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奪われしもの編
21)キュッリッキの危機
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あれだけ怯えていた神殿に駆け込んでいってしまったキュッリッキの後ろ姿を皆が唖然と見やり、何とも言いようもない空気だけが無遠慮に空洞の中に流れていた。
誰もが言葉を探すように沈黙を続けるその場に、突如地震のような振動が襲った。立っていた者たちが、思わずよろけるほど揺れが大きい。
「あわわっ地震!?」
「きゃあああああ」
シビルが声をあげるとほぼ同時に、神殿からキュッリッキの悲鳴が聴こえてきた。
「キューリ!」
「キューリさん!?」
キュッリッキの悲鳴に弾かれ、何事かと全員神殿に駆け込みそこで一様に目を剥く。
「おい、なんだこれ!?」
ギャリーは驚いて思わず声を上げた。
それまで何もなく奥に向かって縦長一直線だった暗い神殿の中には、壁や柱が出現していて奥が見えなくなっていた。
突如様変わりした神殿内部に唖然と驚く一同に、更にキュッリッキの切羽詰まった悲鳴が届く。
ハッとしたようにカーティスの急いた指示が飛ぶ。
「ケレヴィルの皆さんは外に出ていてください。キューリさんのお友達とブルニタルも。捜索は我々だけでやりましょう」
みな黙って頷いた。
「作戦のときの班で別れて探しましょう。ルーファスとハーマンとランドンはメルヴィンの班へ移って。急ぎますよ!」
カーティスの指示で3班に分かれると、それぞれ神殿の内部に突入した。
* * *
キュッリッキは生まれて初めてだと思うくらいの悲鳴を喉から絞り出した。突如目の前に巨大な怪物が現れたからだ。
柱の影から現れたそれは、あまりにも異様な姿をしていた。生臭い息と唾液を滴らせ、黄色く濁った眼球には血のような紅い瞳が斑点のように張り付いている。大きな口は耳まで裂け、黄ばんだ鋭く太い牙が何本ものぞいていた。
愉悦を浮かべるその顔は、まるで下卑たイヤラシイ人間の男の顔のように見える。
顔の周りはごわついた黒い毛で覆われ、人面をした巨大なライオンのような怪物は、仰け反り見上げるほどに大きい。硬い甲羅に覆われたサソリに似た長い尾がせわしなく揺れ動く。
「アタシを獲物として捉えた目だね…。あんな気持ち悪いのなんてフェンリルでやっつけちゃうんだからっ」
獲物を見つけた愉悦に浸る怪物にすぐさまフェンリルで応戦しようとしたとき、足元にいたフェンリルが声も発せず、突然何かに吸い込まれるようにかき消えた。
「えっ、フェ、フェンリル!?」
キュッリッキはその場で飛び上がるほど仰天した。
「どういうことなの? なんで消えちゃったのフェンリル! アタシはアルケラへ還していないのにどうして!!」
辺りを急いで見回し、キュッリッキは生唾を飲み込んだ。
「あんな…あんないきなり現れた怪物といい、勝手に消えちゃったフェンリルといい、どういうことなの……」
しかし悩んでいる暇はない。戦うために素早く気持ちを切り替えた。すぐさまフェンリルを再召喚しようとして目を凝らしたが何も視えない。
「う、嘘、アルケラが視えない……な、なんで?」
視線を前方に彷徨わせ、キュッリッキは激しく狼狽えた。
こんなことは初めてだ。
怪物は距離を取ってゆっくりと前脚を動かしている。キュッリッキは意識が飛びそうになるほど困惑を深めながらも、ジリジリと壁際に後退した。
諦めず何度も召喚を試してみたが、その目に見えていたアルケラが視えなくなっている。ただただ目の前の怪物の姿を、その神聖な眼に映し出すだけだった。
「どうしよう…、アタシこのままじゃ…」
召喚が使えなければ、キュッリッキには戦う術が何もない。
武術も剣術も使えない。まして護身用の短剣すら持ち歩いていないのだ。自分の身を護るのはフェンリルをはじめ、アルケラの住人たちだ。それなのにフェンリルは消えてしまい、アルケラも視えない。これでは逃げることしか出来ない。
「に、逃げられるの…?」
心にスッと冷たいものが差す。そして急激につま先から這い上ってくる恐怖で脚がガクガク震えだし、腰が砕けそうになる。
「こんな…トコで弱気になってる場合じゃない…、しっかりしろアタシ!」
手を握って自らに喝を入れる。
ギッと睨むように怪物を見据えた。
「アイツ、すぐには襲いかかってくる感じじゃない…? アタシの出方を探ってるのかな。本能だけに従うならあんな風に距離なんてとらない。――もしかして知性があるのかも…。それなら、タイミングを見て逃げ出せばいいんだわ」
