44 / 64
第4章 unfairのちfair
12.
しおりを挟む
「どうかした?」
道仁に問われると、琴子はハッとして声のしたほうに顔を向けた。コーヒーメーカーから湯が沸く音が立ち始めていて、しばらく思考が止まっていたのかもしれない。キッチンカウンターの向こうで道仁が首をひねった。
「ううん。ちょっと急用ができたの。食べたら帰らないと……」
「めずらしいな」
「休みの日はいつも暇だって思ってる?」
「できるだけ一緒にいたいと思ってる」
道仁は琴子が喜ぶことを簡単に口にする。これまでは天の邪鬼ぶりを発揮して、うれしくても素直に振る舞えなかったけれど、いまはうれしいと思うことさえ素直にはできない。
何があって梓沙の過去が暴かれたのか、梓沙がうまくいかなければ琴子もうまくいかない気がした。
「コーヒーができる間に着替えてくる」
「無視か」
くるっと身をひるがえした背中のほうから、道仁の失笑が追いかけてきた。
バスルームに行って洗面をすませると、パジャマから服に着替えて髪を整えた。洗面台の棚に置いたスマホを手に取って、梓沙に電話をかけてみると待ちわびていたかのようにすぐに応答があった。
『根っからのセレブはセレブだってことを忘れてた』
梓沙はいきなり訳のわからないことを云う。
「梓沙、どういうこと? バレたって、犬飼さんが喋ったの?」
『違う。このまえパーティに出て、壮輔がわたしと付き合ってるって両親に紹介してくれたって話したじゃない? そしたら、身元調査されたみたい』
「そんなことするの……?」
つぶやくように云って琴子は絶句したが、梓沙が発したセレブという言葉を思えば、当然のことかもしれないとも思った。昔風に云えば、何処の馬の骨ともわからない人間を簡単に招き入れるわけにはいかないということだ。
『琴子はキャバ嬢なんて経歴ないから、そこは問題ないとしても、わたしが友だちってことで迷惑かけるかも』
「迷惑ってそんなことない……」
『そんなことあるよ。壮輔、道仁さんのカノジョがわたしの友だちだってこと喋ってたし、壮輔と道仁さんの親たちは、お母さん同士が同級生だから仲がいいんだよ。道仁さんのお母さんが知ったら、琴子もわたしと同じバイトしてたって思うかも。道仁さんは壮輔からも聞くだろうし』
いま、道仁の母親がここに来た理由がはっきりした気がした。里見親子の会話に感じていた違和感の正体がわかって符合する。そして、道仁もひょっとしたら疑いを持っているかもしれない。
「それでも、迷惑じゃないよ」
『どうかな……。いま、道仁さんの家?』
「うん。いま起きたの。パンを用意してくれてて、それ食べたらすぐ帰るから」
『わかった。あとでね』
電話越しの梓沙の声は至っていつもと変わらなかった。冷静に琴子に及ぶことを察して、おそらくそのとおりになっている。明美が道仁を訊ねてきたことがその証拠だ。
梓沙はけれど、実際にはどんな気持ちでいるだろう。琴子はなんとなくバスルームを見回した。ここには、パジャマだったり服だったり化粧品だったり、第二の家であるかのように琴子のものが増えた。
「琴子?」
道仁の呼びかける声が聞こえて、琴子の感傷は中断された。なぜ感傷的になるのか、それは予感めいたもののせいだ。いや、もしかしたらわかりきっている。『根っからのセレブはセレブだ』と、その梓沙の云いたかったことを琴子は正確に理解できていると思う。
リビングに戻るにつれ、コーヒーの香りが強くなっていった。チーズがほどよく焼けた匂いも混じる。
「いい匂い。パンもあっためた?」
「ああ。届いたらすぐ起こすつもりだったけど、母に邪魔されてちょっと冷めたからな」
道仁はコーヒーカップをテーブルに置くと、トントンと人差し指でテーブルをつつき、琴子に座るよう促した。
「ありがとう」
琴子が起きるまで、パンが冷めるくらい、道仁と明美は話しこんでいたのだろうか。ただ、道仁の琴子に対する接し方に変化はない。むしろ、明美に対して道仁は琴子をかばってくれて、不安は軽減されたし、うれしかった。だから、思いきって訊ねれば、うだうだと考えなくてもすむのにためらう。変わらない道仁の気持ちに甘えたい気持ちのほうが強い。
「美味しい」
無意識のうちにパンを頬張って琴子が云うと、道仁は可笑しそうにして首を傾ける。
「昨日の肉じゃがも美味しかった。煮物はなんでだろうな、家庭って感じがする」
「あんまり外食で食べないからかも」
「なるほど、確かに」
今度、試しに和食を食べにいこうか、と云いだして、道仁は思い立ったが吉日とばかりにタブレットを持ってきて店を検索した。タブレットをふたりで覗きこみ、候補をピックアップしながらの朝食はコーヒーを飲み終わるまであっという間に終わった。
