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終章 狩人の武器はハートのエース
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小ぢんまりしたLDKの室内は、背の高い道仁と壮輔が加わるととたんに窮屈に感じる。あまつさえ、以前、ここで四人で飲み明かしたことがあるけれど、そのときの和気あいあいとした楽しさとは程遠く、気まずさしか感じない状況下、狭い密室に閉じこめられたような息苦しさを覚える。
どこに目をやりようもない。そんな琴子の戸惑いは梓沙の攻撃的な言葉に掻き消される。
「お互いに別れるって合意してるのに、はっきりさせることって何? はっきりさせてなんの意味があるの? もう関係ないじゃない」
「関係ないって、本当にそう云いきれるのか。脅迫も嘘も、いいかげんにしてくれ」
「嘘なんて吐いてない。壮輔の家で勝手にわたしの過去を粗捜ししたんじゃない。だいたい、わざわざ云う必要ある? 男とベタベタお喋りするバイトだったからって、わたしはいちいち男たちと寝てない。壮輔だって童貞じゃなかったじゃない。過去の女のことを根掘り葉掘り聞きだしたら、壮輔は気分がよくなったの? どうしてその女と寝たのって文句を云っても、不快でもなんでもない? そういうことをわたしにしてるんだよ?」
「そんなことじゃない……」
「“そんなこと”? “そんなこと”を大問題にしたのは壮輔じゃない!?」
梓沙は咬みつくように云い、壮輔は口を噤んだ。それは窮したように見えたけれど、そうではなく、昂っていた感情が覚めて我に返ったようにも見える。梓沙のほうはヒートアップして、云わなくていいことまで云いそうな気配だ。
梓沙が云ったとおり、梓沙は脅迫を引っこめて別れることを受けいれたのだから、壮輔がここにいる意味はない。壮輔が別れる気なら。
つまり、そういうことなのだ。
琴子の中に希望が差す。少なくとも、梓沙にとっていま以上に悪いことにはならない。
「梓沙、ちょっと待って。さっき云われたことをそのまま返すよ。梓沙はちゃんと壮輔さんの云い分を聞くべき。聞いても同じって云うんだったらなおさら。だれも損をしないんだから。でしょ?」
ぱっと琴子に目を向けた梓沙は、壮輔に対してそうしていたように睨めつけるようだ。反論しそうな勢いだが、実際にはそうせず、梓沙は迷っている。その本心は、壮輔への未練であり、梓沙の壮輔に対する気持ちが本気だということの裏返しのはずだ。
「梓沙ちゃん、おれもそうすることを勧める。とりあえず、座ったほうがいい」
道仁が琴子の加勢をした。それなら琴子の結論は希望ではなく、正解なのだろうか。道仁を見ると目が合い、琴子、と呼びかけた。
「コーヒーを出してくれる?」
琴子が無言のままうなずくと、道仁もまた軽くうなずいた。
「梓沙、座ってて。壮輔さんも」
琴子に続いて道仁の勧めは説得に足りたのだろう、梓沙は渋々とではあったけれどラグの上に座った。壮輔がそれに倣うのを目の隅に捉えながら琴子はキッチンに向かった。
「壮輔、話すまえにちゃんと考えろよ」
道仁は壮輔に忠告したあとキッチンについてくる。その手には紙袋を持っていて、ケーキだ、と琴子に掲げてみせると、壁につけたキッチンカウンターの上に置いた。その下の食器棚を覗いて皿とコーヒーカップを取りだす。それもカウンターに置き、道仁はちらりとダイニングテーブルを見やった。
「ブランチの途中……というか、まだ手をつけてもいないみたいだ」
「わたしは起きたばっかりって云ったのに、道仁さんは嘘だと思ってる」
淹れたばかりのコーヒーの粉を捨てて、新たにセットをしながら琴子は云い返した。
「嫌味じゃないだろうな。おれは琴子にだまされたなんて思ってない」
琴子は無自覚に道仁に目を向けた。自分に都合よく解釈してしまいそうで、その言葉を正確に受けとめられる自信はない。
「だますって……大げさな云い方。起きたばっかりじゃなくても、それは大した嘘じゃない」
琴子が素っ気なく云うと、道仁ははっきり聞こえるほど大きなため息をついた。
「噛み合ってないな。けど、いまはそれを正すときじゃない。壮輔と梓沙ちゃんの話がさきだ」
その言葉に、琴子は後ろを振り向いてみた。
壮輔は、梓沙の斜め向かいに座って、ベランダへと出る窓のほうを見やっている。道仁の忠告に従って、話すべきことを整理しているのだろうか。
梓沙は自分で注いだコーヒーをひと足先に飲んでいる。コーヒーは妊婦によくないんじゃないか。ふとそんなことを思って口を開きかけ、道仁と壮輔がいる前ではまずいと気づいて琴子は口を閉じた。
そうして、インターホン越しに応対していたときのことを思いだす。
道仁に目を戻すと、紙袋から箱を取りだして、さらにその中からケーキを取りだしていた。紙袋には、いま人気のある洋菓子店の名があって、中身は二つ、抹茶色をしたモンブランが出てきた。
「道仁さん、さっき聞こえてた?」
潜めた声は、コーヒーメーカーの湯が沸く音によって紛れただろうか、曖昧な問いかけに道仁は顔を上げて琴子を見やった。
「希望を見す見す取り逃すようなことはしない」
