恋愛コンプライアンス

奏井れゆな

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終章 狩人の武器はハートのエース

9.

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 見当はついているという以上に、道仁は確信しているように見えた。
「……もしかしてその人を探したの?」
「いや、見た」
「……え?」
「正確には、聞いた、だな。台風の日、ささやかな夕食に誘ったとき、琴子は廊下で立ち話をしていた」
 なんのことかと琴子が考えたのはつかの間、その日その時のことが脳裡に甦ってスライドショーのようにシーンが切り替わる。琴子はそのワンシーンに気を留めると、目を丸くした。
「道仁さん、あのとき……もしかして近くにいて聞いてたの?」
 台風の日、犬飼がやってきて廊下で話した直後、犬飼がエレベーターホールに向かったのと入れ替わるようにして道仁が現れた。だれも近くを通らず、大きな声ではなくとも耳をすませば聞こえるだろう。
「全部じゃない。最後の一部分だ、たぶん。犬飼部長が琴子を脅していた」
 道仁は悪びれることなく盗み聞きを認めた。往来で話していたのだから盗み聞きをされるのはこちら側の失態だとしても、あのあと何事もなかったように振る舞っていたのは褒められたことではない。
「あのとき、道仁さんは話してみる気ないかって云ったけど、わたしを試してたの?」
 道仁はわずかに目を見開き、そのあと心外だといわんばかりに顔をしかめて首を横に振った。
「試す? それは、おれが琴子を信用していないって前提の云い方だろう。違う、純粋に話してほしかっただけだ。琴子の気をらくにできるくらい、頼られたかったってとこだな。信用してないのは琴子のほうだ」
「そういうことじゃなくて……」
 否定しかけたことを、ああ、と道仁は理解したように軽く手を上げて制した。
「確かに信用という言葉を持ちだすのはちょっと違うな。不安になるのとは別次元だ。責めてるわけじゃなくて、ただの愚痴だ。琴子は簡単に別れを口にして、それを受けいれるつもりだった。おれよりも仕事を失うことが怖いって云われたんだ。やりきれないだろう?」
「それは同じレベルで天秤にかけたわけじゃない。道仁さんが云う別次元の話。わたしは別れたいなんて云ってないから。しかたないって考えて……」
 道仁が傷ついているように見えて琴子が慌てて弁解するなか、道仁はいかにも機嫌がいいといった顔に変化した。また云わせられたのだ。梓沙と同様、道仁は琴子を動かしたり、思うようにいざなったりする傾向がある。
「いずれにしろ、琴子から信頼を得なければ埒が明かない。信頼を得て、琴子を手に入れるためには問題を排除するしかない。ひとつ、脅迫の件はおれが動くまえに片づいた。けど、もうひとつの問題、壮輔と梓沙ちゃんのことは相当に厄介だ。人の気持ちは、特に部外者の思うようにはならないから。拗れたときには冷静になる時間を置くべきだし、反対に、放置すればするほど修復は難しくなる。とりあえず、一週間あれば充分だろうと思って連れてきたら――」
 ――爆弾発言だ、と道仁は手の打ちようがないといったふうに首を振った。
「梓沙が妊娠してること?」
「ああ。壮輔は冷静になりかけてたし、このままでいいのかって説き伏せて連れてきたのに元の木阿弥だ」
 アパートで梓沙と壮輔が対面したときの様子を思えば、一気にいさかいが再燃したのは歴然だった。どうなることかとはらはらしていたけれど、話し合う余地は確保されて、あとはふたり次第だ。
「梓沙たちはどうなると思う?」
 時間をくれ、と壮輔が口にしたその時間を乗り越えてスムーズにうまくいってほしい。そんな希望を抱きながら琴子は道仁を見つめた。
 道仁は少し首をひねる。考えこむような素振りだ。
「どうなるとしても……どんな形になるとしても、壮輔が梓沙ちゃんに対して無責任なことをするはずはない。いま、仕事を変わったばかりで壮輔には余裕がない。だからこそ時間を必要としてる。壮輔が仕事について踏ん切りがつけられたのは、梓沙ちゃんがいたからでもあって、それは壮輔がいちばんわかっている」
「ほんとに?」
「確かだ」
 と云ったあと、道仁は琴子の期待のこもった顔に目を留めて、それから力尽きたように笑った。
「何?」
「もしかして、琴子は梓沙ちゃんと子供の面倒を見る気でいた?」
 道仁には何かと驚かされる。道仁は、琴子を誤解する気がないことをことごとく主張する。そして、それを裏付けるのは、琴子を理解する以上にこうやって云い当てることだ。
「わたし、道仁さんには隠し事できない?」
「百発百中とはいかなくても琴子をわかろうとしているぶん、いろんなことを噛み合わせて符号点を出してる。それが絶対なら、先回りをしてもっとらくに琴子を手に入れられてるけどな。狩り本能を掻き立てられて、それから付き合うようになって、培ってきたものだ」
「道仁さんは本能ってまえにも云ってた。狩り本能って食べてしまったら満腹になってそれで終わりじゃない?」
「そう簡単には運ばない。人間にはほかの動物にない機微がある。それに、琴子にとっておれが百パーセントになる気がしない」
「……だれだって、だれかの百パーセントにはなれないと思うけど」
「そういう一般的なことじゃなくて、琴子に限った話だ。おれと梓沙ちゃんと、同時にピンチになったとき、どっちを助けに向かうんだろうなって。一週間前、琴子は梓沙ちゃんを選んだ」
 びっくり眼で困惑した琴子を見て、道仁は可笑しそうにした。
「琴子に選択を強要してるわけじゃない。ただ、ずっと梓沙ちゃんに勝てる気がしないまま、やっていくんだろうな。ということは、おれが“満腹”になることはない。それが琴子の安心材料になるかは別の話になるけど……」
 道仁はにやりとしたかと思うと、すっと立ちあがった。
「罰を受ける覚悟ある?」
 云いながら道仁は手のひらを上向けて差しだした。
 琴子はその手から視線を上げていき、道仁を見上げる。
「……罰って……?」
「ふたりのときに里見リーダーと呼んだら罰を与えるって云っただろう」
 少し考えて、そう呼んだのが会議室でのことしか思い当たらず、琴子は首をかしげて異を唱えた。
「道仁さんが云った罰の条件は、ふたりのときじゃなくて家にいるときの話でしょ……」
「そこは暗黙の了解のうちだ。それとも、いまになってもそれほどよそよそしい関係でいたいって? まだ琴子の中には別れるという選択肢がある?」
「そんなことない」
「それなら手を取って。おれに自分を預けるというしるしに」
 言葉で告白するよりらくだろう、と道仁はからかう。実際はそうしようと努めているだけで、真剣にそれを待っていることは伝わってくる。
 その気持ちに急かされるように琴子は自分の手を道仁の手に重ねた。とたんに、きつく握りしめられて、立ちあがるよう促された。
「この手に預けたことを後悔してももう遅い」
 道仁は身をかがめたかと思うと琴子の躰をすくって抱きあげた。
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