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第1章 恋愛コンプラの盾
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地上二十九階建ての北斗ビルのなか、二十七階から眺める景色は広々として見え、空を飛べそうな自由が実感できる。伊伏琴子にとって、会議室としてあるこの角部屋は、ごくシンプルだけれどどこよりもお気に入りの場所だ。
琴子が所属するデータ管理部にも一面だけ窓はあるが、あいにくと琴子個人の持ち場は窓から離れたところにあって、外を眺めるという息抜きには恵まれていない。
もっとも、この会議室から見たところで、それを絶景というには少し違う。ビジネス街のなか、近辺には同じくらいの高さのビルが数多くあって、そのなかには緑色の映えた憩いの場所などもある。たとえ、眼下に広大な目の保養地があったとしても、それらに意味はなく、何が見えようと琴子はどうだっていい。意味があるのは、もしも空を飛べたときにさえぎるものがなく、だだっ広いこと。
そう思うようになったのは、ここに呼びだされるようになった最近のことだ。
今日は特にすこぶるいい天気で、暑くも寒くもない空調の効いた室内に、感じるはずのない暖かさを感じる。梅雨というワンステップを踏まないと夏には向かえない。その一段階前の五月、ふとその暖かさとは異質の熱を帯びた。右の頬が火照る。
琴子は無自覚にその原因を求めて、外から室内へと目を転じた。
トントンと指先でテーブルを叩く音、ノートパソコンの画面をタップする音、椅子の背にもたれて腕を組んでノートパソコンの画面を眺める者、テーブルに肘をつき、こめかみを指先で支えて眉間にしわを寄せる者など、ドーナツ型のテーブルを囲む者は様々に吟味していた。
そのなかでただ一人、議題を提供した本人は飄々として余裕たっぷりだ。あろうことか、その眼差しは琴子を射止めている。
不届き者。“いまの”里見道仁にはその言葉がぴったり合う。
両肘をテーブルについて、組んだ手に顎をのせるというしぐさはいかにも横柄だ。入社八年め、三十歳を控えた里見は会議のメンバーのなかでいちばん若い。役職でいっても弱輩なのに、物怖じしないのは、この会社、玉里Pravyホールディングスの創業者一族の出身だからだ。
いま会議室はしんとしている。議題に対しての質疑応答、そして討論を終えたあと、個々で咀嚼、及び検討する時間が取られている。
里見がよそ見をしているのは、吟味を尽くしたすえの自分の提案であり、そうする必要もないのだろうが。
いまにも笑みを浮かべそうな雰囲気で、だれかに気づかれたら、もしくは見咎められたらどうするだろう。
睨みつけたり、顔をしかめたり、そんな反応は逆効果だとわかっているから、琴子は無視をして、手もとのノートパソコンに目を落とした。その実、クールさを装ったところで、それは装っているだけで、変わらず右の頬が熱い。自意識過剰だ。自分に云い聞かせ、画面に集中した。
琴子のいまの仕事は、会議の議事録を取ることだ。録音で対応する会議もあるなか、この議題に限っては終わり次第、纏めてほしいと云われている。並行して録音も命じられているが、入社して三年め、気を張ってはいるものの聞き逃すことも慌てふためくこともない。
「いかがですか」
艶を含んだ低音で、それでいてよく通る声は、ついさっきまで如何わしいほど興じていたのが幻影だったのかと思うくらい、理性を保っている。
「冒険だな」
「はい。ただ、先程も述べましたとおり、電気通信、精密機械、そしてコンピューティングにも長けた我が玉里グループならば――いえ、玉里Pravyだからこその時代が当来したんです。社名『プラヴィ』の由来をお忘れですか。“vie pratique”、フランス語で“便利な生活”ですよ。暮らしを豊かにするところにプラヴィ各社の存在価値がある。見す見す他所に譲り、ましてや後れを取ることがあるのならば、それこそ創業百十年、株主からグループの真価が問われる事態になるのではありませんか。夢物語ではないんです」
重役たちを前にすれば二十九歳という若輩であろうが、里見は臆することもなく説得を繰り返した。
「資金力は問題ない。むしろ、里見リーダーの云うとおり、うちがやらずにどこがやれる――そんなプライドを持ってやるべき案だ」
いかがかな、と戦略室の大角室長は面々を見渡した。
「やりましょう」
一拍置いたのち、応じたひと声が発せられると、次々と同じ言葉が連なった。
「――ということだ、里見リーダー。どこよりも早く実現できるよう、進行プランを詰めてほしい」
「承知しました」
里見の返事を合図にして会議は終了となり、各々が「お疲れさん」と声を掛け合いながら席を立った。
「お疲れさまでした」
そう声をかける琴子に、手を上げたり言葉をかけたりと応える者もいれば、なんの反応も返さない者もいる。どちらであろうとどうでもよく、琴子の目的は一つ、彼らと一緒に里見を追い払うことだったが。
