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第4章 クロスチック-cloth-
1.forgiveness
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朱実が父親を欲しいと云って駄々をこねた騒動からまもなく、母、聖衣子は頻繁に男性を連れてくるようになった。不特定多数というわけではなく、ただ一人、波布川孝雄だ。
孝雄は、その頃、夢中だったテレビドラマで父親役として出ていた俳優に似ていた。ドラマのなかでは、叱ることも褒めることもする、理想の父親に見えた。だからだろう、ずっと母子ですごしてきたゆえに発生しがちな母親を取られたとかいう嫌な印象は受けず、それどころかドラマのなかそのものの家族が狭いアパートのなかに再現されて、朱実は自分がその一員となったことに満足していた。
父親という存在を知らないで育った朱実にとっては、欲しいものの二番めが父親だったのだ。
一番めは動物たちのドールハウスで、それに父親が負けていることを、おかしな子ねぇ、と云って聖衣子はおもしろがった。
自分でもちぐはぐだと思っていたけれど、ずっとあとになって――波布川朱実となった九歳のときその理由が判明した。結局、一番めと二番めは朱実にとっては類義語だ。両親がそろった家族に憧れていた。ドールハウスには朱実がつくった家族が存在していた。
ほとんど毎日のように孝雄は家に来て、それなのにふたりが結婚するまでになぜ三年もかかったのか。その間、朱実は父親になってほしいと事あるごとに催促していた。
実際のところ、ふたりの付き合いが始まったのは三年まえよりももっと以前だったのではないかと思っている。そうでなければひと騒動直後、あんなにタイミングよく父親になる人が現れるはずがない。
聖衣子と音信不通になったいま、もはやわかることはなく朱実の憶測にすぎない。わかったからといっていまが変わるわけでもない。
ただ、聖衣子と孝雄が結婚するまでに時間がかかった理由はすぐにわかった。
「朱実ちゃん?」
学校からの帰り道、もうすぐ家に着くというとき、女性から声をかけられた。
見上げると、知らない人だ。きれいな人、それが最初に見た感想だった。
知らない人には気をつけなさい、と聖衣子の日常化した注意を思いだしながら、朱実はおずおずとうなずいた。
「波布川、朱実ちゃん?」
波布川という姓をやけにゆっくりと咬みしめるように云い、再度、女性は問いかけた。
「……はい」
「でも、あなたは波布川の本当の子供じゃないわ」
ねっとりとして絡みつくような声音に聞こえた。
女性は朱実の目のまえにかがんだ。朱実のほうが見下ろす立場になると、彼女の上目遣いの目は獲物を捕らえようと狙いを定めた猛禽のように見えた。
「本当の子供は、わたしの子供だけよ。波布川の子供はシキだけなんだから。あなたはシキから父親を奪ったのよ。あなたの母親はわたしから夫を奪ったわ。泥棒の子は泥棒ね。シキの父親を返してくれない? どちらにしても、波布川はあなたよりもシキを大事にしていることは確かだけど。血が繋がっているんだから」
ふふっと笑うくちびるから目が離せなかった。あまりに左右の口角が跳ねあがって、そのまま耳のほうまで避けてしまうのではないかと薄気味悪かった。
それから二度め、彼女が現れるまで、彼女のことは聖衣子には云わなかった。彼女の云い分をすべて呑みこめたわけではなく、むしろ訳がわからない。そうして聖衣子に打ち明けたとき、朱実は事情を知らされた。まだ小学三年生だったにもかかわらず、ちゃんと朱実に説明したのは、それだけ聖衣子のなかに真剣に孝雄のことを想う気持ちがあったからなのだろう。
三度め、聖衣子が孝雄に相談をして、孝雄はどう解決したのか、それから彼女は現れなくなった。
ほっとしながら、どこかしっくりこない。朱実が抱えていたその凝りは、彼女が云った、シキから父親を奪った、ということに起因しているかもしれない。朱実が父親を与えられたかわりに、シキは父親を失った。それくらいのことは、シキに会ったことがなくても朱実にだって理解できた。シキにとっては理不尽としか云い様がない。
凝りは完全には消えなかったものの、朱実はしばらくすると父親が帰ってくるという家庭をただ楽しんでいた。孝雄は思っていたとおりやさしかったし、出かけるにもいつも三人で、朱実のことをないがしろにしない。聖衣子が仕事でいないときは、ふたりだけで買い物や映画を観に出かけたこともあった。
そんなありふれた幸せは一年後、両親の結婚記念日に彼女が現れたことで、一瞬にして崩壊した。すべて。
――いや、すべて以上に家族はばらばらになってしまった。
いちばん望みたくなかったことがその日、起こった。
「わたしは……そうね、聖衣子さん、今日は許そうと思って来たのよ」
彼女はにっこりした。
会うのは十カ月ぶり、相変わらず美貌は健在で、笑顔を薄気味悪く見せるところも変わりない。
そして、朱実のその感覚は間違っていなかった。
彼女は思いもつかない方法で許したのだ。
痛みを笑顔で表現できるのは彼女しかいない。
「これであの人はわたしを一生、忘れられない。あなたも、あなたの子もね」
朱いくちびるが紫に塗り替えられていく。そうやって蒼ざめていく彼女とは真逆に彼女が見据えた聖衣子の手は赤く染まっていた。
「泥棒の子供は泥棒よ。あなたも何も手に入れることはできないの」
彼女は朱実に何を見ているのか、瞳だけ別の生命体のようにぎらぎらと朱実を射貫いた。
もういい。わかってる!
彼女から逃れるべく叫んだつもりが、振りしぼるような声しか出ない。その苦しさに喘ぎながら、朱実はびくっと躰をふるわせて目を見開いた。
何度か瞬きをすると、ほのかなオレンジ色の薄明かりのなか、目のまえに飴色の肌が見えた。顔をめぐらせ、フットライトに照らされた幾何学模様の天井が視界に入ると、ようやく紫己のベッドにいるとわかって朱実は息をついた。
悪夢におさまらない夢は不意打ちで襲ってくる。無論、睡眠中の夢は見たいものが見られるわけではなく、紫己と住むようになって半年たったいまもたまに見る。再び、ふるえる吐息を漏らしたとき。
……くっ。
ふいに苦しそうな呻き声が聞こえた。
この頃、こういうことが多くなった。紫己がどんな夢にうなされているのか、いま朱実が悪夢を見たのは紫己に連動しているのかもしれない。
「ムラサキ」
そっと呼んでみると、紫己はついさっきの朱実のようにパッと目を開く。
「……どうした」
紫己は腕に抱いた朱実を見下ろした。
「怖い夢を見た感じがするの。ごめんなさい、起こして」
紫己が応えるまでに少し時間を要した。
「ああ……謝ることじゃないだろ」
紫己は朱実の躰をさらに抱き寄せて、なだめるように背中を撫でた。
一緒に暮らすということから始まって、抱きしめられるだけではなく一つになるという抱き合い方を知って、その間、紫己はもったいないくらいの恋人ぶりをひけらかす。
だれから見ても朱実は幸せだ。
朱実にとっては違う。幸せと怖れは常にセットされ、幸せが増せば増すほど、怖れも比例して増えていく。
「どんな夢だった?」
しばらくして紫己はつぶやくように問いかけた。
紫己の手のひらはゆっくりと確実に朱実の背中を温めている。母親の手のひらは病気にも効力があると云われるが、紫己は朱実にとってそんな癒やしの手を持っている。
「……憶えてません」
「起こすくらいの夢を見たくせに?」
起きなければ終わらない夢は、それが夢にとどまらず現実混じりだからだ。それなら、紫己もそうなのかもしれない。
朱実は紫己のわき腹に置いた手を背中へとまわした。紫己を真似て広い背中を撫でると、吐息が頭の天辺に触れ、額を押し当てた胸がわずかに振動する。
「なんのつもりなんだ」
「わたしが気持ちいいから」
紫己の笑い声は耳からだけでなく、躰全体から伝わってくる。
夢のことを問いつめることなく、しばらく背中を撫で合っていると、紫己の躰は獣化していった。脚を絡ませ、合わせた下腹部であからさまに朱実に意思表示をする。
「ムラサキ……」
紫己はため息をついた。今度は笑っているのではなく呆れたふうだ。
「もっと気持ちよくしてくれってさ」
他人事のように云い、紫己は背中に置いた手のひらをすっと下へ流した。お尻を撫でながらさらに膝の裏へとおりて左の脚を持ちあげると、自分の脚を跨がせた。
朱実は忍び笑っていたが、その手のひらが脚の間に滑りこむとそんな余裕はなくなってしまう。手のひらで中心を覆い、紫己は上へとわずかに朱実を移動させる。焦点が合うぎりぎりの位置でふたりは顔を突き合わせた。
「まだ濡れてる」
からかうようでいて満足そうな声音だ。朱実は目を伏せた。
「……それはムラサキのだから」
「確かにおれのは朱実の奥で溶けこんだ。その云い分は認めるとしても、少なくとも半分は朱実のだ。朱実は感じやすい。出だしが悪かったから、どう信頼を得たらいいのか心配してたけど、そうしてたのがバカらしいくらい朱実は呆気なかった」
その言葉は紫己と暮らしていなければ、朱実は侮辱と受けとったかもしれない。侮辱だとしても慣れているはずが、紫己に関するとそれですまされなくなる。だれかに諭されても、侮辱のはずがない、と、もしそれが真実だとしても全力で否定する。
紫己が欲しがった信頼以上に、朱実は紫己を好きになったんだと思う。
大事な気持ちが“思う”と曖昧な云い方になってしまうのは、強引に始められたという受け身でいたせいだろうか。桔平のときは、叶わないと思っていても好きという気持ちが意識できた。対して紫己のことは、好きと意識するまえに生活のシーンに欠かせなくなっていた。
