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第4章 unfairのちfair
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「そう、ですね。ないとは云いきれませんけど……やっぱり大っぴらには社内恋愛なんてできないと思います。規律ですから」
琴子が言葉を選びつつ云ってみると、滝沢は意味ありげな笑みを浮かべた。
「恋愛コンプラはなぜ取り入れられたんだと思う?」
「……え……っと、破局したときにハラスメント騒ぎにならないように、ですよね」
「そう。つまり、そこよ」
「……そこ、って……?」
「マッチングアプリでくっついたからといって、すべてのカップルがうまくいくとは限らない。そのさきに結婚を強制しているわけでもないし、破局したからといってなんらかのペナルティがあるわけでもない。自由でしょ?」
「そうですね」
結婚を強制するのは時代錯誤であり、ペナルティなんてものがあればブラック企業認定になりそうだ。琴子が相づちを打ちながらうなずくと、滝沢はにんまりとした。
「そう、そこは普通に恋愛と変わらないのよ」
だから? という自然と湧いた疑問の続きを待ったけれど、滝沢は一向に語る気配がなく、それどころか逆に琴子に答えを求めているような雰囲気だ。
「滝沢さん、繋がってます? 話が見えないです」
すると、滝沢は期待外れにあったようにあからさまにため息をついた。
「できてるかと思ったのに」
「できてる?」
「そう。里見リーダー、伊伏さんと一緒だと微妙に雰囲気が違うのよね。伊伏さんは伊伏さんだけど」
それを云うなら、道仁も道仁だが。
「……そういう目で滝沢さんから見られてるとは思いませんでした」
「あのね、伊伏さんて入社二年で異動したでしょ。うちは少なくとも三年は異動しないの。だから、伊伏さんをだれか実務課に引っ張ったとしか考えられないのよね。それが、里見リーダーだと思ったわけ。去年の中間決算のあと、里見リーダーは何かと資料室を当てにしてたみたいだし」
そのことは当然ながら気づいていたけれど、滝沢が気づいていたのは『セクシー』の件で企み事をしていたせいで、ほかの人は気づいたり勘繰ったりはしていないと思いたい。
「もしかして、わたしの異動を知ってる人はみんなそう思ってるんですか?」
琴子がおそるおそる訊ねてみると、さあ、という惚けた答えが返ってきた。滝沢にとって――彼女が最初に宣言したように、琴子と道仁に関する想像は“会社に来る楽しみ事”なのだろう。
滝沢は可笑しそうにして、それとね、と続けた。
「いまだから伊伏さんには云えるけど、資料課ってそもそも腰掛けさん用のリザーブ席なのよね」
「腰掛けさん用って……」
「つまり、身内枠ってこと。伊伏さんみたいに真剣に仕事をする人もいれば、自立アピールでとりあえず仕事に就くような腰掛けさんもいるのよ」
「アピールってだれにアピールするんですか」
「だれにというよりも、世間体だったり――昔は家事手伝いでも通じてたけど、いまそう云ったら働いてない引きこもりだとか怠け者だって勘違いされそうじゃない? あと、SNS自慢するのにプラヴィって充分ステータスになるでしょ」
なるほど、と琴子は内心で道仁の口癖をつぶやいた。事情通の社員のなかでは、自分の知らない間に琴子の家系図が勝手に描かれていたのかもしれない。
「わたしは身内じゃありませんから」
勘違いされて困ることはないが、へんな肩書きがつくことでなんらかの害が及ぶという可能性はゼロではない。ただ、自分がなぜ資料課に配属されたのか、その理由ははっきりした。それを知られるわけにはいかず、琴子が否定をすると滝沢は肩をすくめた。
「ちゃんと仕事してるってことはわかってるわよ。そうでなくちゃ、実務課に異動するはずないもの」
「でも、少なくともわたしは里見リーダーに異動を頼んでなんていませんから」
