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第2章 身の程知らず
1.舞いあがる恋
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パーティに行った日から一週間、朱実はそれまでと何も変わらない日をすごした。
強いて変わったことを挙げれば、土曜日の今日まで桔平がレガーロに現れなかったことだ。
もっとも、朱実は木曜日が休みだったから、その日に来たとも考えられる。一週間に休みはおよそ一日という朱実と、一週間に一度はやってくる桔平と、ふたりが会わない確率は高くない。
朱実はテーブルを拭く手を止め、ため息を漏らした。
確率なんてどうでもいい。何を期待しているの?
自分が自分を嘲笑う。
あの場限りの夢でよかったのだから。
携帯番号さえ訊かれることはなく、もちろん教えられることもなく、何かあるなんて期待するなど滑稽すぎる。
「朱実ちゃん、どうかした?」
隣のテーブルを拭きあげていた手を止めて、渡辺敦美が問いかけた。
三十代半ばの敦美は、結婚して姓は違うがマスターの実の娘だ。朱実の歳には結婚して、女の子二人の子持ちであり、下の子はもうまもなく小学校を卒業する。子育てのためにペースを調整しながらもずっと働いてきたせいか、気持ちも見た目も若い。面接を受けたときは二十代の後半だろうと思っていた。
「あ、なんでもありません」
「そう? 朱実ちゃんがため息なんてめずらしいから」
「ため息くらい、わたしもつきます」
朱実はちょっとだけ首をかしげて、おどけたふりをした。何か云いたそうな目が向けられると、気づかないふりをして、テーブル拭きに戻った。
「そりゃあため息くらいつくだろうけど。岡田さんとはどうなったのかなってマスターが気にしてるみたい」
それが本当だとしても、マスターよりも敦美のほうが好奇心に負けている。
あの日の桔平の誘いは、マスターたちにも聞こえていたらしい。だとすると、あの場に居合わせた客たちも聞き耳を立てていたかもしれず、朱実は冷や汗を掻く思いがした。
このビルはIT関係の会社が多い。つまり、桔平がリブネクストの役員である以上、知らない人のほうが少ないかもしれない。その桔平の気まぐれで目立ってしまうなどあってほしくない。
「どうもなってません」
「そうなの? チャンスなのに。将来有望、外見文句なし、性格もよさそうだし、せっかく声をかけてもらったんだから、ダメでもともと、付き合ってみるのもよくない?」
敦美は無遠慮にお節介をする。
朱実はテーブルを拭き終わって躰を起こすと、首を横に振った。
「そういうこと、あまり興味ないんです。独りでいるほうが気がラクだから」
「もったいないなぁ」
敦美はため息混じりで漏らした。
その言葉を使うなら云い方が違う。朱実にはもったいない、が正しい。
「朱実ちゃん、敦美、メシだ」
マスターがシェフを伴って厨房から出てきた。カウンターに深皿が並べられ、伴って食をそそるカレーの匂いが漂ってくる。
「はい、ありがとうございます」
ふきんを洗ってカウンターに行くと敦美と並んで席に着いた。敦美の向こうにマスター、シェフと座って、すでに食べ始めている。
今日の賄(まかな)い飯はカレースープのリゾットで、素揚げしたカボチャや人参などの野菜がたっぷり盛られている。小振りのハンバーグが一緒に煮込まれていて、いかにもカロリーは高そうだが、メニューにないのが惜しいくらい美味しい。
ここに派遣されてよかったと思うのは、こんなふうに食事がついていることだ。食費いらずでちゃんと栄養も取れる。いずれ、派遣が切れることを思うとため息しか出ない。敦美に云ったように――いや、それ以上にため息をつくことは簡単だ。そうしたところで何も生まないから、考えないようにしてその日をやりすごしている。
「美味しい」
いまは空腹が満たされるという幸せを感じられるだけでいい。その称賛は心底から出たひと言で、それはシェフにも伝わった。
「作り甲斐があるな」
と、毎度のことながらうれしそうに云う。
逆に、朱実にとってもその笑顔はうれしかった。人を不幸にするのは簡単で、笑顔にするのはずっと難しい。笑顔にできる力が自分にわずかでもあるのなら、ちょっとは救われる気がした。
「人に作ってもらうってあまりないから、よけいに美味しいって思います」
「あまりって、朱実ちゃん、まだ東京に来て一年も経ってないでしょ? そのまえも独り暮らし?」