大晦日、朱実は強引に引き止められ、それから自分のアパートへ戻ったのは、わずかな荷物を取りにいった一度きりだけだ。そのまま紫己との同棲生活が始まった。
紫己は自分が云ったことを守って、シェアよりはちょっと近い関係でいた。それもちょっとの期間だけで、朱実の成人式の日、ごく親密に変わった。
前日の夕方から静岡に里帰りして一泊したのち、式典を終えて戻った。行くときは何も云わなかった紫己は駅まで迎えにきて、成人式のお祝いだと食事に連れていった。
紫己のマンションに帰ったあと、ベッドに入ってからもらったのは、おそろいのネックレスとアンクレットだった。
紫己はそれを朱実に纏わせながら――
べつにこういうのでご機嫌とりしているわけでも、恩を売っているわけでもないけど……抱きたい。
そうして、強要する気はないけど、と可笑しそうに、それでいて言葉に反して強要するように付け加えながら朱実に顔を近づけた。朱実はキスする寸前で止まった紫己を拒絶しなかった。
「じゃあ……もう最初のことは気にしてない?」
「それは違う」
すぐに否定して、その直後、はっきり紫己の躰がこわばった。忘れられない、それは朱実も同じだ。けれど、和らいでもいい。朱実は伏せていたまぶたを上げ、再び紫己の背中をさすった。まもなく張りつめていた躰が緩んだ。紫己の口から漏れたため息は笑みが滲んでいる。
「朱実はおれをいい気にさせる。それを証明してほしい」
云い放つと出し抜けに紫己の指先が敏感な突起に触れた。
あっ。
腰がひくっと反応して、紫己に押しつけた恰好になる。含み笑いがくちびるに触れた。そうかと思うと紫己はくちびるを押しつけてきて、開いた口のなかに舌を忍びこませた。頬の裏側を舐められると、くすぐったさに朱実は呻いた。厳密に云えばそのくすぐったさは快感だ。紫己の指先は楽器を奏でるように器用で、脚の間から蜜を混ぜるような音が立つ。堪えきれない喘ぎはふたりのくちびるの間でこもった。
昨夜、ベッドに入るなり、もういいと訴えるほど抱かれて――抱かれるというよりは快楽を得るためのセックスで、朱実は半ば気絶するように眠った。それで満ち足りたはずで、いま応じる気力はなく、紫己の反応を楽しむだけのつもりが、いとも簡単に快楽を受け入れた。自分でも思いがけなかった。紫己の云うとおり、朱実は感じやすい。けれど、紫己もそうだ。
毎日ではないけれど、いったんセックスを始めると紫己は際限がなく朱実を追いつめる。それだけ求められていると云えば聞こえはいい。最初のうちは快楽にただ呑みこまれるだけだったから気づけなかった。この頃になって躰が紫己を憶えて順応するようになると、快楽に塗れながらも紫己の波動が感じとれるようになった。
朱実が追い立てられているように、紫己もまた何かに追いこまれている。そんなふうにがむしゃらといった様で朱実にぶつかってくる。
何か、とはなんだろう。
その疑問を考える時間はすぐさま紫己に奪われる。
紫己は朱実の体内に指を潜らせた。同時に、親指をお尻の間に添わせる。花片は残った指先で弄った。
うっ、んっ……。
朱実はびくりと腰を揺すって紫己の口のなかへと呻き声をこぼす。
一度に触れられた場所はどこも繊細な神経が通っている。腰を引くも、手のひらで覆われているから逃げることはかなわない。お尻をすぼめても紫己の指を追い払えず、逆に指先が潜ってきそうになって、未知の感覚に朱実は悲鳴をあげた。
紫己は急くことなく、ゆるゆると刺激を与えてくる。感じやすいことを差し引いても、朱実にとって指の使い方は器用すぎた。揉みこむような動きにひくひくとお尻が反応している。体内はざらついた襞を摩撫して躰をふるえさせる。花片はこねられて漏れそうな感覚に絶えず襲われている。
目を閉じているのに目が眩む。いったん湧きあがった快楽は止めることができない。だれでもがそうなのか、朱実が貪欲すぎるのかはわからない。追いつめられて躰が突っ張りだす。
息苦しさに耐えられず、朱実は首を振ってキスを逃れた。
「あ、ムラサキっ……も、だめ……みたい」
「我慢しなくていい。おれをいい気にさせてくれるだろう?」
