オフリミットⅠ~恋の僭主~

奏井れゆな

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第3話 BE MAD

8.

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 速度を緩めながらもスタジオまで走り続け、そうして借りていた部屋に戻るなり四人とも床に座りこんだ。
「久しぶりだったなぁ」
 祐真は息を切らしながらも笑いだした。
 久しぶりなのはけんかのことなのだろう、良哉は呆れたようにため息をつく。
「あれ、おまわりだっただろ。補導されてたらどうすんだよ。内申書に響く」
「そんときはそんときだろ。けんか売ったのはあいつらだ。明らかに実那都を拉致したあいつらが悪い」
 そんな良哉と祐真の会話のなか、喘ぐように息をつく実那都を、斜め横に座った航が前のめりになって覗きこんだ。
「実那都、大丈夫か」
「……わかんない」
 航に答えた自分の声はふるえている。そう気づいて、はじめて実那都は自分が泣いていることに気づいた。一気に気が緩んだのかもしれない。床にぺたりと座り、腿の上に力なく置いた手の甲に雫が落ちる。それが神経を刺激したかのように、手がふるえだした。
「くそっ、バカすぎんだろ」
 航が悪態をつき――
「祐真、おまえが実那都をあの女に合わせなかったら、実那都はこういう目には遭わなかったんだ。それ弁償しろよっ」
 祐真に向かってコンビニの袋を投げ放った。
 はっ、とまったく反省していない様子で短く笑った祐真は立ちあがると――
「良哉、おれら邪魔だってさ。ふたりっきりにしてやろうぜ」
 と、遠回しで航をからかう。
「わかってんなら出てけ」
 航はからかいには乗らず、ただ祐真の発言に乗ってふたりを追い払った。
 ドアが閉まったあと、片膝を立てていた航は実那都へとまっすぐに向きを変えてあぐらを掻いた。そうして、ふるえる手をそれぞれに取って握りしめる。
「油断しすぎだ。怖がらせて悪かったよ」
「……ううん」
「“ううん”じゃねぇ。おれが悪い」
「……航、さっきは祐真くんのせいって云ってた」
「祐真といるとトラブルばっかりだ。いつもあいつがケンカを拾ってくる」
 その云い方が可笑しくて、実那都はくすっと笑った。顔を上げると、合わせるまでもなく航の目に捕らえられる。思いつめたような眼差しは、心配した気配に満ちている。
「でも……航も楽しんでるよね、ケンカ」
「否定はしねぇ」
 航はひょいと肩をすくめた。
 実那都が笑うと、今度は明らかに反省モードになって航はため息を漏らす。頭の天辺に航の手のひらが被さった。親がなぐさめようと子供にするみたいなしぐさだけれど、実那都がそうされた記憶はない。だから、こんなふうにされるとひどく安心することを知らなかった。
「ごめんな」
「そんなことない。航がわたしを見捨てるなんてことは思わなかったから」
「ったりめぇだ。地球の果て……いんや、宇宙の果てまでだって連れ戻しに行くからな」
「ぷ。わたし、宇宙人にさらわれるの?」
「あり得なくはねぇ。地球には水の中で生きるヤツもいれば空を飛ぶヤツもいる。火星にタコなヤツがいたっておかしくねぇだろ」
「タコ?」
「火星人といえばタコだって親父に聞いたことある」
「そうなんだ。タコにはわたしも可愛く見えるかな」
「おまえは可愛いって。まえにも云っただろ」
 航は顔をしかめている。その云い方は実那都の自信のなさをわかって云っている気がした。
「そう云ってもらいたくて云ってみた」
 実那都がふざけて云ってみると、航は声を出してひとしきり笑った。
「そんくらい云えるんなら大丈夫だな」
「うん。大丈夫になってきた。祐真くんたち、どうやって場所がわかったの?」
「合い言葉を云っただけだ。それをスマホが拾って、あとはGPSで場所はわかる」
「また襲われない?」
「もうおまえを独りにしない……」
「わたしじゃなくて、航が襲われないかってこと」
 航は思いがけないといった面持ちになって、それからからかうように変わり、首をかしげた。
「おれら相手にけんか吹っかけても勝てないってわかるくらいにはやっつけた。それにあの女ももう手出しはできねぇ。証拠はもらったしな」
 航は云いながら、チノパンツのポケットからスマホを出してみせた。
「証拠って……?」
 実那都が訊ねているうちに、何やら操作していた航はスマホをかざし、すると声が聞こえ始めた。