琴子にとっても異動については道仁を疑っているけれど、ここは全否定でなく琴子にとっての真実だけを明白にしたほうが、きっとふたりのことは疑われなくてすむ。
「残念。でも、楽しみにしてる」
滝沢はさして残念そうでもなく、相容れない二つの言葉で会話を終わらせた。話を始めたのは滝沢だから彼女が終わらせてもおかしくないが、琴子は置いてけぼりにされたような感覚になる。それはなぜか――
琴子は椅子に座って内線ボタンを押すと受話器を耳に当てた。
『里見です』
直通の内線はすぐに取られ、道仁の声がじかに耳に届いて、琴子はちょっと首をすくめた。電話越しの声は、会社にいながら道仁を独占しているという、背徳めいた優越感に浸らせてくれる。
「データ管理部の伊伏です。電話をいただいてたみたいで……」
『ああ。頼んでいた資料の準備は?』
「そろいました」
『それなら……三十分後に二十七階の小会議室Cルームで。都合は?』
会議室の空き具合を検索していたのか、少しの間が空いたあと、道仁は至って事務的に琴子の都合を訊いた。いや、事務的ではないほうが困った事態であり、物足りないと感じる琴子がどうかしている。
「大丈夫です。三十分後に行きます」
琴子が返事をすると、無意識に待っていたそれに対する回答はなく――
『それとも』
と、噛み合わない言葉が返ってきた。
「はい?」
『電話ですませようか?』
仕事モードの口調でも、ふたりの間でしか通じない言葉で琴子をからかったものだ。琴子が返事に窮している間に、じゃああとで頼む、と道仁はすまして電話を切った。
琴子は受話器を置いて何気なく視線を移した先で滝沢の目と合う。彼女はフフッと笑みでも漏らしそうな気配で、おどけたように目を見開いてみせる。
滝沢はすぐさま自分の仕事に向かって、琴子が何かを追及されることはなかったけれど、さっき置いてけぼりにされたように感じた理由がわかった。
滝沢は結局、恋愛コンプライアンスについて自分の見解、あるいは解釈を答えていない。それに、何を滝沢が楽しみにしているのか、それはいまの表情を見るかぎり、琴子と道仁のことに興味を抱いているのは確かで、“楽しみ”をあきらめてはいないのだ。
琴子が言葉を選びつつ云ってみると、滝沢は意味ありげな笑みを浮かべた。
「恋愛コンプラはなぜ取り入れられたんだと思う?」
「……え……っと、破局したときにハラスメント騒ぎにならないように、ですよね」
「そう。つまり、そこよ」
「……そこ、って……?」
「マッチングアプリでくっついたからといって、すべてのカップルがうまくいくとは限らない。そのさきに結婚を強制しているわけでもないし、破局したからといってなんらかのペナルティがあるわけでもない。自由でしょ?」
「そうですね」
結婚を強制するのは時代錯誤であり、ペナルティなんてものがあればブラック企業認定になりそうだ。琴子が相づちを打ちながらうなずくと、滝沢はにんまりとした。
「そう、そこは普通に恋愛と変わらないのよ」
だから? という自然と湧いた疑問の続きを待ったけれど、滝沢は一向に語る気配がなく、それどころか逆に琴子に答えを求めているような雰囲気だ。
「滝沢さん、繋がってます? 話が見えないです」
すると、滝沢は期待外れにあったようにあからさまにため息をついた。
「できてるかと思ったのに」
「できてる?」
「そう。里見リーダー、伊伏さんと一緒だと微妙に雰囲気が違うのよね。伊伏さんは伊伏さんだけど」
それを云うなら、道仁も道仁だが。
「……そういう目で滝沢さんから見られてるとは思いませんでした」
「あのね、伊伏さんて入社二年で異動したでしょ。うちは少なくとも三年は異動しないの。だから、伊伏さんをだれか実務課に引っ張ったとしか考えられないのよね。それが、里見リーダーだと思ったわけ。去年の中間決算のあと、里見リーダーは何かと資料室を当てにしてたみたいだし」
そのことは当然ながら気づいていたけれど、滝沢が気づいていたのは『セクシー』の件で企み事をしていたせいで、ほかの人は気づいたり勘繰ったりはしていないと思いたい。
