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第8章 抱擁-アングララヴァーズ-
3.価値あるもの
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それなりに値が張るホテルの一室は、見合った調度品と、人工光に煌めく地上を眼下にするという特権が与えられる。
ただ、一月にとって、価値のあるものはもはや一つだけだった。ここに立つ財があろうと権力があろうと、盗聴の怖れもなく密会の場所として都合がいいだけでなんの満足感も得られない。
毬亜の顔を見ることなく、声すらも聞くことがなくなって一年と七カ月。
つい先刻の電話は、やはり自分に許してはならなかったのかもしれない。ほぼ、『うん』という相づちばかりだったが、それがよけいに耳に残って離れない。
一月は残響を払うように首を振り、ソファにもたれた躰を起こすと、まえのめりになってテーブルに置いた煙草を手にする。もう何本めか、電話が終わったあとは、煙草に火をともしてはひと息吸って消すことを繰り返している。
しくじるわけにはいかない。
そんな焦燥が判断力を侵食していた。
抑制することは憶えてきたはずが、こと毬亜に関するかぎり放棄しそうになる。判断にエラーを引き起こしてしまう危うさが付き纏う。
毬亜。
シャツ越しに胸もとのペンダントを潰すように握りしめ、呼びかける。まるで祈りを捧げる儀式のように習慣づいた。ともすれば無意識にやりそうになり、自戒しなければならない。そんな必要がなくなるのももうすぐだ。そうしなければならない。
煙草を咥えると立ちあがり、窓辺に寄った。遥か遠くを眺め、だんだんと足もとへ視線を近づけてくるさなか、携帯電話の着信音が鳴った。謙也だと確認して、すぐさま耳に当てる。
「おれだ」
『若頭、問題なくキーはもとに戻しました。だれかが触った形跡はありません』
「ああ。悪かった、詰まらないことをさせて」
『若頭、疎いこと云わないでください。マリが嫌いだったことはありませんし、いまは若頭の気持ちがわかる気がしてます』
「沙羅か」
『……ご存じだったんですか。すみません、制裁は受けます』
「おれがそうすることはない。手を出しちゃいないだろ。時機を待て」
『はい。お気をつけて』
電話が終わると今度は訪問者を知らせるドアベルが鳴る。
ゆっくりドアに近づいてドアスコープを覗くと、嵐司が見えた。託した封筒を掲げているのは何も問題ないという合図だ。ロックを解いてドアを開ける。
「いってきました」
嵐司は開口一番で云い、一月は脇に避けて道を空け、嵐司を招き入れた。左右に広がる廊下をチェックしてからドアを閉めた。
「座れ」
一月はソファを示し、ふたりは向かい合わせで座った。
「謙也から電話があった。すり替えていたカードキーはだれも触れていないそうだ」
「よかったです」
「危ない目に遭わせたな」
「必要になったら呼べって毬亜に云ったのはおれですから。いまがそのときだったんでしょう。おれが云った主旨とは違うけど」
「あのことをほのめかしてるのなら、いまは冗談ですませる気分じゃない。避けたほうが無難だ」
警告すると、嵐司は苦笑いを返した。
「了解です。これは預かっていていいんですね」
嵐司は再び封筒を掲げて確かめた。
「ああ、いい。終わるまで持っていてくれ。丹破一家を外れれば、おまえしか心から信用できる奴はいない」
「お安いご用です。光栄ですよ。それと一月さん、マリから預かったものがあります」
「なんだ」
怪訝にしながら顎をしゃくって促すと、嵐司は封筒を逆さまに向けた。重力に従い、出てきたのはネックレスだった。見覚えがあるどころじゃない、一月が買ってやったものだ。
「何かあって置きっぱなしになるのを避けたいんだって云ってました」
毬亜らしかった。
「それはおれがもらっておく」
差しだされた嵐司の手のひらから取りあげた。
「一月さん、今年のうちに片づきますか」
「おそらくな」
「大丈夫なんですか」
「抜かりないよう、慎重に時間をかけてきた」
「首竜が相手というのが危ういんですよ。あいつらは縦とか横の繋がりとは無関係に目先の任務遂行のためだけに動いて、ためらいがない。あるのは、ボスは絶対だということだけです」
「少なくとも如仁会とは相容れない組織だ。如仁会は首竜と係わるつもりはさらさらない。それを知っていながら強行するなら、総長は圧倒的に不利だ」
