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終章 紫の朱を奪う~愛は止まらない~
2.解毒
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「ほら見て」
一緒にケーキを食べようと思って。そう云って、母に、コーヒーを淹れますね、と云わせた彼女は朱実に向かってにっこりと笑いかけた。
居間として使っているアパートの狭い一室で、テーブルに置いた箱が開けられる。手土産のケーキはカットしたピースではなく、ホールケーキだった。
「イチゴ、好きでしょ?」
ほかにもブルーベリーやラズベリー、それらがホワイトクリームに囲まれ、ぎっしりと詰めこまれていた。ベリーたちはグラサージュで覆われ、キラキラと宝石のように光る。
これほど豪華なケーキは見たことがなく、朱実は目を丸くしてうなずいた。
「切ってみない?」
彼女はバッグのなかから、お洒落なナイフを取りだした。
乳白色に、緑の葉と枝まで描かれたピンクの薔薇模様が可憐だ。母には上品すぎるけれど、白くきれいに指の伸びた彼女の手にはしっくりおさまって似合う。朱実は子供ながらにそんなことを思った。
「あのひとから結婚するときにもらったプレゼントなの。未来を切り開く。ふたりで出発だって」
彼女は秘密の話をするように声を潜め、ナイフをまるで生き物であるかのように撫でる。あのひと、とその響きがだれのことをさしているのかおぼろげに察しながら、朱実は差しだされたナイフを見つめた。
朱実が受けとらないでいると、正面に座った彼女はすぐ傍に移動してきた。
「ほら、高価なものだけど遠慮しないで」
さらににっこりとした彼女は朱実の手を取った。手のひらにナイフの柄が押しつけられ、彼女はカバーをすっと外す。
ナイフをつかんだ朱実の手をくるむようにして彼女は両手を重ねた。彼女の手はひんやりとしている。
まるで死人のように。
そう感じたのは、彼女のなかに決意があったからかもしれない。あとになってみると、単なる朱実の感覚ミスという気もしている。記憶のなかの時間の流れは曖昧だ。ただ朱実は、確かに死者となり果てていく彼女の温度をじかに感じていた。
「シキも父親のようにあなたに惹かれるのかしら。シキはわたしが守ってあげないと 」
ひそひそとした言葉は、本当に彼女が発したものか、地の底から振動を伴って囁かれる呪文のように聞こえた。
母がいるキッチンのほうからは、カタカタと食器の鳴る音、そしてコーヒーメーカーから熱湯が噴きだす音が立つ。母はこっちに話しかけてくることもなく、それは、彼女が家のなかにいる動揺と、それから派生する自分の思考に囚われているせいかもしれない。
お母さん。母はすぐそこにいるというのに、朱実はたったそれだけの訴えも発せられず、恐怖心に縛られる。その瞬間だった。彼女の手が包みこんだ朱実の手をぐいっと引き寄せた。こわばった小さな躰はその勢いのまま彼女の躰にぶつかった。呻き声を間近に聞きながら、ぶつかった反動で彼女は後ろに倒れ、伴い朱実も彼女の上に倒れこむ。
朱実の体重でつかんだナイフがぐっと埋もれていく感触は、硬い粘土を切り分けるのにヘラを突き立てるときと似ていた。
「朱実、どう……友里花さん? 朱実、何やってるの……。――どうしたの!?」
これが何の大事にも至らないシーンだったら、滑稽な恰好だ。けれど、母の怪訝そうな声は足音が近づくとともに悲鳴に変わった。
母はとっさに朱実の躰を起こすと、手を覆う彼女の手をつかんだ。さっきまで朱実の手をしっかりと捕らえて放さなかった手は簡単に剥がれた。
「聖衣、子さん……この子、わたしを刺したわ」
彼女の瞳は強く仄暗く光を放つ。朱実は口がきけず、ただ首を横に振った。
その真意を母は理解していたのか、朱実を疑っているうえでただヒステリックに否定したがっただけなのか。
「違うわっ。これは事故よ」
母は叫びながら、朱実の手をつかむ。
「朱実、放しなさいっ」
母の怒鳴り声が響く。
こわばった手はナイフを握りしめたまま、朱実自らでは開くことができなかった。朱実の指を一本一本ほどいていく手はぶるぶるとふるえている。
そうしている間に、ナイフが揺れたせいだろう、血がひどく滲みだす。母の手が赤く染まった。
「でも、わたしは……刺された、て……云う。シキと同じよ……に、この子も……不幸、に、なれば……いい。あのひとも……戻って、くる、わ。聖衣、子さ……わたし、と同じよ……に……不幸、になるの……よ」
途切れ途切れの言葉は苦しそうなのに、痛みを感じていないかのように彼女のくちびるは笑みを形づくる。
「そんなことはさせないわっ。子供がこんなことするわけないじゃない! 朱実はわたしが守るの。不幸になんてさせるもんですか」
彼女のくちびるはこれ以上になく弧を描いた。
「どろぼ、の、子供は……どろ、ぼーよ。あなたも、何も、手に、入れること……でき、ない……の」
朱実は見入ったように目が離せない。母は強制的に朱実の躰を自分のほうへと向けた。母の必死の形相は、重大なことだと告げている。朱実にもそれはわかっている。ただ、何一つまともに考えられない。放心して見上げる朱実の目を母がしっかりと見つめた。
「朱実、いい? お母さんがやったのよ。あなたは何もしてない。だって、ほんとに何もしてないでしょ?」
朱実がおどおどとしてうなずいたのは母の目に映っているのか。
「この人、狂ってるのよ。生きてたらいつまでもわたしたちに付き纏うわ」
うわごとのように云う母自体も何かに取り憑かれたように思いつめて見えた。それから瞳は再び意思を取り戻して朱実に向かう。腕からさきが痺れるほど、母の手はきつく朱実を縛る。
「お父さんにはお母さんから話すわ。朱実にはちゃんと守ってくれる人が必要だから。お母さんと約束してほしいの。朱実は何も知らない。そう云い続けて。それが約束。朱実のせいじゃないんだから」
そうしている間にも彼女の荒かった呼吸は弱々しくなっていった。
「死んだ、として、も……そした、ら……これで、あのひとは……わたしを一生、忘れ、られな……あなた、も……あなた、の子も……ね」
母は朱実を放した。彼女の口をふさぐかわりに、母はナイフを抜いた。その胸からこぼれそうなほど、みるみるうちに朱が広がっていった。
「ただいま」
孝雄の声はあまりにのん気で、現実と非現実の境目をあやふやにした。
*
「では、来週月曜日からですね。九時に事務所に来てください。お待ちしてます」
「はい。よろしくお願いします」
朱実は応接用のソファから立ちあがると一礼をした。
事務所を出て建物を出ると、いったん立ち止まって息をつく。
この十日ほど求人情報を当たりながら、面接を繰り返して六件め、仕事がやっと決まった。
東京を離れようとも思ったが、何かしら繋がりのある地でなければ本当に孤独になりそうで決心がつかなかった。祖母ともこれ以上、離れたくはない。