諦めるにはまだ早い。逃げて逃げて、仲間たちの処へ。
「いまだ!」
怪物が足を止めた瞬間、キュッリッキは素早く翻って駆け出した。
不意をつかれた怪物も、すぐさま前脚を跳ね上げ走り出した。
花崗岩で作られた神殿にはどこにも窓がない。もっとも山中を掘った空洞の中に建てられているのだから、明かりなど射すはずもなかった。
調査に入ったブルニタル達の話では、だだっ広い長方形のような一つの長い部屋しかないと言っていた。それなのに地震の直後一瞬にして様変わりした。あちこちを石の壁で区切られ、大小様々な部屋ができ、通路の壁に設えられた篝には小さな灯りが点っているのだ。
壁には幾何学模様のようなレリーフが埋め込まれ、カビ臭さは一切なく、石はじっとりと冷気を含んで湿っていた。
その中をキュッリッキは闇雲に走り逃げ回った。時折石畳の切れ目に足を取られそうになるが、たたらを踏みながらも転ばずひたすら走った。
怪物は追いかけっこを愉しむかのように、わざとキュッリッキとの距離を取って追いかけてくる。明らかに遊んでいた。
怪物のそんな様子にも気づかず、キュッリッキの頭の中は混乱してぐちゃぐちゃだった。急にフェンリルは消える、アルケラが視えなくなる、召喚が使えない、神殿の中は複雑構造で出口がわからない、見たこともない怪物に追いかけられている。
パニックに陥っていた。
「初めてアタシのところに来たときから一度も消えることなんてなかった。ずっとそばにいてくれたのに黙っていなくなっちゃうなんてフェンリル…。それに当たり前のように視えてたアルケラまで視えなくなっちった。どうしよう、どうしよう」
キュッリッキの強みは、無敵の住人たちを召喚する事だ。それができないということは、今のキュッリッキはただの無力な女の子。
心の中にどんどん不安と恐怖が広がっていく。訳が判らない事態にどうしていいか判らず、涙が溢れて視界を曇らせた。
ついさっきまでザカリーと喧嘩をしていたことなんて、頭の中から完全に吹き飛んでいた。
怪物はゆっくりとだが、確実にキュッリッキを追いかけてきていた。獲物を追い詰め、弄ぶかのように。その行動がキュッリッキの精神をより追い詰めていく。
大きく開けた明るい場所に出て、そこで石畳に滑って転びそうになる。前につんのめり倒れそうになったところを、追いついてきた怪物に激しく背中を強打された。
「うぐっ」
数メートルほど吹っ飛ばされ、石畳に打ち付けた肩から背中で滑るように倒れて息が詰まった。全身に鋭い痛みが走って小さく呻く。
逃げるために急いで起き上がろうとするが、思うように身体が動かない。意志とは裏腹に、手足に力が入らないのだ。急に全力で走ったこともあり筋肉が震えている。
大きく息を吸い込むと胸が軋んだ。肋骨にヒビでも入ったのだろうか。痛みで一瞬視界がぐらりと揺れた。
(逃げ…なきゃ)
か細い腕に力をこめて、それでも身体を起こして立ち上がろうとする。だがすでに怪物は目の前に立っていた。
足元の小さな獲物が逃げられないことを悟ったように、裂けた口がイヤラシく歪んで広がった。どす黒い長い舌が牙の隙間から垂れ落ち、鼻を塞ぎたくなるほどの異臭を含んだ唾液が床に滴り落ちた。
(誰か……)
痛みと恐怖で涙が止まらなかった。
(お願い…誰か、助けて……)
怪物は目を細めると、鋭い爪を備えた前脚を上げ、勢いをつけて振り下ろした。
* * *
こんなに広かっただろうかと思える程の複雑に入り組む神殿の中を走りながら、ザカリーの頭の中は後悔の文字でいっぱいになっていた。
(ほんの少しからかって、あいつとひと時の会話――喧嘩になったが――を楽しみたかっただけだなんだ。うっかり翼のことを口走りそうになって…。傷つけるつもりはなかったんだ。弾みで口にでちまったとはいえ…大粒の涙まで流して…泣かしちまったチクショっ)
ザカリーは後悔と罪悪感で胸が痛む。そこへあんなに切羽詰まった悲鳴が聞こえてきて、もうどうしていいか判らない。
「場所とタイミングが、わ~るかっただけだよ」
「ちょ! 心の中を読むなよ!」
横に並んで走るマリオンに、ザカリーは顔を真っ赤にして怒鳴る。マリオンはのんびり笑った。
「早く、キューリちゃん見つけてあげよ~」
「……うん」
* * *
「どうやったら一瞬で、こんな複雑構造に作り変われるんですかねえ」
どこをどう走ったものか見当もつかず、手当たり次第走りながらカーティスはぼやいた。そこに突き刺すような頭痛が走り、念話が割り込んできて顔をしかめた。
(おいカーティス、そっちの状況はどうなっている?)