「お疲れ」
と、里見は、会議用のテーブルとは別にある書記用のデスクまでやってきた。
全員が会議室を出てしまわないうちにそうしたのは、琴子に拒ませないために違いなかった。
琴子が所属するデータ管理部にも一面だけ窓はあるが、あいにくと琴子個人の持ち場は窓から離れたところにあって、外を眺めるという息抜きには恵まれていない。
もっとも、この会議室から見たところで、それを絶景というには少し違う。ビジネス街のなか、近辺には同じくらいの高さのビルが数多くあって、そのなかには緑色の映えた憩いの場所などもある。たとえ、眼下に広大な目の保養地があったとしても、それらに意味はなく、何が見えようと琴子はどうだっていい。意味があるのは、もしも空を飛べたときにさえぎるものがなく、だだっ広いこと。
そう思うようになったのは、ここに呼びだされるようになった最近のことだ。
今日は特にすこぶるいい天気で、暑くも寒くもない空調の効いた室内に、感じるはずのない暖かさを感じる。梅雨というワンステップを踏まないと夏には向かえない。その一段階前の五月、ふとその暖かさとは異質の熱を帯びた。右の頬が火照る。
琴子は無自覚にその原因を求めて、外から室内へと目を転じた。
トントンと指先でテーブルを叩く音、ノートパソコンの画面をタップする音、椅子の背にもたれて腕を組んでノートパソコンの画面を眺める者、テーブルに肘をつき、こめかみを指先で支えて眉間にしわを寄せる者など、ドーナツ型のテーブルを囲む者は様々に吟味していた。
そのなかでただ一人、議題を提供した本人は飄々として余裕たっぷりだ。あろうことか、その眼差しは琴子を射止めている。
不届き者。“いまの”里見道仁にはその言葉がぴったり合う。
両肘をテーブルについて、組んだ手に顎をのせるというしぐさはいかにも横柄だ。入社八年め、三十歳を控えた里見は会議のメンバーのなかでいちばん若い。役職でいっても弱輩なのに、物怖じしないのは、この会社、玉里Pravyホールディングスの創業者一族の出身だからだ。
いま会議室はしんとしている。議題に対しての質疑応答、そして討論を終えたあと、個々で咀嚼、及び検討する時間が取られている。
里見がよそ見をしているのは、吟味を尽くしたすえの自分の提案であり、そうする必要もないのだろうが。
いまにも笑みを浮かべそうな雰囲気で、だれかに気づかれたら、もしくは見咎められたらどうするだろう。
睨みつけたり、顔をしかめたり、そんな反応は逆効果だとわかっているから、琴子は無視をして、手もとのノートパソコンに目を落とした。その実、クールさを装ったところで、それは装っているだけで、変わらず右の頬が熱い。自意識過剰だ。自分に云い聞かせ、画面に集中した。
琴子のいまの仕事は、会議の議事録を取ることだ。録音で対応する会議もあるなか、この議題に限っては終わり次第、纏めてほしいと云われている。並行して録音も命じられているが、入社して三年め、気を張ってはいるものの聞き逃すことも慌てふためくこともない。
「いかがですか」
艶を含んだ低音で、それでいてよく通る声は、ついさっきまで如何わしいほど興じていたのが幻影だったのかと思うくらい、理性を保っている。
「冒険だな」
「はい。ただ、先程も述べましたとおり、電気通信、精密機械、そしてコンピューティングにも長けた我が玉里グループならば――いえ、玉里Pravyだからこその時代が当来したんです。社名『プラヴィ』の由来をお忘れですか。“vie pratique”、フランス語で“便利な生活”ですよ。暮らしを豊かにするところにプラヴィ各社の存在価値がある。見す見す他所に譲り、ましてや後れを取ることがあるのならば、それこそ創業百十年、株主からグループの真価が問われる事態になるのではありませんか。夢物語ではないんです」
重役たちを前にすれば二十九歳という若輩であろうが、里見は臆することもなく説得を繰り返した。
「資金力は問題ない。むしろ、里見リーダーの云うとおり、うちがやらずにどこがやれる――そんなプライドを持ってやるべき案だ」
いかがかな、と戦略室の大角室長は面々を見渡した。
「やりましょう」
一拍置いたのち、応じたひと声が発せられると、次々と同じ言葉が連なった。
「――ということだ、里見リーダー。どこよりも早く実現できるよう、進行プランを詰めてほしい」
「承知しました」
里見の返事を合図にして会議は終了となり、各々が「お疲れさん」と声を掛け合いながら席を立った。
「お疲れさまでした」
そう声をかける琴子に、手を上げたり言葉をかけたりと応える者もいれば、なんの反応も返さない者もいる。どちらであろうとどうでもよく、琴子の目的は一つ、彼らと一緒に里見を追い払うことだったが。
「お疲れ」
と、里見は、会議用のテーブルとは別にある書記用のデスクまでやってきた。
全員が会議室を出てしまわないうちにそうしたのは、琴子に拒ませないために違いなかった。
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