充血してふくらんだ花片が捲られて突起が剥きだしになり、無遠慮にこねられた。一気に果てに到達する。躰を硬直させた直後。
あっあ、あ、ふっぁぁあああっ。
振りしぼるような悲鳴をあげ、硬直が解けたとたん、びくびくと躰全体が激しくふるえた。
クチュッとした音を立てながら紫己の指は体内から出ていく。紫己は朱実の腰を引き寄せると、呼吸が落ち着くのも待たずに、体内の入り口にオスを押し当てた。
「あ、あうっ、ム、ラサキっ……あ、あ、あっんああっ」
抉じ開けるようにしながら先端が朱実のなかに埋もれた。
ともすればすぐに離れてしまうような位置で紫己は腰をうごめかす。少し潜っては抜けだしそうになる。そんな焦れったさは焦れったさではなく、ただ快楽に変わっていく。果てに行って戻るまもなく、快感は持続しておりられていない。
「あっまたっ」
「ああ」
呻くような相づちは、紫己もまた快楽を得ていることを朱実に伝えてくる。それがうれしくて、すべてが許されたような気になる。
二度め、悲鳴をあげると躰は一気に弛んだ。
紫己は力尽きた朱実の脚をほどき、向き合った躰を離すと、今度は背中から引き寄せた。再び朱実の脚をつかんで開き、紫己はびくつく躰のなかに自分を沈め、さらに進んだ。
あ、あ、あ……。
紫己のモノが最奥に届いたとたん、朱実はのぼせたように息苦しく喘いだ。そこから新たな痙攣が走る。
果てに到達するたびに躰はそれに慣れるどころか、感度は増している。紫己が腰を引いたり押しつけたりすると、弛緩しながらも躰は快楽をコントロールできず、本能的に貪っている。奥を突かれるたびに、漏らしているんじゃないかというひどい水音が耳についた。紫己の呻き声をも掻き消す。
「もう無理だ」
やがて紫己は唸るように吐いた。その吐息が熱を持って朱実の耳もとに纏わりつく。
んっ。
快楽と返事と、区別のつかない呻き声で朱実は応えた。朱実の脚を支えていた紫己の手が躰の中心におりたかと思うと、最大の快楽点に指先が触れた。快楽と苦痛が紙一重という感覚のみが息づくなかに朱実は閉じこめられた。
「はあっ、だ、めっ……漏れちゃうっ」
舌っ足らずに、どうかすると泣き叫ぶようにも聞こえる声で訴えた。無意識に逃げようとしたが許されず、朱実の躰は半ばうつぶせに組み敷かれて攻め立てられた。
朱実は首をのけ反らせて嬌声をあげながら喘いだ。
息を詰まらせながら、身動きもできないなかで快楽が弾けた。混濁した意識のなかで、紫己が喘ぐ。自分のものだと刻みつけるかのごとく、紫己は朱実の体内を熱で侵した。
繋がったまま、最後の力を振りしぼるような様で紫己の腕が朱実を抱きしめる。
成人式の日、無理やりではなく、はじめてふたりがひとつになった瞬間、痛みはなくてもきつく感じた。片方で、抱きしめられて自分のすべてをゆだねられる心地よさを知った。快楽を得るためのセックスでも、こんなふうに抱きしめられることでその気持ちは――安心感とずっとという気持ちは幸せと呼べるものに違いなく、自然と溢れてくる。薄れることなく、むしろ、だんだんと強くなっている。
離れたくない。このままでいられたら。
もう自分を許していい。朱実はそんな甘えを抱いた。
孝雄は、その頃、夢中だったテレビドラマで父親役として出ていた俳優に似ていた。ドラマのなかでは、叱ることも褒めることもする、理想の父親に見えた。だからだろう、ずっと母子ですごしてきたゆえに発生しがちな母親を取られたとかいう嫌な印象は受けず、それどころかドラマのなかそのものの家族が狭いアパートのなかに再現されて、朱実は自分がその一員となったことに満足していた。
父親という存在を知らないで育った朱実にとっては、欲しいものの二番めが父親だったのだ。
一番めは動物たちのドールハウスで、それに父親が負けていることを、おかしな子ねぇ、と云って聖衣子はおもしろがった。
自分でもちぐはぐだと思っていたけれど、ずっとあとになって――波布川朱実となった九歳のときその理由が判明した。結局、一番めと二番めは朱実にとっては類義語だ。両親がそろった家族に憧れていた。ドールハウスには朱実がつくった家族が存在していた。