気が緩んでいるというよりも、気がそぞろになっているのかもしれない。うっかりして朱実はよけいなことを口にしてしまっていた。
「いえ……家族と一緒でしたけど、わたしがやってたので」
「へぇ、偉いわね」
勘繰られることなく単純に受けとめられてほっとしていると、客の出入りを知らせる鈴ベルの音が鳴った。
レガーロは八時に閉店するが、接客担当の朱実たちが帰るまで特に入り口を閉めることはない。だれだろうと思って振り向くと、桔平が立っていた。
「失礼。こんばんは。彼女を食事に誘おうと思ったけど、ひと足遅かったみたいだ」
朱実はその発言などどうでもよくて、ただ桔平がいることでうれしさと安堵と入り混じって気が昂る。こんな気分になるのは桔平がはじめてだ。
「ああ、岡田さん、こんばんは。まだ食べてないのなら、少しは残っているし、一緒にどうだろう。売り物ではないが、負けないくらい口に合うと思うよ」
「いいんですか」
「きみさえよければ」
「願ったりです」
そういう運びになるとは思わず、半ば呆気にとられてやりとりを見守っていると、桔平の視線は朱実へと移ってきた。
「いいかな」
だめだと云っても桔平は我を通しそうな気がするけれど、それでも訊ねるのは気づかう気持ちからか、からかいの一環なのか。どう反応してどう振る舞えばいいのか、朱実にはさっぱり見当もつかず、それどころか思考力はままならない。
「どうぞ」
答えたのは敦美だった。
マスターが立ちあがって厨房に行き、その間に敦美が示した、朱実の隣の席に桔平が座った。
「連絡しようにも、おれとしたことがきみのケータイ番号を訊くのを忘れてた。今週は出張したり、仕事が立てこんでてコーヒーを飲みに来る時間も取れなくてさ」
朱実はどう答えようもない。俄に顔が火照ってくる。
人前でもかまわず平気で云えるのはそれだけ自信がある人だからなのか、まったく自信に欠けた朱実からすれば理解できない行動だ。
桔平がどういうつもりかはわからない。ただ、自分のことはわかりかけている。
声をかけられるようになって、それは稀なことだから――あるいは、関心を持つ人がいたことで、単純に舞いあがっているのだと思っていた。はじめはそうだったとしても――少なくともパーティに行く寸前まではそうだったとしても、いまは恋していると云ったほうが合っている気がした。
「……お疲れさまです」
咬み合わない言葉をかけると、桔平は可笑しそうに笑う。すると、朱実も釣られたように笑ってしまう。
自分でもびっくりした。ムラサキが笑わせたときもそうだったように。
「あ……わたし、岡田さんのぶん持ってきます」
戸惑って、その対処法が思い浮かばず、朱実は口実を使って椅子からおりた。
そのとき、ふと店の外に影がよぎった気がして目を向けた。確かに人影はあった。けれど、朱実が姿を捉えたときは背中しか見えず、だれだかはわからなかった。
レガーロは一階にあって、十時半の開店から閉店まで人通りはありふれている。土曜日だろうとこのビルには、八時をすぎても働いている人はざらにいる。それなのに、いま店のまえを横切った人の何が気になったのかはわからない。
いや、きっと単に目についたから気になったというだけだ。朱実は気を取り直し、厨房に行ってマスターからトレイを受けとると、桔平に持っていった。
「うまいな」
何度か続けざまに口にスプーンを運んだあと、ひと息ついた桔平はいかにも満足した声でつぶやいた。
シェフはにっこりとうなずいた。
プロとしての仕事であろうと褒められるのはうれしい。それをわかっているとしても、自然と口に出たとしても、そんな言葉をかけられる桔平は悪い人じゃない。
悪い人じゃない、とそんな消極的な云い方をしてしまうのは、いま以上に好きになる必要はないからだ。わかっていても、ブレーキはうまく作動しない。
「朱実ちゃん、こういうの毎日食べられるってうらやましいな」
ちょっと首をかしげて話しかけられただけで、自分が特別になった気にさせられる。
けれど、そうじゃない。同じ発言が桔平からではなく敦美に云われたことなら勘違いなどせず、ごく普通に同意だけしている。
「はい、わたしも贅沢だって思ってます」
「朱実ちゃん、贅沢なんて褒めすぎだよ。褒めすぎると嘘に聞こえてしまうこともある」
シェフはおどけて肩をすくめた。
朱実に限っては心底から云っているつもりだが、シェフの云い分もなるほどと思った。
「あ……わかりました」
