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奪われしもの編
33)広がり続ける不安な心
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そろそろ8時になろうかという頃、ノックがしてゾロゾロと女性たちが入ってきた。
「お目覚めでございますか? おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
初老に差し掛かった風貌の女性と、まだ20代くらいの女性たちが数名、キュッリッキに向かって朝の挨拶をした。
「お、おはよう…」
きょとんっとした表情で、キュッリッキはぎこちなく挨拶を返す。
(お嬢様って……アタシのこと?)
「ご気分は如何でしょうか。どこか、お苦しいところなどございませんか?」
慇懃に訊ねられて、キュッリッキは小さく首を振る。
「えっと、ドコも苦しくないよ」
「それは、ようございました」
老婦人はニッコリと微笑んだ。
「わたくしは、この邸でハウスキーパーをつとめております、リトヴァと申します。今日からお嬢様の、お身の回りのお世話をさせていただきます」
そういって丁寧に頭を下げた。
「後ろにおりますメイドたちも、共にお世話をさせていただく者たちです。どうぞ、なんなりとお申し付けくださいね」
メイドたちも、一人一人名乗りながら頭を下げた。
しかしキュッリッキは文字通り、ぽかーんと口を開けて固まってしまった。その表情を見てリトヴァが首をかしげる。
「どうかなさいましたか? お嬢様」
「え…、えっと…」
表情とは裏腹に、キュッリッキの頭の中は忙しく回転していた。
(やっぱりアタシがお嬢様って呼ばれてる、なんでだろう? ココってドコなのかな…。ベルトルドさん隣に寝てたから、もしかしてココって…)
「あ、あの」
「はい」
「あの、ココって、ベルトルドさん…ち?」
おっかなびっくり問うと、リトヴァは明るく笑んだ。
「さようでございます」
身体が元気であれば、飛び上がって驚くところだ。
キュッリッキの驚いた様子に、リトヴァは小さく頷く。
「昨日、お邸にいらしたときから、お目覚めになっていなかったのですね。――ここはベルトルド様のお邸でございます。そしてこのお部屋は、お嬢様のためにご用意されたものでございますよ。お気に召すと良いのですけれど」
「うん、とっても素敵なお部屋だね」
「旦那様もアルカネット様も、お喜びになりますわ。ここは、南棟の2階にあるお部屋でございます。お邸の中でも陽当りも風通しもいい、お身体を癒すには最高でございます。旦那様とアルカネット様が、慎重に検討なされてご用意しておりましたから…」
語尾がやや小さくなり、リトヴァと背後のメイドたちの表情が何とも言えないモノになってく。その様子にキュッリッキは不思議そうに首をかしげた。
家具やベッドの配置、インテリアに至るまで、あの2人が喧しいほど注文をつけて寸分の狂いもなく使用人たちにやらせたということは、キュッリッキは生涯知ることはない。
脳裏によみがえる記憶を振り払うように「ハァ」と小さくため息をつくと、リトヴァは「失礼いたします」と言って、キュッリッキの額に触れた。
「お熱の方もすっかり下がっているご様子、お医者様がお見えになる前に、お支度をしてしまいましょうね」
「支度?」
「はい。お身体を拭いて、お着替えを済ませてしまいましょう」
部屋に簡素なベッドが運び込まれ、キュッリッキはそのベッドの上に寝かせられた。
運んだのはリトヴァだが、超能力を使って丁寧に運んでくれた。リトヴァもベルトルドと同じように、〈才能〉は超能力のようだ。
そして若いメイドたちに寝間着と下着を脱がされると、恥ずかしいと思う間もないほど素早く、温かいタオルで身体を丁寧に拭いてもらった。香料の入ったお湯なのだろう、ふんわりとバラの香りが気持ちが良い。
「どこか、お痒いところなどございませんか?」
アリサと名乗ったメイドが訊ねてきて、キュッリッキはダメもとで訴えてみた。
「えっと、頭が痒いの…」
尻すぼみになりながら言うと、アリサはにっこりと笑ってリトヴァに頷いた。
「判りました。では、頭と髪も洗って差し上げましょうね」
怪我に響かない姿勢で身体が浮くと、メイドたちは丁寧に頭と髪を洗いにかかった。シャンプーもバラの香りがして、キュッリッキの表情がホッと和む。
実はずっと、頭を洗いたくてしょうがなかったのだ。痒かったし臭うしで、怪我や熱に苦しみながらも、そのへんもちょっと思っていたから、これはとても嬉しい。
キュッリッキの表情を見て、アリサはクスッと笑った。
「女の子ですものね」
何を考えているか判ったのだろう。キュッリッキは頬をちょっと赤らめ、苦笑で返した。
頭も髪も綺麗に洗ってもらって、そのあと熱風が髪を揺らしてキュッリッキはビックリする。
「これはドライヤーというものです。すぐに髪が乾きますよ」
「うわあ…」
電気エネルギーで動くものだと言われて、更にビックリする。
電気というものは、一般人には無縁と言っていいものである。ハーメンリンナの中では当たり前のように使われているエネルギーで、ハーメンリンナの外では、公共施設や病院、一部の地域だけしか供給されていない。
「便利な道具なんだね」
「本当でございますよ。ハーメンリンナの外では、馴染みがありませんもんね」
苦笑気味に言うアリサに、キュッリッキはウンウンと頷いた。