(ベルトルド卿)
今回の依頼主でもある、副宰相ベルトルドからの念話だ。
(リッキーから預かった小鳥が消え失せた。一体どうしたんだ?)
(え?)
カーティスは己の肩に目を向けて息を呑む。張り付くようにしてとまっていた赤い小鳥が消えているではないか。
(私のほうの小鳥も消えていますね…。ちょっと、マズイかもしれません)
(? さっぱり意味が判らんぞ)
不快げに眉を寄せる顔が目に浮かぶような声だった。しかし今はそれどころじゃない。
(とにかく物凄いたてこんでまして。状況がまとまり次第早急に連絡を入れますから、もうちょっとお待ちください!)
強引に念話を打ち切り、カーティスは走る速度を速めた。
* * *
「ねえハドリー、あたしたちも探しに行ったほうがよくない?」
神殿を見つめ、ファニーが急かすように提案する。
「そうしたいが、中で何が起こっているか判らねえ。二次遭難になったらシャレにならない。足でまといになるから、じっとしてたほうがいい」
「むぅ…」
ファニー同様すぐにでも駆け込みたかったが、ハドリーはその衝動を必死で堪えた。努めて冷静さを装ってはいるが、嫌な胸騒ぎがしてならなかった。
(あんなに怖がっていた神殿に入っちまった。ザカリーとかいう男と喧嘩していた感じから、以前話していた秘密がバレた相手のことだろうな。何を口論してこんな事態になったのかは判らんが、怖いと言っていた神殿に駆け込んじまうほど傷ついたんだとしたら…。クソッ、すぐさま飛んでいってやりたい)
妹のように思っている大事な親友だ。
ハドリーはチラッとブルニタルに視線を向ける。
(でも今のリッキーには、新しい仲間が出来ている。ここにその仲間たちがいる)
仲間との間で起こった問題なら、親友といえどしゃしゃり出ることじゃないとハドリーは考えていた。仲間たちと共に解決することが、キュッリッキのためになると思ったからだ。
「無事でいてくれよ…」
祈るように小さな声でハドリーは呟いた。
* * *
叩きつけられるような重みと衝撃が走り抜けたあと、焼けるような痛みに刺し貫かれ、キュッリッキは大きく目を見開いた。
悲鳴をあげた気がしたが、実際は引き攣れた掠れ声が小さく発せられたに過ぎない。
怪物の爪はキュッリッキの右肩から胸までを深く切り裂いた。
肉が抉り取られ、骨があらわになり、大量の鮮血が噴き出す。血飛沫と金色の長い髪が宙を舞い、キュッリッキは仰向けに倒れた。あまりの痛みに気を失うことも許されず、目を大きく開いたまま、キュッリッキの身体はビクンッ、ビクンと痙攣した。
自らの血だまりの中に身を浸し、心の中で必死に叫ぶ。
(痛い…助けて!)
口の中も血で溢れかえり、僅かに開いた口の端を唾液と血が伝う。全身が急速に凍え冷えていく感じがした。
右上半身には激しい痛みはあるのに、他の部位の感覚が麻痺している。手足を動かそうと思ってもぴくりとも動かない。閉じることもできない目からは涙が溢れ出し、薄暗い天井を凝視していた。
キュッリッキは怪物を見ていなかった。張り付いたように動かない目は天井を見上げるのみだ。
やがて意識が混濁し始め、視界がぼやけだした。
* * *
怪物はキュッリッキが流した血の匂いに鼻腔をくすぐられ、なんともいい気分になっていた。
己の爪にこびりついた肉片と血を舐めとると、嬉しそうに目を細める。新鮮で甘い芳しい香りが、口内から鼻に突き抜けていった。
ずっと欲しかった味と匂い。
小さな獲物を見下ろし、怪物は生臭い息を吐き出した。もう動くこともできず、血だまりの中で息も絶え絶えになっている。
ぬらぬらと濡れ光る赤黒い肌からは、興奮のためか脂が滲み出し、よりテラテラと光沢を強めた。
怪物は想像する。腹を切り裂いたら、今度は何が見えるだろうと。急に興味が沸いて、それがよりいっそう残忍な興奮につながった。
怪物はキュッリッキの腹に爪先を向ける。
怪物は前脚を振り下ろし、キュッリッキの腹を切り裂こうとした。瞬間、
「ぐっ!」
低い唸り声がして、何かに動きを止められた。怪物は怪訝そうに足元を覗き込む。そして突然周りが賑わいだし、なにやら足元に小さい生き物が集まり始めて首を傾げた。
* * *
「リッキーさん!! なんてことに」
「キューリちゃん!」
「ランドンさん早く回復魔法を! このままではリッキーさんが」
