恋愛コンプライアンス

奏井れゆな

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終章 狩人の武器はハートのエース

3.

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 こもった声はそれでも甲高く聞こえて、琴子の眠りを妨げた。何を話しているかは聞きとれないが、梓沙が捲し立てている。
 琴子は薄らと目を開いては閉じることを何度か繰り返して、ようやくくっきりと目が覚めた。昨夜は疲れ果てて眠ったわけでも寝落ちしたわけでもない。ベッドに入っても一向に寝つけなかっただけに、目が覚めても眠っていたという意識が皆無だ。寝つきの悪い原因ははっきりしていて、あまつさえ、睡眠中も何かしら思考力を働かせていて、そのせいだろう、すっきり目覚めたというには程遠く、かえって疲れている気がした。
 枕もとに置いたスマホを取って時間を見ると、十月三日土曜日十時十七分の表示が浮かんだ。
 耳を澄まさなくても梓沙の話し声は届いて、その不機嫌な気配に琴子は眉をひそめ、ベッドからおりて部屋を出た。
 とたんに梓沙の声は明瞭な言葉として耳に入ってくる。道仁の家とは段違いに狭いLDKのなか、リビングのラグの上に座っていた梓沙が琴子に気づいて顔を上げた。
「……だから、壮輔のことは関係ないって云ってるでしょ。どうしてパパが口出ししてくるの? そっちのほうがわかんないんだけど。……」
 電話の相手は、梓沙が“パパ”と呼んだことでわかった。犬飼だ。同時に、いまさら琴子は別のことにも気づいた。
 犬飼と話すときの梓沙は少し子供っぽい。梓沙が壮輔を好きになって――そう確信ができているいま、梓沙は犬飼を父親のように見ているんじゃないかと感じた。これまで、単なる愛人だった延長で犬飼に要求を無理強いしていると思ってきたけれど、その実、父親に対するわがままのようにも見えてくる。
 琴子は父親はいらないと思ってきた。母親に好きな人が現れて夫となってもかまわないけれど、その人が父親となるのは別の話だ。だから、家を出た。
 そんな琴子と違って、梓沙は取っ替え引っ替えの父親ではなく、ずっとそこにいる父親を求めてきたのかもしれない。大学時代、梓沙が“カモ”を探していたことは事実だけれど、いつからかそのためだけではなく犬飼を頼っていたのかもしれないとも思った。
 琴子の口から訳もなくため息が漏れ、梓沙に向けて軽く首をかしげると、キッチンに向かった。冷蔵庫からウーロン茶を出すときも、それをグラスに注ぐ間も梓沙は話し続けている。
「ねえ、マッチングアプリのせいにしておけばいいじゃない。玉城家に自分は知らなかったって堂々と云える。絶好の云い訳でしょ。……とにかく、壮輔にはもう何も要求することはないし、会わない。……ほんとだってば。ばかばかしいからやめたの。わたしにもプライドはあるし。……そう。でもひとつだけ、パパにやってもらいたいことがある。いま琴子にちゃんと謝ってくれない?」
 琴子はちょうどグラスに口をつけたところで、驚いた反動でグラスに歯がぶつかってカチッと音を立てた。口もとからグラスを遠ざけて後ろを振り返ると、琴子は梓沙に向かってふるふると首を横に振った。
 ちょっと待って、と梓沙は犬飼に云いながら立ちあがった。琴子の意思表示を無視して梓沙はキッチンに来ると自分のスマホを差しだした。
「梓沙、わたしはいいから……」
 梓沙の一方的な発言でどんな会話がなされているのかは、琴子もおよそ把握できている。ただし、琴子が謝罪をしてもらうほど、一方的に犬飼が悪いわけでもない。
「だめよ。ちゃんと琴子は安心しておくべき」
 梓沙は強引にスマホを琴子の耳に当てると、「パパ、いいよ」と呼びかけた。
 その声の聞こえ方から電話口にいるのは琴子と判断したのだろう。犬飼は、伊伏さんか、と話しかけた。
「その……先日は大人げなかったかもしれない。梓沙が手を引く以上、私が道仁くんとのことをとやかく云って問題にすることはない。すまなかった」
「いえ、謝ってもらうほどのことじゃありませんから……大丈夫です。ありがとうございます。梓沙とかわります」
 云いながら琴子が目で訴えたことは伝わって、梓沙はスマホを琴子の耳から離した。
「いい? パパ。琴子と里見さんのことに口を出したら許さないから! 異動も希望しない。いまのところでいいから。……そう。……」
 梓沙はまた犬飼と話しだして、琴子が洗面をすませて戻るまで続いていた。休日のこの時間に長電話など、なんやかや面倒だったり仕方なくだったりしながらも、犬飼は無下にせず梓沙に付き合っている。弱みを握られているからか、それともなんらかの情を感じているのか。
 トースターから焼けたパンを取って、隅っこにバターを置いたプレートにのせると、琴子はダイニングテーブルに持っていき再びキッチンに戻った。淹れたてのコーヒーを注ぎ、そのマグカップを持ってテーブルに着いた頃、梓沙の電話も終わった。
「梓沙、異動しなくていいの?」
「異動して、そこがへんに責任のある仕事だったら困るから。このままカスタマの現場にいれば、産休で休んでも引き継ぎはしなくてすむし、急に休んでも大きな迷惑にはならない。かわりはいくらでも手配できる。つまり、仕事を続けられるから収入がなくなる心配はしないでいいってこと」
 こうと決めたら梓沙が意志を曲げることはあまりない。それはわかりきったことだけれど、いまの言葉で、父親なしのまま子育てをする気持ちは揺るがないのだと琴子はあらためて知らされた。
「そうだね。わたしもいるし」
 琴子の言葉は、普通なら心強いと感じるものなのに、梓沙は不満そうな顔で首を横に振った。立ちあがって琴子の横を素通りすると、キッチンに入ってマグカップを取りだしながら梓沙は、だめだよ、と諌めた口調で琴子の意志を否定しにかかった。
「さっき、犬飼が謝ってくれたでしょ。琴子は道仁さんとちゃんと仲直りしないと……」
「梓沙が壮輔さんと仲直りしたら努力する」
 そんな条件が整ったとしても仲直りなんてできそうにない。関係が壊れて二日しかたっていないのに、だれが希望を持てるだろう。梓沙も自分たちのことをそう思っているからだろう、反論をすることなく、ただしかめ面を琴子に向けた。
 琴子は首をすくめてかわすと、マグカップの取っ手を持ってため息をつく。その吐息に反応したように、ドアチャイムが鳴った。
「あ、宅配かも」
 と、梓沙がコーヒーポットを持ったまま振り向いた。
「お米がなくなりそうだったから。ついでにいろいろ頼んでた」
「だったら、重そうだからわたしが出る」
 琴子は口をつけないままマグカップを置いて立ちあがった。
「重そうって……」
「赤ちゃんを産む気ならいろいろ気をつけたほうがいいんじゃない?」
 ケラケラと能天気に笑う梓沙の声を聞きながら、はい、とインターホンのモニターに向かって応じたとたん、琴子は息を呑んだ。
「妊婦はそんなに弱くないよ。つわりもないし、動かなかったら無駄に太っちゃう」
 背後から届いた梓沙の声は果たしてドアの向こうに聞こえたのか、モニターに映った道仁の顔がわずかに用心深くなったように見えた。
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