ふぞろいの恋と毒

奏井れゆな

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第4章 クロスチック-cloth-

2.テリトリーライン

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 店を閉めるまであと三十分。テーブルは半分ほど埋まっているが、朱実がやることはもう落ち着いている。
「朱実ちゃん、ご指名だけど」
 賄い場から出ていくと、敦美はカウンターの上を指差した。見ると、コーヒーのデリバリー一式が準備されている。
「指名って……三十四階ですか?」
 どうかするといかがわしいような指名という響きに首をかしげ、問い返しているさなか、朱実は察した。
「そう。すっかり常連さんね。朱実ちゃんのおかげで上得意さんが増えたわ」
 たった一人増えただけのことを敦美は大げさに云った。
「この時間だし、油を売ってきても多少のことなら目をつむるけど」
 続けてあからさまにからかった敦美だが、その代償として、紫己とのことについて話を聞きだすつもりなのは目に見えている。
「引き止められても帰ってきます」
 朱実のつれない返事に、敦美は残念といった面持ちで肩をすくめた。

 朱実と紫己の同棲を知っているのは、必要最低限という一部の人に限られる。
 派遣会社とレガーロは勤め先である以上、伝えなければならなかった。
 敦美から聞いた話では、マスターは朱実と桔平の応援隊だったらしい。何度となく朱実を口説いているところ見て加勢をしてやろうと思ったようだ。マスターもまた桔平の人柄については表面的なことしか知らず、それゆえか、朱実の同棲相手が桔平ではなく紫己だと知っても、特段、何も云わなかった。
 敦美はと云えば、ある程度は察していただろうに思った以上の進展にしきりに感心していた。
『世の中、ほんとわからないわね。シンデレラストーリーって本当にあるんだわ』
 朱実はその敦美の言葉で現実に返った。やはり、正月休みの間、ずっと紫己とすごしていて夢見心地でいた。一緒に暮らすだけだから――と自分に云い聞かせたけれど、それも成人式までのことだ。朱実はいま、地に足をつけていようと必死でいる。

 そして、朱実から同棲を知らせたのはもう一人、祖母だ。ふたりの関係が終わったときに心配させてしまうというリスクも考えたけれど、時々もらい物だと云って食料品を送ってくれるから知らせざるを得なかった。
 祖母は驚き半分、同棲しているだけだと云ってもよかったと安堵していた。朱実自身がそうだったように、祖母も朱実が結婚も恋愛もするとは思っていなかった。人と深入りすることなく、ずっと独りで生きていくと思っていたに違いなく、だからきっと、相手が男でも女でも、恋人でも友だちでも、だれかと一緒にいることにほっとしたのだろう。

 東京に出てきた頃から、祖母は自分がいなくなったときのことを案じるようになった。実際にいなくなれば、何も気に病むことがないだろうに、わざわざ自分が存在しない時間を心配するなど、まったく無駄な心労を負っている。
 ただ、そうするのは独りぼっちの朱実のためだ。わざわざと云ったら、生活も心的にも支えてくれた祖母に申し訳ない。だから、紫己との同棲はけっして朱実の贅沢というだけにはとどまらない。けれど、そうやって正当化していることも否めない。

 朱実はため息をつきそうになったが、エレベーターの同乗者が小さく咳払いをして、人がいることに意識がいき、慌てて息を呑みこんだ。
 まもなく、社長室があるフロアの一階下、三十三階に着いた。セキュリティ対策で、社長室はキーコードを持っていないと直通では降りられない。
 通常のフロアもこの時間になると受付は不在で、そのかわりにドアはロックされる。朱実は身分証をカードリーダーにかざしてロックを解除した。
 なかに入ると仕事中の人がちらほら見える。
「レガーロからお届けに来ました」
 朱実はだれにともなく云いながら、奥の階段室に向かった。最初の頃は戸惑ったけれど、いまやすっかり慣れた。

 社長室があるだけに三十四階は雰囲気が違い、朱実はここに来るといつもため息をつく。エレベーターのなかでつきそうになったため息ではなく、うっとりするといった吐息だ。美術館のように絵やらオブジェやらが所々にあり、迎賓のためにあるといった贅沢で重々しいつくりになっている。
 会議室のまえを通りすぎ、奥に進んでまもなく紫己が廊下に現れた。
 とたんに戒める間もなく笑顔になってしまうのはどう修正のしようもなく、朱実は自分を持て余している。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
 そんなちょっとした会話を交わしているうちに、待っている紫己のところにたどり着いた。
 紫己の視線を感じることはよくある。それに気づいてからしばらくは戸惑っていたものの、いつしか紫己の視界にちゃんと捉えられているという安心感に変わっていた。もっと単純に云い表せば、うれしい。

「カップ二つってお客さま?」
「いや、進武だ。準備してくれるだろう?」
「そのつもりで来てる。ムラサキは上得意さんだからサービス」
 紫己は首をひねって笑った。
一端いっぱしに云うようになったな」
「……ずうずうしすぎたら云ってくれる?」
 紫己は笑みを消して朱実をじっと見下ろし、真剣にそう云っているとわかるとため息をついた。
「そういう遠慮をされるほうが腹立つ」
「わかった」
 朱実のくちびるが弧を描き、紫己の顔からは不機嫌さが消えた。釣られたように紫己のくちびるも緩んだ。

 紫己がドアを支えて道を譲り、朱実は社長室に入った。
 自宅のリビングみたいにだだっ広く、ほぼ中央にデスクと応接セットがある。そのソファに座っていた進武が手もとの書類から顔を上げた。
「こんにちは、お疲れさまです」
「こんにちは、テンテンは元気?」
「はい、お利口にしてます」
 朱実の答えに、それは何よりだ、と進武は笑った。
 テンテンとはCB10に朱実がつけた愛称だ。〝10〟から派生して、祖母がよく手鞠の歌を歌っていたことを思いだしてつけたのだ。朱実と話すときだけ、CB10は自分で自分をテンテンと呼ぶ。

「最近、鼻歌を憶えたそうだね」
 朱実はテーブルにデリバリー一式を置いて準備を始めた。
「お掃除するとき歌ってくれると楽しいんです。可愛いし、普通のペットよりも話が通じて楽しいし、たまに咬み合ってない会話になるけどそれもおもしろいから」
「朱実ちゃんはムラサキよりも優秀なモニターだな。ムラサキは自分が開発者のくせにそのへんの進化には非協力的だ」
 進武の言葉を受け、朱実はソファに座った紫己を見やった。否定か呆れたのか、紫己は皮肉っぽく笑ってすかした。紫己が非協力的なのは単にCB10のお喋りに返事をするのが面倒なのだ。

「せっかくお喋りペットにするなら、ただの受け答えじゃなくて喜怒哀楽も憶えてくれたらと思って」
「だよな。いまのところ医療機能を搭載して血圧、体温、脈拍とか、実測できるところからデータを取って学習していくことになるけど、いずれは目とか顔の微妙な動きをプラスして、最終的には人間のペットとしてじゃなくパートナーにしたいんだ。このままいろんなことに挑戦してみて」
「はい」
 朱実と進武の話が落着したところで紫己はようやく口を開く。
「ペットは育てるからこそ愛着が湧くんだろ。CB10が学習することは朱実が実証してくれたし、人を見分けてそれなりの会話ができることもわかった。まずはペット化だ。つまり、当面、おれがやることはない。コストだったり形態だったり、それを煮詰めていけばいい。非協力的じゃない」
「もっともだ」
 進武はにやりとしてあっさり肯定した。

 以前、聞いたことによれば、進武はおもしろみのない紫己をおもしろがっている。
 朱実から見ると、ふたりはパートナーとしても友人としてもうまくやっていると思う。
 この半年間、紫己が仕事絡み以外であらためて出かけることはなかった。飲んでくると連絡が入るときも、遅くなるかと思いきや、日付が変わるまでずいぶん余裕がある時間に帰ってくる。朱実と同じように、独りでいるのが好きなのだろうか。
 友人の名前もパーティ仲間以外に聞いたことはなく、そういうなかで進武とは遠慮もなさそうだ。よくよく考えれば、会社のパートナーでいるくらいだ、互いに気を許せるのだろう。

「朱実、今日は時間合わせて帰る」
「うん」
 返事をしたところでノックが響いた。
「だれか来る予定があったか?」
 紫己が訊ねると進武は首を傾け、さあな、と応じて立ちあがった。
「はい」
 と、進武が訪問者に返事をした直後、ドアが開いてその人物は許可もなく社長室に入ってきた。

「お邪魔するわ。やっと時間が合わせられたの。ムラサキ、食事に行かない?」
 訪問者は静華だった。
 視線が朱実の存在を捉え、静華はわずかに目を見開いた。

「あら、久しぶりね」
「こんばんは、ご無沙汰してます」
 朱実は腰を落としたまま応じて、軽く頭を下げた。
 静華は近くまで来ると、朱実の恰好をじろりと一巡する。頭上高くからの視線のせいか、見下されているように感じる。
「仕事で来てるの?」
 静華は朱実の手もとをちらりと目をやった。
「はい」
 返事はしたものの、静華はそれ以上に何かを待っているような雰囲気だ。なんだろうと思っていると、静華の目が再びポットを持った手に移る。朱実はそれでぴんときた。
「もう一杯分くらいは入ってますよ。カップは持ってきてないんですけど……」
「それ、やるよ。おれは自分のカップを持ってくる」
 先んじて立ちあがった進武は、「朱実ちゃん」と呼びかけた。
「そこまで送っていくよ」
 進武は気をきかせたのか、それともだれかの都合に合わせたのか。どちらにしろ、朱実も静華との同席は遠慮したい。
「はい。じゃあ……高階社長、ありがとうございました。あとは明日、引き取りに参ります」
「わかった。ありがとう」
 紫己は朱実と目を合わせたまま小さくうなずいた。何か云いたそうにも見えるが、読みとれないまま朱実は立ちあがって一礼すると、進武についていった。

 重厚な扉が閉まると、廊下は息遣いさえ聞こえそうにやけにしんとする。人の少ない時間帯だからそれもおかしくはない。
 途中、さきを行く進武が振り向いて、こっち、と云って社内階段ではなく直通エレベーターのほうに向かった。
「静華のことは気にするなよ」
 エレベーターホールに入るなり、進武は出し抜けに云い、朱実は立ち止まった。
「気にしてないって云ったら嘘になりますけど……」
「まあ、比重が違うっていうか、朱実ちゃんと静華じゃあ、比べること自体が間違ってるんだけどね」
「比重?」
「ああ、比重というよりは次元の違いかな」
 進武はふっと邪気のない笑みを見せた。

「朱実ちゃんは一気にこうなってわからないかもしれないけど、ムラサキに近づけば近づくほど一線があることに気づく。なかなか超えられないんだ。つまり、孤独を好んでるんだっておれは思ってた。けど、違ってたな。朱実ちゃんは簡単にムラサキの領域に入った。というよりも、ムラサキが招いたのかな」
 朱実が必要最低限でしか同棲のことを知らせていないように、紫己もまた公にしているわけではない。朱実が知るかぎり、進武だけじゃないかと思っている。現に、さっきの静華の様子を見れば、知らないことは明白だ。知っていたらなんらかのひと言があるか、もしくは知った時点で殴りこみをかけてくるか、そんなふうに静華は黙っていないだろう。
 秘密でいい。いや、秘密のほうがいい。紫己はそんな朱実の気持ちを尊重していると思う一方で、紫己にとっても秘密のほうが都合がいいのか、とそんな疑問がないわけではなかった。
 その答えをいま進武が補った。
 出だしは散々ともいえる出来事から始まったけれど、悲惨なのはそのときだけで、朱実は紫己のことをずっとこれ以上にない恋人だと感じている。

「招かれたのかどうかはわかりませんけど、閉じこめられるのかって思うくらい強引でした」
 進武は堪えきれないといった様で吹きだす。
「いったん一線のなかに入ったら自由になれないかもな」
「進武さんもなかにいますよね?」
「そう見えるんなら自信が持てるけど」
 進武は可笑しそうに朱実を見おろして、「おれの場合は付き纏ったからだよ」と首をすくめてピエロみたいにおどけた。
「付き纏う?」

「そう。ムラサキは孤独を好むとしても、人付き合いのできない奴じゃない。大学一年のとき、大学祭でムラサキの開発作品を知った。電子情報工学の奴にしては地味だけど、まだ一年だし、おもしろい着眼点だなって興味が湧いて探したんだ。話してるうちにほかにも考案したプログラムがあるって云うから聞きだした。最初のが“スクB”であとのが“検索デマ除”」
「資料管理とSNS除外の検索アプリのことですよね」
「そう、それ。因みに、スクBは単純にスクラップブックの略だけどネーミング担当はおれ」
「だと思ってました。ムラサキは苦手そう」
 ふたりは顔を見合わせて、紫己が見ているわけでもないのに忍び笑う。
「将来は未来のSF映画みたいに人工知能を開発したいって云う。その道を行くならけっこうな奴がそんな目標を持つんだろうけど……。友だち付き合いを始めて一年くらいたったときに、ムラサキがぼそっと漏らしたことがある。それを聞いたとき、こいつは夢じゃ終わらせないなって思った。どうせならビジネスにしないかって持ちかけたのはおれだ」

「ムラサキはそんなこと話してくれないから知らなかったけど、C-BOXの馴れ初めって友情物語みたいです。わたしはそういう友だち持ったことないから」
「そこなんだろうな」
「……え?」
「朱実ちゃんも一線を持ってる。つまり、朱実ちゃんにとって一線のなかに入るのはムラサキだけだ。ムラサキは……」
「進武」
 いきなり静華の声がした。
 進武の話に聞き入って、そのうえ床の絨毯が足音を消していたのかもしれない。
 進武はハッと目を見開いて、それから瞬きをすると驚きを消し去り、ゆっくり声のしたほうを振り向いた。朱実は隠せないままびっくり眼で静華を見やった。

「何してるの? ムラサキが待ってるんだけど」
「ああ、悪い。朱実ちゃんと話してたらつい身が入った。すぐ行く」
「そう?」
「ああ」
 進武はエレベータの横に取りつけられたシステムにカードをかざして、降りるほうのボタンを押した。
「じゃあ早くね。朱実さん、ごきげんよう」
 静華は朱実を一瞥した。無視はしないという礼儀を欠かないのはプライドだろうか。動揺するとどうにも自己主張ができない朱実からすると、どんなときもプライドを保てるというのは羨ましい。
「さようなら」

 朱実が一礼する間に、静華は身をひるがえして遠ざかっていた。彼女の後ろ姿を追いながら進武はため息をつき、朱実に向き直った。
「油断してたな。聞かれてないといいけど……」
 朱実が不安そうな眼差しを向けると、進武は「ああ、大丈夫」と片手を上げてなだめるようなしぐさをした。
「ムラサキにも警戒しておくように云っておくから」
「……警戒が必要?」
「言葉のあやだ。他意はない。ただムラサキもきみも干渉されたくないみたいだから」
「そういうことだったら……そうかもしれません」
 進武はおもしろがってうなずいた。
「じゃあ……」
「進武さん、ムラサキが云ったことって?」
 朱実は進武をさえぎり、大学時代の話から疑問を持ちだした。その言葉が、紫己をわかるための肝心なことのように感じた。
「だれにも教えたことはない。朱実ちゃんが、ムラサキを裏切らないって誓ってくれるんなら教えるけど」
「怖いですね。でも……わたしからは裏切りません」
「なるほど。いい応えだ。口外無用、守ってくれるね?」
「はい」
「そのときのムラサキは、怒りとか憎悪とか何かに刃向かうようだった。ムラサキの言葉に何を感じるかは朱実ちゃん次第だ」
 周囲にはほかのだれも見当たらないというのに、進武は身をかがめるとこそこそ話をするように朱実の耳もとに囁いた。
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