ほとんど毎日のように孝雄は家に来て、それなのにふたりが結婚するまでになぜ三年もかかったのか。その間、朱実は父親になってほしいと事あるごとに催促していた。
実際のところ、ふたりの付き合いが始まったのは三年まえよりももっと以前だったのではないかと思っている。そうでなければひと騒動直後、あんなにタイミングよく父親になる人が現れるはずがない。
聖衣子と音信不通になったいま、もはやわかることはなく朱実の憶測にすぎない。わかったからといっていまが変わるわけでもない。
ただ、聖衣子と孝雄が結婚するまでに時間がかかった理由はすぐにわかった。
「朱実ちゃん?」
学校からの帰り道、もうすぐ家に着くというとき、女性から声をかけられた。
見上げると、知らない人だ。きれいな人、それが最初に見た感想だった。
知らない人には気をつけなさい、と聖衣子の日常化した注意を思いだしながら、朱実はおずおずとうなずいた。
「波布川、朱実ちゃん?」
波布川という姓をやけにゆっくりと咬みしめるように云い、再度、女性は問いかけた。
「……はい」
「でも、あなたは波布川の本当の子供じゃないわ」
ねっとりとして絡みつくような声音に聞こえた。
女性は朱実の目のまえにかがんだ。朱実のほうが見下ろす立場になると、彼女の上目遣いの目は獲物を捕らえようと狙いを定めた猛禽のように見えた。
「本当の子供は、わたしの子供だけよ。波布川の子供はシキだけなんだから。あなたはシキから父親を奪ったのよ。あなたの母親はわたしから夫を奪ったわ。泥棒の子は泥棒ね。シキの父親を返してくれない? どちらにしても、波布川はあなたよりもシキを大事にしていることは確かだけど。血が繋がっているんだから」
ふふっと笑うくちびるから目が離せなかった。あまりに左右の口角が跳ねあがって、そのまま耳のほうまで避けてしまうのではないかと薄気味悪かった。
それから二度め、彼女が現れるまで、彼女のことは聖衣子には云わなかった。彼女の云い分をすべて呑みこめたわけではなく、むしろ訳がわからない。そうして聖衣子に打ち明けたとき、朱実は事情を知らされた。まだ小学三年生だったにもかかわらず、ちゃんと朱実に説明したのは、それだけ聖衣子のなかに真剣に孝雄のことを想う気持ちがあったからなのだろう。
三度め、聖衣子が孝雄に相談をして、孝雄はどう解決したのか、それから彼女は現れなくなった。
ほっとしながら、どこかしっくりこない。朱実が抱えていたその凝りは、彼女が云った、シキから父親を奪った、ということに起因しているかもしれない。朱実が父親を与えられたかわりに、シキは父親を失った。それくらいのことは、シキに会ったことがなくても朱実にだって理解できた。シキにとっては理不尽としか云い様がない。
凝りは完全には消えなかったものの、朱実はしばらくすると父親が帰ってくるという家庭をただ楽しんでいた。孝雄は思っていたとおりやさしかったし、出かけるにもいつも三人で、朱実のことをないがしろにしない。聖衣子が仕事でいないときは、ふたりだけで買い物や映画を観に出かけたこともあった。
そんなありふれた幸せは一年後、両親の結婚記念日に彼女が現れたことで、一瞬にして崩壊した。すべて。
――いや、すべて以上に家族はばらばらになってしまった。
いちばん望みたくなかったことがその日、起こった。
「わたしは……そうね、聖衣子さん、今日は許そうと思って来たのよ」
彼女はにっこりした。
会うのは十カ月ぶり、相変わらず美貌は健在で、笑顔を薄気味悪く見せるところも変わりない。
そして、朱実のその感覚は間違っていなかった。
彼女は思いもつかない方法で許したのだ。
痛みを笑顔で表現できるのは彼女しかいない。
「これであの人はわたしを一生、忘れられない。あなたも、あなたの子もね」
朱いくちびるが紫に塗り替えられていく。そうやって蒼ざめていく彼女とは真逆に彼女が見据えた聖衣子の手は赤く染まっていた。
「泥棒の子供は泥棒よ。あなたも何も手に入れることはできないの」
彼女は朱実に何を見ているのか、瞳だけ別の生命体のようにぎらぎらと朱実を射貫いた。
もういい。わかってる!