髪を乾かしてもらったあと、ブラッシングもしてもらって、新しい下着と寝間着を着せてもらい、ベッドに寝かせてもらった。枕カバーやシーツも新しいものになっている。
「お疲れ様でございました。後ほどお医者様がお見えになりますので、それまでどうぞ、ゆっくりおやすみくださいませ。他に、なにか欲しいものなどございますか?」
「んーん、何もないよ、ありがとうみんな」
リトヴァとメイドたちは丁寧に頭を下げ、そして部屋を出て行った。
頭からつま先まで綺麗になって、キュッリッキは気持ちが良かった。そしてホッとしていると、またノックがしてリトヴァが顔を見せた。
「お医者様がお見えになりました」
リトヴァの後ろから、金髪の若い男が入ってくる。
「やあ、今日は顔色がいいね。良かった」
男は白衣を翻させて、ベッドの脇の椅子に座る。
「改めて初めまして。ボクはヴィヒトリ、君の主治医になったんだ。ヨロシクね」
「よろしく」
僅か引き気味に、キュッリッキは小声で挨拶を返した。
まだ20代前半くらいの、年若い男だ。
胸元くらいまである金の髪は、キュッリッキの金髪よりやや濃い色をしている。青い瞳を埋め込んだ切れ長の目、そこに少し太めの黒縁のメガネをかけていた。
感じのいい笑顔を貼り付けているので、親しみやすい印象があった。
ただ、キュッリッキは人見知り体質である。相手が医者だろうと使用人だろうと、初めて言葉をかわすときには、どうしても距離をあけてしまう癖がある。わざとそうしているんじゃなく、自然とそうなった。
さきほどリトヴァやメイドたちは、いきなりのことだったし、身体も綺麗にしてもらえて心が緩んでいた。それに同性同士なのもあって、男性よりはまだ話はしやすい。
ヴィヒトリはキュッリッキの様子を見て、
「キュッリッキちゃんは、人見知りする子なんだね」
そう言って、意地悪っぽく笑った。
「う…」
図星だから否定しようがない。離れたところで様子を見ていたリトヴァは、思わず吹き出してしまっていた。
「まあ、これから毎日顔を合わせることになるから、人見知りしてるヒマなんてないヨ。だから安心するんだ。さ、診察、診察」
ヴィヒトリはサクッと断言して、カバンからカルテを出してペンをとった。
診察と手当が終わると、ヴィヒトリは点滴の用意をして、キュッリッキの細っそりした腕に針を刺した。
「痛くないかな?」
「うん、平気」
「ちょっとばかし軽い脱水症状になってるから点滴している。――終わったら、針の抜きかた判ります?」
ヴィヒトリは後ろに控えるリトヴァを見る。
「はい、存じ上げております」
「じゃあ、終わったら片しといてね」
「承りました」
「とにかく熱が下がって良かった。もうこれからは治るダケだから、安心してイイヨ」
キュッリッキの頭を優しくポンッと叩いて、ヴィヒトリは立ち上がった。
「また明日ね、キュッリッキちゃん」
「ありがと、先生」
手を振ってヴィヒトリはドアへと向かう。
「失礼致します」
キュッリッキに頭を下げて、リトヴァはヴィヒトリに続いて部屋を出ていった。
急に部屋が静まり返り、キュッリッキは時計に目を向ける。
もう10時になろうとしていた。
キュッリッキは再びしょんぼりすると、表情を一気に曇らせた。
せっかくよくしてもらったのに、明日にはここを追い出されるのだ。ああしてリトヴァやメイドたちが世話を焼いてくれたが、それはきっと、ベルトルドが言い忘れただけなのだろう。
動かない身体は、アルケラの子たちに助けてもらえばハーツイーズに帰れる。ハドリーやおばちゃんたちは驚くだろうが、怒らせてしまったのだからしょうがない。
「もしかしたら今夜にでも追い出されるかも」
そう思うと更にガッカリして、ベルトルドに謝る機会はあるのか不安になった。
シーツに顔の半分を埋めてぼんやりと落ち込んでいると、ノックがして、メルヴィンとルーファスが顔を出した。
「おはよう、キューリちゃん」
「おはようございます、リッキーさん」
「ルーさん、メルヴィン」
ラフな普段着姿のルーファスとメルヴィンが、笑顔で部屋に入ってきた。
「意識が戻って良かったです、本当に」
安堵を浮かべた顔で、メルヴィンはホッと胸をなで下ろす。それに「うんうん」と頷いて、ルーファスはニッコリと笑った。
「熱も無事下がったんだってね。ずっと苦しそうだったから安心したよ。顔色もイイね」
愛嬌のある笑みを向けられて、つられたようにキュッリッキも微笑み返す。
「今の気分はどうですか? 辛いところや痛いところなどありませんか?」
ルーファスの隣に立ったメルヴィンが、心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫だよ」
「そうですか、良かった」
「さっき、リトヴァさんてひとがきて、身体拭いてもらって、頭も洗ってもらったの。だからすっきりしてる」
「なるほど~」
「女の子だもんな。身だしなみは気になるよねえ」
「うん」
「ここで厄介になってるあいだは、毎日世話しにやってくるぞ」
ベッドの端に腰をかけたルーファスは、ややうんざりしたように肩をすくめた。
「まあ、怪我が治るまでは、お嬢様生活を満喫するといいさ」
「本物のお嬢様って、毎日あんな調子でメイドが全部してくれるの?」
「ハーメンリンナに住んでるお嬢様は、それが普通さ」
「……そうなんだ」
今は自分で動けないので、世話を焼いてもらえるのは助かるが。でも、毎日あんなにゾロゾロ押しかけられたら、鬱陶しいと思わないのだろうかとキュッリッキは呆れてしまう。
