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第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

5.

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「ひ……響生に、何かあったんですか」
 しばらく発することのなかった名は、舌が張りついたようにうまく声に乗せられなかった。
 もしかしたら、口にしてはいけないという警告かもしれない。だれのための警告かといえば、自分自身にほかならない。心底でふたをした箱には、響生とすごした時間と恋しくてたまらない気持ちが詰まっている。ふたはうまく閉じられず、うずうずしていつ中身が放たれてもおかしくない。格闘しながらなんとか封じこめているのに、名を聞いただけでガタゴトと大暴れをする。

 恵は再び環和を観察するように見つめた。
「その様子じゃ、響生にっていうよりも、ふたりに何かあったんじゃないの?」
 恵の洞察力が高いのか、環和の動揺があからさますぎるのか、否定しても恵はすぐに嘘だと見抜くだろう。
「……三カ月は超えたけど、五カ月は超えられなかったみたいです」
 恵はきつい云い方をしても理不尽な冷たさは感じない。苦手意識は多少あるけれど、嫌いだとか不審に思うことはない。そんな自分の勘を信じて、環和は少し遠回しに云ってみた。
 恵は意図しなかったことを聞かされ、うたぐるように細く整えた眉をひょいと上げた。
「響生が環和ちゃんを振ったって意味?」
 すぐにはうなずけなかった。環和はまだ別れを認められない自分の気持ちと対面する。

 やがて環和がうなずいたとき、恵はしばらく考えこんだ面持ちで黙った。
「響生は、環和ちゃんのお母さんが真野美帆子だって知ってたの?」
「あまり云いたくなくて……響生が知ったのは最近です」
 環和が答えると恵は眉間にしわを寄せて顔をしかめた。
「環和ちゃんは、真野美帆子が出した写真集のカメラマンが響生だってことを知ってた?」
「……知ったのは最近です」
 恵の口からおもんぱかったような深く長いため息が漏れた。
「もしかして、響生と真野美帆子を会わせた?」
「会わせたっていうより偶然一緒になったんです。響生が来る日に母が来ていて……」
「それで揉めたりしたの?」
 恵はなぜそんなふうに考えるのだろう。戸惑って答えられないでいるうちに、環和の表情から答えを見いだしたのかもしれない。恵は独り納得したようにうなずいた。

「わたしが響生を知ったのは真野美帆子の写真集から。四十代でセミヌードってやっぱり話題になったもの。女としても興味湧くじゃない。顔はともかく、体系的にどれだけ維持できるのかって。でもそんなことよりも、見惚れるくらい写真集は芸術作品だった。わたしは働き始めて一年たった頃で、響生がカメラマンの枠に囚われなくて広告の仕事なんかもやってるってわかってから、いつか一緒に仕事したいって思ってきたわ。それが叶って、写真集の感想を云ったの。かなり熱くね。でも、響生は少しもうれしそうじゃなかった。あのとおり、一匹狼みたいな面あるし、そのときは機嫌が悪かったのかと思って、あとからも何度かそれとなく云ってみたけど、その話題を避けてる感じがしたわね。だから……」

 恵はもったいぶったように途中で言葉を切り、首をかしげた。
「……“だから”?」
「響生もね、いまのあなたみたいな顔してる」
「……自分の顔は見えませんけど」
 恵はぷっと吹いた。
「そういう環和ちゃんらしさが残ってるってことは、お節介になるかもしれないけど……。響生は普通と変わらず振る舞ってるけど、手持ち無沙汰になると表情がなくなるのよね。魂をだれかに抜かれたみたいに」
 恵の云うことは合っている。在るべきところから環和の魂ははぐれている。

「響生のことはわからないけど……わたしはそうかもしれません」
「煙草の量は増えてるし、苛々してる感じもするし、ということはいまの状態は響生の本意じゃないってことでしょ。だから、ふたりのトラブルのもとは真野美帆子だってことになるわね」
 違う? と恵の首がかしぐ。
「……わかりません。いまごちゃごちゃしてて……」
 恵は再び深くため息をつき、バッグから名刺ケースを取りだして一枚を環和へと差しだした。
「詰まらないことでもいいから、話したいときは連絡して。力になれることがあれば協力するわ。仕事中はすぐには応じられないけど」
「……ありがとうございます」
 響生と恵の関係を思えば複雑だけれど、名刺を受けとりながら、環和は少しほっとした。

「それから。京香ちゃんに気をつけてってまえに云ったけど、いまも有効だから。最近、環和ちゃんと響生のことを妙に気にしてるのよね。不安にさせたくはないけど……響生にも忠告はしておく。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。さよなら」
「さよなら」
 恵はくるっと身をひるがえして足早に立ち去った。

 環和は手に持った名刺に目を落としながら、恵が云ったことを反すうする。恵の中では環和と響生は終わっていなくて、それなら、まだあきらめる必要はないのかもしれない。いや、赤ちゃんがおなかにいて、だからきっとあきらめてはいけないのだ。環和の中にそんな希望が生まれた。
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