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第6話 runaway love
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実那都は昨日と同じようにスーパーの制服から私服に着替える。違っているのは、今日は航が待っているとわかっていることだ。
ロッカーの扉の内側に取りつけられた鏡を見ると、にこりともしない仏頂面が見返してきた。家のなかでは見慣れた顔だ。航に見せたことはない。
実那都は区切りをつけるようにひとつ吐息をこぼし、ロッカールームを出た。
昨日、家であったことを航にはまだ話していない。何も考え尽くせないまま、場当たり的に云った結果、何も生まなかったし、改善すらされなかった。
期待なんてしていなかった。だから、がっかりはしていない。腹が立っただけで。
「実那都」
スーパーを出て、辺りを見渡しかけた刹那、航の声がした。
「航……もしかして早くから待ってたってことはないよね」
「おまえが終わる時間に合わせて来た。だから、そんな待ってねぇ」
片手で自転車を支えたまま航はなんでもないことのように肩をすくめると――
「どこ行く? おれんちか、おまえんちか」
と訊ねた。
「そこの公園」
実那都は、スーパーのすぐ向こうにある銀行と銀行の間の公園のほうを指さした。
その方向をちらりと振り向いた航は可笑しそうに首をひねる。
「人が通るとこじゃあ話せないんじゃなかったのかよ」
「家の近くだったから。知らない人だったらかまわない」
「だから、おれんちもダメって?」
「そう」
航はため息とまがうような笑みを漏らし、顎をしゃくった。
「んじゃ、行くぞ」
「待って、自転車……」
「あとでいいだろ。また戻ってくるぶんだけ時間稼ぎができる」
「時間稼ぎって……?」
「だから、実那都と一緒にいる時間だ。いいかげん、おれを知れ」
航は云って、自分の自転車を押してさっさと歩きだした。
実那都は慌ててついていく。
「大事なとこはちゃんと知ってる」
「大事なとこってなんだよ」
「たくさんあって全部云うのはたいへんだから」
「ぷっ、なんだよ、それ。ごまかしてんじゃねぇだろうな」
他愛ない会話をしながら公園に向かう。すぐに着くせいもあったけれど、深刻になりたくなかったせいでもあった。
公園はこぢんまりとしていて、遊具もブランコに滑り台に砂場などで物珍しさはない。航は自転車を止めてひとつしかないベンチのところに行くと身をかがめ、暗がりのなか目を凝らして、そして手で払った。
「いいぞ」
「航ってがさつっぽいのに紳士っぽい」
「は? 紳士? そんなことあるかよ」
航は短く笑い飛ばしたけれど、ベンチが汚れていないか、あるいは濡れていないか確かめてくれたのだ。
実那都はベンチに腰かけて航を見上げた。
「ううん、さっき話してたこと……航についてわたしが知ってる“大事なとこ”のひとつだよ」
すると、航は再び身をかがめたかと思うと、顔をわずかに斜め向けて実那都に口づけた。
とっさのキスはめずらしくない。実那都は恥ずかしさを表に出さないようにと努めているけれど、それが実を結んでいるかどうかはわからない。もしかしたら、それをわかっていて避ける間もないように航は襲っているのかもしれない。はっきりしているのは、航が挨拶みたいにまったく自然にキスができていることだ。
「ずるいだろ」
顔を離した航はぼそっとつぶやいて、ベンチにどさりと座った。
「ずるいって何が?」
「普段は好きって云わないくせに、実那都が不意打ちで隙をついてくるからさ。つい手を出したくなることを云う」
航は流し目で実那都を見やり、にやりとする。
「航が好きって云いすぎなんだと思う」
「好きを好きって云って何が悪い。それに、そうしてないと実那都はどっか飛んでいきそうだからな」
「え? そんなことないけど……」
「それがあるんだよな」
「……何?」
「おれは大事なことで実那都に云ってねぇことはないけど、実那都はおれに云ってないことがある。おれとは関係ねぇことかもしんねぇけど、それが実那都にとって重要なことなら関係ある。だってさ、大丈夫だってことをどう云ったって、ピントがずれてたら空回りして……独り善がりにしかならない。おまえに心からは伝わらねぇ」
航がこんなふうに誠実なところも、実那都が知っている“大事なこと”だ。付き合ってきて三年、航はずっと実那都の陰を知っていて追究することなく寄り添っていた。それは一方で、実那都の不誠実さでもあるような気がしていた。
昨日、家であったことも引き延ばせば航に無駄に期待を持たせることになり、それよりも自分の醜さを知られるほうがましだ。そう思って、今日、話したいと連絡をしたのだ。
「航、ありがとう」
「なんで礼なんか云うんだよ」
「うれしいから云いたくなるだけ。航が『好き』って云うのと同じ」
航は可笑しそうに笑う。それから大きくため息をつくと――
「んじゃ、話せよ」
