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   第一章 結婚はプレゼン次第


 まったく!
 そんなののしり言葉を吐き散らしそうな面持おももちで、城藤隆州しろふじたかくには自身の席に座ったまま、近づく碓井深津紀うすいみつきを迎えた。
 もっとお手柔らかに。普段の深津紀なら物怖ものおじすることなく冗談めかして言うところだけれど、いまはそんな気分になれない。
 ほかの社員たちが、お疲れさま、とねぎらいの言葉をかけながらも、心配そうに、あるいは興味深そうに見守っていて、だだっぴろい営業フロアのなか、まるで針のむしろを歩かされている気分だった。
 足が進んでいるのが不思議なくらい深津紀は気落ちしたまま、窓を背にして座った城藤の前にたどり着いた。デスク越しに見上げてくる眼差まなざしは冷ややかだ。
 気取けどられない程度に息を吐き――

「城藤リーダー、すみませんでした」

 深津紀は深々と頭を下げた。

「おれに頭を下げてもなんの利益も生まない。顔を上げろ」

 城藤は、眼差まなざしと同様、口調も冷ややかであれば声音も素っ気ないではすまないほどに冷えきっている。

「すみません」

 上体を起こして、深津紀はつぶやくように意味もない謝罪の言葉を繰り返した。
 案の定、城藤は顔をしかめる。いつもは無表情と言っていいくらい、感情を表さないのに、不機嫌さだけは表に出るらしい。なまじ、端整な風貌ふうぼうだけに、冷ややかさについても不機嫌さについても、平凡な見た目の人間と比べて倍増しで伝わってくる。せめて椅子に座っていることで、背の高さゆえの威圧感が軽減されたことは、深津紀にとって幸いだった。
 不出来な部下を放り出す前準備のように、繰り返し片方の手のひらに叩きつけられていたボールペンが、無造作にデスクの上に放り出された。城藤は悠然と椅子にもたれて、ひじ掛けに左右それぞれひじをのせる。ロッキング機能のおかげでその恰好はふんぞりかえるようで、せっかく軽減されていた威圧感が加わった。

「あれだけシミュレーションをしておきながら、くだらないミスを引き起こすとは、それだけ自分が奇特な存在だっていうアピールか?」
「……そんなはずありません。それに、くだらなくないことです。くだらないのはわたしの頭で、ミスとしては致命傷です、名前を間違えるなんて」
「そのとおりだ。弓月ゆづき工業は、新人だったおれが一年かけて開拓した取引先だ。青臭いことを言えば、思い入れはある。それを半年、時間をかけて碓井さんに引き継いできた。営業がはじめてというわけでもない、はじめての営業先でもない。それをしょぱなからしくじるとは……どうやったら部長の名前を間違うなどという初歩的なミスができるのか、まったく理解に苦しむ」
「……自分でもそう思っています。あの、またわたしに行かせてください。アポイント取れるかどうか、わかりませんけど……お願いします」
「お願いするまでもない。あたりまえのことだ。そう言わなきゃ、営業失格の烙印らくいんを押すところだ」

 城藤は容赦ようしゃなく吐き捨てた。

「まあまあ、城藤リーダー、弓月の外山とやま部長は……」
新谷しんたに課長、問答無用です。経験にとぼしいとはいえ、碓井さんには非しかありません」

 と、城藤のデスクと少し距離を空けた課長席から新谷がなだめようとするも、城藤ははね返し、それから深津紀に目を向けると――

「釈明の余地も皆無だ」

 ぴしゃりと言い渡された言葉は、深津紀だけでなく、このフロア中に向けられたように感じた。深津紀に同情するな、ミスはだれしも許されない、と深津紀の失態にかこつけてそう知らしめたのだ。
 深津紀からすれば、釈明する気など毛頭ない。ただ時間をさかのぼって自分に会えるなら、エントランスをくぐるまえに、もう一度きちんと関係者の名刺を確認して頭に叩きこめ、と忠告する。
 この会社、TDブローカーは、自社発案や依頼によりロボットと各種センサの研究と開発に取り組んでいる。自社工場を持たず製造は委託という形態を取り、専門的で精密な開発ゆえに製品単価には高額な利益が含まれる。
 深津紀は入社して二年目に入ったばかりだ。今日はアフターフォローの定期訪問ではなく、従来のものを新しく入れ替えてはどうかという売り込みの提案を弓月工業に持ちこんだ。そのために、これまでにない緊張をいられていた。それが悪いほうに出てしまった――とすませればいいけれどそうはならない。
 建設機械の部品を手がける弓月工業は、TDブローカーが製造を委託する会社でもある。中堅会社とはいえ、技術力は大企業に劣らないどころか分野によっては抜きん出ている。今回の件は、城藤と入念に打ち合わせをしたうえで、深津紀は単独で弓月工業を訪れた。一機一千万単位の商談となるわけで、今後のことも含めて成立するか否か、会社にとって到底スルーできない取引だ。
 ミスという言葉では足りない。大失敗だ。

