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序章 薄っぺらな愛
prologue
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――あなただけはわたしを裏切らない。そうよね?
幼子に接するようにやさしい声で、手のひらはさも愛しそうに髪を撫でる。
裏切らない。
その答えは必要だったのか。
対面するその瞳にはいつも批難が込められている。
いや、よくよく見れば、なんの感情も映っていない。ただ、自分が勝手に見出しているのかもしれなかった。
必死に伸びてくる手は捕まえようとしても、いつもあと一歩のところで届かず、けれど、いまは違った。伸びた手はそのしぐさが表す意味とは逆行して、伸ばし返した手を嘲笑うかのようにどんどん遠のいていく。
何か云いたければ云えばいい。
いつもそう叫ぶ。
けれど、けっして応えられることはない。
永久に答えは聞けない。無意識下でもそう知り尽くしているからこそ、応えられることはないのか。
裏切ってなどいない。
幸せから遠ざける。それが至上ではないのか。
訴えても何も還ってくるものはない。
口を閉ざし、応えられないのなら、もう消えてくれ。
瞳は無言で責め立てる。
そうして、近づくなと拒絶していたのは自分のくせに、今度は纏いつくようにして躰を束縛する。
もうたくさんだ!
冷たいぬかるみに沈んでいき温度が奪われていく感覚のもと、叫んだ声は呻き声にしかならない。チャリン、と地獄の番人が待ちかねたように拘束の鎖を鳴らす。
もしかしたら、連れていく気なのかもしれない。薄っぺらな愛を注ぎ、当然の愛を独占するために。
そうしたければそうすればいいんだ。
そうつぶやく間際。
「紫己」
その声が、ぬかるみに嵌まった躰をすくいあげた。
目を瞬き、視界に映るものに焦点を合わせていく。右半分に、淡い色で薄らと幾何学模様を施した天井が映り、左半分を不安そうにした顔が占める。
「なんだ」
ぶっきらぼうに吐くと、問うように細い首がかしいで、長い髪が裸の胸を撫でた。
「夢見てたみたいだから。……いつもの悪い夢?」
「いつも?」
「ごめんなさい……たまにそうかなって思うときある」
何を気取ったのか、彼女はつぶやくように謝った。
「意味のない謝罪をするな!」
苛ついたまま怒鳴った。それでも彼女は怯えることがない。
彼女は口を開きかけ、すぐさま思い直したようにいったん口を閉じた。
「……はい」
四つん這いにした躰を後ろに引き、彼女はベッドからおりる。その間に耳につく金属音は夢のなかで聞いた音と同じだった。
紫己は腰もとを覆うシーツを剥いだ。
彼女はベッドのすぐ横に躰を丸めて寝転がる。彼女専用の寝床にあるのは、クッションというには大きすぎるがベッドとは云いきれない。
紫己があとを追うようにベッドをおりると、自分のシーツをつかみかけていた彼女は戸惑いを目に映す。まるで巨人のように立ちはだかった紫己を見上げた。
シーツを放した彼女は上半身を起こすと、紫己に手を伸ばしてきた。再び夢のなかと重なる。
「触るな」
細い指先がオスに触れる寸前で紫己はその手を払いのけた。皮膚が弾かれる乾いた音は、そのままふたりの関係を表しているようだった。
そうされて傷ついた顔をするわけでもなく、彼女は享受する。
傍から見れば、紫己は加虐者で、彼女は被虐者だ。けれど、そうじゃないことを、彼女が享受していることを証明するのはたやすい。
「這えよ」
従う動作に伴って、彼女の足もとではじゃらじゃらと重たい金属音が立つ。左の足首に嵌めた輪っかとベッドの脚は長い鎖で繋がっている。逃げないようにそうしているわけではない。
なぜなら、彼女は逃げない。
紫己が腰を落とすのと同時に彼女は四つん這いになった。紫己は右手を口もとに持ってくると、人差し指と中指を口に含み、毒を塗す。
その指先を彼女の中心に置いたとたん、びくりと躰がおののく。突起に滑らせ、魔撫すれば腰を痙攣させて、力尽きたように肘を折った。紫己へと腰を捧げるような恰好は警戒の欠片もない。
くるくると小さく円を描くように動かすうちに、指に塗していた毒は彼女が生成する蜜と融け合い、クッションの上にぽたりと証しを落としていく。
「あっもうっ」
喘いだ呼吸音しか漏らさなかった彼女が唐突に叫ぶ。紫己はそれを無視して、変わらず指をうごめかす。
「あ、だめっ……ん、くっ」
びくびくとお尻を跳ねあげ、彼女は体内から淫蜜をこぼす。
不規則で荒い呼吸音のみが宙に浮かび、それは彼女にとって屈辱かもしれなかった。
紫己は口のなかに毒を溜めながら躰をかがめる。彼女が放つ芳香は麻薬のように紫己を惹きつける。それをふさぐようにくちびるをつけた。
彼女の口から悲鳴が飛びだす。ただ、それは拒絶ではない。
彼女は逃げない。
なぜなら、愛は薄っぺらで、なんの役にも立たなければなんの救いにもならない。彼女も紫己も、知悉している。
幼子に接するようにやさしい声で、手のひらはさも愛しそうに髪を撫でる。
裏切らない。
その答えは必要だったのか。
対面するその瞳にはいつも批難が込められている。
いや、よくよく見れば、なんの感情も映っていない。ただ、自分が勝手に見出しているのかもしれなかった。
必死に伸びてくる手は捕まえようとしても、いつもあと一歩のところで届かず、けれど、いまは違った。伸びた手はそのしぐさが表す意味とは逆行して、伸ばし返した手を嘲笑うかのようにどんどん遠のいていく。
何か云いたければ云えばいい。
いつもそう叫ぶ。
けれど、けっして応えられることはない。
永久に答えは聞けない。無意識下でもそう知り尽くしているからこそ、応えられることはないのか。
裏切ってなどいない。
幸せから遠ざける。それが至上ではないのか。
訴えても何も還ってくるものはない。
口を閉ざし、応えられないのなら、もう消えてくれ。
瞳は無言で責め立てる。
そうして、近づくなと拒絶していたのは自分のくせに、今度は纏いつくようにして躰を束縛する。
もうたくさんだ!
