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第4章 unfairのちfair
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仕事の区切りがいいように昼休みの時間を一時間遅らせると、琴子は作ってきた弁当を持ってフリースペースに行った。ちらほらと人がいるなか、窓際の空いた席を独りで陣取る。
九月も終わりに近づき、空気は秋めいて灼熱という気配はすっかり消えた。ちょうど一週間前の金曜日は台風がかすめていって、来週半ばにまた近づきそうだというが、今日はすこぶる快晴だ。
梓沙と手分けをして作った弁当を広げると、琴子はオムレツを一番に頬張る。マヨネーズを入れてふわふわにしたオムレツは、梓沙の得意料理であり琴子の大好物だ。
子供の頃は好きなものを後回しにしていたのに、働きだして生活のサイクルがわかって安定してくると、さきに食べるようになった。後回しにしていたのは、わくわくした気分を一分でも長く感じたかったからだと思う。いまは、大好物を食べることに限らず、ショッピングだったり小旅行だったり、節約はしながらもいろんな楽しみを見いだせている。
美味しいものは一番に食べて、ひと際美味しく食べる。そんな身についた習慣のもと、オムレツの食感と味覚がくすぐられて脳内には多幸感が満ちた。
「美味しい」
独りで食べるときもやっぱり口にしてしまう。
ほうれん草の胡麻和えを食べて空腹感が落ち着くと、琴子はスマホを手に取って、さっき入ってきた梓沙からのメッセージを開いた。『お疲れさま』というスタンプで始まり――
『今日は予定外でデート!』
と、琴子がある程度想像していたとおりのメッセージは、『よろしくね』というスタンプで締め括られている。
八月の一泊旅行のとき、梓沙は壮輔との結婚をリベンジだと云いきった。その旅行のあと間もなく、壮輔は行動を起こして、成り行き任せだった仕事に終止符を打ち、今月いっぱいでプラヴィ電機を退社することになっている。十月になったらすぐ、イベント会社に勤めるという。だから、もしかしたら交際をやめるんじゃないかとすら琴子は思っていたのに、予期に反して梓沙はそのままとどまっている。
壮輔は金曜日の今日も土日も、引き継ぎだったり、新たな仕事についての下調べだったりで、忙しくて会えないと梓沙から聞いていた。そのせいか、メッセージは端的ながらもうれしそうに読みとれた。梓沙は、育ちの良さに甘えている壮輔に腹が立つと云っていたけれど、それ以上に壮輔のことが好きなんだろうと思う。
このままうまくいってほしい。そう願うのは、梓沙のためばかりではない。琴子にとっては、梓沙がうまくいけば自分もうまくいくと、云ってみれば験担ぎだ。
琴子は、『楽しんで!』と簡潔なメッセージ、それに『よかったね』と『お疲れさま』というスタンプを付けて梓沙に返事を送った。自然と笑みが浮かんでくる。残りの弁当を食べきって、琴子はメイク直しをしてから持ち場に戻った。
自分のデスクに近づくと、隣のデスクの滝沢が琴子に気づいて顔を上げた。
「伊伏さん、里見リーダーから内線が来てた。昼休みが終わったら、資料が見たいから連絡してほしいって」
「わかりました。ありがとうございます」
一時間きっちり取るように云われている昼休み時間を考えると、まだ三十分以上ある。けれど、短縮になっても琴子はまったくかまわない。それが道仁ならなおさらだ。
「部署を超えて、伊伏さんてまるで里見リーダーの秘書よね」
弁当とメイク道具の入ったバッグをデスクの足もとにしまおうとして身をかがめかけたとき、滝沢が話しかけた。琴子はそのまま足もとの籠にバッグを入れて躰を起こすと、滝沢のほうを向いた。そのちょっとした時間は考えるための時間稼ぎにもなった。
「すごい下っ端ですけど……実務課は普通に秘書の秘書っていう感じですよね? わたし、やりすぎですか?」
滝沢は四十代に入ったばかりのベテランだ。厳しくもあるが仕事を教えるにも適確で信頼もしている。琴子が無難に訊ねてみると、滝沢は可笑しそうに笑った。
「ううん。プロジェクトが立ちあがったばかりでこっちの仕事も増えてくるし接触は多くなるけど、そのこと以上に、見てると阿吽の呼吸とか以心伝心って感じだから」
「たぶん、わたしが張りきってるせいです。最初から携わった、はじめてのプロジェクトなので」
「そうよね。実務課に異動して半年でしょ、伊伏さんはよくやってる」
そこまで云って、滝沢は椅子に座ったまま身を寄せてきた。おせっかいだけど、と声を潜めて――
「あの『セクシー』でどんな反応が見られるか、ちょっと楽しみにしてたのよね」
と、いかにも残念そうに云い、琴子は目を丸くした。
あのメモが道仁の手に渡ったのは確認ミスではなく、滝沢の悪戯心だったのだ。
「……楽しみって、どんな楽しみですか」
「里見リーダーは仕事ひと筋で浮いた話がないから……というより、恋愛のないオフィスって殺風景でしょ。会社に行く楽しみになるのに」
滝沢は無責任なことを放ち、おかげで道仁の声を『セクシー』と称したことを知られていたというきまり悪さが消えるほど、琴子は驚いた。
「……滝沢さんがそんなことを云うって思いませんでした。うち、恋愛コンプラありますよ」
「恋心って、本来は規律でコントロールできるものじゃないでしょ。例えば、仕事ぶりを見て惹かれるとかあると思うのよね」