そうして、車で送っていくという道仁の申し出は退けた。
「今夜、それとも明日来る? 明日までは天気が良さそうだし、迎えにいってドライブするのもいいけど?」
マンションの玄関先まで一緒に降りてきて、道仁はじっと琴子を見下ろした。
「うん……あとで連絡していい?」
いつもなら喜び勇んで誘いに乗るのに、琴子はためらってしまった。そのためらいがどんなふうに道仁に伝わったのか。
「琴子」
と、呼ぶ声はいつになく生真面目に響いた。
「何?」
「おれが母に云ったことを憶えてる?」
「いろんなこと云ってたけど」
「はっ。まあいい。そのいろんなことを憶えておくといい……いや、憶えてろ」
道仁は命令すると、ふいに身をかがめた。かまえる間もなく、くっつく瞬間に道仁は顔を傾けて、琴子のくちびるに口づけた。一瞬ではなく、ゆっくりと吸い着くようなキスだ。やがて道仁は離れていき、場所をわきまえないキスに琴子はびっくり眼で見上げた。
「疾しいことはない」
だろう? と、道仁はからかうのではなく、ごく真剣な顔をして云う。そして、琴子の応えを聞くことなく――
「気をつけて行けよ」
と、琴子を送りだした。
道仁に問われると、琴子はハッとして声のしたほうに顔を向けた。コーヒーメーカーから湯が沸く音が立ち始めていて、しばらく思考が止まっていたのかもしれない。キッチンカウンターの向こうで道仁が首をひねった。
「ううん。ちょっと急用ができたの。食べたら帰らないと……」
「めずらしいな」
「休みの日はいつも暇だって思ってる?」
「できるだけ一緒にいたいと思ってる」
道仁は琴子が喜ぶことを簡単に口にする。これまでは天の邪鬼ぶりを発揮して、うれしくても素直に振る舞えなかったけれど、いまはうれしいと思うことさえ素直にはできない。
何があって梓沙の過去が暴かれたのか、梓沙がうまくいかなければ琴子もうまくいかない気がした。
「コーヒーができる間に着替えてくる」
「無視か」
くるっと身をひるがえした背中のほうから、道仁の失笑が追いかけてきた。
バスルームに行って洗面をすませると、パジャマから服に着替えて髪を整えた。洗面台の棚に置いたスマホを手に取って、梓沙に電話をかけてみると待ちわびていたかのようにすぐに応答があった。
『根っからのセレブはセレブだってことを忘れてた』
梓沙はいきなり訳のわからないことを云う。
「梓沙、どういうこと? バレたって、犬飼さんが喋ったの?」
『違う。このまえパーティに出て、壮輔がわたしと付き合ってるって両親に紹介してくれたって話したじゃない? そしたら、身元調査されたみたい』
「そんなことするの……?」
つぶやくように云って琴子は絶句したが、梓沙が発したセレブという言葉を思えば、当然のことかもしれないとも思った。昔風に云えば、何処の馬の骨ともわからない人間を簡単に招き入れるわけにはいかないということだ。
『琴子はキャバ嬢なんて経歴ないから、そこは問題ないとしても、わたしが友だちってことで迷惑かけるかも』
「迷惑ってそんなことない……」
『そんなことあるよ。壮輔、道仁さんのカノジョがわたしの友だちだってこと喋ってたし、壮輔と道仁さんの親たちは、お母さん同士が同級生だから仲がいいんだよ。道仁さんのお母さんが知ったら、琴子もわたしと同じバイトしてたって思うかも。道仁さんは壮輔からも聞くだろうし』
いま、道仁の母親がここに来た理由がはっきりした気がした。里見親子の会話に感じていた違和感の正体がわかって符合する。そして、道仁もひょっとしたら疑いを持っているかもしれない。
「それでも、迷惑じゃないよ」
『どうかな……。いま、道仁さんの家?』
「うん。いま起きたの。パンを用意してくれてて、それ食べたらすぐ帰るから」
『わかった。あとでね』
電話越しの梓沙の声は至っていつもと変わらなかった。冷静に琴子に及ぶことを察して、おそらくそのとおりになっている。明美が道仁を訊ねてきたことがその証拠だ。
梓沙はけれど、実際にはどんな気持ちでいるだろう。琴子はなんとなくバスルームを見回した。ここには、パジャマだったり服だったり化粧品だったり、第二の家であるかのように琴子のものが増えた。
「琴子?」
道仁の呼びかける声が聞こえて、琴子の感傷は中断された。なぜ感傷的になるのか、それは予感めいたもののせいだ。いや、もしかしたらわかりきっている。『根っからのセレブはセレブだ』と、その梓沙の云いたかったことを琴子は正確に理解できていると思う。