彼女から逃れるべく叫んだつもりが、振りしぼるような声しか出ない。その苦しさに喘ぎながら、朱実はびくっと躰をふるわせて目を見開いた。
何度か瞬きをすると、ほのかなオレンジ色の薄明かりのなか、目のまえに飴色の肌が見えた。顔をめぐらせ、フットライトに照らされた幾何学模様の天井が視界に入ると、ようやく紫己のベッドにいるとわかって朱実は息をついた。
悪夢におさまらない夢は不意打ちで襲ってくる。無論、睡眠中の夢は見たいものが見られるわけではなく、紫己と住むようになって半年たったいまもたまに見る。再び、ふるえる吐息を漏らしたとき。
……くっ。
ふいに苦しそうな呻き声が聞こえた。
この頃、こういうことが多くなった。紫己がどんな夢にうなされているのか、いま朱実が悪夢を見たのは紫己に連動しているのかもしれない。
「ムラサキ」
そっと呼んでみると、紫己はついさっきの朱実のようにパッと目を開く。
「……どうした」
紫己は腕に抱いた朱実を見下ろした。
「怖い夢を見た感じがするの。ごめんなさい、起こして」
紫己が応えるまでに少し時間を要した。
「ああ……謝ることじゃないだろ」
紫己は朱実の躰をさらに抱き寄せて、なだめるように背中を撫でた。
一緒に暮らすということから始まって、抱きしめられるだけではなく一つになるという抱き合い方を知って、その間、紫己はもったいないくらいの恋人ぶりをひけらかす。
だれから見ても朱実は幸せだ。
朱実にとっては違う。幸せと怖れは常にセットされ、幸せが増せば増すほど、怖れも比例して増えていく。
「どんな夢だった?」
しばらくして紫己はつぶやくように問いかけた。
紫己の手のひらはゆっくりと確実に朱実の背中を温めている。母親の手のひらは病気にも効力があると云われるが、紫己は朱実にとってそんな癒やしの手を持っている。
「……憶えてません」
「起こすくらいの夢を見たくせに?」
起きなければ終わらない夢は、それが夢にとどまらず現実混じりだからだ。それなら、紫己もそうなのかもしれない。
朱実は紫己のわき腹に置いた手を背中へとまわした。紫己を真似て広い背中を撫でると、吐息が頭の天辺に触れ、額を押し当てた胸がわずかに振動する。
「なんのつもりなんだ」
「わたしが気持ちいいから」
紫己の笑い声は耳からだけでなく、躰全体から伝わってくる。
夢のことを問いつめることなく、しばらく背中を撫で合っていると、紫己の躰は獣化していった。脚を絡ませ、合わせた下腹部であからさまに朱実に意思表示をする。
「ムラサキ……」
紫己はため息をついた。今度は笑っているのではなく呆れたふうだ。
「もっと気持ちよくしてくれってさ」
他人事のように云い、紫己は背中に置いた手のひらをすっと下へ流した。お尻を撫でながらさらに膝の裏へとおりて左の脚を持ちあげると、自分の脚を跨がせた。
朱実は忍び笑っていたが、その手のひらが脚の間に滑りこむとそんな余裕はなくなってしまう。手のひらで中心を覆い、紫己は上へとわずかに朱実を移動させる。焦点が合うぎりぎりの位置でふたりは顔を突き合わせた。
「まだ濡れてる」
からかうようでいて満足そうな声音だ。朱実は目を伏せた。
「……それはムラサキのだから」
「確かにおれのは朱実の奥で溶けこんだ。その云い分は認めるとしても、少なくとも半分は朱実のだ。朱実は感じやすい。出だしが悪かったから、どう信頼を得たらいいのか心配してたけど、そうしてたのがバカらしいくらい朱実は呆気なかった」
その言葉は紫己と暮らしていなければ、朱実は侮辱と受けとったかもしれない。侮辱だとしても慣れているはずが、紫己に関するとそれですまされなくなる。だれかに諭されても、侮辱のはずがない、と、もしそれが真実だとしても全力で否定する。
紫己が欲しがった信頼以上に、朱実は紫己を好きになったんだと思う。