真面目に答えるさなか、隣から吐息が聞こえた。振り向くと、桔平が可笑しそうに見返してくる。吐息は吹きだした呼吸音だったようだ。
「見かけどおり、正直者って感じだ」
「……そんなことないです」
極力、人との係わりを持とうとしなかったせいで、朱実は人と接するときの距離感がよくわからない。それだけのことなのに、時にうまく人の気持ちを察せられずに苛立たせてしまうそのマイナス点を、桔平はいいほうに解釈した。
「そんなことあるよ。朱実ちゃんは新鮮な感じがする」
「わたしもそう思うわ。今時、控えめすぎるけど、それがかえっていいなって感じるの」
敦美が賛同すると、桔平は、ですよね、とさらに同感した。
「良く云いすぎです。嘘に聞こえます」
朱実がさっきのシェフの言葉を借りると、一様に笑い声があがった。
「ほら。控えめだからと云って頭まで控えめってわけじゃない。あたりまえのことだけど、仕事はきっちりしてくれる。雇う側としては、貴重な人材よ。ね、マスター」
「ああ。そのとおりだ。よかったよ、真衣ちゃんが産休に入るとわかったときはどうしようかと思ったけどね。派遣がいい人を紹介してくれた」
真衣はレガーロの接客係のなかで唯一の正社員で、いまはマスターが云ったとおり産休中だ。三カ月まえ、八月に女の子が生まれたという。朱実は彼女のかわりとして派遣された。彼女が復帰したらやめることになると思うが、それまで、当面は朱実の収入も安泰だ。いままでマスターのように云われたことはなく、朱実は内心でほっとした。
「雇い主にとって好都合だとも聞こえますけどね」
桔平が冗談めかすと、マスターは高笑いをした。
「岡田さん、ですが、うちの従業員に手を出すとなれば、それなりの誠意を尽くしていただかないと困りますな」
「もちろんです」
「――だそうよ、朱実ちゃん」
桔平のきっぱりとした返事を受け、敦美は朱実の腕を肘でつつきながらからかった。
朱実はなんとも反応のしようがない。
「……土曜日も仕事なんですか」
露骨に話を切りあげ、トークスキルのなさを露呈した朱実の質問は、忍び笑いを呼ぶ。桔平は口角を上げておもしろがっている。
「たまにね。それほど仕事熱心じゃないから」
仕事に不真面目でリブネクストの役員になれるわけがない。
「……岡田さんもすごく控えめです」
「いい切り返しだ」
桔平は口を歪めて興じた。
強いて変わったことを挙げれば、土曜日の今日まで桔平がレガーロに現れなかったことだ。
もっとも、朱実は木曜日が休みだったから、その日に来たとも考えられる。一週間に休みはおよそ一日という朱実と、一週間に一度はやってくる桔平と、ふたりが会わない確率は高くない。
朱実はテーブルを拭く手を止め、ため息を漏らした。
確率なんてどうでもいい。何を期待しているの?
自分が自分を嘲笑う。
あの場限りの夢でよかったのだから。
携帯番号さえ訊かれることはなく、もちろん教えられることもなく、何かあるなんて期待するなど滑稽すぎる。
「朱実ちゃん、どうかした?」
隣のテーブルを拭きあげていた手を止めて、渡辺敦美が問いかけた。
三十代半ばの敦美は、結婚して姓は違うがマスターの実の娘だ。朱実の歳には結婚して、女の子二人の子持ちであり、下の子はもうまもなく小学校を卒業する。子育てのためにペースを調整しながらもずっと働いてきたせいか、気持ちも見た目も若い。面接を受けたときは二十代の後半だろうと思っていた。
「あ、なんでもありません」
「そう? 朱実ちゃんがため息なんてめずらしいから」
「ため息くらい、わたしもつきます」
朱実はちょっとだけ首をかしげて、おどけたふりをした。何か云いたそうな目が向けられると、気づかないふりをして、テーブル拭きに戻った。
「そりゃあため息くらいつくだろうけど。岡田さんとはどうなったのかなってマスターが気にしてるみたい」
それが本当だとしても、マスターよりも敦美のほうが好奇心に負けている。
あの日の桔平の誘いは、マスターたちにも聞こえていたらしい。だとすると、あの場に居合わせた客たちも聞き耳を立てていたかもしれず、朱実は冷や汗を掻く思いがした。
このビルはIT関係の会社が多い。つまり、桔平がリブネクストの役員である以上、知らない人のほうが少ないかもしれない。その桔平の気まぐれで目立ってしまうなどあってほしくない。
「どうもなってません」
「そうなの? チャンスなのに。将来有望、外見文句なし、性格もよさそうだし、せっかく声をかけてもらったんだから、ダメでもともと、付き合ってみるのもよくない?」