「もしかして、わたしの異動を知ってる人はみんなそう思ってるんですか?」
琴子がおそるおそる訊ねてみると、さあ、という惚けた答えが返ってきた。滝沢にとって――彼女が最初に宣言したように、琴子と道仁に関する想像は“会社に来る楽しみ事”なのだろう。
滝沢は可笑しそうにして、それとね、と続けた。
「いまだから伊伏さんには云えるけど、資料課ってそもそも腰掛けさん用のリザーブ席なのよね」
「腰掛けさん用って……」
「つまり、身内枠ってこと。伊伏さんみたいに真剣に仕事をする人もいれば、自立アピールでとりあえず仕事に就くような腰掛けさんもいるのよ」
「アピールってだれにアピールするんですか」
「だれにというよりも、世間体だったり――昔は家事手伝いでも通じてたけど、いまそう云ったら働いてない引きこもりだとか怠け者だって勘違いされそうじゃない? あと、SNS自慢するのにプラヴィって充分ステータスになるでしょ」
なるほど、と琴子は内心で道仁の口癖をつぶやいた。事情通の社員のなかでは、自分の知らない間に琴子の家系図が勝手に描かれていたのかもしれない。
「わたしは身内じゃありませんから」
勘違いされて困ることはないが、へんな肩書きがつくことでなんらかの害が及ぶという可能性はゼロではない。ただ、自分がなぜ資料課に配属されたのか、その理由ははっきりした。それを知られるわけにはいかず、琴子が否定をすると滝沢は肩をすくめた。
「ちゃんと仕事してるってことはわかってるわよ。そうでなくちゃ、実務課に異動するはずないもの」
「でも、少なくともわたしは里見リーダーに異動を頼んでなんていませんから」
琴子にとっても異動については道仁を疑っているけれど、ここは全否定でなく琴子にとっての真実だけを明白にしたほうが、きっとふたりのことは疑われなくてすむ。
「残念。でも、楽しみにしてる」
滝沢はさして残念そうでもなく、相容れない二つの言葉で会話を終わらせた。話を始めたのは滝沢だから彼女が終わらせてもおかしくないが、琴子は置いてけぼりにされたような感覚になる。それはなぜか――
琴子は椅子に座って内線ボタンを押すと受話器を耳に当てた。
『里見です』
直通の内線はすぐに取られ、道仁の声がじかに耳に届いて、琴子はちょっと首をすくめた。電話越しの声は、会社にいながら道仁を独占しているという、背徳めいた優越感に浸らせてくれる。
「データ管理部の伊伏です。電話をいただいてたみたいで……」
『ああ。頼んでいた資料の準備は?』
「そろいました」
『それなら……三十分後に二十七階の小会議室Cルームで。都合は?』
会議室の空き具合を検索していたのか、少しの間が空いたあと、道仁は至って事務的に琴子の都合を訊いた。いや、事務的ではないほうが困った事態であり、物足りないと感じる琴子がどうかしている。
「大丈夫です。三十分後に行きます」
琴子が返事をすると、無意識に待っていたそれに対する回答はなく――
『それとも』
と、噛み合わない言葉が返ってきた。
「はい?」
『電話ですませようか?』
仕事モードの口調でも、ふたりの間でしか通じない言葉で琴子をからかったものだ。琴子が返事に窮している間に、じゃああとで頼む、と道仁はすまして電話を切った。
琴子は受話器を置いて何気なく視線を移した先で滝沢の目と合う。彼女はフフッと笑みでも漏らしそうな気配で、おどけたように目を見開いてみせる。
滝沢はすぐさま自分の仕事に向かって、琴子が何かを追及されることはなかったけれど、さっき置いてけぼりにされたように感じた理由がわかった。
滝沢は結局、恋愛コンプライアンスについて自分の見解、あるいは解釈を答えていない。それに、何を滝沢が楽しみにしているのか、それはいまの表情を見るかぎり、琴子と道仁のことに興味を抱いているのは確かで、“楽しみ”をあきらめてはいないのだ。
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