「碓井さん」

 ハラスメント対策で〝さん〟付けで呼ぶのはいまやあたりまえの世の中だけれど、呼び捨てで罵倒されてもしかたがないと思いながら――

「はい」

 せめてしっかりと返事ができたことに深津紀はほっとする。

「今日、プライベートで予定があるならキャンセルしてほしい」

 業務時間外の要求はやはりハラスメントだ。依頼を装った言葉はパワーハラスメントの回避対策だろうが、その実、城藤の眼差まなざしには断るなどできないだろうと強要が込められている。業務時間外だと開き直るには、正味一年の未熟者とはいえ、深津紀の仕事に対するプライドが高すぎた。

「はい」

 営業指導か、指南してもらえるのならいくらだって残業する。そんな気持ちで深津紀は深くうなずいた。


 自分のデスクに戻って弓月工業に電話をすること、時間を空けて三回。最初の二回は『席を外しておりまして』云々うんぬん、丁重に受付で断られた。三回目に『お待ちください』と応対されて担当者の鹿島かしまが出てくれたときは、まえの二回分は避けられたのではなく、本当に席を外していたのかもしれない、とそう思って深津紀も少しはほっとした。けれど。

「検討してみますが、いますぐにはですねぇ……」

 鹿島は気乗りしない様子で言葉をにごし――

「まあ、外山が会う気になるまで少しお待ちいただけませんか」

 と、極めつけの言葉を添えてアポイントの取り付けを退しりぞけた。
 突きはなす言い方ではなく、なだめるような気配が感じられる。その解釈が正解だとして穿うがてば、鹿島の同情を引くほど深津紀の失態に外山が怒り狂っているということになる。

「城藤リーダー、鹿島課長に連絡はついたんですけど、アポイントは取れませんでした。電話は三回しました。今日はこれまでにしてまた明日にと考えています。鹿島課長に負担をかけるんじゃないかと……どうでしょうか……」

 相談してみると、城藤は椅子の背にもたれて深津紀をじっと見つめる。

「鹿島課長はなんとおっしゃった?」
「外山部長が会う気になるまで少しお待ちくださいと……」

 城藤はまたボールペンで手遊びを始め、それから深津紀かられた目は思考を巡らすように宙をさまよった。そうしたあとの深いため息はどういうことか。
 城藤は背を起こしたかと思うと、デスクに置いた社用のスマホと煙草ケースをまとめて取りあげながらおもむろに立ちあがった。
 自分の理想とする背の高さ、百六十センチよりは三センチも足りない深津紀だが、それよりも三十センチ近く背の高い城藤が立つと、ヒールを履いても役に立たない。デスク越しでも圧倒される。

「碓井さんの判断でいい。担当は弓月工業だけじゃないだろう。引きずって時間を潰すような奴は必要ない。新規を取ってきてこそ一人前だ。まずは、半人前なりにやることがあるんじゃないか」

 城藤はデスクをまわって脇をすり抜け、深津紀を置いてけぼりにしてさっさと立ち去った。
 深津紀は恨めしそうに、自分を突きはなしたその背中を目で追う。追いかけていって、その勢いで飛び蹴りでもできたら、とばかげた衝動に駆られた。それができたとしても反対に、分厚い鉄の壁にぶつかったみたいにはじき飛ばされそうな気もする。
 手厳しい上司だとはわかっていたけれど、失敗したときの叱責は強烈だった。無慈悲で同情もしない。もっとも、今回の件は同情の余地がない。
 深津紀はため息をつき席に戻ってはみたものの、気分を切り替えることはなかなか難しく、悶々もんもんとしながらデスクワークに向かった。

