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第4章 unfairのちfair
12.
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「どうかした?」
道仁に問われると、琴子はハッとして声のしたほうに顔を向けた。コーヒーメーカーから湯が沸く音が立ち始めていて、しばらく思考が止まっていたのかもしれない。キッチンカウンターの向こうで道仁が首をひねった。
「ううん。ちょっと急用ができたの。食べたら帰らないと……」
「めずらしいな」
「休みの日はいつも暇だって思ってる?」
「できるだけ一緒にいたいと思ってる」
道仁は琴子が喜ぶことを簡単に口にする。これまでは天の邪鬼ぶりを発揮して、うれしくても素直に振る舞えなかったけれど、いまはうれしいと思うことさえ素直にはできない。
何があって梓沙の過去が暴かれたのか、梓沙がうまくいかなければ琴子もうまくいかない気がした。
「コーヒーができる間に着替えてくる」
「無視か」
くるっと身をひるがえした背中のほうから、道仁の失笑が追いかけてきた。
バスルームに行って洗面をすませると、パジャマから服に着替えて髪を整えた。洗面台の棚に置いたスマホを手に取って、梓沙に電話をかけてみると待ちわびていたかのようにすぐに応答があった。
『根っからのセレブはセレブだってことを忘れてた』
梓沙はいきなり訳のわからないことを云う。
「梓沙、どういうこと? バレたって、犬飼さんが喋ったの?」
『違う。このまえパーティに出て、壮輔がわたしと付き合ってるって両親に紹介してくれたって話したじゃない? そしたら、身元調査されたみたい』
「そんなことするの……?」
つぶやくように云って琴子は絶句したが、梓沙が発したセレブという言葉を思えば、当然のことかもしれないとも思った。昔風に云えば、何処の馬の骨ともわからない人間を簡単に招き入れるわけにはいかないということだ。
『琴子はキャバ嬢なんて経歴ないから、そこは問題ないとしても、わたしが友だちってことで迷惑かけるかも』
「迷惑ってそんなことない……」
『そんなことあるよ。壮輔、道仁さんのカノジョがわたしの友だちだってこと喋ってたし、壮輔と道仁さんの親たちは、お母さん同士が同級生だから仲がいいんだよ。道仁さんのお母さんが知ったら、琴子もわたしと同じバイトしてたって思うかも。道仁さんは壮輔からも聞くだろうし』
いま、道仁の母親がここに来た理由がはっきりした気がした。里見親子の会話に感じていた違和感の正体がわかって符合する。そして、道仁もひょっとしたら疑いを持っているかもしれない。
「それでも、迷惑じゃないよ」
『どうかな……。いま、道仁さんの家?』
「うん。いま起きたの。パンを用意してくれてて、それ食べたらすぐ帰るから」
『わかった。あとでね』
電話越しの梓沙の声は至っていつもと変わらなかった。冷静に琴子に及ぶことを察して、おそらくそのとおりになっている。明美が道仁を訊ねてきたことがその証拠だ。
梓沙はけれど、実際にはどんな気持ちでいるだろう。琴子はなんとなくバスルームを見回した。ここには、パジャマだったり服だったり化粧品だったり、第二の家であるかのように琴子のものが増えた。
「琴子?」
道仁の呼びかける声が聞こえて、琴子の感傷は中断された。なぜ感傷的になるのか、それは予感めいたもののせいだ。いや、もしかしたらわかりきっている。『根っからのセレブはセレブだ』と、その梓沙の云いたかったことを琴子は正確に理解できていると思う。
リビングに戻るにつれ、コーヒーの香りが強くなっていった。チーズがほどよく焼けた匂いも混じる。
「いい匂い。パンもあっためた?」
「ああ。届いたらすぐ起こすつもりだったけど、母に邪魔されてちょっと冷めたからな」
道仁はコーヒーカップをテーブルに置くと、トントンと人差し指でテーブルをつつき、琴子に座るよう促した。
「ありがとう」