お嬢様をやるのもタイヘンなんだなぁ、と思ってしまった。
「昨日ちょろっと見ただけだったけど、凄い部屋だねえ。ベルトルド様とアルカネットさんの気合を感じるよ…」
ルーファスは引きつった笑みを浮かべた。宮殿騎士などをやっていたので、高級家具は見慣れている。その目で見ても、この部屋に尽くされた贅は相当のものだった。
「そうですね。でも、陽当りもよくて、明るく素敵な部屋ですね」
メルヴィンも苦笑気味に言った。豪華ではあるが、どことなく少女趣味な趣もあって、キュッリッキのために設えられたのだとよく判る。
「ねえ、そいえばなんで2人だけここにいるの? 他のみんなは?」
「オレたちが代表で、リッキーさんのお世話を任されたんです」
にこりとメルヴィンに言われ、ふいにキュッリッキの顔が曇った。
「ごめんね、アタシのせいで…」
「なんで謝るの」
困ったように笑いながら、手を伸ばしたルーファスが、そっとキュッリッキの前髪を指で掬った。
「そこは謝るとこじゃないでしょ。イイ男が2人も一緒にいるんだよ、素直に喜べばいいんだから」
「…そうなの?」
「そうなの」
2人の笑顔を見て、キュッリッキは心底申し訳なく思う。そして心に、小さな痛みが走った。
(もうすぐ追い出されるかもしれないのに、2人はそれでも心配してくれるのかな。仲間じゃなくなったら、ただの赤の他人に戻る。そしたらそれきりになっちゃう…)
寂しい、と思った。
目を伏せて沈んでしまったキュッリッキを見て、ルーファスとメルヴィンは困惑したように顔を見合わせた。
さきほどヴィヒトリが投与した薬が効いてきたのか、緩やかな眠気に誘われるままキュッリッキは目を閉じた。そして何も考えられなくなり、吸い込まれるように意識は眠りの底へと沈んでいった。
キュッリッキが寝入ったのを確認し、2人は一旦部屋を出る。
「なんだか元気なかったな、キューリちゃん。まあ、目が覚めたばっかりで、色々驚いているんだろうケド」
「どことなく、塞ぎ込んでいた感じでしたね。何か心配事でもあるのかな」
「ふむ~。――病院よりも、気分的にずっと癒されやすいだろうって、ベルトルド様は自分の邸にキューリちゃんを連れてきたって言ってたけどネ」
「病気や怪我人だらけの病院で、心身が休まるか!」とベルトルドは言っていた。確かにそうは思う。幸い主治医は毎日診察に来るし、同じハーメンリンナ内だから、何かあればすぐに駆けつけられる。それに、この邸には総合医が常駐しており、主治医が来るまでは適切な処置もしてもらえるから安心だ。
そう思う一方、ルーファスは嫌な考えにたどり着く。
「まさか…」
「え?」
「あのエロオヤジになにかされてるんじゃ……」
「――即否定出来ないものが、ありますよね」
「いくらなんでも、常識くらいはあの人にだってありますよ」と考えたい気持ちと、「まさか」と思う否定出来ない部分の葛藤に、2人はしばし悩まされた。
昼過ぎにキュッリッキは目を覚ました。しかし沈んだ様子のキュッリッキに、ぎこちない時間だけが過ぎて行った。
陽が落ちていくにつれ、更に目に見えて落ち込み度が深まっていく。
ルーファスもメルヴィンも心配がどんどん膨らみ、何かあったのかとなんとか聞き出そうとするが、キュッリッキは目を伏せたまま答えようとしない。無理強いするのも可哀想になるくらい落ち込んでいるので、それ以上追求も出来なかった。
そうこうしているうちに夜になり、執事代理のセヴェリが呼びに来て、2人は夕食をとるため部屋を出た。
「そういやベルトルド様達遅いな。もう帰ってきてもいい頃だろ?」
「昨日は仕事を休む形になってますから、きっと残業なんでしょう」
「ああ…」
天井を見上げながら、ルーファスは何度も頷く。
「副宰相、軍総帥、ケレヴィルの所長もやってたよな確か。役員とかもけっこう抱えてたし。国政と軍事だけでも大変なのに、オレらの後ろ盾もやってるんだよなあ」
「なんでも、司法にもちょっと触れてるみたいですよ…」
「ひい」
「毎日大変そうだなあ」と2人は苦笑する。ハワドウレ皇国という、巨大な国の政を任されているのだ。事務処理だけでも大変な量だろうと想像がつく。
「お2人が戻るまでは、オレ達でそばにいたほうがいいですよね?」
「そうだね。ただ、キューリちゃんが一人になりたそ~なオーラ漂わせてるから、ちょっと…」
心配事を口に出すのも辛そうに、塞ぎ込んでしまっていた。
「そんな雰囲気になってましたね。でも、なおのこと一人にしておくのも不安ですし、早めに食事を済ませちゃいましょう」
「だな」
* * *
疲労感を全身からオーラのように滲ませ、デスクの前でぼーっとしているベルトルドの前に、アルカネットとシ・アティウスが揃って顔を出したのは、すっかり暗くなった頃だった。
予定外に会議が早く終わったとかで、使いから連絡があり、2人共総帥本部の執務室に出頭したのだ。
ベルトルドのデスク前まで来ると、シ・アティウスは小さく肩をすくめた。この部屋の主は、なんとも弛緩した情けない顔をしていた。
「貴婦人が夢から覚めるような表情をなさっていますよ」
シ・アティウスが率直な感想を述べると、ベルトルドは拗ねた顔で小さな吐息を漏らした。
「さすがに疲れた…」
夜も明けきらぬうちから、大量の書類と格闘を開始して、現在まで激務をこなしていたのだ。リュリュに宰相府の仕事を押し付けているので、リュリュの手伝いがなかったのも影響している。次席秘書官などとリュリュの処理能力は、比べるまでもなく雲泥の差がありすぎた。