「大丈夫?」

 自分でも何度目かわからないため息をこっそりとらした直後、声がかかった。デスクとデスクの間にある、手もとが見えない程度のパーティションの領域を超えて、隣席の丸山久美まるやまくみが顔を覗かせる。
 丸山は、深津紀と同じファクトリーオートメーションFA事業本部の営業部に所属する、四つ年上の先輩だ。大学の先輩でもあるけれど入れ違いで在席し、大学時代に接点はない。知り合ったのは就職活動時の会社説明会だ。丸山はTDブローカーのFA事業の紹介を担当していて、どこの大学かかれた際にOGとわかった。そうして深津紀は彼女に憧憬を抱き、この会社を第一志望にして、その望みどおりに就活を乗りきったのだ。

「大丈夫じゃないです、まったく」

 正直に憂うつな感情を丸出しにして答えると、深津紀の遠慮のなさに丸山は笑った。

「全然、おかしくないんですけど」

 ねた気分で言いながら深津紀は城藤のデスクのほうをちらりと見やった。休憩のついでに新人研修に顔でも出しているのだろうか、あれからずいぶんと時間が経ったのにデスクに姿はない。だから丸山は声をかけてきたのだろう。いま深津紀が無駄話をしていると気づいたら、間違いなく叱責が飛んでくる。

「きっと大丈夫。もとは城藤リーダーの顧客だし、リーダーがほっとくわけないわ。それに……」

 丸山は思わせぶりに言葉を切って、にっこりとした。

「それに、なんですか」

 深津紀は丸山の――大げさにいえば話術にまってかした。

「実はね、リーダーが碓井さんに弓月工業を譲ったってこと、けっこうみんな驚いてる。研修の一環で城藤リーダーが碓井さんを同行させてるんだと思ってたけど、まさか身を引いて碓井さんに引き継ぐなんてね」
「……だから?」

 何を言いたいんですか、とそんな意を込めて深津紀は首をかしげた。

「城藤リーダーは碓井さんに一目いちもく置いてるってことよ」

 そう聞いて喜ぶどころか、深津紀はさらに落ちこんだ。

「だったら、今日は倍増しでがっかりさせました」
「そう? むしろスパルタ教育やる気満々て感じ。弓月の担当から外すつもりはないみたいだし」

 確かに、また行かせてほしいと言ったとき、城藤はあたりまえだと応じた。そうしないほうがどうかしているといった様子で、それはつまり、深津紀から弓月工業を取りあげるつもりは、少なくともいまはまだないのだ。

「まだアポイント取れませんけど、とにかくねばるしかないので」
さじ加減が難しいけど、営業の基本はそこね。わかってるじゃない」
「一年もほかの人を見てくればわかりますよ。いくら新人でも……ってもう新人じゃないですよね。新入社員が入ってきてるし。せめて研修期間中で助かりました。新入社員の前で叱られなくてよかったです」

 丸山はぷっと吹きだした。

「碓井さん、素直なだけじゃなくて、いちおうプライドはあるわけだ」
「城藤リーダーからこてんぱんにやられてもしかたないくらいのプライドしかないです。こっちのダメージだけ考えればパワハラ上司ってところですけど、リーダーは口先だけじゃなくて実績あるし、怒鳴ったわけじゃないし、理不尽なことも言いませんでした」
「城藤リーダーは恥をかかせようとして碓井さんのミスを人前でさらしたわけじゃなくて、共有したのよ」

 丸山がそう思っているとしたら、多くの社員もそう受けとっている。深津紀はほっとした。
 ここでは社員がそれぞれ自立していて、かといって個人主義かというとそうでもない。だれよりも抜きん出ようという意識の高さはあっても、蹴落とすような下劣げれつさはいまのところ見受けられず――もっとも、他者を蹴落とす暇などない。そんな時間があるなら自分のために有効に使うほうがいい。そんな考えのもと、仲良くして情報を得て自分の資本にしようという雰囲気がある。上昇志向の深津紀にとっては願ったり叶ったりの職場だ。