リビングに戻るにつれ、コーヒーの香りが強くなっていった。チーズがほどよく焼けた匂いも混じる。
「いい匂い。パンもあっためた?」
「ああ。届いたらすぐ起こすつもりだったけど、母に邪魔されてちょっと冷めたからな」
道仁はコーヒーカップをテーブルに置くと、トントンと人差し指でテーブルをつつき、琴子に座るよう促した。
「ありがとう」
琴子が起きるまで、パンが冷めるくらい、道仁と明美は話しこんでいたのだろうか。ただ、道仁の琴子に対する接し方に変化はない。むしろ、明美に対して道仁は琴子をかばってくれて、不安は軽減されたし、うれしかった。だから、思いきって訊ねれば、うだうだと考えなくてもすむのにためらう。変わらない道仁の気持ちに甘えたい気持ちのほうが強い。
「美味しい」
無意識のうちにパンを頬張って琴子が云うと、道仁は可笑しそうにして首を傾ける。
「昨日の肉じゃがも美味しかった。煮物はなんでだろうな、家庭って感じがする」
「あんまり外食で食べないからかも」
「なるほど、確かに」
今度、試しに和食を食べにいこうか、と云いだして、道仁は思い立ったが吉日とばかりにタブレットを持ってきて店を検索した。タブレットをふたりで覗きこみ、候補をピックアップしながらの朝食はコーヒーを飲み終わるまであっという間に終わった。
そうして、車で送っていくという道仁の申し出は退けた。
「今夜、それとも明日来る? 明日までは天気が良さそうだし、迎えにいってドライブするのもいいけど?」
マンションの玄関先まで一緒に降りてきて、道仁はじっと琴子を見下ろした。
「うん……あとで連絡していい?」
いつもなら喜び勇んで誘いに乗るのに、琴子はためらってしまった。そのためらいがどんなふうに道仁に伝わったのか。
「琴子」
と、呼ぶ声はいつになく生真面目に響いた。
「何?」
「おれが母に云ったことを憶えてる?」
「いろんなこと云ってたけど」
「はっ。まあいい。そのいろんなことを憶えておくといい……いや、憶えてろ」
道仁は命令すると、ふいに身をかがめた。かまえる間もなく、くっつく瞬間に道仁は顔を傾けて、琴子のくちびるに口づけた。一瞬ではなく、ゆっくりと吸い着くようなキスだ。やがて道仁は離れていき、場所をわきまえないキスに琴子はびっくり眼で見上げた。
「疾しいことはない」
だろう? と、道仁はからかうのではなく、ごく真剣な顔をして云う。そして、琴子の応えを聞くことなく――
「気をつけて行けよ」
と、琴子を送りだした。
0
お気に入りに追加
251
あなたにおすすめの小説
年下研修医の極甘蜜愛
虹色すかい
恋愛
医局秘書として市内の病院に勤務する廣崎彩27歳。普段はスマートに仕事をこなすクールな彼女だが、定期的にやって来る「眠れない夜」に苦しんでいる。
そんな彩に、5年越しの思いを寄せる3歳年下の藤崎仁寿。人当たりがよくて優しくて。仔犬のように人懐っこい笑顔がかわいい彼は、柔和な見た目とは裏腹に超ポジティブで鋼のような心を持つ臨床研修医だ。
病気や過去の経験から恋愛に積極的になれないワケありOLとユーモラスで心優しい研修医の、あたたかくてちょっと笑えるラブストーリー。
仁寿の包み込むような優しさが、傷ついた彩の心を癒していく――。
シリアスがシリアスにならないのは、多分、朗らかで元気な藤崎先生のおかげ♡
*****************************
※他サイトでも同タイトルで公開しています。
【R18】男嫌いと噂の美人秘書はエリート副社長に一夜から始まる恋に落とされる。
夏琳トウ(明石唯加)
恋愛
真田(さなだ)ホールディングスで専務秘書を務めている香坂 杏珠(こうさか あんじゅ)は凛とした美人で26歳。社内外問わずモテるものの、男に冷たく当たることから『男性嫌いではないか』と噂されている。
しかし、実際は違う。杏珠は自分の理想を妥協することが出来ず、結果的に彼氏いない歴=年齢を貫いている、いわば拗らせ女なのだ。
そんな杏珠はある日社長から副社長として本社に来てもらう甥っ子の専属秘書になってほしいと打診された。
渋々といった風に了承した杏珠。
そして、出逢った男性――丞(たすく)は、まさかまさかで杏珠の好みぴったりの『筋肉男子』だった。
挙句、気が付いたら二人でベッドにいて……。
しかも、過去についてしまった『とある嘘』が原因で、杏珠は危機に陥る。
後継者と名高いエリート副社長×凛とした美人秘書(拗らせ女)の身体から始まる現代ラブ。
▼掲載先→エブリスタ、ベリーズカフェ、アルファポリス(性描写多め版)
【R18】嫌いな同期をおっぱい堕ちさせますっ!