「伊達にオカマの道は貫いていないな」
全く関係ない例えを用いて、ベルトルドは勝手に納得していた。
「我々が報告をしている間、これでも食べて一服していてください」
見た目の愛らしいチョコレート菓子の皿と紅茶のカップをデスクに置いて、アルカネットが労をねぎらう。泣く子も黙らせる副宰相閣下は、実は大の甘党である。
「お、すまんな」
ベルトルドはチョコレート菓子を一つつまむと、美味しそうに口の中に放り込んだ。
その様子を無感動に見ながら、シ・アティウスが淡々と報告を始めた。
ソレル王国のナルバ山の遺跡に関する調査報告だった。時折アルカネットが補足をし、ベルトルドが質問を挟んで、報告には30分もの時間を費やした。
「そうか。あれがレディトゥス・システムだったか」
「間違いないでしょう」
シ・アティウスは断言した。
「ソレル王国の不審な行動も明らかですし、頃合でしょうね」
アルカネットが報告書を差し出すと、数枚に書かれた内容に目を通し、ベルトルドは嘲笑うように口の端を歪めた。
「愚かな頭を持つと、小国は苦労をするな。折角だからしっかりまとめさせてやれ、こちらが動くのはそのあとだ」
アルカネットは肩をすくめて、了解の意を示した。
「では、私は研究の続きがありますので、これで」
礼をして踵を返そうとしたシ・アティウスを、ベルトルドが止めた。
「ちょっとお前たちに見てもらいたいものがあってな、こっちきてくれ」
ちょいちょいと指先を動かし2人を招く。そして立ち上がり、デスクの前に出ていきなり2人の頭を鷲掴みにした。
「……これは、なんの真似でしょうか」
シ・アティウスは顔色一つ変えず、僅かに眉を引き上げて呟いた。
「おう、ちょっとだけ我慢しろ。映像を見せるときは接触しているほうが、きれいに見せられるんでな」
そう言ってベルトルドは目を閉じる。ならうように2人も目を閉じた。
約10分ほどそうしてから、ベルトルドは手をはなした。
三者三様、何とも言えない表情を浮かべて黙り込んだ。とくにアルカネットなど、倒れそうなほど青ざめている。
「あの召喚士の少女に、こんな過去が…。キツイですね」
アルケラのことを一生懸命に語るキュッリッキの顔を思い出し、シ・アティウスにしては珍しく、沈痛な面持ちでため息をついた。
「このことで昨夜は荒れてな。今頃ひどく落ち込んでいるだろう」
ベルトルドは昨夜のキュッリッキとの一件を、彼女の記憶とともに2人に映像として見せたのだ。
キュッリッキの過去を調べ上げたのはアルカネットだったが、知り得ている情報と照らし合わせても、映像で見せられるとより辛い。胸が締め付けられるほど苦しくなり、アルカネットは荒く息を吐き出した。
「リッキーさんの苦しみは、こんなものではないのでしょうね…」
これまでどれほどの痛みを心に受けていたのだろうと思うと、アルカネットはやりきれない思いでいっぱいになった。
「子供の時分にこれだけ辛酸な目にあっていれば、立ち直るのは難しいだろう。だが、このままだと、どこへ行っても居場所を失う」
「荒れ方からすると、ほとんど無意識に感情が迸っているような感じでしたね」
「うん。そして正気に戻れば、深い後悔ばかりだ。自分で自分を傷つけている」
「ふむ」
深沈するように俯いたシ・アティウスを見ながら、ベルトルドは腕を組んで小さなため息をついた。
「あれでは遠からず、壊れてしまうだろう。もう限界が見えている。なんとかしてやりたい」
そこで、とベルトルドはデスクに座って脚を組む。
「俺に全部任せろ」
唐突に胸をバンッと叩き、どこから湧いてくるんだろうと思うような自信を顔に貼り付けて、ベルトルドは傲然と言い放った。
とてつもなく無表情なシ・アティウスと、胡乱げに目を眇めるアルカネットに見つめられ、ベルトルドは「なによ」と頬を引きつらせる。
たっぷりと間が空いたあと、アルカネットが深々としたため息をつく。
「偉そうに何を言うかと思えば…。それこそ過去女性問題で、私がどれほど尻拭いさせられたか、アナタ忘れてないでしょうね?」
「救うより遊んで捨てる方が得意なのだと、ずーっと思っていました」
「おまえらな…」
ベルトルドは腕を組んで、ふくれっ面のままそっぽを向いた。
「俺はリッキーに恋をしているんだ。愛している。本気でな」
「へー」
シ・アティウスが棒のような声でツッこむ。キリッと決めたところへ薄い反応が返され、ベルトルドの表情がガックリと歪んだ。
「へーとか言うな、へーとかっ! たいがい無礼だなお前は!」
「失礼、心の声がつい」
「ぐぎぎ」
ベルトルドは噛み付きそうな顔をシ・アティウスに向けたが、涼しくスルーされた。
2人の様子を呆れ顔で見つめながら、アルカネットはさてどうしたものかと思案し始めた。
幼い頃から傷つき続けているキュッリッキの心を救い、癒すためには、それ以上の優しさと愛がなければダメだ。
「負けませんよ…」
シ・アティウスに噛み付き続けるベルトルドの顔を、アルカネットは目を細めて睨みつけた。
「お目覚めでございますか? おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
初老に差し掛かった風貌の女性と、まだ20代くらいの女性たちが数名、キュッリッキに向かって朝の挨拶をした。
「お、おはよう…」
きょとんっとした表情で、キュッリッキはぎこちなく挨拶を返す。
(お嬢様って……アタシのこと?)
