッキは半分咲きかけた花を選び、ポキッと少し長めに茎を折った。
 キリッとした美しい輪郭は、どこかベルトルドやアルカネットを彷彿とさせる。あの2人にはよく似合う花だなと思った。

「部屋に戻ったら、一輪挿しの花瓶を借りてきますね」
「うん」

 暫く庭を散策してやしきのほうへ戻ってくると、何やら使用人たちが慌ただしく走り回っている姿が窓ガラス越しに見える。普段静まり返っているやしきの中が騒然となっていた。

「なんだろう、なにかあったのかな?」
「うん、みんな走り回ってるね」

 2人が不思議そうに首をかしげていると、ルーファスがテラスに出てきて、2人に向けて手を振っていた。

「どうしたんですか?」

 キュッリッキを抱いているので走るわけにもいかず、メルヴィンは大股でルーファスのところへと寄る。

「ちょーびっくりの大ニュースだよ! あの傲岸不遜の御仁が、軍の訓練を視察中にぶっ倒れて病院担ぎ込まれたって! その連絡があってもうやしき中大騒ぎだよ」

 心配するどころか好奇心丸出しの、興味津々満面の笑顔でルーファスはまくし立てた。

「――あの人でも倒れることがあるんですねえ」

 複雑な表情を浮かべながら、メルヴィンがしみじみ呟く。病気すら近寄るのを拒みそうなイメージしかないからだ。「人間だったんですね」とは心の中で呟く。
 2人の薄情な態度とは裏腹に、キュッリッキの身体が小刻みに震えだした。手に伝わってくる微かな震えに、メルヴィンは腕の中のキュッリッキを見る。

「ベルトルドさんが、入院って……」

 掠れるように言い、それ以上は喉が詰まったように言葉が続かない。顔をこわばらせて俯いた。

「詳しいことは判んないけど、これからセヴェリさんが病院へ行くって言うから、オレ一緒に様子見に行ってくるよ」

 着替えやら何やらを、持っていく必要があるのだろう。

「病院のほうで、アルカネットさんも合流するみたい。ベルトルド様がぶっ倒れたんじゃ、行政も軍も大騒ぎだね、これ」
「そうですねえ。皇王や宰相が倒れても、あんまり…ですし」
「国を司ってるのって、ベルトルド様だもんね~、事実上は」

 そこへメイドの一人がルーファスを呼びに来た。

「セヴェリさん、準備できたのね~」
「しっかり見舞ってきてください。こちらは大丈夫ですから」
「おう、じゃあちょっと行ってくるネ。――あんまり心配するんじゃないよ、キューリちゃん」

 ルーファスはキュッリッキに明るく笑ってみせて、やしきの中に駆け込んでいった。

「仔細は判りませんが、きっと大丈夫ですよ。そんなに心配すると、身体に触りますから」

 すっかり元気が消え失せてしまったキュッリッキに、メルヴィンは努めて笑顔を向ける。

「部屋に戻りましょうか」
「うん…」

 キュッリッキは小さく頷くと、手に握った淡い青紫色のバラの花を、ぎゅっと胸に抱き寄せた。
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