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第1章 恋愛コンプラの盾
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ふっという吐息は、ただの吐息か笑ったのか。ゆっくりと上体を起こしていく里見は背が高い。その顔が見られるまでに生じたタイムラグは、表情の変化に影響したのか否か、興じた雰囲気があった。
その間に、琴子は何を云われたのか、すっかり飛んでしまう。里見のほうが口を開くのが早かった。
「距離を縮めてみたけど」
里見はまるで軟派な男に変化している。
把握するのに少し戸惑った琴子は、会議室での会話を思いだしてその意味を理解すると目を見開いた。
「……そういう意味じゃないことはわかってますよね? それに、冗談にするには無理があります」
「いや、けっこう本気で云ってる」
「本気って……」
里見の『けっこう』という言葉をどんなふうに受けとめればいいのだろう。そんな戸惑いに陥っていることに自力で気づき、その戸惑いを払拭するべくすぐさま琴子は反撃に移った。
「いまのは冗談でも本気でも、いいはずがありません。少なくとも、わたしが不快に思った時点でアウトです」
「不快?」
里見は眉をひそめて、琴子の言葉を問うように繰り返した。
梓沙も、第一チームの女性たちも、好き嫌いは別としてだれもが里見を見れば容姿端麗だと認識する。かくいう琴子も、こっちが引け目を感じるくらいきれいな顔立ちだと思っている。その欠点が、いま一つだけ見つかった。里見は自分が拒絶されることはないと思っている節がある。
「不快に思う人なんていないと思っているんでしたら、それは間違いです」
里見は顔を陰らせ、心底から落胆したように長く嘆息した。
「おれはそこまで伊伏さんに嫌われてる?」
あからさまにがっかりされると、琴子もさすがに心が痛まないことはない。
「べつに嫌いとは云ってません」
「望みはあるって?」
里見は琴子の言葉に飛びついた。そう云わせるために、わざと琴子の良心が咎めるようにがっかりしてみせたのかもしれない。
「……あの、望みってなんでしょう」
里見の意思など聞かないほうが得策だと判断したときはすでに遅く、琴子は訊ねてしまっていた。
「伊伏さんを手に入れたい。そう思っている」
里見の言葉はストレートなのか遠回しなのか、判断はつかない。
「千分の一の確率でやっと入社できた玉里です。わたしはルール違反をするつもりはないので」
「恋愛コンプライアンスの盾か……」
里見はどこか納得いかないようにつぶやくと、行こう、と出し抜けに琴子を促す。琴子が歩きだすのに伴って、里見も従った。
「伊伏さんがうまい具合にホース自動車の話に持っていってくれたから、チームの士気も上がった」
話題は変わり、半歩ほどあとを来る里見を振り返ると、琴子はごく真面目な顔つきで見返された。歩きながら問うように少し首をかしげる。
「そうなんですか?」
「さっき、チームの連中が云っていたことを聞いただろう?」
「そうですけど……」
琴子は返事をしながら、食事会で話したことを思いだす。
実務課に異動するまえ、資料課では古い書類に関わったことで玉里の成り立ちに興味を持ち、業務とは別に休み時間を利用して、沿革をもとにして少し掘りさげて調べてみた。琴子もまた、いまの玉里Pravyしか見ずに入社した口だ。
ホース自動車は、玉里Pravyと同じように、玉里コンツェルンを源流とした企業だ。つまり、今回の新規事業は、喧嘩別れをしたわけではないが『元サヤ』と称されてもおかしくない。その話をきっかけに、玉里コンツェルンの傘下にあった企業、あるいは事業を終結させれば、日本経済を支えてきたといっても過言ではないという話に発展して沸いた。
けれど。
「あれは里見リーダーがわたしに話を振ったんですよ。実務課のまえは資料課にいたんだったな、って……」
琴子は云いながら気がついた。
食事とともにマッチングアプリと恋愛の話が一段落したところで、里見から話を振られたのだが、それはきっと琴子が会話に加わりやすいように図ったのだ。
実務課に異動してみると、以前、経験したこともあってわかってはいたけれど、資料課の仕事は切迫感や緊迫感に欠けている。社内の左遷先と揶揄されているのを聞いたこともあるが、琴子が不満を持ったことはない。ただし、ちょっとした後ろめたさはある。
琴子は何を話そうかと迷ったすえ、趣味ともいえる好奇心で調べていた玉里の変遷を語ったのだ。
「おれが振ったのはそれだけだ。あとは伊伏さんが機転を利かせた。あれは身内のおれが云ったら、自慢話にしか聞こえない。伊伏さんが語るから説得力がある。期待してたわけじゃないけど……」
その言葉には続きがありそうな気配を感じて、琴子はしばらく待ってみたが里見は何も云わずについてくる。
――と、そこで琴子は里見が同じホームに向かっていると気づいた。人が並んだ列を適当に選んで後ろに加わると、里見もまた留まる。
「こっちですか?」
「いや」
澄ました返事が放たれた。
顔をしかめた琴子を見て、里見は可笑しそうにした。
「安心してくれ。ストーカーになるつもりはない。ただし」
きっぱりとした言葉に、安心してくれという言葉とは逆に不安じみて琴子はかまえてしまう。
「ただし、なんですか」
里見がにやりとしたと同時に電車が入ってきた。
「伊伏さんはおれを嫌いでもない。望みがないのは恋愛コンプライアンスの盾があるから。それなら――」
唐突に身をかがめた里見はまた琴子の耳もとに顔をおろした。
「その盾を壊すまでだ」
里見が顔を上げると、不敵な眼差しが琴子に注がれた。
目を丸くした琴子に、ほら、と電車に乗るよう促し――