冷たいぬかるみに沈んでいき温度が奪われていく感覚のもと、叫んだ声は呻き声にしかならない。チャリン、と地獄の番人が待ちかねたように拘束の鎖を鳴らす。
もしかしたら、連れていく気なのかもしれない。薄っぺらな愛を注ぎ、当然の愛を独占するために。
そうしたければそうすればいいんだ。
そうつぶやく間際。
「紫己」
その声が、ぬかるみに嵌まった躰をすくいあげた。
目を瞬き、視界に映るものに焦点を合わせていく。右半分に、淡い色で薄らと幾何学模様を施した天井が映り、左半分を不安そうにした顔が占める。
「なんだ」
ぶっきらぼうに吐くと、問うように細い首がかしいで、長い髪が裸の胸を撫でた。
「夢見てたみたいだから。……いつもの悪い夢?」
「いつも?」
「ごめんなさい……たまにそうかなって思うときある」
何を気取ったのか、彼女はつぶやくように謝った。
「意味のない謝罪をするな!」
苛ついたまま怒鳴った。それでも彼女は怯えることがない。
彼女は口を開きかけ、すぐさま思い直したようにいったん口を閉じた。
「……はい」
四つん這いにした躰を後ろに引き、彼女はベッドからおりる。その間に耳につく金属音は夢のなかで聞いた音と同じだった。
紫己は腰もとを覆うシーツを剥いだ。
彼女はベッドのすぐ横に躰を丸めて寝転がる。彼女専用の寝床にあるのは、クッションというには大きすぎるがベッドとは云いきれない。
紫己があとを追うようにベッドをおりると、自分のシーツをつかみかけていた彼女は戸惑いを目に映す。まるで巨人のように立ちはだかった紫己を見上げた。
シーツを放した彼女は上半身を起こすと、紫己に手を伸ばしてきた。再び夢のなかと重なる。
「触るな」
細い指先がオスに触れる寸前で紫己はその手を払いのけた。皮膚が弾かれる乾いた音は、そのままふたりの関係を表しているようだった。
そうされて傷ついた顔をするわけでもなく、彼女は享受する。
傍から見れば、紫己は加虐者で、彼女は被虐者だ。けれど、そうじゃないことを、彼女が享受していることを証明するのはたやすい。
「這えよ」
従う動作に伴って、彼女の足もとではじゃらじゃらと重たい金属音が立つ。左の足首に嵌めた輪っかとベッドの脚は長い鎖で繋がっている。逃げないようにそうしているわけではない。
なぜなら、彼女は逃げない。
紫己が腰を落とすのと同時に彼女は四つん這いになった。紫己は右手を口もとに持ってくると、人差し指と中指を口に含み、毒を塗す。
その指先を彼女の中心に置いたとたん、びくりと躰がおののく。突起に滑らせ、魔撫すれば腰を痙攣させて、力尽きたように肘を折った。紫己へと腰を捧げるような恰好は警戒の欠片もない。
くるくると小さく円を描くように動かすうちに、指に塗していた毒は彼女が生成する蜜と融け合い、クッションの上にぽたりと証しを落としていく。
「あっもうっ」
喘いだ呼吸音しか漏らさなかった彼女が唐突に叫ぶ。紫己はそれを無視して、変わらず指をうごめかす。
「あ、だめっ……ん、くっ」
びくびくとお尻を跳ねあげ、彼女は体内から淫蜜をこぼす。
不規則で荒い呼吸音のみが宙に浮かび、それは彼女にとって屈辱かもしれなかった。
紫己は口のなかに毒を溜めながら躰をかがめる。彼女が放つ芳香は麻薬のように紫己を惹きつける。それをふさぐようにくちびるをつけた。
彼女の口から悲鳴が飛びだす。ただ、それは拒絶ではない。
彼女は逃げない。
なぜなら、愛は薄っぺらで、なんの役にも立たなければなんの救いにもならない。彼女も紫己も、知悉している。
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