琴子が起きるまで、パンが冷めるくらい、道仁と明美は話しこんでいたのだろうか。ただ、道仁の琴子に対する接し方に変化はない。むしろ、明美に対して道仁は琴子をかばってくれて、不安は軽減されたし、うれしかった。だから、思いきって訊ねれば、うだうだと考えなくてもすむのにためらう。変わらない道仁の気持ちに甘えたい気持ちのほうが強い。
「美味しい」
無意識のうちにパンを頬張って琴子が云うと、道仁は可笑しそうにして首を傾ける。
「昨日の肉じゃがも美味しかった。煮物はなんでだろうな、家庭って感じがする」
「あんまり外食で食べないからかも」
「なるほど、確かに」
今度、試しに和食を食べにいこうか、と云いだして、道仁は思い立ったが吉日とばかりにタブレットを持ってきて店を検索した。タブレットをふたりで覗きこみ、候補をピックアップしながらの朝食はコーヒーを飲み終わるまであっという間に終わった。
そうして、車で送っていくという道仁の申し出は退けた。
「今夜、それとも明日来る? 明日までは天気が良さそうだし、迎えにいってドライブするのもいいけど?」
マンションの玄関先まで一緒に降りてきて、道仁はじっと琴子を見下ろした。
「うん……あとで連絡していい?」
いつもなら喜び勇んで誘いに乗るのに、琴子はためらってしまった。そのためらいがどんなふうに道仁に伝わったのか。
「琴子」
と、呼ぶ声はいつになく生真面目に響いた。
「何?」
「おれが母に云ったことを憶えてる?」
「いろんなこと云ってたけど」
「はっ。まあいい。そのいろんなことを憶えておくといい……いや、憶えてろ」
道仁は命令すると、ふいに身をかがめた。かまえる間もなく、くっつく瞬間に道仁は顔を傾けて、琴子のくちびるに口づけた。一瞬ではなく、ゆっくりと吸い着くようなキスだ。やがて道仁は離れていき、場所をわきまえないキスに琴子はびっくり眼で見上げた。
「疾しいことはない」
だろう? と、道仁はからかうのではなく、ごく真剣な顔をして云う。そして、琴子の応えを聞くことなく――
「気をつけて行けよ」
と、琴子を送りだした。
道仁に問われると、琴子はハッとして声のしたほうに顔を向けた。コーヒーメーカーから湯が沸く音が立ち始めていて、しばらく思考が止まっていたのかもしれない。キッチンカウンターの向こうで道仁が首をひねった。
「ううん。ちょっと急用ができたの。食べたら帰らないと……」
「めずらしいな」
「休みの日はいつも暇だって思ってる?」
「できるだけ一緒にいたいと思ってる」
道仁は琴子が喜ぶことを簡単に口にする。これまでは天の邪鬼ぶりを発揮して、うれしくても素直に振る舞えなかったけれど、いまはうれしいと思うことさえ素直にはできない。
何があって梓沙の過去が暴かれたのか、梓沙がうまくいかなければ琴子もうまくいかない気がした。
「コーヒーができる間に着替えてくる」
「無視か」
くるっと身をひるがえした背中のほうから、道仁の失笑が追いかけてきた。
バスルームに行って洗面をすませると、パジャマから服に着替えて髪を整えた。洗面台の棚に置いたスマホを手に取って、梓沙に電話をかけてみると待ちわびていたかのようにすぐに応答があった。
『根っからのセレブはセレブだってことを忘れてた』
梓沙はいきなり訳のわからないことを云う。
「梓沙、どういうこと? バレたって、犬飼さんが喋ったの?」
『違う。このまえパーティに出て、壮輔がわたしと付き合ってるって両親に紹介してくれたって話したじゃない? そしたら、身元調査されたみたい』
「そんなことするの……?」
つぶやくように云って琴子は絶句したが、梓沙が発したセレブという言葉を思えば、当然のことかもしれないとも思った。昔風に云えば、何処の馬の骨ともわからない人間を簡単に招き入れるわけにはいかないということだ。
『琴子はキャバ嬢なんて経歴ないから、そこは問題ないとしても、わたしが友だちってことで迷惑かけるかも』
「迷惑ってそんなことない……」