「ご気分は如何でしょうか。どこか、お苦しいところなどございませんか?」
慇懃に訊ねられて、キュッリッキは小さく首を振る。
「えっと、ドコも苦しくないよ」
「それは、ようございました」
老婦人はニッコリと微笑んだ。
「わたくしは、この邸でハウスキーパーをつとめております、リトヴァと申します。今日からお嬢様の、お身の回りのお世話をさせていただきます」
そういって丁寧に頭を下げた。
「後ろにおりますメイドたちも、共にお世話をさせていただく者たちです。どうぞ、なんなりとお申し付けくださいね」
メイドたちも、一人一人名乗りながら頭を下げた。
しかしキュッリッキは文字通り、ぽかーんと口を開けて固まってしまった。その表情を見てリトヴァが首をかしげる。
「どうかなさいましたか? お嬢様」
「え…、えっと…」
表情とは裏腹に、キュッリッキの頭の中は忙しく回転していた。
(やっぱりアタシがお嬢様って呼ばれてる、なんでだろう? ココってドコなのかな…。ベルトルドさん隣に寝てたから、もしかしてココって…)
「あ、あの」
「はい」
「あの、ココって、ベルトルドさん…ち?」
おっかなびっくり問うと、リトヴァは明るく笑んだ。
「さようでございます」
身体が元気であれば、飛び上がって驚くところだ。
キュッリッキの驚いた様子に、リトヴァは小さく頷く。
「昨日、お邸にいらしたときから、お目覚めになっていなかったのですね。――ここはベルトルド様のお邸でございます。そしてこのお部屋は、お嬢様のためにご用意されたものでございますよ。お気に召すと良いのですけれど」
「うん、とっても素敵なお部屋だね」
「旦那様もアルカネット様も、お喜びになりますわ。ここは、南棟の2階にあるお部屋でございます。お邸の中でも陽当りも風通しもいい、お身体を癒すには最高でございます。旦那様とアルカネット様が、慎重に検討なされてご用意しておりましたから…」
語尾がやや小さくなり、リトヴァと背後のメイドたちの表情が何とも言えないモノになってく。その様子にキュッリッキは不思議そうに首をかしげた。
家具やベッドの配置、インテリアに至るまで、あの2人が喧しいほど注文をつけて寸分の狂いもなく使用人たちにやらせたということは、キュッリッキは生涯知ることはない。
脳裏によみがえる記憶を振り払うように「ハァ」と小さくため息をつくと、リトヴァは「失礼いたします」と言って、キュッリッキの額に触れた。
「お熱の方もすっかり下がっているご様子、お医者様がお見えになる前に、お支度をしてしまいましょうね」
「支度?」
「はい。お身体を拭いて、お着替えを済ませてしまいましょう」
部屋に簡素なベッドが運び込まれ、キュッリッキはそのベッドの上に寝かせられた。
運んだのはリトヴァだが、超能力を使って丁寧に運んでくれた。リトヴァもベルトルドと同じように、〈才能〉は超能力のようだ。
そして若いメイドたちに寝間着と下着を脱がされると、恥ずかしいと思う間もないほど素早く、温かいタオルで身体を丁寧に拭いてもらった。香料の入ったお湯なのだろう、ふんわりとバラの香りが気持ちが良い。
「どこか、お痒いところなどございませんか?」
アリサと名乗ったメイドが訊ねてきて、キュッリッキはダメもとで訴えてみた。
「えっと、頭が痒いの…」
尻すぼみになりながら言うと、アリサはにっこりと笑ってリトヴァに頷いた。
「判りました。では、頭と髪も洗って差し上げましょうね」
怪我に響かない姿勢で身体が浮くと、メイドたちは丁寧に頭と髪を洗いにかかった。シャンプーもバラの香りがして、キュッリッキの表情がホッと和む。
実はずっと、頭を洗いたくてしょうがなかったのだ。痒かったし臭うしで、怪我や熱に苦しみながらも、そのへんもちょっと思っていたから、これはとても嬉しい。
キュッリッキの表情を見て、アリサはクスッと笑った。
「女の子ですものね」
何を考えているか判ったのだろう。キュッリッキは頬をちょっと赤らめ、苦笑で返した。
頭も髪も綺麗に洗ってもらって、そのあと熱風が髪を揺らしてキュッリッキはビックリする。
「これはドライヤーというものです。すぐに髪が乾きますよ」
「うわあ…」
電気エネルギーで動くものだと言われて、更にビックリする。
電気というものは、一般人には無縁と言っていいものである。ハーメンリンナの中では当たり前のように使われているエネルギーで、ハーメンリンナの外では、公共施設や病院、一部の地域だけしか供給されていない。
「便利な道具なんだね」
「本当でございますよ。ハーメンリンナの外では、馴染みがありませんもんね」
苦笑気味に言うアリサに、キュッリッキはウンウンと頷いた。
髪を乾かしてもらったあと、ブラッシングもしてもらって、新しい下着と寝間着を着せてもらい、ベッドに寝かせてもらった。枕カバーやシーツも新しいものになっている。
「お疲れ様でございました。後ほどお医者様がお見えになりますので、それまでどうぞ、ゆっくりおやすみくださいませ。他に、なにか欲しいものなどございますか?」
「んーん、何もないよ、ありがとうみんな」
リトヴァとメイドたちは丁寧に頭を下げ、そして部屋を出て行った。
頭からつま先まで綺麗になって、キュッリッキは気持ちが良かった。そしてホッとしていると、またノックがしてリトヴァが顔を見せた。
「お医者様がお見えになりました」
リトヴァの後ろから、金髪の若い男が入ってくる。
「やあ、今日は顔色がいいね。良かった」
男は白衣を翻させて、ベッドの脇の椅子に座る。
「改めて初めまして。ボクはヴィヒトリ、君の主治医になったんだ。ヨロシクね」
「よろしく」
僅か引き気味に、キュッリッキは小声で挨拶を返した。
まだ20代前半くらいの、年若い男だ。
胸元くらいまである金の髪は、キュッリッキの金髪よりやや濃い色をしている。青い瞳を埋め込んだ切れ長の目、そこに少し太めの黒縁のメガネをかけていた。
感じのいい笑顔を貼り付けているので、親しみやすい印象があった。
ただ、キュッリッキは人見知り体質である。相手が医者だろうと使用人だろうと、初めて言葉をかわすときには、どうしても距離をあけてしまう癖がある。わざとそうしているんじゃなく、自然とそうなった。
さきほどリトヴァやメイドたちは、いきなりのことだったし、身体も綺麗にしてもらえて心が緩んでいた。それに同性同士なのもあって、男性よりはまだ話はしやすい。
ヴィヒトリはキュッリッキの様子を見て、
「キュッリッキちゃんは、人見知りする子なんだね」
そう言って、意地悪っぽく笑った。
「う…」
図星だから否定しようがない。離れたところで様子を見ていたリトヴァは、思わず吹き出してしまっていた。
「まあ、これから毎日顔を合わせることになるから、人見知りしてるヒマなんてないヨ。だから安心するんだ。さ、診察、診察」
ヴィヒトリはサクッと断言して、カバンからカルテを出してペンをとった。
診察と手当が終わると、ヴィヒトリは点滴の用意をして、キュッリッキの細っそりした腕に針を刺した。
「痛くないかな?」
「うん、平気」
「ちょっとばかし軽い脱水症状になってるから点滴している。――終わったら、針の抜きかた判ります?」
ヴィヒトリは後ろに控えるリトヴァを見る。
「はい、存じ上げております」
「じゃあ、終わったら片しといてね」
「承りました」
「とにかく熱が下がって良かった。もうこれからは治るダケだから、安心してイイヨ」
キュッリッキの頭を優しくポンッと叩いて、ヴィヒトリは立ち上がった。
「また明日ね、キュッリッキちゃん」
「ありがと、先生」
手を振ってヴィヒトリはドアへと向かう。
「失礼致します」
キュッリッキに頭を下げて、リトヴァはヴィヒトリに続いて部屋を出ていった。
急に部屋が静まり返り、キュッリッキは時計に目を向ける。
もう10時になろうとしていた。
キュッリッキは再びしょんぼりすると、表情を一気に曇らせた。
せっかくよくしてもらったのに、明日にはここを追い出されるのだ。ああしてリトヴァやメイドたちが世話を焼いてくれたが、それはきっと、ベルトルドが言い忘れただけなのだろう。
動かない身体は、アルケラの子たちに助けてもらえばハーツイーズに帰れる。ハドリーやおばちゃんたちは驚くだろうが、怒らせてしまったのだからしょうがない。
「もしかしたら今夜にでも追い出されるかも」
そう思うと更にガッカリして、ベルトルドに謝る機会はあるのか不安になった。
シーツに顔の半分を埋めてぼんやりと落ち込んでいると、ノックがして、メルヴィンとルーファスが顔を出した。
「おはよう、キューリちゃん」
「おはようございます、リッキーさん」
「ルーさん、メルヴィン」
ラフな普段着姿のルーファスとメルヴィンが、笑顔で部屋に入ってきた。
「意識が戻って良かったです、本当に」
安堵を浮かべた顔で、メルヴィンはホッと胸をなで下ろす。それに「うんうん」と頷いて、ルーファスはニッコリと笑った。
「熱も無事下がったんだってね。ずっと苦しそうだったから安心したよ。顔色もイイね」
愛嬌のある笑みを向けられて、つられたようにキュッリッキも微笑み返す。
「今の気分はどうですか? 辛いところや痛いところなどありませんか?」
ルーファスの隣に立ったメルヴィンが、心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫だよ」
「そうですか、良かった」
「さっき、リトヴァさんてひとがきて、身体拭いてもらって、頭も洗ってもらったの。だからすっきりしてる」
「なるほど~」
「女の子だもんな。身だしなみは気になるよねえ」
「うん」
「ここで厄介になってるあいだは、毎日世話しにやってくるぞ」
ベッドの端に腰をかけたルーファスは、ややうんざりしたように肩をすくめた。
「まあ、怪我が治るまでは、お嬢様生活を満喫するといいさ」
「本物のお嬢様って、毎日あんな調子でメイドが全部してくれるの?」
「ハーメンリンナに住んでるお嬢様は、それが普通さ」
「……そうなんだ」
今は自分で動けないので、世話を焼いてもらえるのは助かるが。でも、毎日あんなにゾロゾロ押しかけられたら、鬱陶しいと思わないのだろうかとキュッリッキは呆れてしまう。
お嬢様をやるのもタイヘンなんだなぁ、と思ってしまった。
「昨日ちょろっと見ただけだったけど、凄い部屋だねえ。ベルトルド様とアルカネットさんの気合を感じるよ…」