敦美は無遠慮にお節介をする。
朱実はテーブルを拭き終わって躰を起こすと、首を横に振った。
「そういうこと、あまり興味ないんです。独りでいるほうが気がラクだから」
「もったいないなぁ」
敦美はため息混じりで漏らした。
その言葉を使うなら云い方が違う。朱実にはもったいない、が正しい。
「朱実ちゃん、敦美、メシだ」
マスターがシェフを伴って厨房から出てきた。カウンターに深皿が並べられ、伴って食をそそるカレーの匂いが漂ってくる。
「はい、ありがとうございます」
ふきんを洗ってカウンターに行くと敦美と並んで席に着いた。敦美の向こうにマスター、シェフと座って、すでに食べ始めている。
今日の賄(まかな)い飯はカレースープのリゾットで、素揚げしたカボチャや人参などの野菜がたっぷり盛られている。小振りのハンバーグが一緒に煮込まれていて、いかにもカロリーは高そうだが、メニューにないのが惜しいくらい美味しい。
ここに派遣されてよかったと思うのは、こんなふうに食事がついていることだ。食費いらずでちゃんと栄養も取れる。いずれ、派遣が切れることを思うとため息しか出ない。敦美に云ったように――いや、それ以上にため息をつくことは簡単だ。そうしたところで何も生まないから、考えないようにしてその日をやりすごしている。
「美味しい」
いまは空腹が満たされるという幸せを感じられるだけでいい。その称賛は心底から出たひと言で、それはシェフにも伝わった。
「作り甲斐があるな」
と、毎度のことながらうれしそうに云う。
逆に、朱実にとってもその笑顔はうれしかった。人を不幸にするのは簡単で、笑顔にするのはずっと難しい。笑顔にできる力が自分にわずかでもあるのなら、ちょっとは救われる気がした。
「人に作ってもらうってあまりないから、よけいに美味しいって思います」
「あまりって、朱実ちゃん、まだ東京に来て一年も経ってないでしょ? そのまえも独り暮らし?」
気が緩んでいるというよりも、気がそぞろになっているのかもしれない。うっかりして朱実はよけいなことを口にしてしまっていた。
「いえ……家族と一緒でしたけど、わたしがやってたので」
「へぇ、偉いわね」
勘繰られることなく単純に受けとめられてほっとしていると、客の出入りを知らせる鈴ベルの音が鳴った。
レガーロは八時に閉店するが、接客担当の朱実たちが帰るまで特に入り口を閉めることはない。だれだろうと思って振り向くと、桔平が立っていた。
「失礼。こんばんは。彼女を食事に誘おうと思ったけど、ひと足遅かったみたいだ」
朱実はその発言などどうでもよくて、ただ桔平がいることでうれしさと安堵と入り混じって気が昂る。こんな気分になるのは桔平がはじめてだ。
「ああ、岡田さん、こんばんは。まだ食べてないのなら、少しは残っているし、一緒にどうだろう。売り物ではないが、負けないくらい口に合うと思うよ」
「いいんですか」
「きみさえよければ」
「願ったりです」
そういう運びになるとは思わず、半ば呆気にとられてやりとりを見守っていると、桔平の視線は朱実へと移ってきた。
「いいかな」
だめだと云っても桔平は我を通しそうな気がするけれど、それでも訊ねるのは気づかう気持ちからか、からかいの一環なのか。どう反応してどう振る舞えばいいのか、朱実にはさっぱり見当もつかず、それどころか思考力はままならない。
「どうぞ」
答えたのは敦美だった。
マスターが立ちあがって厨房に行き、その間に敦美が示した、朱実の隣の席に桔平が座った。
「連絡しようにも、おれとしたことがきみのケータイ番号を訊くのを忘れてた。今週は出張したり、仕事が立てこんでてコーヒーを飲みに来る時間も取れなくてさ」
朱実はどう答えようもない。俄に顔が火照ってくる。
人前でもかまわず平気で云えるのはそれだけ自信がある人だからなのか、まったく自信に欠けた朱実からすれば理解できない行動だ。
桔平がどういうつもりかはわからない。ただ、自分のことはわかりかけている。
声をかけられるようになって、それは稀なことだから――あるいは、関心を持つ人がいたことで、単純に舞いあがっているのだと思っていた。はじめはそうだったとしても――少なくともパーティに行く寸前まではそうだったとしても、いまは恋していると云ったほうが合っている気がした。
「……お疲れさまです」
咬み合わない言葉をかけると、桔平は可笑しそうに笑う。すると、朱実も釣られたように笑ってしまう。