「判ってる!」
ランドンはキュッリッキの傍らに膝をつくと、両手を肩口にかざした。
「土に流れた毒は 二度と身体に戻らない
胸から流れ出た苦痛も
戻ることなく去らしめよ」
掌から柔らかな光が溢れ出し、傷口を優しく包み込んだ。
「キューリさん…」
ハーマンは為す術もなく、キュッリッキの周りをほたほたと歩いた。魔法〈才能〉はあるが、回復魔法は得意ではない。この状態で無理に使うのはかえって危険だから手が出せなかった。
寸でのところで怪物の攻撃を止めたガエルは、交差させた腕で怪物の前脚を押しとどめながら肩ごしに振り向く。
「キューリを動かせるか?」
「この様子じゃ今すぐは無理だ。戦う向きを変えてくれ、ガエル」
「了解だ」
ありったけの力を両腕に込め、ガエルは怪物の身体を前方に思い切り押し出した。怪物は後ろによろけ転がって壁に衝突した。そのままガエルは怪物を追い、キュッリッキたちから離れた。
ルーファスはハーマンにガエルのサポートにつくよう指示をすると、すぐさまカーティスに念話を送った。
(それは…)
映像付きの念話を送られ、カーティスは愕然とその場に立ち止まった。ヴァルトらが何事かと足を止める。
(ヤバイぞ、かなりの重症過ぎて。ランドンに止血させてるが、このままじゃ死んじまう)
(わ、我々もすぐに向かいます)
(ああ。ギャリーにはオレから連絡を入れておく)
(判りました)
いつになく狼狽えるカーティスとの念話が終わると、ルーファスはすぐさまギャリーに念話を送った。
急に辺りが騒がしくなり、キュッリッキは小さな声をあげる。
「……だ…れ?」
「リッキーさん!」
ランドンの反対側に膝をついていたメルヴィンは、キュッリッキの顔を覗き込んだ。
キュッリッキはぼんやりとする意識の中、メルヴィンに気づいて声を振り絞る。しかしその声は弱々しく、か細くメルヴィンには聞き取れない。メルヴィンは顔を近づけた。
「助け…て」
言葉を発するのが苦痛なのか、血を溢れさせながら小さく唇を動かした。
蒼白なキュッリッキの顔を覗き込みながら、メルヴィンは必死に叫ぶ。
「もう大丈夫ですから、助けに来ましたからね!」
力なく床に置かれていた左手をそっと取ってメルヴィンは励ました。驚く程手は冷たくなっていて、それがよりメルヴィンの不安を煽る。
口を動かしたことで喉に血が流れ込んだのか、キュッリッキはむせて激しく咳き込み血を吐き出した。メルヴィンは慌ててキュッリッキの口元をそっと拭ってやる。
「動かないで!」
額に汗を滲ませランドンが悲鳴のように叫ぶ。
「回復魔法は得意で専門だけど、こんなに酷い怪我人を診るのはボク初めてのことだよ!」
「おし、みんなに連絡はついた。もうちょっと一人で頑張ってくれランドン。シビルがこっち向かってるから」
まだ遺跡内を走り回る仲間たちに連絡を付けていたルーファスが、必死のランドンを振り返った。
「うん」
回復魔法では怪我や病気自体は治せない。痛みや疲労を和らげ、止血をし、細胞の壊死を防ぐくらいだ。それはどんなに高位魔法を操る魔法使いにも、それ以上のことは不可能なのだ。怪我や病気をある程度治せるのは医療〈才能〉だけである。
キュッリッキの状態は深刻で、一刻も早く医者による治療が必要だ。
(こんな大怪我でよくショック死しなかったと、褒めてやりたい…)
ランドンは今にも死にそうなキュッリッキを見つめ、いつもは無表情な顔を複雑な色で覆った。
「メルヴィン、キューリに君の外套をかけてあげて。血が流れすぎてて体温が急激に下がってる」
「そうですね」
頷いてメルヴィンは外套を脱ぐと、そっと下半身にかけてやった。そして再度手を取りそっと握った。
ランドンの回復魔法を受け痛みが和らいだのか、キュッリッキはどこかホッとしたような気分になっていた。でも意識は混濁としていてはっきりしない。
寒くて寒くて仕方が無かった。
(みんなが…来てくれた…)
全身が冷え切っていく中、片方の手だけがほんのりと温かい。それが心に小さな安堵感をもたらしてくれていた。
(メルヴィンが…)
騒々しい音も、沈み込むようにして聞こえなくなっていく。
仲間たちの気配を僅かに感じながら、キュッリッキの意識は深い闇へと落ちていった。
誰もが言葉を探すように沈黙を続けるその場に、突如地震のような振動が襲った。立っていた者たちが、思わずよろけるほど揺れが大きい。
