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第6章 裏切りの遊戯
1.普通に恋ができていたら
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どっかいいとこに連れてってやる――そう云って日曜日の朝、毬亜は嵐司から叩き起こされた。
眠りについて四時間たっているか否かという八時すぎ、すっきりしないまま出かける準備をした。頭はやはり回転不足で酸素が足りないのだろう、嵐司が運転する車のなか、十分もしないうちにあくびをするのももう二回めだ。
〝いいところ〟がどこなのか、嵐司は毬亜にどこに行きたいかとも訊かない。つまり選択権は嵐司にあって、それなら先週、外食を断ったお詫びなのだろう。
「嵐司、お母さんに会えない?」
いまでこそ訊かなくなったけれど、去年までは、嵐司と吉村をうんざりさせるくらい口にしていたことだ。案の定、わかっているだろう、と云わんばかりの流し目が向かってきた。
「じゃあ、せめてあたしからも電話ができるようにして。お母さんから連絡がないの」
「メールできてるんだろう」
「できるようになったけど、元気? とか、風邪ひかないようにとか、そんなことばっかり。それに、メールと電話は違う」
「おれは、一月さんに進言することはできるけど、それ以上のことは立場にない」
嵐司は云い聞かせるような口調で遠回しに無理だと告げる。
「あたし……吉村さんとお母さんが一緒に丹破一家を出ていったのかって思ったの」
宴が中止になった日から一週間たった、おとといもまた中止になり、吉村とはその間、会えていなかった。昨日、やっと店に顔を出して、その姿を見たとき泣きだしてしまいそうなくらい毬亜が心底からほっとしたことを、吉村はきっと気づいていない。
「もう半年も裏にいて、逃亡がどんなに無謀か、おまえ、まだわかってないのか?」
「わかってる。お母さんに何かあったら命懸けで、って……吉村さんならそういうことをしてもおかしくない気がしたから」
赤信号で車は止まり、嵐司は毬亜の発言を重大視したらしく、躰を九十度回転させて毬亜のほうを向いた。
「なんでそういうことを思う?」
「十日まえ、いつもじゃないことばっかりで、それが偶然じゃないって思うようになったから」
声が聞けないことが怖い。母と話したのは十日まえが最後だ。その日のいろんなことが符合していると気づいたのは、母から連絡がなくなって五日めだ。
吉村が、毬亜、と呼んだように、母も毬亜をそう呼んだ。クラブで働いていたときと同様、この半年、本当の名で呼ばれたことなどまったくないのに。
もしかして、と思った。
思いついたとたん、泣きたくなって虚しくなって、焦ったあまり何度も操作ミスをしながら吉村の携帯電話を呼びだした。いつものようにちょっと迷惑そうな雰囲気で吉村の声が応じたとたん、気を失いそうになった。それでも、電話だったらどこにいても出られるのだから、そんな疑心で不安はおさまらない。そして、昨日、ようやく確かに会えた。
そのとき、吉村にも母と会えないかと訴えたら、まだ母親が恋しいか、と子供扱いをして、そんなんじゃない! と毬亜はむくれたけれど、あとになってかわされたのだと思い至った。
よくよく考えてみればその日、母から電話があったと知ったときの吉村の反応は寝耳に水といったふうだった。少なくとも、一緒に逃亡するため、ふたりが毬亜への別れを云おうなどという打ち合わせをしていたわけではなかったのだ。
めずらしいことと云えばまだあって、宴が中止になったこと。いや、それだけではなく、嵐司が電話ではなくわざわざやってきたことも不自然だった。
それらを偶然と処理してしまうには、楽観する力がいまの毬亜には抜けている。
何より、その日以来、母の声を聞いていない。
「〝そういうこと〟を一月さんがするわけないだろ。もしそうするとして、一月さんがおまえを置いていくわけがない」
「……ホントに?」
「一月さんがどれだけおまえを守ろうとしてるか、わかってないのか」
「わかってるけど、疑わせたのは嵐司。あの日、ヘンなこと云うから」
「ヘンなこと?」
「憶えてないの? 会いたいっていう気持ちを持ってるのはあたしのほうだけって嵐司が云うから、すごく不安になったの!」
嵐司が考えこむような面持ちで黙ると、あれがからかうだけの発言だったと知らされる。
「ああ……」
と思い当たったらしい嵐司は、つと目を逸らした。
「あれはおまえがあんまり単純なことしか見てないから、少しは考えろって促したつもりだった。あのあとちゃんとそう云っただろ」
悪びれることもなく、嵐司は毬亜に目を戻す。
「あたしはずっとそのことで悩んでるのに!」
「救いだしてやろうかっていうおれの手をはね除けたのはおまえだ。丹破一家にいるって選択したんなら、とことん一月さんに従ってついていけ。疑うとか、感情のロスだ」
救う奴がいるなら。その言葉が嵐司の申し出だったことに、毬亜はいま頃気づく。
「お母さんに会えるようにできないのに、吉村さんだって総長には逆らえないって云ったのに……何もできない嵐司が、どうして、どうやってあたしを救えるの?」
「おれは藤間総裁の息子だ。おまえが欲しいと云えば、丹破総長が乗ってくる可能性はある。藤間に恩を売ることになるからな。如仁会総裁への近道になる」
丹破総長は母に執着するほど、毬亜に執着はしていない。そう思うのは、処女を奪って以来、眺めているだけで抱くことはないからだ。嵐司の云うとおり、丹破一家からは脱出できるかもしれない。だからといって、吉村と一緒にいられるわけではない。
「……もういい」
毬亜が投げやりにつぶやくと、嵐司は呆れたようなやるせないようなため息をついて――
「覚悟しとけよ」
つぶやき返し、まえに向き直った。
「……なんのこと?」
訊ねてみたが、嵐司は応えなかった。
この頃思うようになったのは、毬亜の疑問にまともに応えないとき、それは期待させたすえ嘘になってしまうのを避けるためだということ。吉村にも嵐司にも共通する。
得てして、生き延びたさきが思うようにならないこともあるという覚悟も強いられている。
嵐司は立体駐車場に入っていくと、駐車スペースに入れることなく端に寄せて車を止めた。毬亜のシートベルトを解除すると、通行の邪魔になるだろうに嵐司はかまわず運転席のドアを開けている。
「嵐司?」
呼びかけたとたん、助手席のドアが開けられ、毬亜は腕をつかまれた。運転席の向こうに嵐司がいる以上、嵐司の手であるわけがない。
「いや――」
と、いつもにない状況に何をされるのかと悲鳴をあげかけた直後。
「毬亜」
男の声でいま毬亜をそう呼ぶのは一人しか知らない。
ぱっと振り向くと、ちょうどかがんできた吉村の顔が毬亜の視界をいっぱいにした。
吉村さん!
会えるとは思ってもいなかったせいで胸が痞え、それは声にならない。毬亜はとっさに伸びあがって吉村の太い首に腕を巻きつけた。
「こういうことをするからおまえとは迂闊に接触できない」
ため息混じりだったが、毬亜の背中を片腕で支えた一瞬、力がこもって抱きしめられたように思う。その感触が残って、首から腕がほどかれても無下には感じなかった。
「来い」
吉村に腕を取られて毬亜は車を降りた。
「一月さん、四時でいいですか」
「ああ、頼む」
「おれは適当にうろうろしてます」
「悪い」
「いいえ。いってらっしゃい」
吉村はすぐ傍に止めていた車に毬亜を連れていく。ハードトップの車は吉村に似て精悍なスタイルだ。背後からの太陽を受けてメタリックアスター色が上品に光っている。ドアが開けられ、毬亜が助手席におさまると、吉村はフロントをまわって運転席に乗りこんだ。車内は吉村が吸う煙草の薫りがして、それだけで満ち足りた気分になれる。
「吉村さん」
やっと出た声は囁くようにかすれていた。
吉村は上体をひねり毬亜と向き合う。大きな手が伸びてきて頬に触れ、髪を払うように撫でた。手はすぐに離れて、毬亜の肩を通り越して伸びたあと、助手席のシートベルトをつかんで留めた。
「どこか行きたいとこがあるなら連れていく」
センターコンソールに置いた煙草ケースを手にしながら吉村が訊ねる。一緒に取りあげたライターが、どうする? と問うように毬亜に向かって掲げられた。
些細なことなのに、吉村は毬亜が以前やりたがったことをちゃんと憶えている。毬亜の顔が自然と綻んだ。吉村が釣られたように片方だけ口角を上げ、可笑しそうにした雰囲気を醸しだす。
毬亜が火をともしてライターを差しだすと吉村がわずかにかがみ、そして煙草が赤く発光した。
「吉村さんと一緒ならここでもどこでもいい」
「ここでも?」
おもしろがった声はそれだけでうれしくなる。
「うん」
吉村は呆れたように首を振る。
「適当に出てみるか」
そう云って吉村は煙草を咥え、ハンドルをつかんでシフトチェンジすると、車を発進させた。
いざふたりきりになってみると話題が見つからなくて、あまつさえ吉村がお喋りじゃないだけに車内はオーディオからかすかに聞こえてくるDJの声と音楽が占めている。気詰まりではなくて、嵐司と吉村の会話から読みとれば、いまから四時まではふたりきりでいられるということであり、それだけで毬亜は胸がいっぱいだった。
アームレストに置いた腕に手を添える。吉村は何も云わずそのままにさせてくれた。煙草を吸うたびに手のひらの下で腕の筋肉が動き、毬亜はその感触を楽しんだ。
自分で買ったって嘘が吐けるか。