そう思いながら、お盆になっても祖母のもとへ帰るのはためらわれた。そして、そんな自分に朱実は呆れ果てる。
紫己が探していると思うなんてばかげている。
CB10をテンテンと呼んで、紫己はもう朱実の告白を聞いているだろうか。
テンテンと呼ばないのなら、紫己はそもそも朱実が出ていったところで、そのときは苛立つだろうが、結果的にはなんの影響も受けていないということ。
テンテンと呼ぶのなら、紫己は朱実にこだわり続けるかもしれない。それを断つのは、朱実が事実を打ち明けるしかなかった。
紫己が罪悪感を持つこともなく、朱実を切り捨てられるように。もしくは訴えられてもいい。
孝雄は亡くなってしまい、人殺し、と対面した母から罵られた時点で、約束はもうなんの意味も持たない。
紫己のマンションを出てきたばかりの頃は、何をする気にもなれなかった。家に閉じこもっていたけれど、ずっと独りきりでいると世間から取り残されたような、もしくは、遠く隔離されたような不安にどうしようもなくなった。
そんな独り暮らしよりは、犯罪者と指を差されてもいいから、だれかの目に留まっていたい。不幸になりたい、とそう云ったのにもかかわらず、朱実はどこか足掻いている。
バスの窓から景色を眺めれば、親子だったり、友だち同士だったり、カップルだったり、だれかと一緒にいる人ばかりに目が行った。
まもなく、見慣れた町並みに入り、朱実は家に近い停留所で降りた。
冷房のなかから外に出ると、あまりの熱気に気だるさを覚える。万が一のことを考えて電車は使わず、朱実はバスを乗り継ぐようにしていた。駅よりも近いが、ちょっとの距離を歩いただけで、日差しが痛いと感じる。朝、出かけるときは曇っているからと思って、無防備に出かけたことを後悔する。
八月もあと十日だ。来月になれば仕事にも就くし、身体的にも心的にも少しは穏やかな日々がやってくるはず。朱実は汗ばむことには頓着せず、足早に家に向かった。
古ぼけたアパートの敷地に入って、一階の真ん中にある部屋を目指した。伏せがちだった目を上げたとたん、朱実はぴたりと足を止めた。家に帰り着くという安堵が一瞬にして消える。
「灯台下暗し、ってこういうことを云うんだろうな」
うだる熱気をも凍りつかせるような冷ややかな声が、朱実を後退させる。
「だめだ。逃げるな」
とっさに飛んできた声は打って変わって懇願するように聞こえた。
紫己の命令には無意識に従ってしまう。逃げようにも朱実は足がすくんで立ち尽くした。
努めて表情に出さないようにしているのか、紫己は淡々とした面持ちに戻り、熱のこもらない視線が朱実の顔から足先までひととおりめぐった。まぶたが上がり、朱実の目を捕らえる。
「面接?」
白いブラウスにタイトなスカート、そして腕に引っかけたジャケットをチェックして、紫己は答えを導いた。一方で、紫己は平日なのに、しわ加工をしたシャツに綿パンツと至ってカジュアルな装いだ。
朱実はうなずいただけで、とっさには言葉が出ない。世間話のようなもので、紫己にとってはどうでもいいことだろうに黙りこんで、朱実からのなんらかの返事を待っている。
「……ひなたぼっこっていう通所介護の面接。来週からって決まったばかり」
紫己はやはり面接のことなどどうでもよかったのか――
「よくここがわかったと思わないか」
と、まったく関係のないことを口にした。今度は朱実の返事はいらないとばかりに紫己は続ける。
「朱実は、人を当てにするのが嫌だと云った。それなら、いつ独りになってもいいようにここは解約されないまま、ずっと朱実のものかもしれないって思いついた。おれは、意外に朱実が云ったことを憶えているし、朱実の性格もわかっている」
だろう? と紫己は首を傾ける。嘲るように云いながらも、朱実はそれがどこかポーズのように見えた。
「わたしの……性格?」
「いいかげんだったり不確かなことは云わない。嘘を吐かない」
紫己がそんなふうに見ているとは思っていなかった。
「……ありがとう。わたしが出ていったこと……騙されたって思ってほしくなかったから」
「けど、嫌いだ」
受容的だったときは突き放していたのに、朱実を拒絶した言葉は心もとなく聞こえた。もっと云えば縋るような声音だ。
「紫己……」
「朱実は、云うべきことも云わない」
「わたしはちゃ……テンテンから聞かなかったの?」
ちゃんと打ち明けた、と云いきるまえに朱実はハッと気づいた。聞いていないから、紫己はここにいるのだ。真相を知れば、今度こそ朱実に対する紫己の感情には憎しみしか残らないはずだった。けれど。
「聞いた」
紫己がそれでもここにいる理由は復讐のため?
朱実の部屋の玄関まえに立っていた紫己は歩み寄ってきた。いったん距離を置いて立ち止まった紫己は、それから二歩進んで朱実の正面に立った。
「云うべきことはそこじゃない」
その瞳にも表情にも、そして気配にも、嫌いだと云った嫌悪感は見られない。憎しみもない。ただ朱実を見下ろす。
「ここは暑いし、だれが聞いているかわからない場所でする話でもない。朱実のアパートは隣の部屋に筒抜けになる」
紫己は朱実の意思を確認することなく、手を取ると引っ張って歩きだす。朱実の手をつかむ手は、母が約束を強いたときのようにきつく感じた。
紫己は駅前の駐車場に車を止めていて、朱実を乗せるとどこに行くとも告げないで発進させた。訊かなくても、いちばん安全な場所は紫己の家しか思いつかない。
紫己と話をしたところで、何がそのさきにあるのかはまったく想像できない。いや、徹底的に、そして決定的に離れてしまうしかない。
そうなるまでの時間を引き延ばすかのように、朱実は沈黙を守った。紫己もまたひと言も語らず、何も――感情すらもつかめなかった。
もっとも、単純に幸せだった六カ月、その間に見せていた紫己の感情は偽物だったから、それを見抜けなかった朱実が急につかめるはずもない。
三十分後、見当をつけていたとおり、紫己は朱実を自分の住み処に連れていった。
汗を流してくればいい、と紫己は朱実に勧めた。その実、二十日まえと少しも変わらない強制にほかならない。
朱実がためらうのを見たくないかのように、セックスを強要する気はない、と紫己はすぐさま付け加えた。すっきりして隠すことなく話したいだけだ、となだめるように云って朱実をコントロールする。
うなずくとバスローブを渡されて、朱実はバスルームに行った。
朱実が使っていたものはそのまま残っている。ほっとした反面、もうどうにもならないという感傷を覚えながら、これからのことを考えてみた。結局は何も思い浮かばず、思考は纏まらず、朱実は手早くシャワーを終えた。
リビングに戻ると、こっちだ、とベッドルームのほうから紫己が声をかけた。
ためらったのはつかの間、朱実はリビングからベッドルームへと通じる、開けっぱなしのドアを抜けた。
あの大きなクッションソファがまず目に入った。ベッド際ではなく窓際に移動している。きれいな形ではなく、いびつにへこんで使った形跡があった。
そこに気を取られ、金属音を聞きとったときにはもう紫己は目のまえに来ていた。差しだされたペットボトルを受けとると同時に、もう片方の手にある足錠が朱実の視界に入った。
「紫己!」
「気休めだ」
足もとにかがみこんだ紫己は、転ぶから動くな、と命じて、朱実の足首に足錠を嵌めた。
「シャワーを浴びてくる」
逃げる隙もなく、逆に逃げられなくして紫己はベッドルームから消えた。
結局は振り出しに戻ったのか。
それでもいい。けれど、そういうわけにはいかない。
立ち尽くした朱実はやはりなんの理解にも及ばず、やがて窓際に寄った。外を向いてソファに躰を預けると、程よく朱実にフィットしてしっくりとおさまる。
心なしか、紫己の残り香を感じて躰のこわばりがとける。アパートに戻って心身ともが無力になったように感じていたのに、どこか気を張っていたのかもしれなかった。
紫己はバスローブを羽織って、おそらく五分も経たないうちに戻ってきた。
朱実の脇にあった飲みかけのペットボトルを拾うと、紫己は外に背を向け、斜め前に腰をおろした。あぐらを掻いて、朱実が飲みかけたペットボトルのふたを開けるとミネラルウォーターを口に含む。
それは、ごく親しい間柄でなければやらない行為だ。紫己との関係がおかしくなるまえは、お酒の味比べをしたり飲み残したものを飲んだり、よくやっていた。
なぜいま紫己はこんなことをするのだろう。そこにどんな意味があるのか。意味があると期待してしまうことに苦しくなる。
何から話していいのか、紫己が喋るのを待ったほうがいいのか、判断がつかないまま時間は流れていた。
「知ってるか。死者は喋らないってことを」
ようやく語りだした紫己が口にしたことは、あたりまえのことで、唐突だった。
「え?」
「夢のなかに出てきても、一切、母は喋らない。そうやっておれを罰している」
斜め向かいにいるのだから顔を合わせられるのにそっぽを向いたまま、紫己は驚くようなことを云った。
確かに、朱実の夢のなかに孝雄も友里花も出てくるが、実際にあったことを除けば――例えば、孝雄とまた暮らせるようになった夢を見たとき、よかった、と声をかけても孝雄が喋ることはない。例えば、何度も見る夢のなかでは、友里花は助かっていて、死ぬつもりだったのか真意を訊いたのに、一向に応答はなかった。
「罰してるって……」
「おれの母は、自分のものをとことん束縛する人だった。父は逃れて、おれは母のところに残った。それからだ。あなただけはわたしを裏切らない――それが母のおれに対する口癖だった」
「わたしがお父さんを……」
「違うだろ」
紫己は苛立った口調でさえぎった。
「ごめ……」
朱実は云いかけてやめた。以前、紫己が指摘したとおり、謝罪を漏らすことがひどく浅はかに感じられた。
「なんで自分のせいにする。親同士が望んだことだ。父に愛人がいるのは知っていた。中学二年のとき、父は安定した自動車工場の仕事を捨てて、ガソリンスタンドの整備員として働くようになった。残業があったり、カレンダーどおりの休みじゃなくなって、家にいないことが多くなったし、独りでいる父は、気づいたときはぎすぎすした雰囲気が消えて変わっていた。転職したのは、最初は母を避ける口実だとしか思ってなかった。母は、父に帰るコールをさせてその時間から五分も遅れたら、電話をして早く帰ってきてとヒステリックに催促する人だった。工場勤めだとわりと時間が決まっていてそれが可能だったけど、年中無休のガソリンスタンドだと訳が違ってくる。たぶん、父なりに自分を防御したんだ。そういうときに、朱実の母親と出会ったんだろう」
「お母さんが勤めてた会社がそのガソリンスタンドを使ってたって。お母さん、レンタルフラワーの営業をやってたから。結婚してからお父さんが教えてくれた」
朱実が補足すると、紫己はわかっていたようにうなずいた。
「母は父を待つことに疲れ果てていた。その逃げ場がおれだった」
「紫己が逃げ場? 束縛されたってこと?」
「ああ。母の関心はおれに移ったんだ。そうなって、父が感じていた窮屈さを実感して、はじめて理解できた。高校生になって、塾をさぼって父の職場に行ったことがある。朝、出かけるときから残業かもしれないって、週に数回もそれが続けばおかしいだろ。交代要員はいたんだ。父は確かに働いていた。けど、七時をすぎた頃に迎えがきた。女性が子供の手を引いて。その子は当然のようにふたりの間でそれぞれに手を繋いでいた。家にいる父は、おれにも母にも気難しい顔しか見せない。笑っている顔を久しく見てなかったことに気づいた」
紫己はただ過去を語っているだけで、そこに感情はのせられていない。それがよけいにつらさを隠しているように見えた。いつかのように紫己を抱きしめて背中を撫でたい、そんな衝動に駆られる。
「紫己」
「来るな」
床に手をついて躰を浮かしかけた刹那、朱実の衝動を察した紫己が止める。
「学校の補習だと嘘を突いて何回か塾をさぼったことはすぐ母にばれた。おれのあとをつけて、二重生活みたいなことをやってる父を見たんだ。けど母は、そのときはもう知っていた。『あの人たちはわたしたちがうらやましくてしかたないのね。お父さんを騙すなんて嫉妬深い泥棒だわ。あなただけよ紫己、お父さんの子は。紫己がいればいいの。いつかお父さんも夢から覚めて戻ってくるわ』。そう云った母に、おれは嗾けたんだ。だったら、離れてみたらどうなんだって。おれは、無責任で投げやりだった。母は、『そうね、さみしくなって早く夢も覚めるかも』と云って自分から離婚をしたんだ」
「それが……思ったようにならなかったの……?」
質問が質問になりきれなかったのは、結果がわかりきったことだからにほかならない。
紫己は歯を喰い縛るような気配を見せた。後悔なのか、苛立ちなのか。
「おれがいればいいだろ。そう云いながら、おれは母から逃れたくてたまらなかった。母は感づいていた」
それははっきりと後悔だった。
「だから罰って思うの?」
紫己は薄く笑うだけで応えない。
「でも紫己はお母さんを守ろうとしてた」
「何がわかる? おれは母を裏切ったんだ」
「そんなことない。紫己は待つのも待たせることも嫌いだって云ったよね。それはお母さんがそうで、紫己はそうさせたくなかったからなんだと思う。紫己はいまもお母さんを待ってる。わたしが待たせてる」
「違う!」
紫己は声を荒げて否定した。
「事件のことはずっと裁判のとおりだと思おうとしてきた。朱実がその瞬間に立ち会っていたとしても、係わっているとは想像したこともなかった」
「係わってるんじゃない、わたしが殺したの」
「違うと云ってる! 母は自殺だ」
紫己はあり得ないことを口にした。朱実が目を見開くと、それまで目を合わせなかった紫己がゆっくりと振り向いた。
「……自殺? でも……」
「思おうとしてきた、といま云っただろ。母は、父からプレゼントされたというお気に入りのナイフを持っていった。それだけで、おれからしたら自殺の根拠として充分だ。父もわかっていたはずだ。母はあの日、父を連れ戻してくると云った。永遠にわたしのものになる、ってうれしそうだった。朱実が云ったことと符合する」
「でも……紫己のお母さんが心配してたとおり、わたしは紫己を苦しめてる」
「違うんだ」
もう何度めか、振り絞るような声で紫己は否定した。ほっといてくれ。そんな気配を感じて、朱実は紫己が再び口を開くのを待った。
「おれは怖い。母と同じだ」
「……紫己。同じって?」
「束縛したがる。CB10が遠隔操作も可能なことは知ってるだろ。朱実はおれの監視下にあった」
「束縛って……紫己はわたしを憎んでるからそうするだけで……」
「憎んでる。確かにそうかもしれない」
紫己は曖昧な云い方をして皮肉っぽく嗤った。
「おれは……もう普通の愛し方がわからない。憎しみと愛の区別さえつかない。ただ、朱実と離れられない。母はそうやっておれから裏切られることをわかっていたかもしれない」
それは愛しているという告白にも聞こえた。紫己は朱実のそうした期待をわかったうえで避けるように目を逸らした。期待どおりだとしても、どうにもならないことは歴然で、紫己はそのしぐさのように朱実を避けるべきなのだ。
「おれは自分で自分の首を絞めてるんだ。桔平が云ったように、おれが付き合ったことのある女は、母の墓参りで見た朱実に似ていた。朱実を犯して……妊娠していないとわかったとき、縛る口実を奪われた。そんなふうに思うこと自体が母を裏切っている」
「紫己、わたしがこう云う資格なんてないけど……紫己にラクになってほしいから……。紫己は、お母さんがうれしそうにしてたって云ったよ。きっと裏切りだとか思ってない。そんなことを思ってたら、わたしから紫己を守るなんて云わない」
安易だと怒ることもなく、紫己は黙りこんだ。地上から離れた場所は雑音もなく、お喋りがなくなるととことん静かだ。紫己は何年もそうしている。傍にいたいという気持ちは果無い。
「紫は朱のまがいものだ。逆らって朱を支配しようとしたのに手に入らない。だから朱に染まりたがるのかもしれない。出ていく気なら、今度こそ、おれは朱実をこのまま拘束する」
「紫己、だめなの」
「おれがいない間に好きな奴ができたのか」
「そんなはずない」
「朱実は桔平から簡単におれに乗り換えた」
紫己はいま頃になってそんなことを責める。
「そうしたくて……そうしようと思って紫己を好きになったわけじゃない。表面だけ見るんじゃなくて紫己はマイナスなことを含めて内側まで覗かせてくれたから……気持ちは全然違うってもうわかってる。でも、紫己を愛してるから……」
だめなの、と最後までは云えなかった。けれど。
「愛していても一緒にいられない理由はなんだ」
紫己はちゃんと察して喰いさがる。
「紫己に迷惑かけるから。わたしは紫己のお母さんを殺してる。世間の人はそう思ってなくても、殺人者の娘だってことまでなら調べればすぐわかるの」
「違う。だれも殺人者じゃない」
「最初に就職した会社はいられなくなった。紫己がそう思っても……!」
「おれは会社から完全に退く」
紫己は朱実をさえぎった。朱実は目を瞠る。
「……紫己……」
「朱実のためにじゃない。きっかけにはなったのは否定しない。おれは開発者に戻る。もともと表に立つのは性分じゃない。実質、運営の中心にいたのはおれじゃない。進武にすべて譲る。引き継ぎもほぼ終わったんだ。今度の株主総会で決まる」
朱実はしばらく放心したように紫己を見つめていた。
「でも……」
「なんの肩書きも持たないおれにだれが関心を持つ? 朱実にだれが関心を持つ? 川合静華か?」
紫己はすっかり承知していた。それなら、いびつなふたりでも一緒にいられるのか。朱実はそんな期待を覚えてすぐさま押し殺す。
「知ってるの?」
「あの女は何もできない。いまの地位を失う気がなければ。たとえあったとしても、そのときはやり返す」
紫己の声には断固とした響きがあった。
「紫己……許せるの?」
「おれの束縛が怖くない?」
朱実の質問に紫己は質問で返す。その質問への朱実の答えが紫己の答えになるのなら。
「それが紫己からお父さんとお母さんを奪った罰だったら、わたしはかまわない。わたしは……紫己を愛してるって云い続ける。そんな償いしかできないから」
「朱実はおれのものだ」
朱実が衝動的に手を伸ばしても跳ね除けられることはなく、紫己はそれ以上にあぐらを掻いた脚を解いて朱実を掻き抱いた。
「朱実を責める権利を持っているのはおれだけだ。そのおれが傍にいるかぎり、だれも朱実を責められない」
「紫己、愛してる」
「おれのものだ」
呻くように云い、紫己は少し躰を放して朱実のバスローブを剥ぐ。そして自分もそうした。朱実ごと紫己はソファに寝転がり、裸体をぴたりと重ね合う。
「紫己」
「云ったことは守る。ただ、このままゆっくり眠らせてくれ」
責めたつもりはなく、けれど、朱実から責められたと紫己が感じているわけでもなく、ただ自分が云ったことを嘘にしたくなかったのかもしれないと思った。朱実は紫己の躰に手をまわす。ずっとよく眠れていなかったのか、紫己の躰が怯えたようにふるえ――
「結局、おれは母の意に背いている。けどいま、母はあのとき救われたんだって思えるんだ。何があったか知ることができていたら……おれが打ち明けていたら、だれも苦しまなかったかもしれない。償うのはおれだ。朱実にも朱実のお母さんにも」
そう云った声もふるえていた。
「紫己が悪いことなんてない。お父さんはわたしのせいじゃないと云ってくれて、だからわたしはお母さんとの約束、すぐに破るべきだったっていまは思ってる。そしたら、いま云ったこと、紫己は話してくれたでしょ? 少しは状況が変わってたかもしれない。何を云われるとしてもお母さんにまた会いにいきたい。いまそう思える」
「おれも行く」
聖衣子が朱実をかばってくれたこと、そんな大事なことを置き去りにして、朱実は真実を突きつけられるのが怖くて逃げていたかもしれない。受けとめているふりにすぎなかった。紫己の言葉に、これから、という未来が見えた気がした。
「うん。お父さんをくれて、紫己のお母さんのことも、わたしは紫己から救われてるだけ。夢見ても大丈夫。夢からならわたしも紫己を救えるから」
「ああ」
短い返事は心底からあふれたため息のようだった。
朱実にも紫己にも、心底から幸せだとは云えるときはこないかもしれない。ただ紫己には、少しでも大丈夫と安らいでほしい。
朱実は手のひらで紫己の背中を撫でる。
頭上でふっと吐息が漏れ、天辺の髪がそよぐ。
呼吸は体温とともに温かく朱実に纏った。
安堵だったのか、笑ったのか、それはわからなかったけれど――
The conclusion.
一緒にケーキを食べようと思って。そう云って、母に、コーヒーを淹れますね、と云わせた彼女は朱実に向かってにっこりと笑いかけた。
居間として使っているアパートの狭い一室で、テーブルに置いた箱が開けられる。手土産のケーキはカットしたピースではなく、ホールケーキだった。
「イチゴ、好きでしょ?」
ほかにもブルーベリーやラズベリー、それらがホワイトクリームに囲まれ、ぎっしりと詰めこまれていた。ベリーたちはグラサージュで覆われ、キラキラと宝石のように光る。
これほど豪華なケーキは見たことがなく、朱実は目を丸くしてうなずいた。
「切ってみない?」
彼女はバッグのなかから、お洒落なナイフを取りだした。
乳白色に、緑の葉と枝まで描かれたピンクの薔薇模様が可憐だ。母には上品すぎるけれど、白くきれいに指の伸びた彼女の手にはしっくりおさまって似合う。朱実は子供ながらにそんなことを思った。
「あのひとから結婚するときにもらったプレゼントなの。未来を切り開く。ふたりで出発だって」
彼女は秘密の話をするように声を潜め、ナイフをまるで生き物であるかのように撫でる。あのひと、とその響きがだれのことをさしているのかおぼろげに察しながら、朱実は差しだされたナイフを見つめた。
朱実が受けとらないでいると、正面に座った彼女はすぐ傍に移動してきた。
「ほら、高価なものだけど遠慮しないで」
さらににっこりとした彼女は朱実の手を取った。手のひらにナイフの柄が押しつけられ、彼女はカバーをすっと外す。
ナイフをつかんだ朱実の手をくるむようにして彼女は両手を重ねた。彼女の手はひんやりとしている。
まるで死人のように。
そう感じたのは、彼女のなかに決意があったからかもしれない。あとになってみると、単なる朱実の感覚ミスという気もしている。記憶のなかの時間の流れは曖昧だ。ただ朱実は、確かに死者となり果てていく彼女の温度をじかに感じていた。
「シキも父親のようにあなたに惹かれるのかしら。シキはわたしが守ってあげないと 」
ひそひそとした言葉は、本当に彼女が発したものか、地の底から振動を伴って囁かれる呪文のように聞こえた。
母がいるキッチンのほうからは、カタカタと食器の鳴る音、そしてコーヒーメーカーから熱湯が噴きだす音が立つ。母はこっちに話しかけてくることもなく、それは、彼女が家のなかにいる動揺と、それから派生する自分の思考に囚われているせいかもしれない。
お母さん。母はすぐそこにいるというのに、朱実はたったそれだけの訴えも発せられず、恐怖心に縛られる。その瞬間だった。彼女の手が包みこんだ朱実の手をぐいっと引き寄せた。こわばった小さな躰はその勢いのまま彼女の躰にぶつかった。呻き声を間近に聞きながら、ぶつかった反動で彼女は後ろに倒れ、伴い朱実も彼女の上に倒れこむ。
朱実の体重でつかんだナイフがぐっと埋もれていく感触は、硬い粘土を切り分けるのにヘラを突き立てるときと似ていた。
「朱実、どう……友里花さん? 朱実、何やってるの……。――どうしたの!?」
これが何の大事にも至らないシーンだったら、滑稽な恰好だ。けれど、母の怪訝そうな声は足音が近づくとともに悲鳴に変わった。
母はとっさに朱実の躰を起こすと、手を覆う彼女の手をつかんだ。さっきまで朱実の手をしっかりと捕らえて放さなかった手は簡単に剥がれた。
「聖衣、子さん……この子、わたしを刺したわ」
彼女の瞳は強く仄暗く光を放つ。朱実は口がきけず、ただ首を横に振った。
その真意を母は理解していたのか、朱実を疑っているうえでただヒステリックに否定したがっただけなのか。
「違うわっ。これは事故よ」
母は叫びながら、朱実の手をつかむ。
「朱実、放しなさいっ」
母の怒鳴り声が響く。
こわばった手はナイフを握りしめたまま、朱実自らでは開くことができなかった。朱実の指を一本一本ほどいていく手はぶるぶるとふるえている。
そうしている間に、ナイフが揺れたせいだろう、血がひどく滲みだす。母の手が赤く染まった。
「でも、わたしは……刺された、て……云う。シキと同じよ……に、この子も……不幸、に、なれば……いい。あのひとも……戻って、くる、わ。聖衣、子さ……わたし、と同じよ……に……不幸、になるの……よ」
途切れ途切れの言葉は苦しそうなのに、痛みを感じていないかのように彼女のくちびるは笑みを形づくる。
「そんなことはさせないわっ。子供がこんなことするわけないじゃない! 朱実はわたしが守るの。不幸になんてさせるもんですか」
彼女のくちびるはこれ以上になく弧を描いた。
「どろぼ、の、子供は……どろ、ぼーよ。あなたも、何も、手に、入れること……でき、ない……の」
朱実は見入ったように目が離せない。母は強制的に朱実の躰を自分のほうへと向けた。母の必死の形相は、重大なことだと告げている。朱実にもそれはわかっている。ただ、何一つまともに考えられない。放心して見上げる朱実の目を母がしっかりと見つめた。
「朱実、いい? お母さんがやったのよ。あなたは何もしてない。だって、ほんとに何もしてないでしょ?」
朱実がおどおどとしてうなずいたのは母の目に映っているのか。
「この人、狂ってるのよ。生きてたらいつまでもわたしたちに付き纏うわ」
うわごとのように云う母自体も何かに取り憑かれたように思いつめて見えた。それから瞳は再び意思を取り戻して朱実に向かう。腕からさきが痺れるほど、母の手はきつく朱実を縛る。
「お父さんにはお母さんから話すわ。朱実にはちゃんと守ってくれる人が必要だから。お母さんと約束してほしいの。朱実は何も知らない。そう云い続けて。それが約束。朱実のせいじゃないんだから」
そうしている間にも彼女の荒かった呼吸は弱々しくなっていった。
「死んだ、として、も……そした、ら……これで、あのひとは……わたしを一生、忘れ、られな……あなた、も……あなた、の子も……ね」
母は朱実を放した。彼女の口をふさぐかわりに、母はナイフを抜いた。その胸からこぼれそうなほど、みるみるうちに朱が広がっていった。
「ただいま」
孝雄の声はあまりにのん気で、現実と非現実の境目をあやふやにした。
*
「では、来週月曜日からですね。九時に事務所に来てください。お待ちしてます」
「はい。よろしくお願いします」
朱実は応接用のソファから立ちあがると一礼をした。
事務所を出て建物を出ると、いったん立ち止まって息をつく。
この十日ほど求人情報を当たりながら、面接を繰り返して六件め、仕事がやっと決まった。
東京を離れようとも思ったが、何かしら繋がりのある地でなければ本当に孤独になりそうで決心がつかなかった。祖母ともこれ以上、離れたくはない。
そう思いながら、お盆になっても祖母のもとへ帰るのはためらわれた。そして、そんな自分に朱実は呆れ果てる。
紫己が探していると思うなんてばかげている。
CB10をテンテンと呼んで、紫己はもう朱実の告白を聞いているだろうか。
テンテンと呼ばないのなら、紫己はそもそも朱実が出ていったところで、そのときは苛立つだろうが、結果的にはなんの影響も受けていないということ。
テンテンと呼ぶのなら、紫己は朱実にこだわり続けるかもしれない。それを断つのは、朱実が事実を打ち明けるしかなかった。
紫己が罪悪感を持つこともなく、朱実を切り捨てられるように。もしくは訴えられてもいい。
孝雄は亡くなってしまい、人殺し、と対面した母から罵られた時点で、約束はもうなんの意味も持たない。
紫己のマンションを出てきたばかりの頃は、何をする気にもなれなかった。家に閉じこもっていたけれど、ずっと独りきりでいると世間から取り残されたような、もしくは、遠く隔離されたような不安にどうしようもなくなった。
そんな独り暮らしよりは、犯罪者と指を差されてもいいから、だれかの目に留まっていたい。不幸になりたい、とそう云ったのにもかかわらず、朱実はどこか足掻いている。
バスの窓から景色を眺めれば、親子だったり、友だち同士だったり、カップルだったり、だれかと一緒にいる人ばかりに目が行った。
まもなく、見慣れた町並みに入り、朱実は家に近い停留所で降りた。
冷房のなかから外に出ると、あまりの熱気に気だるさを覚える。万が一のことを考えて電車は使わず、朱実はバスを乗り継ぐようにしていた。駅よりも近いが、ちょっとの距離を歩いただけで、日差しが痛いと感じる。朝、出かけるときは曇っているからと思って、無防備に出かけたことを後悔する。
八月もあと十日だ。来月になれば仕事にも就くし、身体的にも心的にも少しは穏やかな日々がやってくるはず。朱実は汗ばむことには頓着せず、足早に家に向かった。
古ぼけたアパートの敷地に入って、一階の真ん中にある部屋を目指した。伏せがちだった目を上げたとたん、朱実はぴたりと足を止めた。家に帰り着くという安堵が一瞬にして消える。
「灯台下暗し、ってこういうことを云うんだろうな」
うだる熱気をも凍りつかせるような冷ややかな声が、朱実を後退させる。
「だめだ。逃げるな」
とっさに飛んできた声は打って変わって懇願するように聞こえた。
紫己の命令には無意識に従ってしまう。逃げようにも朱実は足がすくんで立ち尽くした。
努めて表情に出さないようにしているのか、紫己は淡々とした面持ちに戻り、熱のこもらない視線が朱実の顔から足先までひととおりめぐった。まぶたが上がり、朱実の目を捕らえる。
「面接?」
白いブラウスにタイトなスカート、そして腕に引っかけたジャケットをチェックして、紫己は答えを導いた。一方で、紫己は平日なのに、しわ加工をしたシャツに綿パンツと至ってカジュアルな装いだ。
朱実はうなずいただけで、とっさには言葉が出ない。世間話のようなもので、紫己にとってはどうでもいいことだろうに黙りこんで、朱実からのなんらかの返事を待っている。
「……ひなたぼっこっていう通所介護の面接。来週からって決まったばかり」
紫己はやはり面接のことなどどうでもよかったのか――
「よくここがわかったと思わないか」
と、まったく関係のないことを口にした。今度は朱実の返事はいらないとばかりに紫己は続ける。
「朱実は、人を当てにするのが嫌だと云った。それなら、いつ独りになってもいいようにここは解約されないまま、ずっと朱実のものかもしれないって思いついた。おれは、意外に朱実が云ったことを憶えているし、朱実の性格もわかっている」
だろう? と紫己は首を傾ける。嘲るように云いながらも、朱実はそれがどこかポーズのように見えた。
「わたしの……性格?」
「いいかげんだったり不確かなことは云わない。嘘を吐かない」
紫己がそんなふうに見ているとは思っていなかった。
「……ありがとう。わたしが出ていったこと……騙されたって思ってほしくなかったから」
「けど、嫌いだ」
受容的だったときは突き放していたのに、朱実を拒絶した言葉は心もとなく聞こえた。もっと云えば縋るような声音だ。
「紫己……」
「朱実は、云うべきことも云わない」
「わたしはちゃ……テンテンから聞かなかったの?」
ちゃんと打ち明けた、と云いきるまえに朱実はハッと気づいた。聞いていないから、紫己はここにいるのだ。真相を知れば、今度こそ朱実に対する紫己の感情には憎しみしか残らないはずだった。けれど。
「聞いた」
紫己がそれでもここにいる理由は復讐のため?
朱実の部屋の玄関まえに立っていた紫己は歩み寄ってきた。いったん距離を置いて立ち止まった紫己は、それから二歩進んで朱実の正面に立った。
「云うべきことはそこじゃない」
その瞳にも表情にも、そして気配にも、嫌いだと云った嫌悪感は見られない。憎しみもない。ただ朱実を見下ろす。
「ここは暑いし、だれが聞いているかわからない場所でする話でもない。朱実のアパートは隣の部屋に筒抜けになる」
紫己は朱実の意思を確認することなく、手を取ると引っ張って歩きだす。朱実の手をつかむ手は、母が約束を強いたときのようにきつく感じた。
紫己は駅前の駐車場に車を止めていて、朱実を乗せるとどこに行くとも告げないで発進させた。訊かなくても、いちばん安全な場所は紫己の家しか思いつかない。
紫己と話をしたところで、何がそのさきにあるのかはまったく想像できない。いや、徹底的に、そして決定的に離れてしまうしかない。
そうなるまでの時間を引き延ばすかのように、朱実は沈黙を守った。紫己もまたひと言も語らず、何も――感情すらもつかめなかった。
もっとも、単純に幸せだった六カ月、その間に見せていた紫己の感情は偽物だったから、それを見抜けなかった朱実が急につかめるはずもない。
三十分後、見当をつけていたとおり、紫己は朱実を自分の住み処に連れていった。
汗を流してくればいい、と紫己は朱実に勧めた。その実、二十日まえと少しも変わらない強制にほかならない。
朱実がためらうのを見たくないかのように、セックスを強要する気はない、と紫己はすぐさま付け加えた。すっきりして隠すことなく話したいだけだ、となだめるように云って朱実をコントロールする。
うなずくとバスローブを渡されて、朱実はバスルームに行った。
朱実が使っていたものはそのまま残っている。ほっとした反面、もうどうにもならないという感傷を覚えながら、これからのことを考えてみた。結局は何も思い浮かばず、思考は纏まらず、朱実は手早くシャワーを終えた。
リビングに戻ると、こっちだ、とベッドルームのほうから紫己が声をかけた。
ためらったのはつかの間、朱実はリビングからベッドルームへと通じる、開けっぱなしのドアを抜けた。
あの大きなクッションソファがまず目に入った。ベッド際ではなく窓際に移動している。きれいな形ではなく、いびつにへこんで使った形跡があった。
そこに気を取られ、金属音を聞きとったときにはもう紫己は目のまえに来ていた。差しだされたペットボトルを受けとると同時に、もう片方の手にある足錠が朱実の視界に入った。
「紫己!」
「気休めだ」
足もとにかがみこんだ紫己は、転ぶから動くな、と命じて、朱実の足首に足錠を嵌めた。
「シャワーを浴びてくる」
逃げる隙もなく、逆に逃げられなくして紫己はベッドルームから消えた。
結局は振り出しに戻ったのか。
それでもいい。けれど、そういうわけにはいかない。
立ち尽くした朱実はやはりなんの理解にも及ばず、やがて窓際に寄った。外を向いてソファに躰を預けると、程よく朱実にフィットしてしっくりとおさまる。
心なしか、紫己の残り香を感じて躰のこわばりがとける。アパートに戻って心身ともが無力になったように感じていたのに、どこか気を張っていたのかもしれなかった。
紫己はバスローブを羽織って、おそらく五分も経たないうちに戻ってきた。
朱実の脇にあった飲みかけのペットボトルを拾うと、紫己は外に背を向け、斜め前に腰をおろした。あぐらを掻いて、朱実が飲みかけたペットボトルのふたを開けるとミネラルウォーターを口に含む。
それは、ごく親しい間柄でなければやらない行為だ。紫己との関係がおかしくなるまえは、お酒の味比べをしたり飲み残したものを飲んだり、よくやっていた。
なぜいま紫己はこんなことをするのだろう。そこにどんな意味があるのか。意味があると期待してしまうことに苦しくなる。
何から話していいのか、紫己が喋るのを待ったほうがいいのか、判断がつかないまま時間は流れていた。
「知ってるか。死者は喋らないってことを」
ようやく語りだした紫己が口にしたことは、あたりまえのことで、唐突だった。
「え?」
「夢のなかに出てきても、一切、母は喋らない。そうやっておれを罰している」
斜め向かいにいるのだから顔を合わせられるのにそっぽを向いたまま、紫己は驚くようなことを云った。
確かに、朱実の夢のなかに孝雄も友里花も出てくるが、実際にあったことを除けば――例えば、孝雄とまた暮らせるようになった夢を見たとき、よかった、と声をかけても孝雄が喋ることはない。例えば、何度も見る夢のなかでは、友里花は助かっていて、死ぬつもりだったのか真意を訊いたのに、一向に応答はなかった。
「罰してるって……」
「おれの母は、自分のものをとことん束縛する人だった。父は逃れて、おれは母のところに残った。それからだ。あなただけはわたしを裏切らない――それが母のおれに対する口癖だった」
「わたしがお父さんを……」
「違うだろ」
紫己は苛立った口調でさえぎった。
「ごめ……」
朱実は云いかけてやめた。以前、紫己が指摘したとおり、謝罪を漏らすことがひどく浅はかに感じられた。
「なんで自分のせいにする。親同士が望んだことだ。父に愛人がいるのは知っていた。中学二年のとき、父は安定した自動車工場の仕事を捨てて、ガソリンスタンドの整備員として働くようになった。残業があったり、カレンダーどおりの休みじゃなくなって、家にいないことが多くなったし、独りでいる父は、気づいたときはぎすぎすした雰囲気が消えて変わっていた。転職したのは、最初は母を避ける口実だとしか思ってなかった。母は、父に帰るコールをさせてその時間から五分も遅れたら、電話をして早く帰ってきてとヒステリックに催促する人だった。工場勤めだとわりと時間が決まっていてそれが可能だったけど、年中無休のガソリンスタンドだと訳が違ってくる。たぶん、父なりに自分を防御したんだ。そういうときに、朱実の母親と出会ったんだろう」
「お母さんが勤めてた会社がそのガソリンスタンドを使ってたって。お母さん、レンタルフラワーの営業をやってたから。結婚してからお父さんが教えてくれた」
朱実が補足すると、紫己はわかっていたようにうなずいた。
「母は父を待つことに疲れ果てていた。その逃げ場がおれだった」
「紫己が逃げ場? 束縛されたってこと?」
「ああ。母の関心はおれに移ったんだ。そうなって、父が感じていた窮屈さを実感して、はじめて理解できた。高校生になって、塾をさぼって父の職場に行ったことがある。朝、出かけるときから残業かもしれないって、週に数回もそれが続けばおかしいだろ。交代要員はいたんだ。父は確かに働いていた。けど、七時をすぎた頃に迎えがきた。女性が子供の手を引いて。その子は当然のようにふたりの間でそれぞれに手を繋いでいた。家にいる父は、おれにも母にも気難しい顔しか見せない。笑っている顔を久しく見てなかったことに気づいた」
紫己はただ過去を語っているだけで、そこに感情はのせられていない。それがよけいにつらさを隠しているように見えた。いつかのように紫己を抱きしめて背中を撫でたい、そんな衝動に駆られる。
「紫己」
「来るな」
床に手をついて躰を浮かしかけた刹那、朱実の衝動を察した紫己が止める。
「学校の補習だと嘘を突いて何回か塾をさぼったことはすぐ母にばれた。おれのあとをつけて、二重生活みたいなことをやってる父を見たんだ。けど母は、そのときはもう知っていた。『あの人たちはわたしたちがうらやましくてしかたないのね。お父さんを騙すなんて嫉妬深い泥棒だわ。あなただけよ紫己、お父さんの子は。紫己がいればいいの。いつかお父さんも夢から覚めて戻ってくるわ』。そう云った母に、おれは嗾けたんだ。だったら、離れてみたらどうなんだって。おれは、無責任で投げやりだった。母は、『そうね、さみしくなって早く夢も覚めるかも』と云って自分から離婚をしたんだ」
「それが……思ったようにならなかったの……?」
質問が質問になりきれなかったのは、結果がわかりきったことだからにほかならない。
紫己は歯を喰い縛るような気配を見せた。後悔なのか、苛立ちなのか。
「おれがいればいいだろ。そう云いながら、おれは母から逃れたくてたまらなかった。母は感づいていた」
それははっきりと後悔だった。
「だから罰って思うの?」
紫己は薄く笑うだけで応えない。
「でも紫己はお母さんを守ろうとしてた」
「何がわかる? おれは母を裏切ったんだ」
「そんなことない。紫己は待つのも待たせることも嫌いだって云ったよね。それはお母さんがそうで、紫己はそうさせたくなかったからなんだと思う。紫己はいまもお母さんを待ってる。わたしが待たせてる」
「違う!」
紫己は声を荒げて否定した。
「事件のことはずっと裁判のとおりだと思おうとしてきた。朱実がその瞬間に立ち会っていたとしても、係わっているとは想像したこともなかった」
「係わってるんじゃない、わたしが殺したの」
「違うと云ってる! 母は自殺だ」
紫己はあり得ないことを口にした。朱実が目を見開くと、それまで目を合わせなかった紫己がゆっくりと振り向いた。
「……自殺? でも……」
「思おうとしてきた、といま云っただろ。母は、父からプレゼントされたというお気に入りのナイフを持っていった。それだけで、おれからしたら自殺の根拠として充分だ。父もわかっていたはずだ。母はあの日、父を連れ戻してくると云った。永遠にわたしのものになる、ってうれしそうだった。朱実が云ったことと符合する」
「でも……紫己のお母さんが心配してたとおり、わたしは紫己を苦しめてる」
「違うんだ」
もう何度めか、振り絞るような声で紫己は否定した。ほっといてくれ。そんな気配を感じて、朱実は紫己が再び口を開くのを待った。
「おれは怖い。母と同じだ」
「……紫己。同じって?」
「束縛したがる。CB10が遠隔操作も可能なことは知ってるだろ。朱実はおれの監視下にあった」
「束縛って……紫己はわたしを憎んでるからそうするだけで……」
「憎んでる。確かにそうかもしれない」
紫己は曖昧な云い方をして皮肉っぽく嗤った。
「おれは……もう普通の愛し方がわからない。憎しみと愛の区別さえつかない。ただ、朱実と離れられない。母はそうやっておれから裏切られることをわかっていたかもしれない」
それは愛しているという告白にも聞こえた。紫己は朱実のそうした期待をわかったうえで避けるように目を逸らした。期待どおりだとしても、どうにもならないことは歴然で、紫己はそのしぐさのように朱実を避けるべきなのだ。
「おれは自分で自分の首を絞めてるんだ。桔平が云ったように、おれが付き合ったことのある女は、母の墓参りで見た朱実に似ていた。朱実を犯して……妊娠していないとわかったとき、縛る口実を奪われた。そんなふうに思うこと自体が母を裏切っている」
「紫己、わたしがこう云う資格なんてないけど……紫己にラクになってほしいから……。紫己は、お母さんがうれしそうにしてたって云ったよ。きっと裏切りだとか思ってない。そんなことを思ってたら、わたしから紫己を守るなんて云わない」
安易だと怒ることもなく、紫己は黙りこんだ。地上から離れた場所は雑音もなく、お喋りがなくなるととことん静かだ。紫己は何年もそうしている。傍にいたいという気持ちは果無い。
「紫は朱のまがいものだ。逆らって朱を支配しようとしたのに手に入らない。だから朱に染まりたがるのかもしれない。出ていく気なら、今度こそ、おれは朱実をこのまま拘束する」
「紫己、だめなの」
「おれがいない間に好きな奴ができたのか」
「そんなはずない」
「朱実は桔平から簡単におれに乗り換えた」
紫己はいま頃になってそんなことを責める。
「そうしたくて……そうしようと思って紫己を好きになったわけじゃない。表面だけ見るんじゃなくて紫己はマイナスなことを含めて内側まで覗かせてくれたから……気持ちは全然違うってもうわかってる。でも、紫己を愛してるから……」
だめなの、と最後までは云えなかった。けれど。
「愛していても一緒にいられない理由はなんだ」
紫己はちゃんと察して喰いさがる。
「紫己に迷惑かけるから。わたしは紫己のお母さんを殺してる。世間の人はそう思ってなくても、殺人者の娘だってことまでなら調べればすぐわかるの」
「違う。だれも殺人者じゃない」
「最初に就職した会社はいられなくなった。紫己がそう思っても……!」
「おれは会社から完全に退く」
紫己は朱実をさえぎった。朱実は目を瞠る。
「……紫己……」
「朱実のためにじゃない。きっかけにはなったのは否定しない。おれは開発者に戻る。もともと表に立つのは性分じゃない。実質、運営の中心にいたのはおれじゃない。進武にすべて譲る。引き継ぎもほぼ終わったんだ。今度の株主総会で決まる」
朱実はしばらく放心したように紫己を見つめていた。
「でも……」
「なんの肩書きも持たないおれにだれが関心を持つ? 朱実にだれが関心を持つ? 川合静華か?」
紫己はすっかり承知していた。それなら、いびつなふたりでも一緒にいられるのか。朱実はそんな期待を覚えてすぐさま押し殺す。
「知ってるの?」
「あの女は何もできない。いまの地位を失う気がなければ。たとえあったとしても、そのときはやり返す」
紫己の声には断固とした響きがあった。
「紫己……許せるの?」
「おれの束縛が怖くない?」
朱実の質問に紫己は質問で返す。その質問への朱実の答えが紫己の答えになるのなら。
「それが紫己からお父さんとお母さんを奪った罰だったら、わたしはかまわない。わたしは……紫己を愛してるって云い続ける。そんな償いしかできないから」
「朱実はおれのものだ」
朱実が衝動的に手を伸ばしても跳ね除けられることはなく、紫己はそれ以上にあぐらを掻いた脚を解いて朱実を掻き抱いた。
「朱実を責める権利を持っているのはおれだけだ。そのおれが傍にいるかぎり、だれも朱実を責められない」
「紫己、愛してる」
「おれのものだ」
呻くように云い、紫己は少し躰を放して朱実のバスローブを剥ぐ。そして自分もそうした。朱実ごと紫己はソファに寝転がり、裸体をぴたりと重ね合う。
「紫己」
「云ったことは守る。ただ、このままゆっくり眠らせてくれ」
責めたつもりはなく、けれど、朱実から責められたと紫己が感じているわけでもなく、ただ自分が云ったことを嘘にしたくなかったのかもしれないと思った。朱実は紫己の躰に手をまわす。ずっとよく眠れていなかったのか、紫己の躰が怯えたようにふるえ――
「結局、おれは母の意に背いている。けどいま、母はあのとき救われたんだって思えるんだ。何があったか知ることができていたら……おれが打ち明けていたら、だれも苦しまなかったかもしれない。償うのはおれだ。朱実にも朱実のお母さんにも」
そう云った声もふるえていた。
「紫己が悪いことなんてない。お父さんはわたしのせいじゃないと云ってくれて、だからわたしはお母さんとの約束、すぐに破るべきだったっていまは思ってる。そしたら、いま云ったこと、紫己は話してくれたでしょ? 少しは状況が変わってたかもしれない。何を云われるとしてもお母さんにまた会いにいきたい。いまそう思える」
「おれも行く」
聖衣子が朱実をかばってくれたこと、そんな大事なことを置き去りにして、朱実は真実を突きつけられるのが怖くて逃げていたかもしれない。受けとめているふりにすぎなかった。紫己の言葉に、これから、という未来が見えた気がした。
「うん。お父さんをくれて、紫己のお母さんのことも、わたしは紫己から救われてるだけ。夢見ても大丈夫。夢からならわたしも紫己を救えるから」
「ああ」
短い返事は心底からあふれたため息のようだった。
朱実にも紫己にも、心底から幸せだとは云えるときはこないかもしれない。ただ紫己には、少しでも大丈夫と安らいでほしい。
朱実は手のひらで紫己の背中を撫でる。
頭上でふっと吐息が漏れ、天辺の髪がそよぐ。
呼吸は体温とともに温かく朱実に纏った。
安堵だったのか、笑ったのか、それはわからなかったけれど――
The conclusion.
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