「あわわっ地震!?」
「きゃあああああ」
シビルが声をあげるとほぼ同時に、神殿からキュッリッキの悲鳴が聴こえてきた。
「キューリ!」
「キューリさん!?」
キュッリッキの悲鳴に弾かれ、何事かと全員神殿に駆け込みそこで一様に目を剥く。
「おい、なんだこれ!?」
ギャリーは驚いて思わず声を上げた。
それまで何もなく奥に向かって縦長一直線だった暗い神殿の中には、壁や柱が出現していて奥が見えなくなっていた。
突如様変わりした神殿内部に唖然と驚く一同に、更にキュッリッキの切羽詰まった悲鳴が届く。
ハッとしたようにカーティスの急いた指示が飛ぶ。
「ケレヴィルの皆さんは外に出ていてください。キューリさんのお友達とブルニタルも。捜索は我々だけでやりましょう」
みな黙って頷いた。
「作戦のときの班で別れて探しましょう。ルーファスとハーマンとランドンはメルヴィンの班へ移って。急ぎますよ!」
カーティスの指示で3班に分かれると、それぞれ神殿の内部に突入した。
* * *
キュッリッキは生まれて初めてだと思うくらいの悲鳴を喉から絞り出した。突如目の前に巨大な怪物が現れたからだ。
柱の影から現れたそれは、あまりにも異様な姿をしていた。生臭い息と唾液を滴らせ、黄色く濁った眼球には血のような紅い瞳が斑点のように張り付いている。大きな口は耳まで裂け、黄ばんだ鋭く太い牙が何本ものぞいていた。
愉悦を浮かべるその顔は、まるで下卑たイヤラシイ人間の男の顔のように見える。
顔の周りはごわついた黒い毛で覆われ、人面をした巨大なライオンのような怪物は、仰け反り見上げるほどに大きい。硬い甲羅に覆われたサソリに似た長い尾がせわしなく揺れ動く。
「アタシを獲物として捉えた目だね…。あんな気持ち悪いのなんてフェンリルでやっつけちゃうんだからっ」
獲物を見つけた愉悦に浸る怪物にすぐさまフェンリルで応戦しようとしたとき、足元にいたフェンリルが声も発せず、突然何かに吸い込まれるようにかき消えた。
「えっ、フェ、フェンリル!?」
キュッリッキはその場で飛び上がるほど仰天した。
「どういうことなの? なんで消えちゃったのフェンリル! アタシはアルケラへ還していないのにどうして!!」
辺りを急いで見回し、キュッリッキは生唾を飲み込んだ。
「あんな…あんないきなり現れた怪物といい、勝手に消えちゃったフェンリルといい、どういうことなの……」
しかし悩んでいる暇はない。戦うために素早く気持ちを切り替えた。すぐさまフェンリルを再召喚しようとして目を凝らしたが何も視えない。
「う、嘘、アルケラが視えない……な、なんで?」
視線を前方に彷徨わせ、キュッリッキは激しく狼狽えた。
こんなことは初めてだ。
怪物は距離を取ってゆっくりと前脚を動かしている。キュッリッキは意識が飛びそうになるほど困惑を深めながらも、ジリジリと壁際に後退した。
諦めず何度も召喚を試してみたが、その目に見えていたアルケラが視えなくなっている。ただただ目の前の怪物の姿を、その神聖な眼に映し出すだけだった。
「どうしよう…、アタシこのままじゃ…」
召喚が使えなければ、キュッリッキには戦う術が何もない。
武術も剣術も使えない。まして護身用の短剣すら持ち歩いていないのだ。自分の身を護るのはフェンリルをはじめ、アルケラの住人たちだ。それなのにフェンリルは消えてしまい、アルケラも視えない。これでは逃げることしか出来ない。
「に、逃げられるの…?」
心にスッと冷たいものが差す。そして急激につま先から這い上ってくる恐怖で脚がガクガク震えだし、腰が砕けそうになる。
「こんな…トコで弱気になってる場合じゃない…、しっかりしろアタシ!」
手を握って自らに喝を入れる。
ギッと睨むように怪物を見据えた。
「アイツ、すぐには襲いかかってくる感じじゃない…? アタシの出方を探ってるのかな。本能だけに従うならあんな風に距離なんてとらない。――もしかして知性があるのかも…。それなら、タイミングを見て逃げ出せばいいんだわ」
諦めるにはまだ早い。逃げて逃げて、仲間たちの処へ。
「いまだ!」
怪物が足を止めた瞬間、キュッリッキは素早く翻って駆け出した。
不意をつかれた怪物も、すぐさま前脚を跳ね上げ走り出した。
花崗岩で作られた神殿にはどこにも窓がない。もっとも山中を掘った空洞の中に建てられているのだから、明かりなど射すはずもなかった。
調査に入ったブルニタル達の話では、だだっ広い長方形のような一つの長い部屋しかないと言っていた。それなのに地震の直後一瞬にして様変わりした。あちこちを石の壁で区切られ、大小様々な部屋ができ、通路の壁に設えられた篝には小さな灯りが点っているのだ。
壁には幾何学模様のようなレリーフが埋め込まれ、カビ臭さは一切なく、石はじっとりと冷気を含んで湿っていた。
その中をキュッリッキは闇雲に走り逃げ回った。時折石畳の切れ目に足を取られそうになるが、たたらを踏みながらも転ばずひたすら走った。
怪物は追いかけっこを愉しむかのように、わざとキュッリッキとの距離を取って追いかけてくる。明らかに遊んでいた。
怪物のそんな様子にも気づかず、キュッリッキの頭の中は混乱してぐちゃぐちゃだった。急にフェンリルは消える、アルケラが視えなくなる、召喚が使えない、神殿の中は複雑構造で出口がわからない、見たこともない怪物に追いかけられている。
パニックに陥っていた。
「初めてアタシのところに来たときから一度も消えることなんてなかった。ずっとそばにいてくれたのに黙っていなくなっちゃうなんてフェンリル…。それに当たり前のように視えてたアルケラまで視えなくなっちった。どうしよう、どうしよう」
キュッリッキの強みは、無敵の住人たちを召喚する事だ。それができないということは、今のキュッリッキはただの無力な女の子。
心の中にどんどん不安と恐怖が広がっていく。訳が判らない事態にどうしていいか判らず、涙が溢れて視界を曇らせた。
ついさっきまでザカリーと喧嘩をしていたことなんて、頭の中から完全に吹き飛んでいた。
怪物はゆっくりとだが、確実にキュッリッキを追いかけてきていた。獲物を追い詰め、弄ぶかのように。その行動がキュッリッキの精神をより追い詰めていく。
大きく開けた明るい場所に出て、そこで石畳に滑って転びそうになる。前につんのめり倒れそうになったところを、追いついてきた怪物に激しく背中を強打された。
「うぐっ」
数メートルほど吹っ飛ばされ、石畳に打ち付けた肩から背中で滑るように倒れて息が詰まった。全身に鋭い痛みが走って小さく呻く。
逃げるために急いで起き上がろうとするが、思うように身体が動かない。意志とは裏腹に、手足に力が入らないのだ。急に全力で走ったこともあり筋肉が震えている。
大きく息を吸い込むと胸が軋んだ。肋骨にヒビでも入ったのだろうか。痛みで一瞬視界がぐらりと揺れた。
(逃げ…なきゃ)
か細い腕に力をこめて、それでも身体を起こして立ち上がろうとする。だがすでに怪物は目の前に立っていた。
足元の小さな獲物が逃げられないことを悟ったように、裂けた口がイヤラシく歪んで広がった。どす黒い長い舌が牙の隙間から垂れ落ち、鼻を塞ぎたくなるほどの異臭を含んだ唾液が床に滴り落ちた。
(誰か……)
痛みと恐怖で涙が止まらなかった。
(お願い…誰か、助けて……)
怪物は目を細めると、鋭い爪を備えた前脚を上げ、勢いをつけて振り下ろした。
* * *
こんなに広かっただろうかと思える程の複雑に入り組む神殿の中を走りながら、ザカリーの頭の中は後悔の文字でいっぱいになっていた。
(ほんの少しからかって、あいつとひと時の会話――喧嘩になったが――を楽しみたかっただけだなんだ。うっかり翼のことを口走りそうになって…。傷つけるつもりはなかったんだ。弾みで口にでちまったとはいえ…大粒の涙まで流して…泣かしちまったチクショっ)
ザカリーは後悔と罪悪感で胸が痛む。そこへあんなに切羽詰まった悲鳴が聞こえてきて、もうどうしていいか判らない。
「場所とタイミングが、わ~るかっただけだよ」
「ちょ! 心の中を読むなよ!」
横に並んで走るマリオンに、ザカリーは顔を真っ赤にして怒鳴る。マリオンはのんびり笑った。
「早く、キューリちゃん見つけてあげよ~」
「……うん」
* * *
「どうやったら一瞬で、こんな複雑構造に作り変われるんですかねえ」
どこをどう走ったものか見当もつかず、手当たり次第走りながらカーティスはぼやいた。そこに突き刺すような頭痛が走り、念話が割り込んできて顔をしかめた。
(おいカーティス、そっちの状況はどうなっている?)