どこに向かっているのか、出し抜けにそう訊ねられて、毬亜は考えもなくうなずいた。手に負えないといった眼差しで見やった吉村は、少しも毬亜を信用していないふうだったが、人通りの多い街中に連れてくると、高級そうなジュエリー店に入った。
「好きなものを選んでいい」
いきなり云われてもとても選べない気がした。ショーケースに並べられたものは高価そうだが値札はない。その価値がまったく見当をつけられない毬亜は、自分には似合いそうもないと思う。
「選べない気がする」
「ならとりあえず欲しいものを全部並べてもらったらどうだ」
吉村は、欲しい物がありすぎると受けとったようで、毬亜は慌てて首を振った。
「そういう意味じゃなくって、こういうの、あたしに釣り合わない気がするの」
「欲がないな」
吉村は息をつき、「お守りにもなる。見てみればいい」と顎をしゃくって促した。
「おいくつですか」
タイミングを見計らっていたのだろう、ふたりの会話に店員が割りこんできた。その目は毬亜に向かっている。
「十七です。あ、今年、十八になります」
せめて二十歳と云えれば子供だと思われなくてもすむのに。そう思いながら、去年の八月、吉村に訊ねられたときと同じく、毬亜は一つでも多く見られるように付け加えた。
「でしたら、お嬢さまは本厄ですね。厄除けは長いものがいいとされているんですよ。ネックレスはどうでしょう」
「本厄?」
「数え年で十九歳の女性は本厄に当たるんですよ。風習にすぎないのかもしれませんが、お父さまのおっしゃるとおり、宝石はお守りにもなりますからお一つ持たれてはいかがですか」
ベテランといったふうに自信満々で勧めた店員は丁寧な言葉遣いながら、最大の失態を犯している。
親子と見られるような会話だったかと思い返しながら、毬亜はおずおずとした気分で吉村を見上げた。こんなことで怒るはずはない、とそのとおり、吉村は毬亜の戸惑いをかわすように肩をそびやかした。
「あの‥…父ではないんです」
これからさき『お父さま』を連発されてはかなわないと思い、訂正すると、店員は「まあ」と驚きを発したあと――
「お父さまにしてはお若いと思ったんですが、お嬢さまの年齢をうかがってつい。申し訳ございません」
と、毬亜の年齢とどう関係して父親だと勘違いするのか、動じることなく謝罪した。
その実、今日は特にスーツではなくプルオーバーシャツにカーゴパンツというラフな恰好で外見は少し若く見えることがあるかもしれないが、年齢を考えれば吉村は毬亜の父親であってもおかしくない。
「謝罪はいい。似合いそうなのを出してやってくれ」
「かしこまりました」
その後、店員は毬亜の好みや拘りを聞きだし、熱心に応対した。
二つ欲しいと吉村に云ったときは、最初のやりとりを思いだしたのか、お手上げだといったふうにくちびるを歪めた。
「していくか」
「うん」
毬亜がうなずくと、吉村は最初に選んだほう、ハートの台座にレインボームーンストーンをあしらったネックレスを首にかけた。そうした吉村が首根っこから手を滑らせて毬亜の顎をすくう。かと思うと、急速に顔が近づいてきて毬亜はくちびるをふさがれた。
目を閉じる暇もない一瞬のことで、そのままびっくり眼で見上げた。吉村は皮肉っぽく笑う。あるいは、苦笑いか。なんらかの衝動があったのは確かであり、それが少なくとも毬亜にとって負の感情ではないことも確かで、毬亜のくちびるが最大値の笑みを浮かべる。
目のまえのキスシーンに呆気にとられた店員だったがさすがに立ち直るのも早く、丁寧な言葉とともに紙袋を差しだした。
「行くぞ」
吉村に手を引かれて店をあとにしながら、普通に恋ができていたら、そんな欲張りが芽生えそうになる。思わず手に力がこもると、それに応えるように握りしめられた。
どちらかといえば小ぢんまりしたものよりも大きくて贅沢な雰囲気の家が多い住宅街を通り抜け、吉村は高台にある空き地に連れてきた。
高い位置から景色を眺めているとすがすがしくなる。大きな川があって、水の流れやその音までは感知できなくても感じとれるからよけいにそんな気分をもたらす。
普通に暮らしていた頃は、小さな街に埋もれてしまったようなアパート生活で、広々とした自然の風景には程遠かった。いまはマンション住まいで視界は広いが、建物ばかりというなんの動きも感じられない。そんな景色と、目のまえに広がった、季節を感じさせてくれる景色は全然違っている。
三月も半ばになって、見下ろした公園の桜は五分咲きといったところだろうか、ぽかぽかした晴天のもと、緑地のなかで淡いピンクが映えていた。
「寒くないか」
「全然。こんなふうに外で食べるのっていい感じ。ごろごろ転がったら気持ちよさそう」
短い草の生い茂った周囲を見渡しながら毬亜が応えると、吉村の口から煙草の煙がふっと勢いをつけて漂う。
周りを見れば邸宅といった雰囲気の立派な家に囲まれているが、ここだけぽつんと広く土地が空いている。だれかの土地かもしれないが、吉村はまるで空いていることを知っていたかのようにやってきて、ためらいなくここを陣取った。
春を迎えて、ちらほらと可愛い草花が咲いていて、ずっと幼い頃だったら花摘みに夢中になっていたかもしれない。
「子供っぽい?」
「おまえは子供だ」
「でも、吉村さんはお父さんじゃない」
吉村は流し目を向ける。
「そのとおりだ」
力がこもっていると思うのは気のせいか。
「お父さんて云われて気に喰わなかった?」
「気にしてたらきりがない」
吉村はさり気なくかわしたが、気にしていなければ無謀な少年みたいに店員のまえでキスはしなかっただろうと思う。
毬亜だって気になる。だから、ジュエリー店を出たあとまた高そうなレストランに入ろうとした吉村を止めて、ふたりきりになれるところで食べたいと主張したのだ。ホットサンドとチキンとコーヒーだけでも充分に美味しいし、親子だと云われるのはもちろん思われたくもなく、それよりは吉村を独り占めしているほうがずっといい。〝その時〟が来るのはずっとさきであろうと、吉村の横に並んだときに、恋人だと〝勘違い〟されるような大人に早くなりたい。
「あたしは……気になる。イヤ」
「おまえが十七歳でおれが父親じゃないなら、おれは未成年者を誑かす犯罪者だ。店員は正当なほうに解釈するしかない」
「二十歳って云えばよかった。……今度からそうする」
人がどう思おうと関係ないが、吉村に関するかぎり意固地になってしまうのは母や艶子のことがあるからかもしれない。
吉村を覗きこむと、ちらりと毬亜を見ただけで横顔を向け、また川の遥か向こうを見やった。
今度から。またこうやって会えることを期待して口にした言葉を、吉村は気づいているだろうに無視した。ふたりの間にあるのは軽食の残りだけなのに、手が届かないくらい遠い。
「こういう高台じゃないが、川の見える街で育った。ある程度、時間を経たときにこれさえあればいいって思うのを見つけると妙に帰りたくなるな」
吉村はぽつりといった気配で漏らした。
「吉村さん、東京生まれじゃないの?」
ニュアンスから察した疑問をそのままぶつけると、吉村は毬亜を向いてそのくちびるにわずかに笑みを形づくった。
「京都から出てきた」
「……やくざになるのに?」
嵐司との会話を記憶から引っ張りだせば、吉村は根っからこういう世界にいたわけじゃない。そう思って訊ねると、吉村の顔に薄らとした笑みが浮かぶ。
「大なり小なり組織は向こうにもある。わざわざこうなるために東京に出てきたわけじゃない。大学でこっちに来た」
「こうなる、って……何かきっかけがあったの?」
「強くなりたかった」
「強く?」
「ああ。躰を張るケンカを知らなかった。怖がるよりも怖れられる存在になろうと思った。ガキの頃のガキくさい話だ。大学は二年の途中でやめた」
裏社会に入るきっかけが強くなりたいためなら、強くなろうとしたきっかけはなんだろう。吉村は肝心なことを話していない。
「大学やめて丹破一家に入ったの?」
「いや。……チンピラにやられてるおれを助けたのが、当時は藤間一家の総長として如仁会の一幹部だった藤間総裁だ。おれはその場で藤間一家に加入させてほしいと頼んだ。藤間一家にはそれから七年、世話になってる」
「だったら……艶子さんも嵐司も長く知ってるってこと?」
「藤間総裁の誘いに甘えて住みこみさせてもらっていたからな。嵐司のことはあいつが一歳のときから知っている。艶子は同い年なせいか、話は合うし、いろいろ世話をやいてくれた」
〝姐さん〟ではなく〝艶子〟と呼ぶことに親密さを感じて、吉村には毬亜の知らない、そしてけっして触れることのできない時間があるのだと痛感する。入りこめないもどかしさは嫉妬と呼ぶべきものなんだろう。
「吉村さんは藤間総裁のお気に入りだって嵐司が云ってた。それなのに、どうして丹破一家にいるの?」
「あることを調べるためだ」
「いまも?」
「いや、片づいた。だからといって、軽々と組を鞍替えするわけにはいかない。だが」
吉村は不自然に言葉を切り、煙草を吸った。
「何?」
「いまは丹破一家にいてよかったと思うことがある。最善どころか最悪の状態だ。それでも――」
続きはあるのにその言葉の続きは聞けない。そんなストレスを毬亜に与えたまま、吉村は口を噤んでしまった。
「吉村さん、独りでさみしくない? さみしくなかった?」
京蔵は、吉村にかかれば女はすぐ堕ちると云っていた。この世界で男が妻に対して節操を守る必要はない。それでも結婚をしない理由はなんだろう。
「大学やめて家からは勘当された。独りには慣れていたが、帰りたくなっているのはさみしいからかもしれない。ただ……それも、その時がくるまで、だ」
遠回しに訊いたことは通じなくて、もしくは読みとれないふりをして、吉村はストレートな返事をした。
ただ、その言葉で、生き延びよう、そんな気になれた。
眠りについて四時間たっているか否かという八時すぎ、すっきりしないまま出かける準備をした。頭はやはり回転不足で酸素が足りないのだろう、嵐司が運転する車のなか、十分もしないうちにあくびをするのももう二回めだ。
〝いいところ〟がどこなのか、嵐司は毬亜にどこに行きたいかとも訊かない。つまり選択権は嵐司にあって、それなら先週、外食を断ったお詫びなのだろう。
「嵐司、お母さんに会えない?」
いまでこそ訊かなくなったけれど、去年までは、嵐司と吉村をうんざりさせるくらい口にしていたことだ。案の定、わかっているだろう、と云わんばかりの流し目が向かってきた。
「じゃあ、せめてあたしからも電話ができるようにして。お母さんから連絡がないの」
「メールできてるんだろう」
「できるようになったけど、元気? とか、風邪ひかないようにとか、そんなことばっかり。それに、メールと電話は違う」
「おれは、一月さんに進言することはできるけど、それ以上のことは立場にない」
嵐司は云い聞かせるような口調で遠回しに無理だと告げる。
「あたし……吉村さんとお母さんが一緒に丹破一家を出ていったのかって思ったの」
宴が中止になった日から一週間たった、おとといもまた中止になり、吉村とはその間、会えていなかった。昨日、やっと店に顔を出して、その姿を見たとき泣きだしてしまいそうなくらい毬亜が心底からほっとしたことを、吉村はきっと気づいていない。
「もう半年も裏にいて、逃亡がどんなに無謀か、おまえ、まだわかってないのか?」
「わかってる。お母さんに何かあったら命懸けで、って……吉村さんならそういうことをしてもおかしくない気がしたから」
赤信号で車は止まり、嵐司は毬亜の発言を重大視したらしく、躰を九十度回転させて毬亜のほうを向いた。
「なんでそういうことを思う?」
「十日まえ、いつもじゃないことばっかりで、それが偶然じゃないって思うようになったから」
声が聞けないことが怖い。母と話したのは十日まえが最後だ。その日のいろんなことが符合していると気づいたのは、母から連絡がなくなって五日めだ。
吉村が、毬亜、と呼んだように、母も毬亜をそう呼んだ。クラブで働いていたときと同様、この半年、本当の名で呼ばれたことなどまったくないのに。
もしかして、と思った。
思いついたとたん、泣きたくなって虚しくなって、焦ったあまり何度も操作ミスをしながら吉村の携帯電話を呼びだした。いつものようにちょっと迷惑そうな雰囲気で吉村の声が応じたとたん、気を失いそうになった。それでも、電話だったらどこにいても出られるのだから、そんな疑心で不安はおさまらない。そして、昨日、ようやく確かに会えた。
そのとき、吉村にも母と会えないかと訴えたら、まだ母親が恋しいか、と子供扱いをして、そんなんじゃない! と毬亜はむくれたけれど、あとになってかわされたのだと思い至った。
よくよく考えてみればその日、母から電話があったと知ったときの吉村の反応は寝耳に水といったふうだった。少なくとも、一緒に逃亡するため、ふたりが毬亜への別れを云おうなどという打ち合わせをしていたわけではなかったのだ。
めずらしいことと云えばまだあって、宴が中止になったこと。いや、それだけではなく、嵐司が電話ではなくわざわざやってきたことも不自然だった。
それらを偶然と処理してしまうには、楽観する力がいまの毬亜には抜けている。
何より、その日以来、母の声を聞いていない。
「〝そういうこと〟を一月さんがするわけないだろ。もしそうするとして、一月さんがおまえを置いていくわけがない」
「……ホントに?」
「一月さんがどれだけおまえを守ろうとしてるか、わかってないのか」
「わかってるけど、疑わせたのは嵐司。あの日、ヘンなこと云うから」
「ヘンなこと?」
「憶えてないの? 会いたいっていう気持ちを持ってるのはあたしのほうだけって嵐司が云うから、すごく不安になったの!」
嵐司が考えこむような面持ちで黙ると、あれがからかうだけの発言だったと知らされる。
「ああ……」
と思い当たったらしい嵐司は、つと目を逸らした。
「あれはおまえがあんまり単純なことしか見てないから、少しは考えろって促したつもりだった。あのあとちゃんとそう云っただろ」
悪びれることもなく、嵐司は毬亜に目を戻す。
「あたしはずっとそのことで悩んでるのに!」
「救いだしてやろうかっていうおれの手をはね除けたのはおまえだ。丹破一家にいるって選択したんなら、とことん一月さんに従ってついていけ。疑うとか、感情のロスだ」
救う奴がいるなら。その言葉が嵐司の申し出だったことに、毬亜はいま頃気づく。
「お母さんに会えるようにできないのに、吉村さんだって総長には逆らえないって云ったのに……何もできない嵐司が、どうして、どうやってあたしを救えるの?」
「おれは藤間総裁の息子だ。おまえが欲しいと云えば、丹破総長が乗ってくる可能性はある。藤間に恩を売ることになるからな。如仁会総裁への近道になる」
丹破総長は母に執着するほど、毬亜に執着はしていない。そう思うのは、処女を奪って以来、眺めているだけで抱くことはないからだ。嵐司の云うとおり、丹破一家からは脱出できるかもしれない。だからといって、吉村と一緒にいられるわけではない。
「……もういい」
毬亜が投げやりにつぶやくと、嵐司は呆れたようなやるせないようなため息をついて――
「覚悟しとけよ」
つぶやき返し、まえに向き直った。
「……なんのこと?」
訊ねてみたが、嵐司は応えなかった。
この頃思うようになったのは、毬亜の疑問にまともに応えないとき、それは期待させたすえ嘘になってしまうのを避けるためだということ。吉村にも嵐司にも共通する。
得てして、生き延びたさきが思うようにならないこともあるという覚悟も強いられている。
嵐司は立体駐車場に入っていくと、駐車スペースに入れることなく端に寄せて車を止めた。毬亜のシートベルトを解除すると、通行の邪魔になるだろうに嵐司はかまわず運転席のドアを開けている。
「嵐司?」
呼びかけたとたん、助手席のドアが開けられ、毬亜は腕をつかまれた。運転席の向こうに嵐司がいる以上、嵐司の手であるわけがない。
「いや――」
と、いつもにない状況に何をされるのかと悲鳴をあげかけた直後。
「毬亜」
男の声でいま毬亜をそう呼ぶのは一人しか知らない。
ぱっと振り向くと、ちょうどかがんできた吉村の顔が毬亜の視界をいっぱいにした。
吉村さん!
会えるとは思ってもいなかったせいで胸が痞え、それは声にならない。毬亜はとっさに伸びあがって吉村の太い首に腕を巻きつけた。
「こういうことをするからおまえとは迂闊に接触できない」
ため息混じりだったが、毬亜の背中を片腕で支えた一瞬、力がこもって抱きしめられたように思う。その感触が残って、首から腕がほどかれても無下には感じなかった。
「来い」
吉村に腕を取られて毬亜は車を降りた。
「一月さん、四時でいいですか」
「ああ、頼む」
「おれは適当にうろうろしてます」
「悪い」
「いいえ。いってらっしゃい」
吉村はすぐ傍に止めていた車に毬亜を連れていく。ハードトップの車は吉村に似て精悍なスタイルだ。背後からの太陽を受けてメタリックアスター色が上品に光っている。ドアが開けられ、毬亜が助手席におさまると、吉村はフロントをまわって運転席に乗りこんだ。車内は吉村が吸う煙草の薫りがして、それだけで満ち足りた気分になれる。
「吉村さん」
やっと出た声は囁くようにかすれていた。
吉村は上体をひねり毬亜と向き合う。大きな手が伸びてきて頬に触れ、髪を払うように撫でた。手はすぐに離れて、毬亜の肩を通り越して伸びたあと、助手席のシートベルトをつかんで留めた。
「どこか行きたいとこがあるなら連れていく」
センターコンソールに置いた煙草ケースを手にしながら吉村が訊ねる。一緒に取りあげたライターが、どうする? と問うように毬亜に向かって掲げられた。
些細なことなのに、吉村は毬亜が以前やりたがったことをちゃんと憶えている。毬亜の顔が自然と綻んだ。吉村が釣られたように片方だけ口角を上げ、可笑しそうにした雰囲気を醸しだす。
毬亜が火をともしてライターを差しだすと吉村がわずかにかがみ、そして煙草が赤く発光した。
「吉村さんと一緒ならここでもどこでもいい」
「ここでも?」
おもしろがった声はそれだけでうれしくなる。
「うん」
吉村は呆れたように首を振る。
「適当に出てみるか」
そう云って吉村は煙草を咥え、ハンドルをつかんでシフトチェンジすると、車を発進させた。
いざふたりきりになってみると話題が見つからなくて、あまつさえ吉村がお喋りじゃないだけに車内はオーディオからかすかに聞こえてくるDJの声と音楽が占めている。気詰まりではなくて、嵐司と吉村の会話から読みとれば、いまから四時まではふたりきりでいられるということであり、それだけで毬亜は胸がいっぱいだった。
アームレストに置いた腕に手を添える。吉村は何も云わずそのままにさせてくれた。煙草を吸うたびに手のひらの下で腕の筋肉が動き、毬亜はその感触を楽しんだ。
自分で買ったって嘘が吐けるか。
どこに向かっているのか、出し抜けにそう訊ねられて、毬亜は考えもなくうなずいた。手に負えないといった眼差しで見やった吉村は、少しも毬亜を信用していないふうだったが、人通りの多い街中に連れてくると、高級そうなジュエリー店に入った。
「好きなものを選んでいい」
