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第1章 Cross-Border~越境~
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高井戸家は、所々に個人の店や小企業を見かけるくらいで住宅中心の平凡な町中にある。父は教師、母は区役所の臨時職員で、五年前に家を建てたばかりという、これもまた平凡な家庭だ。
「どうしたの、食べないの、広希? トンカツ好きでしょ。あ、そういえば期末の結果、見てないわね。悪かったの?」
コーヒーメーカーのポットからカップに注ぎ終わった母は、広希に具合を訊ねながら自分で結論づけている。
「テストはおととい終わったばかりだろ。結果なんてまだ出るわけねぇよ」
「颯天みたいに清道に行けるくらいがんばってよ」
弟の広希は颯天よりも二つ下で高校二年生だ。母のいまの発言は耳にたこができるほどの口癖になっていて、颯天からしても広希が気の毒になる。ちらりと正面の広希を見やると、案の定、不快そうに眉をひそめている。
「わかってるって。うるさ……」
着信音が鳴り、広希は云いかけた口を閉じてすぐ傍に置いていたスマホを取りあげた。いくつか操作したあと、広希はしかめ面から憂えた面持ちにかわり、唐突に席を立った。
平日、EAサークルを終えて帰った颯天と部活を終えて帰った広希がダイニングで遅い夕食を取り、その間、母がリビングでドラマを見るという、ありふれた光景はここで途絶えた。
「広希……」
「ちょっとコンビニで友だちと会ってくる。帰ってから食べるよ」
咎める母をさえぎり、広希はくるっと背中を向けて玄関に行った。
六月に入ってから、広希は突然出かけるということが多くなった。当初は気にもしていなかったが、この一カ月こうも頻繁になるとさすがに母も放っておけないと気づいたようだ。
一方で、颯天は二週間前にはっきりよくない異変だと確信した。微々たる額しか入っていない財布からお金がなくなる事態が続けば嫌でも気づく。家か大学かアルバイト先か、泥棒がどこにいるのか断定はできなかったが、そのときよほど追いつめられていたのだろう、広希が颯天のバッグを漁っているところに出くわしたのだ。広希から無理やり事情を聞きだした。
「おれが見てくるよ」
母の視線を受けとめるとすぐ、颯天は立ちあがった。
「大丈夫かしら」
颯天は首をひねるだけで応えず、スマホと財布を持って広希を追った。
門扉を開けて道路に出ると左右を見、急ぎ足で駅のほうに歩いていく広希を捉えた。
「広希、待てよ!」
颯天が走って追いつくまで広希が足を止めることはなく、むしろ追いつかれたくないという頑なさが見えた。「待てって」と肩をつかんでも、広希は肩を動かして颯天の手を払う素振りをする。
「あいつの呼びだしか。お金は? バイト代入ったからコンビニで引きだしてやる……」
「今日はいらないんだってさ。兄ちゃん、帰っていいよ」
しかたなく並んで歩きながら口にした申し出は、なんでもないことのような口調でさえぎられた。
「いらないって慰謝料はすんだってことか? だったらなんで呼びだされるんだよ」
「だから、兄ちゃんは帰ったほうがいいって」
帰っていいよ、から、帰ったほうがいい、と変化した云い方からすれば、けっしていいほうに向かっていないのは明らかだった。
黙りこんだまま、颯天は広希に付き添って歩いていく。その間、これまでいくら思考を働かせても良案が思い浮かばなかったにもかかわらず、どうすればいいのかまた考える。
事の発端は、広希が人助けをしたことに因る。いや、人助けをした“つもりだった”ことに因る。
広希は通学の途中、混雑した電車の中でたまたま痴漢の現場に居合わせた。すぐ隣で女性が呻くのを聞き留め、見れば男が背後から女性のスカートを捲りあげて臀部を触っていたという。
広希は正義感が強いわけではなかったが、見過ごせるような性格でもない。云うなら、面倒でも投げださず責任を全うする生徒会長タイプだ。
広希は男の手をひねり上げ、とりあえず女性も恥ずかしいだろうという配慮のもと声はあげず、ただ次の駅に着くまで男を放さなかった。