と、極めて普通に――ドーナツ買うからついてこい、といった調子で実那都を促した。
実那都は昨日と同じようにスーパーの制服から私服に着替える。違っているのは、今日は航が待っているとわかっていることだ。
ロッカーの扉の内側に取りつけられた鏡を見ると、にこりともしない仏頂面が見返してきた。家のなかでは見慣れた顔だ。航に見せたことはない。
実那都は区切りをつけるようにひとつ吐息をこぼし、ロッカールームを出た。
昨日、家であったことを航にはまだ話していない。何も考え尽くせないまま、場当たり的に云った結果、何も生まなかったし、改善すらされなかった。
期待なんてしていなかった。だから、がっかりはしていない。腹が立っただけで。
「実那都」
スーパーを出て、辺りを見渡しかけた刹那、航の声がした。
「航……もしかして早くから待ってたってことはないよね」
「おまえが終わる時間に合わせて来た。だから、そんな待ってねぇ」
片手で自転車を支えたまま航はなんでもないことのように肩をすくめると――
「どこ行く? おれんちか、おまえんちか」
と訊ねた。
「そこの公園」
実那都は、スーパーのすぐ向こうにある銀行と銀行の間の公園のほうを指さした。
その方向をちらりと振り向いた航は可笑しそうに首をひねる。
「人が通るとこじゃあ話せないんじゃなかったのかよ」
「家の近くだったから。知らない人だったらかまわない」
「だから、おれんちもダメって?」
「そう」
航はため息とまがうような笑みを漏らし、顎をしゃくった。
「んじゃ、行くぞ」
「待って、自転車……」
「あとでいいだろ。また戻ってくるぶんだけ時間稼ぎができる」
「時間稼ぎって……?」
「だから、実那都と一緒にいる時間だ。いいかげん、おれを知れ」
航は云って、自分の自転車を押してさっさと歩きだした。
実那都は慌ててついていく。
「大事なとこはちゃんと知ってる」
「大事なとこってなんだよ」
「たくさんあって全部云うのはたいへんだから」
「ぷっ、なんだよ、それ。ごまかしてんじゃねぇだろうな」
他愛ない会話をしながら公園に向かう。すぐに着くせいもあったけれど、深刻になりたくなかったせいでもあった。
公園はこぢんまりとしていて、遊具もブランコに滑り台に砂場などで物珍しさはない。航は自転車を止めてひとつしかないベンチのところに行くと身をかがめ、暗がりのなか目を凝らして、そして手で払った。
「いいぞ」
「航ってがさつっぽいのに紳士っぽい」
「は? 紳士? そんなことあるかよ」
航は短く笑い飛ばしたけれど、ベンチが汚れていないか、あるいは濡れていないか確かめてくれたのだ。
実那都はベンチに腰かけて航を見上げた。
「ううん、さっき話してたこと……航についてわたしが知ってる“大事なとこ”のひとつだよ」
すると、航は再び身をかがめたかと思うと、顔をわずかに斜め向けて実那都に口づけた。
とっさのキスはめずらしくない。実那都は恥ずかしさを表に出さないようにと努めているけれど、それが実を結んでいるかどうかはわからない。もしかしたら、それをわかっていて避ける間もないように航は襲っているのかもしれない。はっきりしているのは、航が挨拶みたいにまったく自然にキスができていることだ。
「ずるいだろ」
顔を離した航はぼそっとつぶやいて、ベンチにどさりと座った。
「ずるいって何が?」
「普段は好きって云わないくせに、実那都が不意打ちで隙をついてくるからさ。つい手を出したくなることを云う」
航は流し目で実那都を見やり、にやりとする。
「航が好きって云いすぎなんだと思う」
「好きを好きって云って何が悪い。それに、そうしてないと実那都はどっか飛んでいきそうだからな」
「え? そんなことないけど……」
「それがあるんだよな」
「……何?」
「おれは大事なことで実那都に云ってねぇことはないけど、実那都はおれに云ってないことがある。おれとは関係ねぇことかもしんねぇけど、それが実那都にとって重要なことなら関係ある。だってさ、大丈夫だってことをどう云ったって、ピントがずれてたら空回りして……独り善がりにしかならない。おまえに心からは伝わらねぇ」
航がこんなふうに誠実なところも、実那都が知っている“大事なこと”だ。付き合ってきて三年、航はずっと実那都の陰を知っていて追究することなく寄り添っていた。それは一方で、実那都の不誠実さでもあるような気がしていた。
昨日、家であったことも引き延ばせば航に無駄に期待を持たせることになり、それよりも自分の醜さを知られるほうがましだ。そう思って、今日、話したいと連絡をしたのだ。
「航、ありがとう」
「なんで礼なんか云うんだよ」
「うれしいから云いたくなるだけ。航が『好き』って云うのと同じ」
航は可笑しそうに笑う。それから大きくため息をつくと――
「んじゃ、話せよ」
と、極めて普通に――ドーナツ買うからついてこい、といった調子で実那都を促した。
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