いきなり云われてもとても選べない気がした。ショーケースに並べられたものは高価そうだが値札はない。その価値がまったく見当をつけられない毬亜は、自分には似合いそうもないと思う。
「選べない気がする」
「ならとりあえず欲しいものを全部並べてもらったらどうだ」
吉村は、欲しい物がありすぎると受けとったようで、毬亜は慌てて首を振った。
「そういう意味じゃなくって、こういうの、あたしに釣り合わない気がするの」
「欲がないな」
吉村は息をつき、「お守りにもなる。見てみればいい」と顎をしゃくって促した。
「おいくつですか」
タイミングを見計らっていたのだろう、ふたりの会話に店員が割りこんできた。その目は毬亜に向かっている。
「十七です。あ、今年、十八になります」
せめて二十歳と云えれば子供だと思われなくてもすむのに。そう思いながら、去年の八月、吉村に訊ねられたときと同じく、毬亜は一つでも多く見られるように付け加えた。
「でしたら、お嬢さまは本厄ですね。厄除けは長いものがいいとされているんですよ。ネックレスはどうでしょう」
「本厄?」
「数え年で十九歳の女性は本厄に当たるんですよ。風習にすぎないのかもしれませんが、お父さまのおっしゃるとおり、宝石はお守りにもなりますからお一つ持たれてはいかがですか」
ベテランといったふうに自信満々で勧めた店員は丁寧な言葉遣いながら、最大の失態を犯している。
親子と見られるような会話だったかと思い返しながら、毬亜はおずおずとした気分で吉村を見上げた。こんなことで怒るはずはない、とそのとおり、吉村は毬亜の戸惑いをかわすように肩をそびやかした。
「あの‥…父ではないんです」
これからさき『お父さま』を連発されてはかなわないと思い、訂正すると、店員は「まあ」と驚きを発したあと――
「お父さまにしてはお若いと思ったんですが、お嬢さまの年齢をうかがってつい。申し訳ございません」
と、毬亜の年齢とどう関係して父親だと勘違いするのか、動じることなく謝罪した。
その実、今日は特にスーツではなくプルオーバーシャツにカーゴパンツというラフな恰好で外見は少し若く見えることがあるかもしれないが、年齢を考えれば吉村は毬亜の父親であってもおかしくない。
「謝罪はいい。似合いそうなのを出してやってくれ」
「かしこまりました」
その後、店員は毬亜の好みや拘りを聞きだし、熱心に応対した。
二つ欲しいと吉村に云ったときは、最初のやりとりを思いだしたのか、お手上げだといったふうにくちびるを歪めた。
「していくか」
「うん」
毬亜がうなずくと、吉村は最初に選んだほう、ハートの台座にレインボームーンストーンをあしらったネックレスを首にかけた。そうした吉村が首根っこから手を滑らせて毬亜の顎をすくう。かと思うと、急速に顔が近づいてきて毬亜はくちびるをふさがれた。
目を閉じる暇もない一瞬のことで、そのままびっくり眼で見上げた。吉村は皮肉っぽく笑う。あるいは、苦笑いか。なんらかの衝動があったのは確かであり、それが少なくとも毬亜にとって負の感情ではないことも確かで、毬亜のくちびるが最大値の笑みを浮かべる。
目のまえのキスシーンに呆気にとられた店員だったがさすがに立ち直るのも早く、丁寧な言葉とともに紙袋を差しだした。
「行くぞ」
吉村に手を引かれて店をあとにしながら、普通に恋ができていたら、そんな欲張りが芽生えそうになる。思わず手に力がこもると、それに応えるように握りしめられた。
どちらかといえば小ぢんまりしたものよりも大きくて贅沢な雰囲気の家が多い住宅街を通り抜け、吉村は高台にある空き地に連れてきた。
高い位置から景色を眺めているとすがすがしくなる。大きな川があって、水の流れやその音までは感知できなくても感じとれるからよけいにそんな気分をもたらす。
普通に暮らしていた頃は、小さな街に埋もれてしまったようなアパート生活で、広々とした自然の風景には程遠かった。いまはマンション住まいで視界は広いが、建物ばかりというなんの動きも感じられない。そんな景色と、目のまえに広がった、季節を感じさせてくれる景色は全然違っている。
三月も半ばになって、見下ろした公園の桜は五分咲きといったところだろうか、ぽかぽかした晴天のもと、緑地のなかで淡いピンクが映えていた。
「寒くないか」
「全然。こんなふうに外で食べるのっていい感じ。ごろごろ転がったら気持ちよさそう」
短い草の生い茂った周囲を見渡しながら毬亜が応えると、吉村の口から煙草の煙がふっと勢いをつけて漂う。
周りを見れば邸宅といった雰囲気の立派な家に囲まれているが、ここだけぽつんと広く土地が空いている。だれかの土地かもしれないが、吉村はまるで空いていることを知っていたかのようにやってきて、ためらいなくここを陣取った。
春を迎えて、ちらほらと可愛い草花が咲いていて、ずっと幼い頃だったら花摘みに夢中になっていたかもしれない。