女性が何か云いたそうにしていたらしいが、それが感謝などではなかったと判明したのは電車を降りてからだった。
男は痴漢ではなく、一方で女性は被害者でもなかった。どういうことか、男女はそういうプレイを楽しんでいたのだ。
運悪くその男が柄の悪い、いわゆるやくざだった。ひねられた手を捻挫したと云って慰謝料を要求され、いまに至っている。
そのとき、間違っていてもいいから痴漢だと警察に突きだしておくべきだったのだ。いろいろネットで調べてみた結果、合意でも公然猥褻罪が適用される可能性もあったのだから。
平謝りする広希をいいカモとでも思ったのか、小遣いを叩いて慰謝料を持っていったときに、男――段田功二は広希を嵌めたのだ。無理やり女から押し倒されたすえ、未経験だった広希は女の手練手管に逆らえず犯されつつも精を放ったのだ。そのときの写真が脅迫の材料となった。
「広希、おれがどうにかするから、今日は帰ろう。慰謝料がいらないかわりに、あいつは何か企んでるんだ」
「どうにかするって、どうするんだよ。おれはあんな写真が出回るなんて嫌だ。だれにも知られたくない」
広希はいまにも泣きそうにしながら颯天を振り向いて睨みつける。
「だから……」
具体的に案があるわけでもない颯天は言葉に詰まった。
「よお、広希」
にやついたような声がばかに太く夜の通りに響く。
広希がびくっと躰をふるわせて立ち止まり、颯天もまたすくんだように足を止めた。
「兄ちゃん、遅くなるって母さんには適当に云っててよ。頼んだから」
広希は小声で云い、小走りに段田のところに向かうと、合流したとたん段田が親しげに広希の肩を抱いた。方向を変えて歩きながら――
「あれ、だれなんだよ。おまえみたいにいい顔してんな」
「道を訊かれただけです」
そんな会話がなされ、颯天はなすすべもなく広希の背中を見送った。
夜遅く帰ってきた広希は、疲れた様子だったがとりあえず痛めつけられたわけではなさそうだった。
おれは臆病者だ。
そんな後ろめたさに押されるように、翌日、EAの活動を終わるなり――
「朔間さん、相談に乗ってほしいんです」
颯天は縋るように祐仁を呼びとめた。
高井戸家は、所々に個人の店や小企業を見かけるくらいで住宅中心の平凡な町中にある。父は教師、母は区役所の臨時職員で、五年前に家を建てたばかりという、これもまた平凡な家庭だ。
「どうしたの、食べないの、広希? トンカツ好きでしょ。あ、そういえば期末の結果、見てないわね。悪かったの?」
コーヒーメーカーのポットからカップに注ぎ終わった母は、広希に具合を訊ねながら自分で結論づけている。
「テストはおととい終わったばかりだろ。結果なんてまだ出るわけねぇよ」
「颯天みたいに清道に行けるくらいがんばってよ」
弟の広希は颯天よりも二つ下で高校二年生だ。母のいまの発言は耳にたこができるほどの口癖になっていて、颯天からしても広希が気の毒になる。ちらりと正面の広希を見やると、案の定、不快そうに眉をひそめている。
「わかってるって。うるさ……」
着信音が鳴り、広希は云いかけた口を閉じてすぐ傍に置いていたスマホを取りあげた。いくつか操作したあと、広希はしかめ面から憂えた面持ちにかわり、唐突に席を立った。
平日、EAサークルを終えて帰った颯天と部活を終えて帰った広希がダイニングで遅い夕食を取り、その間、母がリビングでドラマを見るという、ありふれた光景はここで途絶えた。
「広希……」
「ちょっとコンビニで友だちと会ってくる。帰ってから食べるよ」
咎める母をさえぎり、広希はくるっと背中を向けて玄関に行った。
六月に入ってから、広希は突然出かけるということが多くなった。当初は気にもしていなかったが、この一カ月こうも頻繁になるとさすがに母も放っておけないと気づいたようだ。
一方で、颯天は二週間前にはっきりよくない異変だと確信した。微々たる額しか入っていない財布からお金がなくなる事態が続けば嫌でも気づく。家か大学かアルバイト先か、泥棒がどこにいるのか断定はできなかったが、そのときよほど追いつめられていたのだろう、広希が颯天のバッグを漁っているところに出くわしたのだ。広希から無理やり事情を聞きだした。