ルーファスは引きつった笑みを浮かべた。宮殿騎士などをやっていたので、高級家具は見慣れている。その目で見ても、この部屋に尽くされた贅は相当のものだった。
「そうですね。でも、陽当りもよくて、明るく素敵な部屋ですね」
メルヴィンも苦笑気味に言った。豪華ではあるが、どことなく少女趣味な趣もあって、キュッリッキのために設えられたのだとよく判る。
「ねえ、そいえばなんで2人だけここにいるの? 他のみんなは?」
「オレたちが代表で、リッキーさんのお世話を任されたんです」
にこりとメルヴィンに言われ、ふいにキュッリッキの顔が曇った。
「ごめんね、アタシのせいで…」
「なんで謝るの」
困ったように笑いながら、手を伸ばしたルーファスが、そっとキュッリッキの前髪を指で掬った。
「そこは謝るとこじゃないでしょ。イイ男が2人も一緒にいるんだよ、素直に喜べばいいんだから」
「…そうなの?」
「そうなの」
2人の笑顔を見て、キュッリッキは心底申し訳なく思う。そして心に、小さな痛みが走った。
(もうすぐ追い出されるかもしれないのに、2人はそれでも心配してくれるのかな。仲間じゃなくなったら、ただの赤の他人に戻る。そしたらそれきりになっちゃう…)
寂しい、と思った。
目を伏せて沈んでしまったキュッリッキを見て、ルーファスとメルヴィンは困惑したように顔を見合わせた。
さきほどヴィヒトリが投与した薬が効いてきたのか、緩やかな眠気に誘われるままキュッリッキは目を閉じた。そして何も考えられなくなり、吸い込まれるように意識は眠りの底へと沈んでいった。
キュッリッキが寝入ったのを確認し、2人は一旦部屋を出る。
「なんだか元気なかったな、キューリちゃん。まあ、目が覚めたばっかりで、色々驚いているんだろうケド」
「どことなく、塞ぎ込んでいた感じでしたね。何か心配事でもあるのかな」
「ふむ~。――病院よりも、気分的にずっと癒されやすいだろうって、ベルトルド様は自分の邸にキューリちゃんを連れてきたって言ってたけどネ」
「病気や怪我人だらけの病院で、心身が休まるか!」とベルトルドは言っていた。確かにそうは思う。幸い主治医は毎日診察に来るし、同じハーメンリンナ内だから、何かあればすぐに駆けつけられる。それに、この邸には総合医が常駐しており、主治医が来るまでは適切な処置もしてもらえるから安心だ。
そう思う一方、ルーファスは嫌な考えにたどり着く。
「まさか…」
「え?」
「あのエロオヤジになにかされてるんじゃ……」
「――即否定出来ないものが、ありますよね」
「いくらなんでも、常識くらいはあの人にだってありますよ」と考えたい気持ちと、「まさか」と思う否定出来ない部分の葛藤に、2人はしばし悩まされた。
昼過ぎにキュッリッキは目を覚ました。しかし沈んだ様子のキュッリッキに、ぎこちない時間だけが過ぎて行った。
陽が落ちていくにつれ、更に目に見えて落ち込み度が深まっていく。
ルーファスもメルヴィンも心配がどんどん膨らみ、何かあったのかとなんとか聞き出そうとするが、キュッリッキは目を伏せたまま答えようとしない。無理強いするのも可哀想になるくらい落ち込んでいるので、それ以上追求も出来なかった。
そうこうしているうちに夜になり、執事代理のセヴェリが呼びに来て、2人は夕食をとるため部屋を出た。
「そういやベルトルド様達遅いな。もう帰ってきてもいい頃だろ?」
「昨日は仕事を休む形になってますから、きっと残業なんでしょう」
「ああ…」
天井を見上げながら、ルーファスは何度も頷く。
「副宰相、軍総帥、ケレヴィルの所長もやってたよな確か。役員とかもけっこう抱えてたし。国政と軍事だけでも大変なのに、オレらの後ろ盾もやってるんだよなあ」
「なんでも、司法にもちょっと触れてるみたいですよ…」
「ひい」
「毎日大変そうだなあ」と2人は苦笑する。ハワドウレ皇国という、巨大な国の政を任されているのだ。事務処理だけでも大変な量だろうと想像がつく。
「お2人が戻るまでは、オレ達でそばにいたほうがいいですよね?」
「そうだね。ただ、キューリちゃんが一人になりたそ~なオーラ漂わせてるから、ちょっと…」
心配事を口に出すのも辛そうに、塞ぎ込んでしまっていた。
「そんな雰囲気になってましたね。でも、なおのこと一人にしておくのも不安ですし、早めに食事を済ませちゃいましょう」
「だな」
* * *
疲労感を全身からオーラのように滲ませ、デスクの前でぼーっとしているベルトルドの前に、アルカネットとシ・アティウスが揃って顔を出したのは、すっかり暗くなった頃だった。
予定外に会議が早く終わったとかで、使いから連絡があり、2人共総帥本部の執務室に出頭したのだ。
ベルトルドのデスク前まで来ると、シ・アティウスは小さく肩をすくめた。この部屋の主は、なんとも弛緩した情けない顔をしていた。
「貴婦人が夢から覚めるような表情をなさっていますよ」
シ・アティウスが率直な感想を述べると、ベルトルドは拗ねた顔で小さな吐息を漏らした。
「さすがに疲れた…」
夜も明けきらぬうちから、大量の書類と格闘を開始して、現在まで激務をこなしていたのだ。リュリュに宰相府の仕事を押し付けているので、リュリュの手伝いがなかったのも影響している。次席秘書官などとリュリュの処理能力は、比べるまでもなく雲泥の差がありすぎた。