滝沢は結婚もして子供もいる人だ。年の功というよりは、経験豊かなのか、さすがに発言には一理ある。
恋心がコントロールできるのなら、琴子が道仁のことを好きになることはなかった。
九月も終わりに近づき、空気は秋めいて灼熱という気配はすっかり消えた。ちょうど一週間前の金曜日は台風がかすめていって、来週半ばにまた近づきそうだというが、今日はすこぶる快晴だ。
梓沙と手分けをして作った弁当を広げると、琴子はオムレツを一番に頬張る。マヨネーズを入れてふわふわにしたオムレツは、梓沙の得意料理であり琴子の大好物だ。
子供の頃は好きなものを後回しにしていたのに、働きだして生活のサイクルがわかって安定してくると、さきに食べるようになった。後回しにしていたのは、わくわくした気分を一分でも長く感じたかったからだと思う。いまは、大好物を食べることに限らず、ショッピングだったり小旅行だったり、節約はしながらもいろんな楽しみを見いだせている。
美味しいものは一番に食べて、ひと際美味しく食べる。そんな身についた習慣のもと、オムレツの食感と味覚がくすぐられて脳内には多幸感が満ちた。
「美味しい」
独りで食べるときもやっぱり口にしてしまう。
ほうれん草の胡麻和えを食べて空腹感が落ち着くと、琴子はスマホを手に取って、さっき入ってきた梓沙からのメッセージを開いた。『お疲れさま』というスタンプで始まり――
『今日は予定外でデート!』
と、琴子がある程度想像していたとおりのメッセージは、『よろしくね』というスタンプで締め括られている。
八月の一泊旅行のとき、梓沙は壮輔との結婚をリベンジだと云いきった。その旅行のあと間もなく、壮輔は行動を起こして、成り行き任せだった仕事に終止符を打ち、今月いっぱいでプラヴィ電機を退社することになっている。十月になったらすぐ、イベント会社に勤めるという。だから、もしかしたら交際をやめるんじゃないかとすら琴子は思っていたのに、予期に反して梓沙はそのままとどまっている。
壮輔は金曜日の今日も土日も、引き継ぎだったり、新たな仕事についての下調べだったりで、忙しくて会えないと梓沙から聞いていた。そのせいか、メッセージは端的ながらもうれしそうに読みとれた。梓沙は、育ちの良さに甘えている壮輔に腹が立つと云っていたけれど、それ以上に壮輔のことが好きなんだろうと思う。
このままうまくいってほしい。そう願うのは、梓沙のためばかりではない。琴子にとっては、梓沙がうまくいけば自分もうまくいくと、云ってみれば験担ぎだ。
琴子は、『楽しんで!』と簡潔なメッセージ、それに『よかったね』と『お疲れさま』というスタンプを付けて梓沙に返事を送った。自然と笑みが浮かんでくる。残りの弁当を食べきって、琴子はメイク直しをしてから持ち場に戻った。
自分のデスクに近づくと、隣のデスクの滝沢が琴子に気づいて顔を上げた。
「伊伏さん、里見リーダーから内線が来てた。昼休みが終わったら、資料が見たいから連絡してほしいって」
「わかりました。ありがとうございます」
一時間きっちり取るように云われている昼休み時間を考えると、まだ三十分以上ある。けれど、短縮になっても琴子はまったくかまわない。それが道仁ならなおさらだ。
「部署を超えて、伊伏さんてまるで里見リーダーの秘書よね」
弁当とメイク道具の入ったバッグをデスクの足もとにしまおうとして身をかがめかけたとき、滝沢が話しかけた。琴子はそのまま足もとの籠にバッグを入れて躰を起こすと、滝沢のほうを向いた。そのちょっとした時間は考えるための時間稼ぎにもなった。
「すごい下っ端ですけど……実務課は普通に秘書の秘書っていう感じですよね? わたし、やりすぎですか?」
滝沢は四十代に入ったばかりのベテランだ。厳しくもあるが仕事を教えるにも適確で信頼もしている。琴子が無難に訊ねてみると、滝沢は可笑しそうに笑った。
「ううん。プロジェクトが立ちあがったばかりでこっちの仕事も増えてくるし接触は多くなるけど、そのこと以上に、見てると阿吽の呼吸とか以心伝心って感じだから」
「たぶん、わたしが張りきってるせいです。最初から携わった、はじめてのプロジェクトなので」
「そうよね。実務課に異動して半年でしょ、伊伏さんはよくやってる」
そこまで云って、滝沢は椅子に座ったまま身を寄せてきた。おせっかいだけど、と声を潜めて――
「あの『セクシー』でどんな反応が見られるか、ちょっと楽しみにしてたのよね」
と、いかにも残念そうに云い、琴子は目を丸くした。
あのメモが道仁の手に渡ったのは確認ミスではなく、滝沢の悪戯心だったのだ。
「……楽しみって、どんな楽しみですか」
「里見リーダーは仕事ひと筋で浮いた話がないから……というより、恋愛のないオフィスって殺風景でしょ。会社に行く楽しみになるのに」
滝沢は無責任なことを放ち、おかげで道仁の声を『セクシー』と称したことを知られていたというきまり悪さが消えるほど、琴子は驚いた。
「……滝沢さんがそんなことを云うって思いませんでした。うち、恋愛コンプラありますよ」
「恋心って、本来は規律でコントロールできるものじゃないでしょ。例えば、仕事ぶりを見て惹かれるとかあると思うのよね」
滝沢は結婚もして子供もいる人だ。年の功というよりは、経験豊かなのか、さすがに発言には一理ある。
恋心がコントロールできるのなら、琴子が道仁のことを好きになることはなかった。
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