自分でもびっくりした。ムラサキが笑わせたときもそうだったように。
「あ……わたし、岡田さんのぶん持ってきます」
戸惑って、その対処法が思い浮かばず、朱実は口実を使って椅子からおりた。
そのとき、ふと店の外に影がよぎった気がして目を向けた。確かに人影はあった。けれど、朱実が姿を捉えたときは背中しか見えず、だれだかはわからなかった。
レガーロは一階にあって、十時半の開店から閉店まで人通りはありふれている。土曜日だろうとこのビルには、八時をすぎても働いている人はざらにいる。それなのに、いま店のまえを横切った人の何が気になったのかはわからない。
いや、きっと単に目についたから気になったというだけだ。朱実は気を取り直し、厨房に行ってマスターからトレイを受けとると、桔平に持っていった。
「うまいな」
何度か続けざまに口にスプーンを運んだあと、ひと息ついた桔平はいかにも満足した声でつぶやいた。
シェフはにっこりとうなずいた。
プロとしての仕事であろうと褒められるのはうれしい。それをわかっているとしても、自然と口に出たとしても、そんな言葉をかけられる桔平は悪い人じゃない。
悪い人じゃない、とそんな消極的な云い方をしてしまうのは、いま以上に好きになる必要はないからだ。わかっていても、ブレーキはうまく作動しない。
「朱実ちゃん、こういうの毎日食べられるってうらやましいな」
ちょっと首をかしげて話しかけられただけで、自分が特別になった気にさせられる。
けれど、そうじゃない。同じ発言が桔平からではなく敦美に云われたことなら勘違いなどせず、ごく普通に同意だけしている。
「はい、わたしも贅沢だって思ってます」
「朱実ちゃん、贅沢なんて褒めすぎだよ。褒めすぎると嘘に聞こえてしまうこともある」
シェフはおどけて肩をすくめた。
朱実に限っては心底から云っているつもりだが、シェフの云い分もなるほどと思った。
「あ……わかりました」
真面目に答えるさなか、隣から吐息が聞こえた。振り向くと、桔平が可笑しそうに見返してくる。吐息は吹きだした呼吸音だったようだ。
「見かけどおり、正直者って感じだ」
「……そんなことないです」
極力、人との係わりを持とうとしなかったせいで、朱実は人と接するときの距離感がよくわからない。それだけのことなのに、時にうまく人の気持ちを察せられずに苛立たせてしまうそのマイナス点を、桔平はいいほうに解釈した。
「そんなことあるよ。朱実ちゃんは新鮮な感じがする」
「わたしもそう思うわ。今時、控えめすぎるけど、それがかえっていいなって感じるの」
敦美が賛同すると、桔平は、ですよね、とさらに同感した。
「良く云いすぎです。嘘に聞こえます」
朱実がさっきのシェフの言葉を借りると、一様に笑い声があがった。
「ほら。控えめだからと云って頭まで控えめってわけじゃない。あたりまえのことだけど、仕事はきっちりしてくれる。雇う側としては、貴重な人材よ。ね、マスター」
「ああ。そのとおりだ。よかったよ、真衣ちゃんが産休に入るとわかったときはどうしようかと思ったけどね。派遣がいい人を紹介してくれた」
真衣はレガーロの接客係のなかで唯一の正社員で、いまはマスターが云ったとおり産休中だ。三カ月まえ、八月に女の子が生まれたという。朱実は彼女のかわりとして派遣された。彼女が復帰したらやめることになると思うが、それまで、当面は朱実の収入も安泰だ。いままでマスターのように云われたことはなく、朱実は内心でほっとした。
「雇い主にとって好都合だとも聞こえますけどね」
桔平が冗談めかすと、マスターは高笑いをした。
「岡田さん、ですが、うちの従業員に手を出すとなれば、それなりの誠意を尽くしていただかないと困りますな」
「もちろんです」
「――だそうよ、朱実ちゃん」
桔平のきっぱりとした返事を受け、敦美は朱実の腕を肘でつつきながらからかった。
朱実はなんとも反応のしようがない。
「……土曜日も仕事なんですか」
露骨に話を切りあげ、トークスキルのなさを露呈した朱実の質問は、忍び笑いを呼ぶ。桔平は口角を上げておもしろがっている。
「たまにね。それほど仕事熱心じゃないから」
仕事に不真面目でリブネクストの役員になれるわけがない。
「……岡田さんもすごく控えめです」
「いい切り返しだ」
桔平は口を歪めて興じた。
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