「気をつけて」
琴子は背中から声をかけられ、電車に乗って振り向くと、里見は、じゃあ、と軽く手を上げる。口を歪めた笑みを浮かべ、その様はまるで宣戦布告に見えた。
その間に、琴子は何を云われたのか、すっかり飛んでしまう。里見のほうが口を開くのが早かった。
「距離を縮めてみたけど」
里見はまるで軟派な男に変化している。
把握するのに少し戸惑った琴子は、会議室での会話を思いだしてその意味を理解すると目を見開いた。
「……そういう意味じゃないことはわかってますよね? それに、冗談にするには無理があります」
「いや、けっこう本気で云ってる」
「本気って……」
里見の『けっこう』という言葉をどんなふうに受けとめればいいのだろう。そんな戸惑いに陥っていることに自力で気づき、その戸惑いを払拭するべくすぐさま琴子は反撃に移った。
「いまのは冗談でも本気でも、いいはずがありません。少なくとも、わたしが不快に思った時点でアウトです」
「不快?」
里見は眉をひそめて、琴子の言葉を問うように繰り返した。
梓沙も、第一チームの女性たちも、好き嫌いは別としてだれもが里見を見れば容姿端麗だと認識する。かくいう琴子も、こっちが引け目を感じるくらいきれいな顔立ちだと思っている。その欠点が、いま一つだけ見つかった。里見は自分が拒絶されることはないと思っている節がある。
「不快に思う人なんていないと思っているんでしたら、それは間違いです」
里見は顔を陰らせ、心底から落胆したように長く嘆息した。
「おれはそこまで伊伏さんに嫌われてる?」
あからさまにがっかりされると、琴子もさすがに心が痛まないことはない。
「べつに嫌いとは云ってません」
「望みはあるって?」
里見は琴子の言葉に飛びついた。そう云わせるために、わざと琴子の良心が咎めるようにがっかりしてみせたのかもしれない。
「……あの、望みってなんでしょう」
里見の意思など聞かないほうが得策だと判断したときはすでに遅く、琴子は訊ねてしまっていた。
「伊伏さんを手に入れたい。そう思っている」
里見の言葉はストレートなのか遠回しなのか、判断はつかない。
「千分の一の確率でやっと入社できた玉里です。わたしはルール違反をするつもりはないので」
「恋愛コンプライアンスの盾か……」
里見はどこか納得いかないようにつぶやくと、行こう、と出し抜けに琴子を促す。琴子が歩きだすのに伴って、里見も従った。
「伊伏さんがうまい具合にホース自動車の話に持っていってくれたから、チームの士気も上がった」
話題は変わり、半歩ほどあとを来る里見を振り返ると、琴子はごく真面目な顔つきで見返された。歩きながら問うように少し首をかしげる。
「そうなんですか?」
「さっき、チームの連中が云っていたことを聞いただろう?」
「そうですけど……」
琴子は返事をしながら、食事会で話したことを思いだす。
実務課に異動するまえ、資料課では古い書類に関わったことで玉里の成り立ちに興味を持ち、業務とは別に休み時間を利用して、沿革をもとにして少し掘りさげて調べてみた。琴子もまた、いまの玉里Pravyしか見ずに入社した口だ。
ホース自動車は、玉里Pravyと同じように、玉里コンツェルンを源流とした企業だ。つまり、今回の新規事業は、喧嘩別れをしたわけではないが『元サヤ』と称されてもおかしくない。その話をきっかけに、玉里コンツェルンの傘下にあった企業、あるいは事業を終結させれば、日本経済を支えてきたといっても過言ではないという話に発展して沸いた。
けれど。
「あれは里見リーダーがわたしに話を振ったんですよ。実務課のまえは資料課にいたんだったな、って……」
琴子は云いながら気がついた。
食事とともにマッチングアプリと恋愛の話が一段落したところで、里見から話を振られたのだが、それはきっと琴子が会話に加わりやすいように図ったのだ。
実務課に異動してみると、以前、経験したこともあってわかってはいたけれど、資料課の仕事は切迫感や緊迫感に欠けている。社内の左遷先と揶揄されているのを聞いたこともあるが、琴子が不満を持ったことはない。ただし、ちょっとした後ろめたさはある。
琴子は何を話そうかと迷ったすえ、趣味ともいえる好奇心で調べていた玉里の変遷を語ったのだ。
「おれが振ったのはそれだけだ。あとは伊伏さんが機転を利かせた。あれは身内のおれが云ったら、自慢話にしか聞こえない。伊伏さんが語るから説得力がある。期待してたわけじゃないけど……」
その言葉には続きがありそうな気配を感じて、琴子はしばらく待ってみたが里見は何も云わずについてくる。
――と、そこで琴子は里見が同じホームに向かっていると気づいた。人が並んだ列を適当に選んで後ろに加わると、里見もまた留まる。
「こっちですか?」
「いや」
澄ました返事が放たれた。
顔をしかめた琴子を見て、里見は可笑しそうにした。
「安心してくれ。ストーカーになるつもりはない。ただし」
きっぱりとした言葉に、安心してくれという言葉とは逆に不安じみて琴子はかまえてしまう。
「ただし、なんですか」
里見がにやりとしたと同時に電車が入ってきた。
「伊伏さんはおれを嫌いでもない。望みがないのは恋愛コンプライアンスの盾があるから。それなら――」
唐突に身をかがめた里見はまた琴子の耳もとに顔をおろした。
「その盾を壊すまでだ」
里見が顔を上げると、不敵な眼差しが琴子に注がれた。
目を丸くした琴子に、ほら、と電車に乗るよう促し――
「気をつけて」
琴子は背中から声をかけられ、電車に乗って振り向くと、里見は、じゃあ、と軽く手を上げる。口を歪めた笑みを浮かべ、その様はまるで宣戦布告に見えた。
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