「わかってます。失敗も成功も参考にして、いいとこ取りしろってことですよね」
「そういうこと」

 おもしろがって相づちを打った丸山は、椅子ごとさらに近づいてくると――

「ね、まえに碓井さんが言ってたこと」

 と、内緒話をするように声をひそめた。

「え、なんですか」
「早く結婚したいって言ってたじゃない。ターゲットとして城藤リーダーなんてどうなの?」
「……え!?」

 ぎょっとした顔を向けると、丸山は冗談に興じる口調ながらも、本気で深津紀の返事を待っている。

「無理ですよ!」
「どうして?」
「……どうしてって……だってあの顔にあのスタイル、プラスで〝デキる男〟ですよ。年収が半端ないって聞いてますけど、それなのにカノジョがいないわけないじゃないですか。いないとしたら恋愛や家庭に興味ないってことです。仕事にしか生き甲斐を見いだしてない感じ。それに、あのまんま家庭にいたら、家でも手抜きできませんよ」

 丸山はまた吹きだしながら、でもね、と反論した。

「男女平等、家事も折半せっぱんしてあたりまえっていう時代なんだから、手抜きしても一方的には責められないと思うけど」
「……そういう丸山さんが狙ったらどうです?」

 そう言ってみたら、丸山は目を丸くして、次にはあきれた面持おももちになった。

「わたしはそもそも結婚をしたくないタイプ。言ったことあるでしょ。だから、独りで余裕で生きていけるように、年収が段違いにいいこの会社を選んだの。実績次第だけど」
「母もキャリアウーマンで、わたしもそうなりたいって思ってたし、この会社には丸山さんのそういうところに憧れて来ました。結婚に関しての考えは正反対ですけど」
「ありがと。じゃ、とりあえず終業まで一時間、がんばりましょ」

 丸山は満更まんざらでもないといった顔で言い、自分のデスクに向き直った。
 深津紀から見た丸山は、インターンシップに参加したときにその仕事ぶりから受けた印象どおり、〝デキる女〟そのものだ。彼女に言ったことはおべっかでも誇張でもなく、心からの本心で、深津紀の目標だ。憧れにとどまらず、キャリアを積んで丸山と肩を並べられるまでになりたい。
 加えて、結婚もしたいし、子供も欲しい。できるだけ早く。その気持ちは強迫観念に近く、自分で自分をかしているようにも感じる。あれもこれも可能なら全部経験してみたい、と欲張っている自覚はある。仕事も結婚も人生計画のうちであり、夢ではなく目標だ。
 目下のところ、結婚よりも仕事で、深津紀は丸山にならってパソコンに向かった。
 城藤に言われたとおり、営業先は弓月工業だけではない。別の案件に取りかかり、提案書を作成しているうちに終業時間になった。そこでぴたりと腰を上げる社員はめったにいない。
 城藤から呼びつけられたし、少しだけ気分転換に休憩をしよう、とノートパソコンを閉じた刹那。

「碓井さん、出かけるぞ」

 城藤の声がして、見るとすでに椅子から立ちあがって城藤はジャケットを羽織っていた。
 深津紀は本能的に立ちあがり、椅子の背にかけていたジャケットを取り、デスクの下に置いたかごからバッグを取りあげると、いってきます、とだれにともなく声をかけて慌てて城藤を追った。

「城藤リーダー、どこに行かれるんですか」

 エレベーターに乗るなりたずねると、城藤は深津紀を一瞥いちべつした。

「弓月工業だ。呼びだされた」

 端的な言葉だからこそ大きく響く。上司を呼びつけるということは、それだけ深刻だということにほかならない。

「すみません」
「だから、おれに謝ったからといってどうなるものでもないだろう」

 素っ気ない。言いぶりが深津紀を絶望的な気分にさせる。いまから城藤と謝罪に向かったとしても、それが受け入れられる保証はない。
 深津紀は口を開くのが億劫おっくうなほど意気消沈する。いつもと違って営業車ではなく電車で移動して、人にまぎれたこともあり、会話がなくても沈黙でまりするのは避けられた。もとい、これからのことを思うと緊張するばかりで、沈黙を気にしている余裕もない。
 タクシーに乗り換え、弓月工業に到着すると、エントランスをくぐる寸前、深津紀の足が止まった。斜め後ろから追ってくる足音が消えたことに気づいたのか、少し先で城藤が足を止め、体の向きを変えながら振り向く。
 気落ちしているあまり自分にしか目を向けていなかったけれど、ひんやりした眼差まなざしを受けとめてはじめて、城藤が気に病んでいるふうでもなく悠然としていることに気づいた。