(ベルトルド卿)
今回の依頼主でもある、副宰相ベルトルドからの念話だ。
(リッキーから預かった小鳥が消え失せた。一体どうしたんだ?)
(え?)
カーティスは己の肩に目を向けて息を呑む。張り付くようにしてとまっていた赤い小鳥が消えているではないか。
(私のほうの小鳥も消えていますね…。ちょっと、マズイかもしれません)
(? さっぱり意味が判らんぞ)
不快げに眉を寄せる顔が目に浮かぶような声だった。しかし今はそれどころじゃない。
(とにかく物凄いたてこんでまして。状況がまとまり次第早急に連絡を入れますから、もうちょっとお待ちください!)
強引に念話を打ち切り、カーティスは走る速度を速めた。
* * *
「ねえハドリー、あたしたちも探しに行ったほうがよくない?」
神殿を見つめ、ファニーが急かすように提案する。
「そうしたいが、中で何が起こっているか判らねえ。二次遭難になったらシャレにならない。足でまといになるから、じっとしてたほうがいい」
「むぅ…」
ファニー同様すぐにでも駆け込みたかったが、ハドリーはその衝動を必死で堪えた。努めて冷静さを装ってはいるが、嫌な胸騒ぎがしてならなかった。
(あんなに怖がっていた神殿に入っちまった。ザカリーとかいう男と喧嘩していた感じから、以前話していた秘密がバレた相手のことだろうな。何を口論してこんな事態になったのかは判らんが、怖いと言っていた神殿に駆け込んじまうほど傷ついたんだとしたら…。クソッ、すぐさま飛んでいってやりたい)
妹のように思っている大事な親友だ。
ハドリーはチラッとブルニタルに視線を向ける。
(でも今のリッキーには、新しい仲間が出来ている。ここにその仲間たちがいる)
仲間との間で起こった問題なら、親友といえどしゃしゃり出ることじゃないとハドリーは考えていた。仲間たちと共に解決することが、キュッリッキのためになると思ったからだ。
「無事でいてくれよ…」
祈るように小さな声でハドリーは呟いた。
* * *
叩きつけられるような重みと衝撃が走り抜けたあと、焼けるような痛みに刺し貫かれ、キュッリッキは大きく目を見開いた。
悲鳴をあげた気がしたが、実際は引き攣れた掠れ声が小さく発せられたに過ぎない。
怪物の爪はキュッリッキの右肩から胸までを深く切り裂いた。
肉が抉り取られ、骨があらわになり、大量の鮮血が噴き出す。血飛沫と金色の長い髪が宙を舞い、キュッリッキは仰向けに倒れた。あまりの痛みに気を失うことも許されず、目を大きく開いたまま、キュッリッキの身体はビクンッ、ビクンと痙攣した。
自らの血だまりの中に身を浸し、心の中で必死に叫ぶ。
(痛い…助けて!)
口の中も血で溢れかえり、僅かに開いた口の端を唾液と血が伝う。全身が急速に凍え冷えていく感じがした。
右上半身には激しい痛みはあるのに、他の部位の感覚が麻痺している。手足を動かそうと思ってもぴくりとも動かない。閉じることもできない目からは涙が溢れ出し、薄暗い天井を凝視していた。
キュッリッキは怪物を見ていなかった。張り付いたように動かない目は天井を見上げるのみだ。
やがて意識が混濁し始め、視界がぼやけだした。
* * *
怪物はキュッリッキが流した血の匂いに鼻腔をくすぐられ、なんともいい気分になっていた。
己の爪にこびりついた肉片と血を舐めとると、嬉しそうに目を細める。新鮮で甘い芳しい香りが、口内から鼻に突き抜けていった。
ずっと欲しかった味と匂い。
小さな獲物を見下ろし、怪物は生臭い息を吐き出した。もう動くこともできず、血だまりの中で息も絶え絶えになっている。
ぬらぬらと濡れ光る赤黒い肌からは、興奮のためか脂が滲み出し、よりテラテラと光沢を強めた。
怪物は想像する。腹を切り裂いたら、今度は何が見えるだろうと。急に興味が沸いて、それがよりいっそう残忍な興奮につながった。
怪物はキュッリッキの腹に爪先を向ける。
怪物は前脚を振り下ろし、キュッリッキの腹を切り裂こうとした。瞬間、
「ぐっ!」
低い唸り声がして、何かに動きを止められた。怪物は怪訝そうに足元を覗き込む。そして突然周りが賑わいだし、なにやら足元に小さい生き物が集まり始めて首を傾げた。
* * *
「リッキーさん!! なんてことに」
「キューリちゃん!」
「ランドンさん早く回復魔法を! このままではリッキーさんが」