なとみ
恋愛
山田夏生は同期の瀬崎恭悟が嫌いだ。逆恨みだと分かっている。でも、会社でもプライベートでも要領の良い所が気に入らない!ある日の同期会でベロベロに酔った夏生は、実は小さくはない自分の胸で瀬崎を堕としてやろうと目論む。隠れDカップのヒロインが、嫌いな同期をおっぱい堕ちさせる話。(全5話+番外小話)
・無欲様主催の、「秋のぱい祭り企画」参加作品です(こちらはムーンライトノベルズにも掲載しています。)
※全編背後注意
【R18】溺愛ハッピーエンド
ななこす
恋愛
鈴木芽衣(すずきめい)は高校2年生。隣に住む幼なじみ、佐藤直(さとうなお)とちょっとえっちな遊びに夢中。
芽衣は直に淡い恋心を抱いているものの、はっきりしない関係が続いていたある日。古典担当の藤原と親密になっていくが――。
幼なじみと先生の間で揺れるちょっとえっちな話。
★性描写があります。
鬼上司の執着愛にとろけそうです
六楓(Clarice)
恋愛
旧題:純情ラブパニック
失恋した結衣が一晩過ごした相手は、怖い怖い直属の上司――そこから始まる、らぶえっちな4人のストーリー。
◆◇◆◇◆
営業部所属、三谷結衣(みたに ゆい)。
このたび25歳になりました。
入社時からずっと片思いしてた先輩の
今澤瑞樹(いまさわ みずき)27歳と
同期の秋本沙梨(あきもと さり)が
付き合い始めたことを知って、失恋…。
元気のない結衣を飲みにつれてってくれたのは、
見た目だけは素晴らしく素敵な、鬼のように怖い直属の上司。
湊蒼佑(みなと そうすけ)マネージャー、32歳。
目が覚めると、私も、上司も、ハダカ。
「マジかよ。記憶ねぇの?」
「私も、ここまで記憶を失ったのは初めてで……」
「ちょ、寒い。布団入れて」
「あ、ハイ……――――あっ、いやっ……」
布団を開けて迎えると、湊さんは私の胸に唇を近づけた――。
※予告なしのR18表現があります。ご了承下さい。
孕むまでオマエを離さない~孤独な御曹司の執着愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「絶対にキモチイイと言わせてやる」
私に多額の借金を背負わせ、彼氏がいなくなりました!?
ヤバい取り立て屋から告げられた返済期限は一週間後。
少しでもどうにかならないかとキャバクラに体験入店したものの、ナンバーワンキャバ嬢の恨みを買い、騒ぎを起こしてしまいました……。
それだけでも絶望的なのに、私を庇ってきたのは弊社の御曹司で。
副業がバレてクビかと怯えていたら、借金の肩代わりに妊娠を強要されたんですが!?
跡取り身籠もり条件の愛のない関係のはずなのに、御曹司があまあまなのはなぜでしょう……?
坂下花音 さかしたかのん
28歳
不動産会社『マグネイトエステート』一般社員
真面目が服を着て歩いているような子
見た目も真面目そのもの
恋に関しては夢を見がちで、そのせいで男に騙された
×
盛重海星 もりしげかいせい
32歳
不動産会社『マグネイトエステート』開発本部長で御曹司
長男だけどなにやら訳ありであまり跡取りとして望まれていない
人当たりがよくていい人
だけど本当は強引!?
【R-18】私を乱す彼の指~お隣のイケメンマッサージ師くんに溺愛されています~【完結】
衣草 薫
恋愛
朋美が酔った勢いで注文した吸うタイプのアダルトグッズが、お隣の爽やかイケメン蓮の部屋に誤配されて大ピンチ。
でも蓮はそれを肩こり用のマッサージ器だと誤解して、マッサージ器を落として壊してしまったお詫びに朋美の肩をマッサージしたいと申し出る。
実は蓮は幼少期に朋美に恋して彼女を忘れられず、大人になって朋美を探し出してお隣に引っ越してきたのだった。
マッサージ師である蓮は大好きな朋美の体を施術と称して愛撫し、過去のトラウマから男性恐怖症であった朋美も蓮を相手に恐怖症を克服していくが……。
セックスシーンには※、
ハレンチなシーンには☆をつけています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる