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第1章 恋愛コンプラの盾
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琴子が入社して最初に配置されたのは、データ管理部資料課だった。創業から百十年という企業の資料は、遡れば膨大だ。古い書類をデータ化するという地味な仕事から始まった。とはいえ、紙を廃棄するためのデータ化であり、間違いは取り返しがつかず神経は使う。
入社後一年半という去年の十月、中間決算の発表をまえにして慌ただしいなか、実務課の手が足りずに駆りだされたことがあった。
実務課は部署を超えて補佐的な要素があり、比較的単純な会議の議事録をはじめ、下準備として様々なデータ抽出という面倒――いや、複雑な作業まで行い、特にデータ提出に関しては急な依頼も多い。
琴子が手伝ったのは、音声データから文字起こしをして議事録を作成することだった。資料課で携わっていたデータ化には議事録もあったから、構成も概ねわかってはいた。わかっていただけで、単純とは云いきれないほど実際は難儀だ。加えて、文字起こしは問題ないとしても、声を聞き分けなければならない。
プラヴィ電機が開発中の、声の聞き分けができる人工知能ツールを実験的に使うこともあり、基礎入力の手間は省けた。けれど、なにぶん開発中であるがゆえに確認作業には注意が必要だ。琴子はまだまだ新米の部類で、面識のない社員もいるなか声を判別するのに苦労した。
その仕事はなんとか無事に終わったものの、気を張っていたあまり、逆に気が抜けていたところもあったのだろう、琴子はとんでもない失態をやらかしていた。
声を聞き分けるのにその特徴を記したチェック用のシートが、清書したものに紛れこんでいたのだ。
実務課の滝沢麻紀が確認してくれればよかったのに、よほど忙しかったのか、琴子が提出したものはそのまま依頼主に渡ってしまった。その依頼主というのが里見だった。
琴子が自分の失態を知ったのは、十一月に入ってからだった。しかも、里見がわざわざ資料課を訪ねてきて琴子を探し当て、チェック用のシートを突きつけた。
『一端の機密文書だな』
歪んだ口もとを見て皮肉なのかと思ったけれど。
琴子は、青くなっているのか赤くなっているのか自分でもわからないほど困惑しながら、必死で冷静さを保ちつつ、『失礼しました』と深く頭を下げた。
琴子が顔を上げたとき、里見は少し考えこんだ面持ちになり、それからまた口を歪めた。そのときは、明らかに興じているとわかった。
『おもしろいな。――というのは侮辱じゃない、褒め言葉だ。念のため』
それから里見は出し抜けに、ペンを貸してくれ、と云い、琴子が渡すとチェック用シートの空きスペースにすらすらと数字を並べて書いた。
『声が聞きたくなったらいつでも』
そんなセリフを残して里見は立ち去った。
おふざけなのか、それが携帯番号だとすぐに見当がついたけれど、真に受けて琴子が電話をするとしたら石に花が咲く。つまり、あり得ないことで、琴子は放置した。
そのかわりに、過去の資料が必要だと云って里見のほうからやってくる。探すまでに時間がかかる場合もあるし、前以て連絡してくれればいいものを、わざわざ云いつけにくるのだ。加えて、今期の春の異動で琴子は実務課の所属となり、必然的に里見との関わりが増えた。
事の発端、琴子の書き込みは『ちょい悪』、『ドン』、『チャラ男』などで、話者名の横に連ねていた。あまつさえ、里見の声をどう区別したかというと、仕事にはまったくふさわしくない『セクシー』だ。思いだしたくもない。里見の記憶からも消えてほしい。
琴子は内心の動揺を隠して責めるように里見を見るが、どこ吹く風といった余裕は変わらない。もったいぶった様子で、またその口が開く。
「ただし、勘違いはしないけど、確かなのは、伊伏さんにとっておれの声が悪くないってことだ。せっかく話せる機会を提供したのに遠慮してるから、おれからナマで聞く機会を増やしてやってる」
里見ははっきり憶えている。どう? と問うようにその首がかしいだ。
恩着せがましく、わざと自意識過剰に見せるのはめずらしくないけれど、いまの発言は琴子に疑念を芽生えさせた。
「それって……」
琴子は云いかけて呑みこんだ。いくら創業者の末裔であっても、里見の立場で人事に口を出して、それが通るだろうか。
「何?」
「……里見リーダー、社内倫理はわかっていらっしゃいます? いまのははっきりハラスメント発言です」
「それなら、お詫びに食事をごちそうしよう」
それこそNGワードだ。そう琴子が思ったことは顔に表れなくとも里見なら察せるはずで、案の定、もちろんふたりきりじゃない、と間髪を容れず弁解をはじめ、里見は立ちあがりながら続けた。
「おれのチームがそろう食事会だ。今回の企画の決起大会というところだな。あとで予定を知らせる。議事録ができたらデータを送ってくれ」
琴子の返事を待つことなく、否、それよりも聞くまえに退散しようとしているかのようで、云い終わる頃にはドアにたどり着いて、里見はさっさと会議室を出ていった。
入社後一年半という去年の十月、中間決算の発表をまえにして慌ただしいなか、実務課の手が足りずに駆りだされたことがあった。
実務課は部署を超えて補佐的な要素があり、比較的単純な会議の議事録をはじめ、下準備として様々なデータ抽出という面倒――いや、複雑な作業まで行い、特にデータ提出に関しては急な依頼も多い。
琴子が手伝ったのは、音声データから文字起こしをして議事録を作成することだった。資料課で携わっていたデータ化には議事録もあったから、構成も概ねわかってはいた。わかっていただけで、単純とは云いきれないほど実際は難儀だ。加えて、文字起こしは問題ないとしても、声を聞き分けなければならない。
プラヴィ電機が開発中の、声の聞き分けができる人工知能ツールを実験的に使うこともあり、基礎入力の手間は省けた。けれど、なにぶん開発中であるがゆえに確認作業には注意が必要だ。琴子はまだまだ新米の部類で、面識のない社員もいるなか声を判別するのに苦労した。
その仕事はなんとか無事に終わったものの、気を張っていたあまり、逆に気が抜けていたところもあったのだろう、琴子はとんでもない失態をやらかしていた。
声を聞き分けるのにその特徴を記したチェック用のシートが、清書したものに紛れこんでいたのだ。
実務課の滝沢麻紀が確認してくれればよかったのに、よほど忙しかったのか、琴子が提出したものはそのまま依頼主に渡ってしまった。その依頼主というのが里見だった。
琴子が自分の失態を知ったのは、十一月に入ってからだった。しかも、里見がわざわざ資料課を訪ねてきて琴子を探し当て、チェック用のシートを突きつけた。
『一端の機密文書だな』
歪んだ口もとを見て皮肉なのかと思ったけれど。
琴子は、青くなっているのか赤くなっているのか自分でもわからないほど困惑しながら、必死で冷静さを保ちつつ、『失礼しました』と深く頭を下げた。
琴子が顔を上げたとき、里見は少し考えこんだ面持ちになり、それからまた口を歪めた。そのときは、明らかに興じているとわかった。
『おもしろいな。――というのは侮辱じゃない、褒め言葉だ。念のため』
それから里見は出し抜けに、ペンを貸してくれ、と云い、琴子が渡すとチェック用シートの空きスペースにすらすらと数字を並べて書いた。
『声が聞きたくなったらいつでも』
そんなセリフを残して里見は立ち去った。
おふざけなのか、それが携帯番号だとすぐに見当がついたけれど、真に受けて琴子が電話をするとしたら石に花が咲く。つまり、あり得ないことで、琴子は放置した。
そのかわりに、過去の資料が必要だと云って里見のほうからやってくる。探すまでに時間がかかる場合もあるし、前以て連絡してくれればいいものを、わざわざ云いつけにくるのだ。加えて、今期の春の異動で琴子は実務課の所属となり、必然的に里見との関わりが増えた。
事の発端、琴子の書き込みは『ちょい悪』、『ドン』、『チャラ男』などで、話者名の横に連ねていた。あまつさえ、里見の声をどう区別したかというと、仕事にはまったくふさわしくない『セクシー』だ。思いだしたくもない。里見の記憶からも消えてほしい。
琴子は内心の動揺を隠して責めるように里見を見るが、どこ吹く風といった余裕は変わらない。もったいぶった様子で、またその口が開く。
「ただし、勘違いはしないけど、確かなのは、伊伏さんにとっておれの声が悪くないってことだ。せっかく話せる機会を提供したのに遠慮してるから、おれからナマで聞く機会を増やしてやってる」
里見ははっきり憶えている。どう? と問うようにその首がかしいだ。
恩着せがましく、わざと自意識過剰に見せるのはめずらしくないけれど、いまの発言は琴子に疑念を芽生えさせた。
「それって……」
琴子は云いかけて呑みこんだ。いくら創業者の末裔であっても、里見の立場で人事に口を出して、それが通るだろうか。
「何?」
「……里見リーダー、社内倫理はわかっていらっしゃいます? いまのははっきりハラスメント発言です」
「それなら、お詫びに食事をごちそうしよう」
それこそNGワードだ。そう琴子が思ったことは顔に表れなくとも里見なら察せるはずで、案の定、もちろんふたりきりじゃない、と間髪を容れず弁解をはじめ、里見は立ちあがりながら続けた。
「おれのチームがそろう食事会だ。今回の企画の決起大会というところだな。あとで予定を知らせる。議事録ができたらデータを送ってくれ」
琴子の返事を待つことなく、否、それよりも聞くまえに退散しようとしているかのようで、云い終わる頃にはドアにたどり着いて、里見はさっさと会議室を出ていった。
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