「大丈夫です」

 思わずそんな言葉が飛びだして、深津紀は一歩踏みだした。
 城藤は口を歪めて笑う。皮肉っぽくもなくあざけるのでもなく、こんな状況なのにおもしろがっている気配を感じた。否、気が張っているあまり感情がキャパシティオーバーしたすえ、深津紀が気楽になろうとして、勝手にそう思いたがっているのかもしれない。

「行くぞ」

 いざ出陣、とばかりに声をかけられ、城藤が先導する形で弓月工業を訪問した。
 終業時間をすぎて人がまばらななか、通されるのが部長室とわかったとき、深津紀の緊張感はピークに達する。引き返したい気持ちもあるが、逃げるなど言語道断だ、深津紀は覚悟を決めてなかに入った。

「失礼いたします」

 城藤に続いて深く一礼をして顔を上げたとき、鹿島もまたやってきた。会釈を交わしていると――

「やっと来たな。座ってくれ」

 きみもだ、と、深津紀に向かって続けた外山は少しも不機嫌な様子がない。

「碓井」

 状況が呑みこめず、しばし呆然とする深津紀を城藤がうながした。

「はい」

 ハッとしてすぐさま返事をすると、失礼します、と深津紀は外山と鹿島が座るのを待ってソファに腰をおろした。
 だれから口を開くか。それは深津紀にほかならない。
 外山の広いデスクにはさらにサイドデスクが付けられている。その上に置かれている船の模型を一見し、それから深津紀は立ちあがって頭を深くれた。

「外山部長、本日は失礼をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「そのことはいいから、頭を上げて座ってくれないか」

 昼間、名を呼び間違えたとき、外山は咳払いをして仏頂面になったすえ、すぐさま深津紀が謝罪したものの、今日は帰ってほしい、とみずからが席を立って部屋を出ることで深津紀を疎外した。鹿島のほうは『検討はしておきますから』と、そんなフォローをして深津紀を帰らせたのだ。

「はい」

 城藤の正面に座った外山はいま、穏やかという以上に友好的で、深津紀は狼狽ろうばいしてしまう。思わず隣を見やると目が合って、城藤は薄く笑みを浮かべた。どうやら、訳がわからないのはこのなかで深津紀だけらしい。

「あれは気に入ったかね」

 外山はサイドデスクのほうを指さした。戦時中に海に沈んでしまった戦艦の立派な模型がある。

「はい。フォルムにとても惹かれます。はじめて拝見したときに調べてみました。戦いの主役という幻想にすがってその結果、進化の犠牲になったことがよけいに美を強調しているように感じます」

 深津紀がためらいつつも正直に感想を述べると、外山は愉快そうに顔をほころばせた。

「進化の犠牲か。なるほど、時代遅れで役に立てなかったことをそんなふうに言い換えられるのなら本望だろう」
「伝統は別ですが、ものづくりは常に進化を求められるものなので、少し複雑にも感じました」

 外山は賛同したように大きくうなずきながら、深津紀から城藤へと目を転じた。

「城藤くん、いい目をしているな。文句の付け所がない人材だ。だが、きみもたまには顔を見せにきてくれ」

 どういうことだろう。深津紀はついていけず、理解するまえに城藤が口を開いた。

「もちろん顔は出します。ですが、これ以降は勘弁してください、新人をからかうのは」
「だが、おもしろいじゃないか。きみと同じ間違いをするなど、普通はないだろう。ここに来てこの戦艦大和の造形美に惹かれる者に、わたしと気の合わない者はいない。わたしの名を〝ヤマト〟と呼び間違えるほど、きみたちには印象に残った。そういうことだろう?」

 外山の発言に深津紀は混乱した。苦笑する城藤の隣で考えを巡らせ、まもなく把握する。目を丸くした深津紀を見て、正面に座った鹿島が推測を裏づけるようにうなずいてみせた。

「戦艦大和と外山ですから、関連付けて名を覚えようとするとかえって混乱してしまう方がいるみたいですよ、碓井さんのほかにも」

 と、鹿島は興じた様子でちらりと城藤を見やる。
 つまり、城藤も深津紀と同じミスをしたということだ。思わず城藤に目を向けた。

「そういうことだ」

 深津紀が報告をしたときは散々冷ややかに批難したくせに、城藤はいけしゃあしゃあと認めた。
 城藤とふたりきりなら文句をぶつけたいところだ。けれど、あいにくと得意先である。おびだといって外山から食事に招待され、城藤が遠慮もしないで応じると、深津紀はひと言を返す余地すらなかった。