大事な気持ちが“思う”と曖昧な云い方になってしまうのは、強引に始められたという受け身でいたせいだろうか。桔平のときは、叶わないと思っていても好きという気持ちが意識できた。対して紫己のことは、好きと意識するまえに生活のシーンに欠かせなくなっていた。
大晦日、朱実は強引に引き止められ、それから自分のアパートへ戻ったのは、わずかな荷物を取りにいった一度きりだけだ。そのまま紫己との同棲生活が始まった。
紫己は自分が云ったことを守って、シェアよりはちょっと近い関係でいた。それもちょっとの期間だけで、朱実の成人式の日、ごく親密に変わった。
前日の夕方から静岡に里帰りして一泊したのち、式典を終えて戻った。行くときは何も云わなかった紫己は駅まで迎えにきて、成人式のお祝いだと食事に連れていった。
紫己のマンションに帰ったあと、ベッドに入ってからもらったのは、おそろいのネックレスとアンクレットだった。
紫己はそれを朱実に纏わせながら――
べつにこういうのでご機嫌とりしているわけでも、恩を売っているわけでもないけど……抱きたい。
そうして、強要する気はないけど、と可笑しそうに、それでいて言葉に反して強要するように付け加えながら朱実に顔を近づけた。朱実はキスする寸前で止まった紫己を拒絶しなかった。
「じゃあ……もう最初のことは気にしてない?」
「それは違う」
すぐに否定して、その直後、はっきり紫己の躰がこわばった。忘れられない、それは朱実も同じだ。けれど、和らいでもいい。朱実は伏せていたまぶたを上げ、再び紫己の背中をさすった。まもなく張りつめていた躰が緩んだ。紫己の口から漏れたため息は笑みが滲んでいる。
「朱実はおれをいい気にさせる。それを証明してほしい」
云い放つと出し抜けに紫己の指先が敏感な突起に触れた。
あっ。
腰がひくっと反応して、紫己に押しつけた恰好になる。含み笑いがくちびるに触れた。そうかと思うと紫己はくちびるを押しつけてきて、開いた口のなかに舌を忍びこませた。頬の裏側を舐められると、くすぐったさに朱実は呻いた。厳密に云えばそのくすぐったさは快感だ。紫己の指先は楽器を奏でるように器用で、脚の間から蜜を混ぜるような音が立つ。堪えきれない喘ぎはふたりのくちびるの間でこもった。
昨夜、ベッドに入るなり、もういいと訴えるほど抱かれて――抱かれるというよりは快楽を得るためのセックスで、朱実は半ば気絶するように眠った。それで満ち足りたはずで、いま応じる気力はなく、紫己の反応を楽しむだけのつもりが、いとも簡単に快楽を受け入れた。自分でも思いがけなかった。紫己の云うとおり、朱実は感じやすい。けれど、紫己もそうだ。
毎日ではないけれど、いったんセックスを始めると紫己は際限がなく朱実を追いつめる。それだけ求められていると云えば聞こえはいい。最初のうちは快楽にただ呑みこまれるだけだったから気づけなかった。この頃になって躰が紫己を憶えて順応するようになると、快楽に塗れながらも紫己の波動が感じとれるようになった。
朱実が追い立てられているように、紫己もまた何かに追いこまれている。そんなふうにがむしゃらといった様で朱実にぶつかってくる。
何か、とはなんだろう。
その疑問を考える時間はすぐさま紫己に奪われる。
紫己は朱実の体内に指を潜らせた。同時に、親指をお尻の間に添わせる。花片は残った指先で弄った。
うっ、んっ……。
朱実はびくりと腰を揺すって紫己の口のなかへと呻き声をこぼす。
一度に触れられた場所はどこも繊細な神経が通っている。腰を引くも、手のひらで覆われているから逃げることはかなわない。お尻をすぼめても紫己の指を追い払えず、逆に指先が潜ってきそうになって、未知の感覚に朱実は悲鳴をあげた。
紫己は急くことなく、ゆるゆると刺激を与えてくる。感じやすいことを差し引いても、朱実にとって指の使い方は器用すぎた。揉みこむような動きにひくひくとお尻が反応している。体内はざらついた襞を摩撫して躰をふるえさせる。花片はこねられて漏れそうな感覚に絶えず襲われている。