なんのことだか、道仁の云うとおり、話していることは噛み合っていない気がして、琴子は顔をしかめた。道仁は何かを払うようにかすかに首を振る。
「まずは琴子たちが美味しいものを食べてからだ。少しは前向きに気分がよくなるように」
おれからの賄賂だ、と道仁はにやりと口を歪めた。
どこに目をやりようもない。そんな琴子の戸惑いは梓沙の攻撃的な言葉に掻き消される。
「お互いに別れるって合意してるのに、はっきりさせることって何? はっきりさせてなんの意味があるの? もう関係ないじゃない」
「関係ないって、本当にそう云いきれるのか。脅迫も嘘も、いいかげんにしてくれ」
「嘘なんて吐いてない。壮輔の家で勝手にわたしの過去を粗捜ししたんじゃない。だいたい、わざわざ云う必要ある? 男とベタベタお喋りするバイトだったからって、わたしはいちいち男たちと寝てない。壮輔だって童貞じゃなかったじゃない。過去の女のことを根掘り葉掘り聞きだしたら、壮輔は気分がよくなったの? どうしてその女と寝たのって文句を云っても、不快でもなんでもない? そういうことをわたしにしてるんだよ?」
「そんなことじゃない……」
「“そんなこと”? “そんなこと”を大問題にしたのは壮輔じゃない!?」
梓沙は咬みつくように云い、壮輔は口を噤んだ。それは窮したように見えたけれど、そうではなく、昂っていた感情が覚めて我に返ったようにも見える。梓沙のほうはヒートアップして、云わなくていいことまで云いそうな気配だ。
梓沙が云ったとおり、梓沙は脅迫を引っこめて別れることを受けいれたのだから、壮輔がここにいる意味はない。壮輔が別れる気なら。
つまり、そういうことなのだ。
琴子の中に希望が差す。少なくとも、梓沙にとっていま以上に悪いことにはならない。
「梓沙、ちょっと待って。さっき云われたことをそのまま返すよ。梓沙はちゃんと壮輔さんの云い分を聞くべき。聞いても同じって云うんだったらなおさら。だれも損をしないんだから。でしょ?」
ぱっと琴子に目を向けた梓沙は、壮輔に対してそうしていたように睨めつけるようだ。反論しそうな勢いだが、実際にはそうせず、梓沙は迷っている。その本心は、壮輔への未練であり、梓沙の壮輔に対する気持ちが本気だということの裏返しのはずだ。
「梓沙ちゃん、おれもそうすることを勧める。とりあえず、座ったほうがいい」
道仁が琴子の加勢をした。それなら琴子の結論は希望ではなく、正解なのだろうか。道仁を見ると目が合い、琴子、と呼びかけた。
「コーヒーを出してくれる?」
琴子が無言のままうなずくと、道仁もまた軽くうなずいた。
「梓沙、座ってて。壮輔さんも」
琴子に続いて道仁の勧めは説得に足りたのだろう、梓沙は渋々とではあったけれどラグの上に座った。壮輔がそれに倣うのを目の隅に捉えながら琴子はキッチンに向かった。
「壮輔、話すまえにちゃんと考えろよ」
道仁は壮輔に忠告したあとキッチンについてくる。その手には紙袋を持っていて、ケーキだ、と琴子に掲げてみせると、壁につけたキッチンカウンターの上に置いた。その下の食器棚を覗いて皿とコーヒーカップを取りだす。それもカウンターに置き、道仁はちらりとダイニングテーブルを見やった。
「ブランチの途中……というか、まだ手をつけてもいないみたいだ」
「わたしは起きたばっかりって云ったのに、道仁さんは嘘だと思ってる」
淹れたばかりのコーヒーの粉を捨てて、新たにセットをしながら琴子は云い返した。
「嫌味じゃないだろうな。おれは琴子にだまされたなんて思ってない」
琴子は無自覚に道仁に目を向けた。自分に都合よく解釈してしまいそうで、その言葉を正確に受けとめられる自信はない。
「だますって……大げさな云い方。起きたばっかりじゃなくても、それは大した嘘じゃない」
琴子が素っ気なく云うと、道仁ははっきり聞こえるほど大きなため息をついた。
「噛み合ってないな。けど、いまはそれを正すときじゃない。壮輔と梓沙ちゃんの話がさきだ」
その言葉に、琴子は後ろを振り向いてみた。
壮輔は、梓沙の斜め向かいに座って、ベランダへと出る窓のほうを見やっている。道仁の忠告に従って、話すべきことを整理しているのだろうか。
梓沙は自分で注いだコーヒーをひと足先に飲んでいる。コーヒーは妊婦によくないんじゃないか。ふとそんなことを思って口を開きかけ、道仁と壮輔がいる前ではまずいと気づいて琴子は口を閉じた。
そうして、インターホン越しに応対していたときのことを思いだす。
道仁に目を戻すと、紙袋から箱を取りだして、さらにその中からケーキを取りだしていた。紙袋には、いま人気のある洋菓子店の名があって、中身は二つ、抹茶色をしたモンブランが出てきた。
「道仁さん、さっき聞こえてた?」
潜めた声は、コーヒーメーカーの湯が沸く音によって紛れただろうか、曖昧な問いかけに道仁は顔を上げて琴子を見やった。
「希望を見す見す取り逃すようなことはしない」
なんのことだか、道仁の云うとおり、話していることは噛み合っていない気がして、琴子は顔をしかめた。道仁は何かを払うようにかすかに首を振る。
「まずは琴子たちが美味しいものを食べてからだ。少しは前向きに気分がよくなるように」
おれからの賄賂だ、と道仁はにやりと口を歪めた。
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