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第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”
17.
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環和は息を整えるように一つ深呼吸をして、それから玄関のドアに手を伸ばした。すると、取っ手をつかむ寸前、中側から開く。
環和の見開いた目に、同じく驚きをあらわにした美野が映る。
「まあ……環和さん、おかえりなさい」
「ただいま」
「門扉が開いたと思ったのにいつまでもいらっしゃらないから、お倒れになってるのかと心配しましたよ。早くお入りください」
美野は外に出てくると、環和の背中に手を当てて家のなかへと促した。
「友だちから電話があって話してたの。ママはいる?」
「ええ、帰っていらっしゃいますよ」
病院に行くと伝えていた以上、都合のつくかぎり美帆子がいるだろうとは思っていたが、美野の返事にはため息が出た。
家のなかに入ると、一気に体感温度が下がる。空調がきいている程度で、ひんやりするほど低い温度ではないが、やはり真夏に外から入ればひんやりと感じる。ただしそれは刹那的で、すぐに適温に慣れてしまう。
響生の住まいもそうだったけれど、いまこうなってみて、自分がいかに快適な場所を選んでらくをしていたかを知る。
美帆子と秀朗が離婚したときはさすがに温室から追いだされたように思っていたけれど、やっぱり美帆子が環和をかまいだして独りではなかった。秀朗と会いたいと云わなかったのは、美帆子との居心地を悪くしたくはなかったからだ。
父親の存在は不足していたけれど、それに目を瞑ればストレスもほどほどしかない快適さのなかにいた。
いまの心境は四面楚歌、八方ふさがり、孤立無援、とそんな言葉が並ぶ。
秀朗のときのように美帆子に従っていればいまも快適なのかもしれないが、響生のことは簡単に割りきれない。目を瞑ることなど到底できない。
リビングに行くにつれ、話し声が聞こえる。だれか来ているのかと思いきや、美帆子の声だけだ。電話だろうと思ったとおり、ソファに座った美帆子はスマホを耳に当てていた。ちらりと環和を見やる。
「……わかったわ。進めてちょうだい。あの子たちがバカなことをするまえに終わらせるべきね。わたしからも手をまわしておくから」
一方的な言葉を聞きながら、環和はバッグから書類を取りだす。美帆子が見守るなかソファに近づいた。
「ママ、響生にもう一度会いたいんだけど」
美帆子はわずかに目を見開いた。
驚くのも無理はない。響生の家から連れ帰られ、それ以来、環和が美帆子に対して口をきくのははじめてなのだ。
環和から美帆子に云いたいことは即ち、怒りだったり責めたりすることしかない。けれど、響生の家でそうしたときに響生が美帆子をかばったことで、環和の気持ちをぶつけたところでなんにもならないと悟った。
悟ったからといって気持ちがおさまることもない。何も考えられないというよりは、だめだとわかっているのにそれを受け入れられないで、どこにも進む場所が見つけられないのだ。
「なんのために……?」
美帆子が云い終わるよりもさきに環和は書類をテーブルに置いた。美帆子が身を乗りだして書類を手に取る。書面に見入ったあと、望んでいるとおりになって果たして安堵したのか、美帆子はゆっくりと顔を上げる。
「賢明だわ。あなたには将来があるんだから」
食欲もなくなって環和が食べないでいると、おなかの子に悪いと云って無理やり食べるよう仕向けていたくせに、やはり産んでもいいという気持ちは美帆子に欠片もないのだ。
それなら、将来はあっても空っぽで、環和の望むものは全部が抜け落ちている。
「早くしないといけないから」
手を差しだすと美帆子は書類を戻し、そして環和は手もとを見下ろした。
『人工妊娠中絶に対する同意書』
文字列は視界を通りすぎるだけで、脳裡までは伝わらない。
「そうね。響生もあなたに云っておくべきことがあるみたいだし、早くなさい。写真のこともどうにかなりそうだから」
「……え?」
唐突に写真の話に飛んで美帆子を見やると、美帆子はよく聞きなさいと云わんばかりに顎をしゃくった。
「写真が京香の手にあるうちはまだマシなの。これがマスコミに渡ったら最悪の事態を招きかねないわ。響生とあなたの関係からわたしと水谷のことまで引き合いに出されて、挙げ句の果て、響生が水谷家に出入りしていたことにたどり着く。マスコミなら訳無いことよ。そうやって、もしだれかがあなたのことを勘繰ったら、それが憶測でも尾ひれがついて瞬く間に広まる。響生が告発すればわたしは破滅しちゃうわね。いずれにしろ、響生もスキャンダル塗れになるわ」
美帆子の云い分を聞いているうちに、環和は一つ思い当たった。
「もしかして……わたしと響生が別れたことを京香さんに云わなかったのは……理由がママのせいってバレたくないから?」
「……京香と会ったの?」
「電話で話しただけ。会わないかっていうから断ったけど」
環和の言葉を聞いて、怪訝そうにしていた美帆子は同調するようにうなずいた。
「京香とは関わらないことね。別れたことを云わないのは、わたしと響生の関係がどうであれ、あなたたちが別れなくちゃならない理由がないって示すためよ。とにかく、京香たちのことは響生に任せてみるわ」