目を閉じているのに目が眩む。いったん湧きあがった快楽は止めることができない。だれでもがそうなのか、朱実が貪欲すぎるのかはわからない。追いつめられて躰が突っ張りだす。
息苦しさに耐えられず、朱実は首を振ってキスを逃れた。
「あ、ムラサキっ……も、だめ……みたい」
「我慢しなくていい。おれをいい気にさせてくれるだろう?」
充血してふくらんだ花片が捲られて突起が剥きだしになり、無遠慮にこねられた。一気に果てに到達する。躰を硬直させた直後。
あっあ、あ、ふっぁぁあああっ。
振りしぼるような悲鳴をあげ、硬直が解けたとたん、びくびくと躰全体が激しくふるえた。
クチュッとした音を立てながら紫己の指は体内から出ていく。紫己は朱実の腰を引き寄せると、呼吸が落ち着くのも待たずに、体内の入り口にオスを押し当てた。
「あ、あうっ、ム、ラサキっ……あ、あ、あっんああっ」
抉じ開けるようにしながら先端が朱実のなかに埋もれた。
ともすればすぐに離れてしまうような位置で紫己は腰をうごめかす。少し潜っては抜けだしそうになる。そんな焦れったさは焦れったさではなく、ただ快楽に変わっていく。果てに行って戻るまもなく、快感は持続しておりられていない。
「あっまたっ」
「ああ」
呻くような相づちは、紫己もまた快楽を得ていることを朱実に伝えてくる。それがうれしくて、すべてが許されたような気になる。
二度め、悲鳴をあげると躰は一気に弛んだ。
紫己は力尽きた朱実の脚をほどき、向き合った躰を離すと、今度は背中から引き寄せた。再び朱実の脚をつかんで開き、紫己はびくつく躰のなかに自分を沈め、さらに進んだ。
あ、あ、あ……。
紫己のモノが最奥に届いたとたん、朱実はのぼせたように息苦しく喘いだ。そこから新たな痙攣が走る。
果てに到達するたびに躰はそれに慣れるどころか、感度は増している。紫己が腰を引いたり押しつけたりすると、弛緩しながらも躰は快楽をコントロールできず、本能的に貪っている。奥を突かれるたびに、漏らしているんじゃないかというひどい水音が耳についた。紫己の呻き声をも掻き消す。
「もう無理だ」
やがて紫己は唸るように吐いた。その吐息が熱を持って朱実の耳もとに纏わりつく。
んっ。
快楽と返事と、区別のつかない呻き声で朱実は応えた。朱実の脚を支えていた紫己の手が躰の中心におりたかと思うと、最大の快楽点に指先が触れた。快楽と苦痛が紙一重という感覚のみが息づくなかに朱実は閉じこめられた。
「はあっ、だ、めっ……漏れちゃうっ」
舌っ足らずに、どうかすると泣き叫ぶようにも聞こえる声で訴えた。無意識に逃げようとしたが許されず、朱実の躰は半ばうつぶせに組み敷かれて攻め立てられた。
朱実は首をのけ反らせて嬌声をあげながら喘いだ。
息を詰まらせながら、身動きもできないなかで快楽が弾けた。混濁した意識のなかで、紫己が喘ぐ。自分のものだと刻みつけるかのごとく、紫己は朱実の体内を熱で侵した。
繋がったまま、最後の力を振りしぼるような様で紫己の腕が朱実を抱きしめる。
成人式の日、無理やりではなく、はじめてふたりがひとつになった瞬間、痛みはなくてもきつく感じた。片方で、抱きしめられて自分のすべてをゆだねられる心地よさを知った。快楽を得るためのセックスでも、こんなふうに抱きしめられることでその気持ちは――安心感とずっとという気持ちは幸せと呼べるものに違いなく、自然と溢れてくる。薄れることなく、むしろ、だんだんと強くなっている。
離れたくない。このままでいられたら。
もう自分を許していい。朱実はそんな甘えを抱いた。
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