 まねかれた食事処しょくじどころは、弓月工業の近くにある日本料理店で、話題にのぼるのは仕事のことよりも、戦艦大和の話からそれをモデルにしたアニメの話だった。
 果たして城藤は外山を口説くために――つまり仕事のために見たのか、それとも深津紀が好奇心に駆られて検索したように、見てみたいと思って見たのか、打てば響くように受け答えをして、外山との会話は暴走ぎみに弾んだ。
 なごやかな雰囲気で二時間もたたずに会食は終わり、深津紀は城藤とともにタクシーで駅に向かった。少し気が抜けると、考える余地も増えてくる。城藤が営業車を使わなかったのは、宴席がもうけられると予測していたか、もしくは決まっていたのだろうと思いついた。

「駅まで少し歩くけど、いいか」
「はい」

 深津紀がうなずくと、その辺で、と城藤は運転手に告げ、程なくふたりはタクシーから降りた。

「酔い覚まし兼ねて煙草が吸いたい」

 城藤はつぶやくように言って歩きだす。
 会食は酒をともなった。深津紀は酒が好きかかれた際に、好きだけれど弱いと答えていたから必要以上に勧められていない。一方で、城藤はほどほどに外山たちとみ交わしていた。酒に酔った様子はないけれど、人にはペースがあって城藤が無理しているのは確かだ。もし体調が悪ければ悪酔いもする。

「予定外で面倒なことをさせてしまってすみませんでした」

 城藤は半歩後ろをついてくる深津紀を一瞥いちべつし、何も言わずに歩き続けた。夜の八時をすぎて、都心部を離れた通りは人も車も少ない。

「ここだ。すまないって思ってるなら一服に付き合え」

 まもなく着いた場所は、喫煙マークのついた仕切りの立ったところだった。特に密室になっているわけでもなく、隣の自動販売機に行くと城藤は深津紀を振り向いた。

「コーヒーでいいか。甘いやつ? 無糖?」
「甘いのが好きです。自分で――」

 ――買います、と言いかけた言葉は――

「これくらい黙っておごらせろ」

 という強引な言葉にさえぎられた。
 缶コーヒーを手渡した城藤は、ビジネスバッグから煙草ケースを取りだし、煙草を一本取って口にくわえた。ライターの火をともし、それを片手で風からかばいながら煙草につける。カチッとライターをしまうしぐさといい、ひと息吸ってわずかに目を細めつつ煙を吐きだす表情といい、城藤は何から何まで様になる。外灯のせいで、端整な顔に絶妙な影が差すから尚更だ。

美味おいしい」

 コーヒーを一口飲んだとたん、深津紀はしみじみとつぶやいた。やっと〝生きた心地がしない〟という緊張から解放されていくような気がした。
 城藤は、椅子のかわりに設置されている鉄パイプに腰かけ、煙草をくゆらせながら斜め前にいる深津紀に目を向けた。

「おもしろいだろう、外山部長」
「……え?」

 きょとんとしたまま問い返すと、城藤はハハッとおかしそうに笑った。こんなくだけた空気の城藤ははじめて見る。

「わかってないのか。外山部長は、碓井さんがおれと同じ間違いをしたことがおかしくて笑いをこらえきれなかったんだ。だからそれを隠すために仏頂面で切りあげたらしい。会食中、碓井さんが席を外してる間にそう言われた。……外山部長は度量が広い。碓井さんが落胆していることを承知していながら、苦情を言ってきたり、電話に出なかったりしたのはおれを呼びだす口実だった。外山部長はおびだって言ってただろう。……部長はまったく怒ってない。部長流のちょっとした洗礼ってところだ」

 城藤は時折、煙草を吹かしながら、深津紀が驚くようなことを教えた。いや、驚く以上だ。

「よかった……」

 ほっとした反動で一気に気が緩んだ。とたん、缶コーヒーを持った手にぽたりと水滴が落ちた。涙腺までもが緩み、ぽたぽたと続けざまに水滴が手を叩く。
 潤んだ視界のなか、時が止まったように表情を止めた城藤の顔が映る。


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