「おれが見てくるよ」
母の視線を受けとめるとすぐ、颯天は立ちあがった。
「大丈夫かしら」
颯天は首をひねるだけで応えず、スマホと財布を持って広希を追った。
門扉を開けて道路に出ると左右を見、急ぎ足で駅のほうに歩いていく広希を捉えた。
「広希、待てよ!」
颯天が走って追いつくまで広希が足を止めることはなく、むしろ追いつかれたくないという頑なさが見えた。「待てって」と肩をつかんでも、広希は肩を動かして颯天の手を払う素振りをする。
「あいつの呼びだしか。お金は? バイト代入ったからコンビニで引きだしてやる……」
「今日はいらないんだってさ。兄ちゃん、帰っていいよ」
しかたなく並んで歩きながら口にした申し出は、なんでもないことのような口調でさえぎられた。
「いらないって慰謝料はすんだってことか? だったらなんで呼びだされるんだよ」
「だから、兄ちゃんは帰ったほうがいいって」
帰っていいよ、から、帰ったほうがいい、と変化した云い方からすれば、けっしていいほうに向かっていないのは明らかだった。
黙りこんだまま、颯天は広希に付き添って歩いていく。その間、これまでいくら思考を働かせても良案が思い浮かばなかったにもかかわらず、どうすればいいのかまた考える。
事の発端は、広希が人助けをしたことに因る。いや、人助けをした“つもりだった”ことに因る。
広希は通学の途中、混雑した電車の中でたまたま痴漢の現場に居合わせた。すぐ隣で女性が呻くのを聞き留め、見れば男が背後から女性のスカートを捲りあげて臀部を触っていたという。
広希は正義感が強いわけではなかったが、見過ごせるような性格でもない。云うなら、面倒でも投げださず責任を全うする生徒会長タイプだ。
広希は男の手をひねり上げ、とりあえず女性も恥ずかしいだろうという配慮のもと声はあげず、ただ次の駅に着くまで男を放さなかった。
女性が何か云いたそうにしていたらしいが、それが感謝などではなかったと判明したのは電車を降りてからだった。
男は痴漢ではなく、一方で女性は被害者でもなかった。どういうことか、男女はそういうプレイを楽しんでいたのだ。
運悪くその男が柄の悪い、いわゆるやくざだった。ひねられた手を捻挫したと云って慰謝料を要求され、いまに至っている。
そのとき、間違っていてもいいから痴漢だと警察に突きだしておくべきだったのだ。いろいろネットで調べてみた結果、合意でも公然猥褻罪が適用される可能性もあったのだから。
平謝りする広希をいいカモとでも思ったのか、小遣いを叩いて慰謝料を持っていったときに、男――段田功二は広希を嵌めたのだ。無理やり女から押し倒されたすえ、未経験だった広希は女の手練手管に逆らえず犯されつつも精を放ったのだ。そのときの写真が脅迫の材料となった。
「広希、おれがどうにかするから、今日は帰ろう。慰謝料がいらないかわりに、あいつは何か企んでるんだ」
「どうにかするって、どうするんだよ。おれはあんな写真が出回るなんて嫌だ。だれにも知られたくない」
広希はいまにも泣きそうにしながら颯天を振り向いて睨みつける。
「だから……」
具体的に案があるわけでもない颯天は言葉に詰まった。
「よお、広希」
にやついたような声がばかに太く夜の通りに響く。
広希がびくっと躰をふるわせて立ち止まり、颯天もまたすくんだように足を止めた。
「兄ちゃん、遅くなるって母さんには適当に云っててよ。頼んだから」
広希は小声で云い、小走りに段田のところに向かうと、合流したとたん段田が親しげに広希の肩を抱いた。方向を変えて歩きながら――
「あれ、だれなんだよ。おまえみたいにいい顔してんな」
「道を訊かれただけです」
そんな会話がなされ、颯天はなすすべもなく広希の背中を見送った。
夜遅く帰ってきた広希は、疲れた様子だったがとりあえず痛めつけられたわけではなさそうだった。
おれは臆病者だ。
そんな後ろめたさに押されるように、翌日、EAの活動を終わるなり――
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