『そんなことあるよ。壮輔、道仁さんのカノジョがわたしの友だちだってこと喋ってたし、壮輔と道仁さんの親たちは、お母さん同士が同級生だから仲がいいんだよ。道仁さんのお母さんが知ったら、琴子もわたしと同じバイトしてたって思うかも。道仁さんは壮輔からも聞くだろうし』
いま、道仁の母親がここに来た理由がはっきりした気がした。里見親子の会話に感じていた違和感の正体がわかって符合する。そして、道仁もひょっとしたら疑いを持っているかもしれない。
「それでも、迷惑じゃないよ」
『どうかな……。いま、道仁さんの家?』
「うん。いま起きたの。パンを用意してくれてて、それ食べたらすぐ帰るから」
『わかった。あとでね』
電話越しの梓沙の声は至っていつもと変わらなかった。冷静に琴子に及ぶことを察して、おそらくそのとおりになっている。明美が道仁を訊ねてきたことがその証拠だ。
梓沙はけれど、実際にはどんな気持ちでいるだろう。琴子はなんとなくバスルームを見回した。ここには、パジャマだったり服だったり化粧品だったり、第二の家であるかのように琴子のものが増えた。
「琴子?」
道仁の呼びかける声が聞こえて、琴子の感傷は中断された。なぜ感傷的になるのか、それは予感めいたもののせいだ。いや、もしかしたらわかりきっている。『根っからのセレブはセレブだ』と、その梓沙の云いたかったことを琴子は正確に理解できていると思う。
リビングに戻るにつれ、コーヒーの香りが強くなっていった。チーズがほどよく焼けた匂いも混じる。
「いい匂い。パンもあっためた?」
「ああ。届いたらすぐ起こすつもりだったけど、母に邪魔されてちょっと冷めたからな」
道仁はコーヒーカップをテーブルに置くと、トントンと人差し指でテーブルをつつき、琴子に座るよう促した。
「ありがとう」
琴子が起きるまで、パンが冷めるくらい、道仁と明美は話しこんでいたのだろうか。ただ、道仁の琴子に対する接し方に変化はない。むしろ、明美に対して道仁は琴子をかばってくれて、不安は軽減されたし、うれしかった。だから、思いきって訊ねれば、うだうだと考えなくてもすむのにためらう。変わらない道仁の気持ちに甘えたい気持ちのほうが強い。
「美味しい」
無意識のうちにパンを頬張って琴子が云うと、道仁は可笑しそうにして首を傾ける。
「昨日の肉じゃがも美味しかった。煮物はなんでだろうな、家庭って感じがする」
「あんまり外食で食べないからかも」
「なるほど、確かに」
今度、試しに和食を食べにいこうか、と云いだして、道仁は思い立ったが吉日とばかりにタブレットを持ってきて店を検索した。タブレットをふたりで覗きこみ、候補をピックアップしながらの朝食はコーヒーを飲み終わるまであっという間に終わった。
そうして、車で送っていくという道仁の申し出は退けた。
「今夜、それとも明日来る? 明日までは天気が良さそうだし、迎えにいってドライブするのもいいけど?」
マンションの玄関先まで一緒に降りてきて、道仁はじっと琴子を見下ろした。
「うん……あとで連絡していい?」
いつもなら喜び勇んで誘いに乗るのに、琴子はためらってしまった。そのためらいがどんなふうに道仁に伝わったのか。
「琴子」
と、呼ぶ声はいつになく生真面目に響いた。
「何?」
「おれが母に云ったことを憶えてる?」
「いろんなこと云ってたけど」
「はっ。まあいい。そのいろんなことを憶えておくといい……いや、憶えてろ」
道仁は命令すると、ふいに身をかがめた。かまえる間もなく、くっつく瞬間に道仁は顔を傾けて、琴子のくちびるに口づけた。一瞬ではなく、ゆっくりと吸い着くようなキスだ。やがて道仁は離れていき、場所をわきまえないキスに琴子はびっくり眼で見上げた。
「疾しいことはない」
だろう? と、道仁はからかうのではなく、ごく真剣な顔をして云う。そして、琴子の応えを聞くことなく――
「気をつけて行けよ」
と、琴子を送りだした。
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