「伊達にオカマの道は貫いていないな」
全く関係ない例えを用いて、ベルトルドは勝手に納得していた。
「我々が報告をしている間、これでも食べて一服していてください」
見た目の愛らしいチョコレート菓子の皿と紅茶のカップをデスクに置いて、アルカネットが労をねぎらう。泣く子も黙らせる副宰相閣下は、実は大の甘党である。
「お、すまんな」
ベルトルドはチョコレート菓子を一つつまむと、美味しそうに口の中に放り込んだ。
その様子を無感動に見ながら、シ・アティウスが淡々と報告を始めた。
ソレル王国のナルバ山の遺跡に関する調査報告だった。時折アルカネットが補足をし、ベルトルドが質問を挟んで、報告には30分もの時間を費やした。
「そうか。あれがレディトゥス・システムだったか」
「間違いないでしょう」
シ・アティウスは断言した。
「ソレル王国の不審な行動も明らかですし、頃合でしょうね」
アルカネットが報告書を差し出すと、数枚に書かれた内容に目を通し、ベルトルドは嘲笑うように口の端を歪めた。
「愚かな頭を持つと、小国は苦労をするな。折角だからしっかりまとめさせてやれ、こちらが動くのはそのあとだ」
アルカネットは肩をすくめて、了解の意を示した。
「では、私は研究の続きがありますので、これで」
礼をして踵を返そうとしたシ・アティウスを、ベルトルドが止めた。
「ちょっとお前たちに見てもらいたいものがあってな、こっちきてくれ」
ちょいちょいと指先を動かし2人を招く。そして立ち上がり、デスクの前に出ていきなり2人の頭を鷲掴みにした。
「……これは、なんの真似でしょうか」
シ・アティウスは顔色一つ変えず、僅かに眉を引き上げて呟いた。
「おう、ちょっとだけ我慢しろ。映像を見せるときは接触しているほうが、きれいに見せられるんでな」
そう言ってベルトルドは目を閉じる。ならうように2人も目を閉じた。
約10分ほどそうしてから、ベルトルドは手をはなした。
三者三様、何とも言えない表情を浮かべて黙り込んだ。とくにアルカネットなど、倒れそうなほど青ざめている。
「あの召喚士の少女に、こんな過去が…。キツイですね」
アルケラのことを一生懸命に語るキュッリッキの顔を思い出し、シ・アティウスにしては珍しく、沈痛な面持ちでため息をついた。
「このことで昨夜は荒れてな。今頃ひどく落ち込んでいるだろう」
ベルトルドは昨夜のキュッリッキとの一件を、彼女の記憶とともに2人に映像として見せたのだ。
キュッリッキの過去を調べ上げたのはアルカネットだったが、知り得ている情報と照らし合わせても、映像で見せられるとより辛い。胸が締め付けられるほど苦しくなり、アルカネットは荒く息を吐き出した。
「リッキーさんの苦しみは、こんなものではないのでしょうね…」
これまでどれほどの痛みを心に受けていたのだろうと思うと、アルカネットはやりきれない思いでいっぱいになった。
「子供の時分にこれだけ辛酸な目にあっていれば、立ち直るのは難しいだろう。だが、このままだと、どこへ行っても居場所を失う」
「荒れ方からすると、ほとんど無意識に感情が迸っているような感じでしたね」
「うん。そして正気に戻れば、深い後悔ばかりだ。自分で自分を傷つけている」
「ふむ」
深沈するように俯いたシ・アティウスを見ながら、ベルトルドは腕を組んで小さなため息をついた。
「あれでは遠からず、壊れてしまうだろう。もう限界が見えている。なんとかしてやりたい」
そこで、とベルトルドはデスクに座って脚を組む。
「俺に全部任せろ」
唐突に胸をバンッと叩き、どこから湧いてくるんだろうと思うような自信を顔に貼り付けて、ベルトルドは傲然と言い放った。
とてつもなく無表情なシ・アティウスと、胡乱げに目を眇めるアルカネットに見つめられ、ベルトルドは「なによ」と頬を引きつらせる。
たっぷりと間が空いたあと、アルカネットが深々としたため息をつく。
「偉そうに何を言うかと思えば…。それこそ過去女性問題で、私がどれほど尻拭いさせられたか、アナタ忘れてないでしょうね?」
「救うより遊んで捨てる方が得意なのだと、ずーっと思っていました」
「おまえらな…」
ベルトルドは腕を組んで、ふくれっ面のままそっぽを向いた。
「俺はリッキーに恋をしているんだ。愛している。本気でな」
「へー」
シ・アティウスが棒のような声でツッこむ。キリッと決めたところへ薄い反応が返され、ベルトルドの表情がガックリと歪んだ。
「へーとか言うな、へーとかっ! たいがい無礼だなお前は!」
「失礼、心の声がつい」
「ぐぎぎ」
ベルトルドは噛み付きそうな顔をシ・アティウスに向けたが、涼しくスルーされた。
2人の様子を呆れ顔で見つめながら、アルカネットはさてどうしたものかと思案し始めた。
幼い頃から傷つき続けているキュッリッキの心を救い、癒すためには、それ以上の優しさと愛がなければダメだ。
「負けませんよ…」
シ・アティウスに噛み付き続けるベルトルドの顔を、アルカネットは目を細めて睨みつけた。
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