「問題はマリです。マリの住み処を密会の場所にするだけでも危険に晒してるのに、首竜のことまでが係わっているとなると……いま、ブローカーが出入りしてますよ。しかも、マリは男たちと対面してる。ともすればマリは共犯者扱いされますよ」
一月はおもむろに煙草を咥え、逸った気を落ち着かせるべく時間を稼ぐ。
「ブローカーのことは調べがついてる。マリは何を云った?」
「マリが聞いたのは断片です」
そう云って、嵐司は単語を並べた。
「如仁会の跡目争いに、首竜にひと役買ってもらおうって算段か」
「一月さん、ブローカーは命懸けと云ってるようだし、それなら一月さんもそうならざるを得ないってことですよ」
「首竜との取引はおれの一存だと嵌められて、首竜を騙して盗取した汚名を着せられ、抗争になったすえ銃弾に倒れる。あるいは、暗殺、か?」
笑って応じると、嵐司は呆れたように首を振り、それから笑った。
「織り込みずみですか」
「総長の取引相手は下っ端だ。だからこそ、首竜だというのは都合がいい」
「どういうことです?」
「謀反罪は突きかえす。暗殺されるのはおれじゃない」
「取引がいつか、わかってるんですか」
「十二月ということまでわかっている」
「いずれにしろ、首竜を巻きこむということは抗争を避けられませんよ」
「首竜のドンには貸しがある」
「知ってるんですか」
「密入国のトラブルを揉み消してやったことがある。首竜の資金源は密入国による割合も大きい。ドンはおれと対等になるために借りを返したがってる。末端がやらかしたことには目をつむってもらう」
嵐司は大きく息をついて、感心したのか呆れたのか首をひと振りした。
「安心しました。とにかく、マリを救いださないと。今日一日、玄関先で毛布一枚被っておれを待ってたみたいですよ」
その光景は簡単に思い浮かぶ。毬亜は頼りないほどいつまでも素直さを失わない。相反して、それが生き延びようとする強さに繋がっている。
守ろうとして、その実、守られているのは一月のほうだろう。
嵐司を送りだしたあとすぐには帰らず、一月はホテルにとどまった。
用心のためということもあるが、毬亜の声がこの部屋に残っている気がするからかもしれない。
携帯電話を手にし、保存した画像を呼びだす。
一月のコートを煽る毬亜の無邪気さはいつか消えてしまうかもしれない。ひょっとしたら助けだす以前に。そんな憂いを抱いてきたが、少なくとも交わした言葉と返事はなんら変わりなかった。
何一つ毬亜のためにできていることはない。すべてが未然のままだ。
約束があっても、離れていれば不安は免れない。それでも声を聞けば、毬亜は毬亜だった。離れたことで、ひょっとすれば自分の気持ちも離れていくのかもしれない。そんな想定はまるで的外れだった。まっすぐに向かってくる眼差しを通して知らぬうちに魂と魂は糾い、それはだれにもほどけない。毬亜と一月さえもほどくことはかなわない。それでいい。
画面から画像を消し、手にした毬亜のネックレスを首にかける。もう離れることのないよう。
ひと息つき、帰ろうかと立ちあがった矢先、着信音が鳴った。艶子だった。
『わたしよ。どうだった? 何かつかめた?』
通話モードにして耳に当てるなり、艶子は一方的に質問を続けた。
「大まかなところは押さえたつもりだ」
『そう。わたしたち、明日はどうかしら? 詳しいことを聞きたいわ』
いつから、わたしたち、という括りになったのか。
「いま会うのはまずい。総長は気づいている」
でなければ、密議で艶子の名が出てくるはずはない。京蔵の計画によれば、艶子も殺られるに違いなかった。
『明日、あのひとは留守なのよ。あの娘のところに行ったら長いんだから。いつも日付を越えてしか帰らないじゃない。それに、外で会うんだから、問題があるとは思えないんだけど』
「それでもいまはまずいと云ってる」
うんざりしているのは極力隠したものの、見くびったような忍び笑いが一月の耳に届く。
『怒ったの?』
「怒った?」
『加奈子の娘まであのひとに奪われて、好きなようにされてる。仁奈って彼女のようにね。あの娘に係わると一月はかっかしてるわ。彼女のかわりにあの娘を助けたいんでしょ。わたしは協力は惜しまない。あの娘にもそう云ってるわ。だからあの娘、今日のことをわたしに頼んだのよ』
毬亜に関するとそれほど自分を露骨に晒しているのか、それとも艶子だからそう思うのか。その疑問は艶子が喋っているうちにすぐさま片隅に押しやられた。
いまになって仁奈の話が艶子の口から出るとは思ってもいなかった。
かわりという言葉が妙に引っかかる。毬亜も電話でそんなことを口にしていた。
――だれかのかわりじゃなくて?
母親のことかと思ったが、もしかすると、まだ青かった頃の一月の寝物語を艶子は毬亜に話したのかもしれなかった。
加奈子は確かにいい女だったが、艶子を遠ざけるために利用する女の一人にすぎない。ほかの女と違い、一度や二度ではすまず情婦としていた理由を付加すれば、大人になるほど母親に似てくるであろう毬亜を加奈子に重ね、味わってみたい気持ちがあったかもしれない。
毬亜に仁奈を重ねなかったとまったく否定すれば嘘になるが、それぞれに出会ったときの自分がまるで違った。重ね合わせることは逆に不可能だった。
この世界に踏みこんでまもなく、弱く、そして、弱り果てたすえ、弱さから脱皮しかけていたその頃に一月は誘惑に乗った。忘れたいと思い、仁奈のことなどなんの痛手にもなっていないというプライドを、艶子を抱くことで守った。いまになれば過ちだったとわかる。捌け口が利害を及ぼす立場にいる艶子だったこと、それは一月にとって最大の愚行だった。
利用したツケはしたたかに還ってくる。
艶子もまた仁奈と立場は変わらず、不本意な結婚をした。同情と云われればそうかもしれない。ずるずると付き合ってきた。そのすえに艶子が一月に執着することも、あの日、毬亜に自分と艶子のセックスを見せつけることになったのも、跳ね返ってきた結果だ。
――ねえ、一度でいいからわたしの部屋で抱いて、約束は果たすって証明してくれない? それとも、一月は母親のほうじゃなくてあの娘に夢中だったの?
それは脅迫に聞こえた。
だったの、という云い方が、ある種の後悔に聞こえた。取り返しのつかない間違いをした、そんなしくじったというニュアンスの後悔だ。
加奈子の死は艶子にそそのかされた結果なのかもしれない。そんな疑問はいつも付き纏っている。身の程知らずの代償よ。冷たくなった加奈子が発見されたとき、艶子はそうつぶやいて歪んだ微笑を見せた。
「仁奈のことはすべて過去のことだ。だれにも関係ない」
『わたしとの約束も?』
「おまえの希望なら、叶うまでもう少しだろう」
『そうね』
と云いながら何がおかしいのか艶子は笑う。
『あのひとね、あの娘に子供を産ませる気よ』
一月は時間が止まったように表情を止めた。確かに、京蔵がそう至ろうとするのは考えられないことではなかった。悠長すぎた。いや、まだ間に合う。――のか。
『またそれをわたしに平気で云う。懲りないわよね。そんなの許すもんですか。あの人の財産はすべてわたしの慰謝料よ。今度のこと、うまくいったら一月の好きなように使って』
艶子のその真意を探ってみれば、やり方を間違えば毬亜が犠牲になることを示唆していた。
「慰謝料ならおまえの金だ」
『そうだけど……』
艶子は、続きは一月が云うべきだと云わんばかりに、思わせぶりに言葉を途中で切った。
「あとはおまえが自由になる、それだけだ。おれはいま射程圏内に入ってる。おまえもだ。ばれたというのはそういうことだとわかってるはずだ。終わるまで慎重にしていたほうがいい」
『……わかったわ』
不満そうな沈黙と声音は電話を切ったあとも、一月の耳もとで不穏に漂った。
いつか京蔵から自由になりたい。それは艶子の寝物語だったはずが、いつの間にか約束と称されるようになった。
傍にいて毬亜を守れず、艶子に勘違いだともそのつもりはないとも突きつけられない。
逸るな、もう少しだ。
一月は胸に手を当て、自分に云い聞かせた。
一つ短く息をつくと、シャツの上からショルダーホルスターを身に着け、銃の位置と感触を確かめてからジャケットを羽織る。携帯電話をポケットに入れ、一月は部屋をあとにした。
ただ、一月にとって、価値のあるものはもはや一つだけだった。ここに立つ財があろうと権力があろうと、盗聴の怖れもなく密会の場所として都合がいいだけでなんの満足感も得られない。
毬亜の顔を見ることなく、声すらも聞くことがなくなって一年と七カ月。
つい先刻の電話は、やはり自分に許してはならなかったのかもしれない。ほぼ、『うん』という相づちばかりだったが、それがよけいに耳に残って離れない。
一月は残響を払うように首を振り、ソファにもたれた躰を起こすと、まえのめりになってテーブルに置いた煙草を手にする。もう何本めか、電話が終わったあとは、煙草に火をともしてはひと息吸って消すことを繰り返している。
しくじるわけにはいかない。
そんな焦燥が判断力を侵食していた。
抑制することは憶えてきたはずが、こと毬亜に関するかぎり放棄しそうになる。判断にエラーを引き起こしてしまう危うさが付き纏う。
毬亜。
シャツ越しに胸もとのペンダントを潰すように握りしめ、呼びかける。まるで祈りを捧げる儀式のように習慣づいた。ともすれば無意識にやりそうになり、自戒しなければならない。そんな必要がなくなるのももうすぐだ。そうしなければならない。
煙草を咥えると立ちあがり、窓辺に寄った。遥か遠くを眺め、だんだんと足もとへ視線を近づけてくるさなか、携帯電話の着信音が鳴った。謙也だと確認して、すぐさま耳に当てる。
「おれだ」
『若頭、問題なくキーはもとに戻しました。だれかが触った形跡はありません』
「ああ。悪かった、詰まらないことをさせて」
『若頭、疎いこと云わないでください。マリが嫌いだったことはありませんし、いまは若頭の気持ちがわかる気がしてます』
「沙羅か」
『……ご存じだったんですか。すみません、制裁は受けます』
「おれがそうすることはない。手を出しちゃいないだろ。時機を待て」
『はい。お気をつけて』
電話が終わると今度は訪問者を知らせるドアベルが鳴る。
ゆっくりドアに近づいてドアスコープを覗くと、嵐司が見えた。託した封筒を掲げているのは何も問題ないという合図だ。ロックを解いてドアを開ける。
「いってきました」
嵐司は開口一番で云い、一月は脇に避けて道を空け、嵐司を招き入れた。左右に広がる廊下をチェックしてからドアを閉めた。
「座れ」
一月はソファを示し、ふたりは向かい合わせで座った。
「謙也から電話があった。すり替えていたカードキーはだれも触れていないそうだ」
「よかったです」
「危ない目に遭わせたな」
「必要になったら呼べって毬亜に云ったのはおれですから。いまがそのときだったんでしょう。おれが云った主旨とは違うけど」
「あのことをほのめかしてるのなら、いまは冗談ですませる気分じゃない。避けたほうが無難だ」
警告すると、嵐司は苦笑いを返した。
「了解です。これは預かっていていいんですね」
嵐司は再び封筒を掲げて確かめた。
「ああ、いい。終わるまで持っていてくれ。丹破一家を外れれば、おまえしか心から信用できる奴はいない」
「お安いご用です。光栄ですよ。それと一月さん、マリから預かったものがあります」
「なんだ」
怪訝にしながら顎をしゃくって促すと、嵐司は封筒を逆さまに向けた。重力に従い、出てきたのはネックレスだった。見覚えがあるどころじゃない、一月が買ってやったものだ。
「何かあって置きっぱなしになるのを避けたいんだって云ってました」
毬亜らしかった。
「それはおれがもらっておく」
差しだされた嵐司の手のひらから取りあげた。
「一月さん、今年のうちに片づきますか」
「おそらくな」
「大丈夫なんですか」
「抜かりないよう、慎重に時間をかけてきた」
「首竜が相手というのが危ういんですよ。あいつらは縦とか横の繋がりとは無関係に目先の任務遂行のためだけに動いて、ためらいがない。あるのは、ボスは絶対だということだけです」
「少なくとも如仁会とは相容れない組織だ。如仁会は首竜と係わるつもりはさらさらない。それを知っていながら強行するなら、総長は圧倒的に不利だ」
「問題はマリです。マリの住み処を密会の場所にするだけでも危険に晒してるのに、首竜のことまでが係わっているとなると……いま、ブローカーが出入りしてますよ。しかも、マリは男たちと対面してる。ともすればマリは共犯者扱いされますよ」
一月はおもむろに煙草を咥え、逸った気を落ち着かせるべく時間を稼ぐ。
「ブローカーのことは調べがついてる。マリは何を云った?」
「マリが聞いたのは断片です」
そう云って、嵐司は単語を並べた。
「如仁会の跡目争いに、首竜にひと役買ってもらおうって算段か」
「一月さん、ブローカーは命懸けと云ってるようだし、それなら一月さんもそうならざるを得ないってことですよ」
「首竜との取引はおれの一存だと嵌められて、首竜を騙して盗取した汚名を着せられ、抗争になったすえ銃弾に倒れる。あるいは、暗殺、か?」
笑って応じると、嵐司は呆れたように首を振り、それから笑った。
「織り込みずみですか」
「総長の取引相手は下っ端だ。だからこそ、首竜だというのは都合がいい」
「どういうことです?」
「謀反罪は突きかえす。暗殺されるのはおれじゃない」
「取引がいつか、わかってるんですか」
「十二月ということまでわかっている」
「いずれにしろ、首竜を巻きこむということは抗争を避けられませんよ」
「首竜のドンには貸しがある」
「知ってるんですか」
「密入国のトラブルを揉み消してやったことがある。首竜の資金源は密入国による割合も大きい。ドンはおれと対等になるために借りを返したがってる。末端がやらかしたことには目をつむってもらう」
嵐司は大きく息をついて、感心したのか呆れたのか首をひと振りした。
「安心しました。とにかく、マリを救いださないと。今日一日、玄関先で毛布一枚被っておれを待ってたみたいですよ」
その光景は簡単に思い浮かぶ。毬亜は頼りないほどいつまでも素直さを失わない。相反して、それが生き延びようとする強さに繋がっている。
守ろうとして、その実、守られているのは一月のほうだろう。
嵐司を送りだしたあとすぐには帰らず、一月はホテルにとどまった。
用心のためということもあるが、毬亜の声がこの部屋に残っている気がするからかもしれない。
携帯電話を手にし、保存した画像を呼びだす。
一月のコートを煽る毬亜の無邪気さはいつか消えてしまうかもしれない。ひょっとしたら助けだす以前に。そんな憂いを抱いてきたが、少なくとも交わした言葉と返事はなんら変わりなかった。
何一つ毬亜のためにできていることはない。すべてが未然のままだ。
約束があっても、離れていれば不安は免れない。それでも声を聞けば、毬亜は毬亜だった。離れたことで、ひょっとすれば自分の気持ちも離れていくのかもしれない。そんな想定はまるで的外れだった。まっすぐに向かってくる眼差しを通して知らぬうちに魂と魂は糾い、それはだれにもほどけない。毬亜と一月さえもほどくことはかなわない。それでいい。
画面から画像を消し、手にした毬亜のネックレスを首にかける。もう離れることのないよう。
ひと息つき、帰ろうかと立ちあがった矢先、着信音が鳴った。艶子だった。
『わたしよ。どうだった? 何かつかめた?』
通話モードにして耳に当てるなり、艶子は一方的に質問を続けた。
「大まかなところは押さえたつもりだ」
『そう。わたしたち、明日はどうかしら? 詳しいことを聞きたいわ』
いつから、わたしたち、という括りになったのか。
「いま会うのはまずい。総長は気づいている」
でなければ、密議で艶子の名が出てくるはずはない。京蔵の計画によれば、艶子も殺られるに違いなかった。
『明日、あのひとは留守なのよ。あの娘のところに行ったら長いんだから。いつも日付を越えてしか帰らないじゃない。それに、外で会うんだから、問題があるとは思えないんだけど』
「それでもいまはまずいと云ってる」
うんざりしているのは極力隠したものの、見くびったような忍び笑いが一月の耳に届く。
『怒ったの?』
「怒った?」
『加奈子の娘まであのひとに奪われて、好きなようにされてる。仁奈って彼女のようにね。あの娘に係わると一月はかっかしてるわ。彼女のかわりにあの娘を助けたいんでしょ。わたしは協力は惜しまない。あの娘にもそう云ってるわ。だからあの娘、今日のことをわたしに頼んだのよ』
毬亜に関するとそれほど自分を露骨に晒しているのか、それとも艶子だからそう思うのか。その疑問は艶子が喋っているうちにすぐさま片隅に押しやられた。
いまになって仁奈の話が艶子の口から出るとは思ってもいなかった。
かわりという言葉が妙に引っかかる。毬亜も電話でそんなことを口にしていた。
――だれかのかわりじゃなくて?
母親のことかと思ったが、もしかすると、まだ青かった頃の一月の寝物語を艶子は毬亜に話したのかもしれなかった。
加奈子は確かにいい女だったが、艶子を遠ざけるために利用する女の一人にすぎない。ほかの女と違い、一度や二度ではすまず情婦としていた理由を付加すれば、大人になるほど母親に似てくるであろう毬亜を加奈子に重ね、味わってみたい気持ちがあったかもしれない。
毬亜に仁奈を重ねなかったとまったく否定すれば嘘になるが、それぞれに出会ったときの自分がまるで違った。重ね合わせることは逆に不可能だった。
この世界に踏みこんでまもなく、弱く、そして、弱り果てたすえ、弱さから脱皮しかけていたその頃に一月は誘惑に乗った。忘れたいと思い、仁奈のことなどなんの痛手にもなっていないというプライドを、艶子を抱くことで守った。いまになれば過ちだったとわかる。捌け口が利害を及ぼす立場にいる艶子だったこと、それは一月にとって最大の愚行だった。
利用したツケはしたたかに還ってくる。
艶子もまた仁奈と立場は変わらず、不本意な結婚をした。同情と云われればそうかもしれない。ずるずると付き合ってきた。そのすえに艶子が一月に執着することも、あの日、毬亜に自分と艶子のセックスを見せつけることになったのも、跳ね返ってきた結果だ。
――ねえ、一度でいいからわたしの部屋で抱いて、約束は果たすって証明してくれない? それとも、一月は母親のほうじゃなくてあの娘に夢中だったの?
それは脅迫に聞こえた。
だったの、という云い方が、ある種の後悔に聞こえた。取り返しのつかない間違いをした、そんなしくじったというニュアンスの後悔だ。
加奈子の死は艶子にそそのかされた結果なのかもしれない。そんな疑問はいつも付き纏っている。身の程知らずの代償よ。冷たくなった加奈子が発見されたとき、艶子はそうつぶやいて歪んだ微笑を見せた。
「仁奈のことはすべて過去のことだ。だれにも関係ない」
『わたしとの約束も?』
「おまえの希望なら、叶うまでもう少しだろう」
『そうね』
と云いながら何がおかしいのか艶子は笑う。
『あのひとね、あの娘に子供を産ませる気よ』
一月は時間が止まったように表情を止めた。確かに、京蔵がそう至ろうとするのは考えられないことではなかった。悠長すぎた。いや、まだ間に合う。――のか。
『またそれをわたしに平気で云う。懲りないわよね。そんなの許すもんですか。あの人の財産はすべてわたしの慰謝料よ。今度のこと、うまくいったら一月の好きなように使って』
艶子のその真意を探ってみれば、やり方を間違えば毬亜が犠牲になることを示唆していた。
「慰謝料ならおまえの金だ」
『そうだけど……』
艶子は、続きは一月が云うべきだと云わんばかりに、思わせぶりに言葉を途中で切った。
「あとはおまえが自由になる、それだけだ。おれはいま射程圏内に入ってる。おまえもだ。ばれたというのはそういうことだとわかってるはずだ。終わるまで慎重にしていたほうがいい」
『……わかったわ』
不満そうな沈黙と声音は電話を切ったあとも、一月の耳もとで不穏に漂った。
いつか京蔵から自由になりたい。それは艶子の寝物語だったはずが、いつの間にか約束と称されるようになった。
傍にいて毬亜を守れず、艶子に勘違いだともそのつもりはないとも突きつけられない。
逸るな、もう少しだ。
一月は胸に手を当て、自分に云い聞かせた。
一つ短く息をつくと、シャツの上からショルダーホルスターを身に着け、銃の位置と感触を確かめてからジャケットを羽織る。携帯電話をポケットに入れ、一月は部屋をあとにした。
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