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第3話 BE MAD

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 夏休みも二週間がすぎて、そろそろ退屈になってきた。退屈でも勉強は手が抜けない。
 久築高校は良くも悪くもない、普通の、といえば聞こえはましかもしれないけれど、シビアにいえば中途半端な高校だ。そのさき――就職するにも大学に行くにもまた中途半端で、きっと自分はそういうふうに終わっていくのだろうと実那都は思う。
 漠然とした自分の未来像はけれど、航の存在で少し色を変えた。淡く濃い、それだけのモノトーンの世界に、航がいる時間だけ色彩がきらめいて、未来も彩られた気になる。
 その航とも、夏休みに入って毎日会うというわけにはいかなくなった。だんだんとモノトーン以上に色褪せていくようで、ちょっと怖い気がしている。
 大丈夫。
 自分で自分につぶやいて、そうして実那都はその自分から自分へと向けた呪文からしばらく遠ざかっていたと気づかされた。
 その呪文はけっして好きな言葉ではない。
 夏休み前にあった三者面談では、このままいけば大丈夫だ、と教師は高校受験に太鼓判を押したけれど、何をもって大丈夫だというのか実那都にはさっぱりわからない。
 大丈夫、なんていう絶対は絶対にない。
 実那都はそうすればその呪文を脳裡から追い払えるかのように、問題集から顔を上げて、窓の外に目を向けた。
 午後の二時、太陽は高いところにあって見えないけれど、隣の家の窓ガラスや屋根に反射する光のかげんを見ればその存在感は消しようもないほど大きい。喉も渇いたし、気分転換を兼ねて、実那都は二階にある自分の部屋を出た。
 実那都の部屋は六畳と狭いけれど、一階のLDKの部屋も実那都の部屋の二倍分より少し広い程度しかない。ドアを開けて入ると、リビングには母と妹がいて、ふたりはいかにも外出しますという恰好をしていた。
 出かけるの? と問うこともなく、実那都はキッチンに入って冷蔵庫を開けた。とたん。
「スムージーは加純かすみのだから」
 母の声が冷蔵庫に入れかけた実那都の手を止めた。それは一瞬のことで、冷蔵庫に並んで置かれたスムージーには手も触れず、麦茶ポットをつかんで取りだした。
「わかってる」
 籠の中に伏せたグラスを取って麦茶を注いだ。
「お姉ちゃんて塾は行かないの? いいなあ」
 四月に中学生になったばかりの加純は無邪気に問う。
 妹の加純は中学受験のために小学六年生の間、塾に通っていた。行きたくないとぼやいていたこともあるから、『いいなあ』というのは加純の本音だろうけれど、実那都がまったく逆のことを“いいなあ”と思っているとは思いもしていないだろう。
「お姉ちゃんはいいのよ。普通に行けるところで」
 実那都のかわりに母が加純の質問に答えた。
「わたしも普通がいいのに」
「加純、あなたはまだ子供だからわからないだろうけど、普通より特別なほうがいいに決まってるでしょ。加純は我が家の特別なのよ。お母さんたちもがんばってるんだから、加純もがんばってくれないと……」
 母が実那都の前でどんなつもりでそんなことを口にするのかはわからない。耳にたこができるほど聞かされた言葉にうんざりしていると、電話が母のお喋りを止めてくれた。
 母はキッチン側に置いた電話台に行って応答した。よそ行きの母の声はそれなりに上品に聞こえるけれど、見た目はちょっと若作りをがんばっている主婦といったところだ。仕事はしているけれど、客と接しない工場勤めのせいか、三者面談で会った航の母親とは段違いに、垢抜けた感じがない。
 母は受け答えをしながら実那都に目を向けた。
「実那都、電話よ。藍岬くんから」
 送話口をふさいで母は実那都に受話器を差しだすようなしぐさをした。
「うん」
 電話番号は交換していたけれど、航から家に電話がかかってきたのは夏休みになってからだ。それも夜ばかりで、昼間にかかってきたのははじめてだ。
 実那都はキッチンカウンターをまわって電話台のところに行くと、何か云いたそうにした母の手から無言で受話器を取った。
「航?」
『ああ。いま家か?』
 問われたとたん、実那都は笑った。
「航、家の電話だよ、これ」
『あーそっか。スマホに母親が出るわけないよな』
「そう!」
 からかいを込めて勢いよく云うと、今度は航が電話の向こうで笑う。じかに聞く航の声は、がさつだけれど耳には心地よい。それが電話になると、じかに耳に響くせいか、ちょっとビブラートがかっていて、ますます好きだと思う。笑い声には耳がくすぐったくなって、実那都は首をすくめた。
『いま何してんだ?』
「勉強してるよ。息抜きで麦茶を飲んでるところ」
『んじゃ、もっと息抜きさせてやる。おまえんち行くから待ってろ』
「え、ウチに?」
『おれにも息抜きさせろ。だめなのか?』
「そんなことないけど……」
『家じゃなくてもその辺うろついてもいいし、とにかく行く。ってか、もうすぐそっち着く。会いてぇ、ってな』
 最後は含み笑いをしつつ云って、実那都が応えないうちに電話は切れた。
 航は自分の気持ちに率直だ。だから少しずつ実那都の不安が薄れていっているのだと思う。モノトーンだった世界が色褪せていくように感じるのは不安のせいではなくて、夏休み前のようには頻繁に会えなくてさみしいからだ。
 航と会えると思っただけでも充分にリフレッシュできている。会えたら、充電されたみたいにフル活動できそうだ。
「お姉ちゃん、藍岬くんて人と付き合ってるの?」
「友だち」
 加純の問いに応えると。
「まだ中学生なのに」
 と、実那都は『友だち』とだけしか云っていないのにもかかわらず母が咎める。
 きっと実那都を心配してのことではない。そう思ったとおり。
「加純は男の人と付き合うなんて、ずーっとさきにしなさいね。学生のうちは成功する人かどうかなんてわからないんだから。大人になって選ぶほうが賢明よ」
 中学生になったばかりの加純に云うことなのか。それにも増して、“成功した人”とは母にとってどんな人なのか。そんなことを疑問に思いながら、一方で、お父さんまだかな、と云う加純に目を向けると、その恰好を見て実那都は思わず自分を見下ろした。
 Tシャツにジャージ素材のハーフパンツという、まるで可愛くない服だ。実那都はせっかく注いだ麦茶もそのままに、急いでキッチンを出て二階に駆けあがった。
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