環和と響生は別れなければならないのに、皮肉にも他人には別れなければならない理由を無効にしなければならないのだ。
環和の見開いた目に、同じく驚きをあらわにした美野が映る。
「まあ……環和さん、おかえりなさい」
「ただいま」
「門扉が開いたと思ったのにいつまでもいらっしゃらないから、お倒れになってるのかと心配しましたよ。早くお入りください」
美野は外に出てくると、環和の背中に手を当てて家のなかへと促した。
「友だちから電話があって話してたの。ママはいる?」
「ええ、帰っていらっしゃいますよ」
病院に行くと伝えていた以上、都合のつくかぎり美帆子がいるだろうとは思っていたが、美野の返事にはため息が出た。
家のなかに入ると、一気に体感温度が下がる。空調がきいている程度で、ひんやりするほど低い温度ではないが、やはり真夏に外から入ればひんやりと感じる。ただしそれは刹那的で、すぐに適温に慣れてしまう。
響生の住まいもそうだったけれど、いまこうなってみて、自分がいかに快適な場所を選んでらくをしていたかを知る。
美帆子と秀朗が離婚したときはさすがに温室から追いだされたように思っていたけれど、やっぱり美帆子が環和をかまいだして独りではなかった。秀朗と会いたいと云わなかったのは、美帆子との居心地を悪くしたくはなかったからだ。
父親の存在は不足していたけれど、それに目を瞑ればストレスもほどほどしかない快適さのなかにいた。
いまの心境は四面楚歌、八方ふさがり、孤立無援、とそんな言葉が並ぶ。
秀朗のときのように美帆子に従っていればいまも快適なのかもしれないが、響生のことは簡単に割りきれない。目を瞑ることなど到底できない。
リビングに行くにつれ、話し声が聞こえる。だれか来ているのかと思いきや、美帆子の声だけだ。電話だろうと思ったとおり、ソファに座った美帆子はスマホを耳に当てていた。ちらりと環和を見やる。
「……わかったわ。進めてちょうだい。あの子たちがバカなことをするまえに終わらせるべきね。わたしからも手をまわしておくから」
一方的な言葉を聞きながら、環和はバッグから書類を取りだす。美帆子が見守るなかソファに近づいた。
「ママ、響生にもう一度会いたいんだけど」
美帆子はわずかに目を見開いた。
驚くのも無理はない。響生の家から連れ帰られ、それ以来、環和が美帆子に対して口をきくのははじめてなのだ。
環和から美帆子に云いたいことは即ち、怒りだったり責めたりすることしかない。けれど、響生の家でそうしたときに響生が美帆子をかばったことで、環和の気持ちをぶつけたところでなんにもならないと悟った。
悟ったからといって気持ちがおさまることもない。何も考えられないというよりは、だめだとわかっているのにそれを受け入れられないで、どこにも進む場所が見つけられないのだ。
「なんのために……?」
美帆子が云い終わるよりもさきに環和は書類をテーブルに置いた。美帆子が身を乗りだして書類を手に取る。書面に見入ったあと、望んでいるとおりになって果たして安堵したのか、美帆子はゆっくりと顔を上げる。
「賢明だわ。あなたには将来があるんだから」
食欲もなくなって環和が食べないでいると、おなかの子に悪いと云って無理やり食べるよう仕向けていたくせに、やはり産んでもいいという気持ちは美帆子に欠片もないのだ。
それなら、将来はあっても空っぽで、環和の望むものは全部が抜け落ちている。
「早くしないといけないから」
手を差しだすと美帆子は書類を戻し、そして環和は手もとを見下ろした。
『人工妊娠中絶に対する同意書』
文字列は視界を通りすぎるだけで、脳裡までは伝わらない。
「そうね。響生もあなたに云っておくべきことがあるみたいだし、早くなさい。写真のこともどうにかなりそうだから」
「……え?」
唐突に写真の話に飛んで美帆子を見やると、美帆子はよく聞きなさいと云わんばかりに顎をしゃくった。
「写真が京香の手にあるうちはまだマシなの。これがマスコミに渡ったら最悪の事態を招きかねないわ。響生とあなたの関係からわたしと水谷のことまで引き合いに出されて、挙げ句の果て、響生が水谷家に出入りしていたことにたどり着く。マスコミなら訳無いことよ。そうやって、もしだれかがあなたのことを勘繰ったら、それが憶測でも尾ひれがついて瞬く間に広まる。響生が告発すればわたしは破滅しちゃうわね。いずれにしろ、響生もスキャンダル塗れになるわ」
美帆子の云い分を聞いているうちに、環和は一つ思い当たった。
「もしかして……わたしと響生が別れたことを京香さんに云わなかったのは……理由がママのせいってバレたくないから?」
「……京香と会ったの?」
「電話で話しただけ。会わないかっていうから断ったけど」
環和の言葉を聞いて、怪訝そうにしていた美帆子は同調するようにうなずいた。
「京香とは関わらないことね。別れたことを云わないのは、わたしと響生の関係がどうであれ、あなたたちが別れなくちゃならない理由がないって示すためよ。とにかく、京香たちのことは響生に任せてみるわ」
環和と響生は別れなければならないのに、皮肉にも他人には別れなければならない理由を無効にしなければならないのだ。
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