 こもった雑音は足音だろうか、それに混じって、『なんで?』というメグの叫び声がした。それから少し前に公園であったことが声のみで再現される。途中で音を切った航は、どうだ、といったふうににやりとした。
「淫行条例ってやつ。中学生とやったって、しかもあの女はおれだけじゃなかったって自分でバラしてるし、恋愛で真剣だったっていう理由も成り立たねぇ。もし今度、同じことをやる気なら会社にもネットでもバラすって脅してやる」
「……ホントに大丈夫?」
「おれには実那都がついてる」
 航はおどけた顔で片方の眉を上げ、実那都は目を丸くした。
「わたし?」
「まさかナイフ持ってる奴に向かってくとか思ってなかった。とことんやってやろうって思ってたけどな、おまえがムチャやるから」
 航は肩をそびやかした。
 航は最後まではっきりは云わなかったけれど、実那都が無謀なことをしかねないと思って決着がつかないうちに立ち去ったと云っているみたいだ。自分がやったことはよけいなお世話だったのか。
 違う、そんなはずはなくて――
「ムチャじゃない。不安だっただけ」
 航といるとほっとしてどきどきする、そんなことの繰り返しだけれど、そのなかで、航がいなくなったらどうしよう、とそんな不安はいらない。
「心配すんな。おれはバカげたムチャはしねぇから。でなきゃ、いまおれはここにいねぇかもな」
 確かに、航が怪我けがを負っているのを見たこともなければ、出回ってくる噂話で怪我をしているなどとは聞いたこともない。
 航は再び実那都の頭の天辺に手を置いて、それからまたチノパンツのポケットの中に手を入れた。
 そうして出てきたのは、カラフルな丸い容器に入ったのど飴だ。封を開けて中身をひと粒だけ取りだすと、航は手渡しするのではなく、のど飴をつまんだ指先を実那都の口もとに差し向けた。口を開けろといわんばかりに航は首をひねる。
 実那都はためらい、そしておずおずと口を開いた。すかさず、口の中にのど飴が入ってきて、口を閉じかけた刹那、くちびるを航の指先がかすめた。
 親密なしぐさに落ち着かなくて、実那都はのど飴を味わっているふりをしながらお喋りの話題を探す。
「買うの忘れたって、もしかしてこれ買うのにコンビニに戻ったの?」
「ああ。カラオケんときより思いっきり歌わされてるだろ」
「ありがとう」
 そんな言葉が自然と出るくらいうれしくて、顔がめいっぱい綻ぶ。航がいてくれてどれだけ心強いか、航はきっと本当のところはわかっていない。けれど、何かしらを気取っているからこそ、いま実那都の笑顔を見てうれしそうにするくらい航はやさしい。
「美味しい。でも……」
「……なんだよ」
 ふと、実那都が表情を陰らせると、やはり航まで険しく顔を曇らせた。
「心配するなって無理だよ。航の心配はする。なんでもないときも」
 それくらい怖い。――と、その言葉を呑み込んだのは、航がいなくなったら、と口にすれば言霊が一人歩きして本当にそうなるかもしれないと、そんな怯えが芽生えたからだ。
 実那都の心情とは裏腹に、航は堪えきれないような様子でにやつく。考えてみれば、実那都の言葉は告白したようなものだった。けれど、その恥ずかしさは――
「これからさき、三倍生きたって足りねぇ。それくらいおまえといたいって思ってる。だからさ、やっぱりおれはムチャはできねぇよ。それはわかっとけ」
 航の『長生きしろ』という言葉はそういう意味だったのだ。できれば心配したくないという消極的な実那都よりも、航のほうがもっとずっと欲張りだ。夢とか希望とか、そんなものを持つ余裕はなかったけれど――持ってはだめだと思っていたけれど、欲張りになってもいいような気になる。
「長生きしてよかったって思わせてくれるんだって期待してる」
「任せとけ」
 その言葉が大人じゃないいまだからこそ打算も躊躇もなく云えるのだとしても、航なら、とそう思わせてくれるだけで未来を描けてしまう。
 実那都が大げさなほどこっくりとうなずいた直後。
「我慢できねぇ」
 航は前にのめったかと思うと、同時に伸ばしていた腕が実那都の背後にまわって、背中に当てた手に力が込められる。引き寄せられるまま前のめりになって実那都は抱きしめられた。
 はじめてのことに戸惑ってどきどきするよりも早く、はじめて人の体温を暖かいと思った。
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