「判ってる!」
ランドンはキュッリッキの傍らに膝をつくと、両手を肩口にかざした。
「土に流れた毒は 二度と身体に戻らない
胸から流れ出た苦痛も
戻ることなく去らしめよ」
掌から柔らかな光が溢れ出し、傷口を優しく包み込んだ。
「キューリさん…」
ハーマンは為す術もなく、キュッリッキの周りをほたほたと歩いた。魔法〈才能〉はあるが、回復魔法は得意ではない。この状態で無理に使うのはかえって危険だから手が出せなかった。
寸でのところで怪物の攻撃を止めたガエルは、交差させた腕で怪物の前脚を押しとどめながら肩ごしに振り向く。
「キューリを動かせるか?」
「この様子じゃ今すぐは無理だ。戦う向きを変えてくれ、ガエル」
「了解だ」
ありったけの力を両腕に込め、ガエルは怪物の身体を前方に思い切り押し出した。怪物は後ろによろけ転がって壁に衝突した。そのままガエルは怪物を追い、キュッリッキたちから離れた。
ルーファスはハーマンにガエルのサポートにつくよう指示をすると、すぐさまカーティスに念話を送った。
(それは…)
映像付きの念話を送られ、カーティスは愕然とその場に立ち止まった。ヴァルトらが何事かと足を止める。
(ヤバイぞ、かなりの重症過ぎて。ランドンに止血させてるが、このままじゃ死んじまう)
(わ、我々もすぐに向かいます)
(ああ。ギャリーにはオレから連絡を入れておく)
(判りました)
いつになく狼狽えるカーティスとの念話が終わると、ルーファスはすぐさまギャリーに念話を送った。
急に辺りが騒がしくなり、キュッリッキは小さな声をあげる。
「……だ…れ?」
「リッキーさん!」
ランドンの反対側に膝をついていたメルヴィンは、キュッリッキの顔を覗き込んだ。
キュッリッキはぼんやりとする意識の中、メルヴィンに気づいて声を振り絞る。しかしその声は弱々しく、か細くメルヴィンには聞き取れない。メルヴィンは顔を近づけた。
「助け…て」
言葉を発するのが苦痛なのか、血を溢れさせながら小さく唇を動かした。
蒼白なキュッリッキの顔を覗き込みながら、メルヴィンは必死に叫ぶ。
「もう大丈夫ですから、助けに来ましたからね!」
力なく床に置かれていた左手をそっと取ってメルヴィンは励ました。驚く程手は冷たくなっていて、それがよりメルヴィンの不安を煽る。
口を動かしたことで喉に血が流れ込んだのか、キュッリッキはむせて激しく咳き込み血を吐き出した。メルヴィンは慌ててキュッリッキの口元をそっと拭ってやる。
「動かないで!」
額に汗を滲ませランドンが悲鳴のように叫ぶ。
「回復魔法は得意で専門だけど、こんなに酷い怪我人を診るのはボク初めてのことだよ!」
「おし、みんなに連絡はついた。もうちょっと一人で頑張ってくれランドン。シビルがこっち向かってるから」
まだ遺跡内を走り回る仲間たちに連絡を付けていたルーファスが、必死のランドンを振り返った。
「うん」
回復魔法では怪我や病気自体は治せない。痛みや疲労を和らげ、止血をし、細胞の壊死を防ぐくらいだ。それはどんなに高位魔法を操る魔法使いにも、それ以上のことは不可能なのだ。怪我や病気をある程度治せるのは医療〈才能〉だけである。
キュッリッキの状態は深刻で、一刻も早く医者による治療が必要だ。
(こんな大怪我でよくショック死しなかったと、褒めてやりたい…)
ランドンは今にも死にそうなキュッリッキを見つめ、いつもは無表情な顔を複雑な色で覆った。
「メルヴィン、キューリに君の外套をかけてあげて。血が流れすぎてて体温が急激に下がってる」
「そうですね」
頷いてメルヴィンは外套を脱ぐと、そっと下半身にかけてやった。そして再度手を取りそっと握った。
ランドンの回復魔法を受け痛みが和らいだのか、キュッリッキはどこかホッとしたような気分になっていた。でも意識は混濁としていてはっきりしない。
寒くて寒くて仕方が無かった。
(みんなが…来てくれた…)
全身が冷え切っていく中、片方の手だけがほんのりと温かい。それが心に小さな安堵感をもたらしてくれていた。
(メルヴィンが…)
騒々しい音も、沈み込むようにして聞こえなくなっていく。
仲間たちの気配を僅かに感じながら、キュッリッキの意識は深い闇へと落ちていった。
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