「子供っぽい?」
「おまえは子供だ」
「でも、吉村さんはお父さんじゃない」
吉村は流し目を向ける。
「そのとおりだ」
力がこもっていると思うのは気のせいか。
「お父さんて云われて気に喰わなかった?」
「気にしてたらきりがない」
吉村はさり気なくかわしたが、気にしていなければ無謀な少年みたいに店員のまえでキスはしなかっただろうと思う。
毬亜だって気になる。だから、ジュエリー店を出たあとまた高そうなレストランに入ろうとした吉村を止めて、ふたりきりになれるところで食べたいと主張したのだ。ホットサンドとチキンとコーヒーだけでも充分に美味しいし、親子だと云われるのはもちろん思われたくもなく、それよりは吉村を独り占めしているほうがずっといい。〝その時〟が来るのはずっとさきであろうと、吉村の横に並んだときに、恋人だと〝勘違い〟されるような大人に早くなりたい。
「あたしは……気になる。イヤ」
「おまえが十七歳でおれが父親じゃないなら、おれは未成年者を誑かす犯罪者だ。店員は正当なほうに解釈するしかない」
「二十歳って云えばよかった。……今度からそうする」
人がどう思おうと関係ないが、吉村に関するかぎり意固地になってしまうのは母や艶子のことがあるからかもしれない。
吉村を覗きこむと、ちらりと毬亜を見ただけで横顔を向け、また川の遥か向こうを見やった。
今度から。またこうやって会えることを期待して口にした言葉を、吉村は気づいているだろうに無視した。ふたりの間にあるのは軽食の残りだけなのに、手が届かないくらい遠い。
「こういう高台じゃないが、川の見える街で育った。ある程度、時間を経たときにこれさえあればいいって思うのを見つけると妙に帰りたくなるな」
吉村はぽつりといった気配で漏らした。
「吉村さん、東京生まれじゃないの?」
ニュアンスから察した疑問をそのままぶつけると、吉村は毬亜を向いてそのくちびるにわずかに笑みを形づくった。
「京都から出てきた」
「……やくざになるのに?」
嵐司との会話を記憶から引っ張りだせば、吉村は根っからこういう世界にいたわけじゃない。そう思って訊ねると、吉村の顔に薄らとした笑みが浮かぶ。
「大なり小なり組織は向こうにもある。わざわざこうなるために東京に出てきたわけじゃない。大学でこっちに来た」
「こうなる、って……何かきっかけがあったの?」
「強くなりたかった」
「強く?」
「ああ。躰を張るケンカを知らなかった。怖がるよりも怖れられる存在になろうと思った。ガキの頃のガキくさい話だ。大学は二年の途中でやめた」
裏社会に入るきっかけが強くなりたいためなら、強くなろうとしたきっかけはなんだろう。吉村は肝心なことを話していない。
「大学やめて丹破一家に入ったの?」
「いや。……チンピラにやられてるおれを助けたのが、当時は藤間一家の総長として如仁会の一幹部だった藤間総裁だ。おれはその場で藤間一家に加入させてほしいと頼んだ。藤間一家にはそれから七年、世話になってる」
「だったら……艶子さんも嵐司も長く知ってるってこと?」
「藤間総裁の誘いに甘えて住みこみさせてもらっていたからな。嵐司のことはあいつが一歳のときから知っている。艶子は同い年なせいか、話は合うし、いろいろ世話をやいてくれた」
〝姐さん〟ではなく〝艶子〟と呼ぶことに親密さを感じて、吉村には毬亜の知らない、そしてけっして触れることのできない時間があるのだと痛感する。入りこめないもどかしさは嫉妬と呼ぶべきものなんだろう。
「吉村さんは藤間総裁のお気に入りだって嵐司が云ってた。それなのに、どうして丹破一家にいるの?」
「あることを調べるためだ」
「いまも?」
「いや、片づいた。だからといって、軽々と組を鞍替えするわけにはいかない。だが」
吉村は不自然に言葉を切り、煙草を吸った。
「何?」
「いまは丹破一家にいてよかったと思うことがある。最善どころか最悪の状態だ。それでも――」
続きはあるのにその言葉の続きは聞けない。そんなストレスを毬亜に与えたまま、吉村は口を噤んでしまった。
「吉村さん、独りでさみしくない? さみしくなかった?」
京蔵は、吉村にかかれば女はすぐ堕ちると云っていた。この世界で男が妻に対して節操を守る必要はない。それでも結婚をしない理由はなんだろう。
「大学やめて家からは勘当された。独りには慣れていたが、帰りたくなっているのはさみしいからかもしれない。ただ……それも、その時がくるまで、だ」
遠回しに訊いたことは通じなくて、もしくは読みとれないふりをして、吉村はストレートな返事をした。
ただ、その言葉で、生き延びよう、そんな気になれた。
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