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終章 赤裸の戀
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ローエンの命によってデヴィンが為したのは凪乃羽を解放することだった。
反動でよろけた凪乃羽は、ちょうどローエンが鞘から抜いた剣先が自分に向けられたことを捉えた。それが下から突き上げられた瞬間、凪乃羽のすぐ目の前に臙脂色の壁ができた。
ぐ、ふっ……。
壁の向こうで断末魔のような呻き声がこぼれる。
見開いた目に映る臙脂色は、壁のそれではなかった。ヴァンフリーが纏う羽織りで、瞬時に移動して凪乃羽をかばえるのはヴァンフリーでしかあり得なかった。
呆然として凪乃羽が何もできないうちに、またもや呻き声が漏れ、羽織りが不規則に揺らいだ。
だれもが息を呑んでいたのかもしれない。
「ヴァンフリー!」
エムの叫び声を発端に、いくつか同じように名を呼ぶ声が重なる。凪乃羽が聞きとれたのは、いつの間に現れたのか、エロファンとラヴィの声だった。
「やめてっ」
エムの制する声は何を示しているのか、凪乃羽からはまったく見えない。ただ、三度呻き声が発せられたことで、起きていることは凪乃羽にも察せられた。
「ヴァンっ」
精いっぱい声をあげたつもりがかすれた声しか出ない。
四度めにこもった声を漏らしたヴァンフリーは、立っているのもままならいほどの痛みに襲われているに違いなく、普段はびくともしない躰がよろけてかしいだ。
「ヴァンっ」
「下がれっ」
歯を喰い縛った怒鳴り声が響き渡る。
凪乃羽を心配してそうしているのはわかっていても――痛みでヴァンフリーが死ぬことはないとわかっていても、放っておけるわけがない。凪乃羽はとっさにヴァンフリーの左腕をつかんだ。やむを得ず、上体を折るようにしながら床に片方の膝をつくヴァンフリーに添った。
「離れろ、と、云って、るっ」
ヴァンフリーは左腕を後ろに引き、凪乃羽を睨めつけて退けようとする。
端整な顔は歪み、腹部に当てた大きな手は赤く染まって、指の隙間からこぼれる雫が手の甲を伝って床へと滴っている。
「離れない!」
ヴァンフリーは凪乃羽をかばったのだ。離れられるわけがない。凪乃羽は怖れ慄いた気持ちも忘れて、きっとしてローエンを見上げた。
鎧を纏い、仁王立ちをしたローエンは、まさに仁王像のように厳ついがその資質は守護神とは程遠い。自分の身を守るためなら息子を傷つけることも厭わないのだ。一度めの傷は凪乃羽の盾になったのだから不可抗力だという云い訳はつく。けれど、二度めの傷はヴァンフリーを狙ってやっていることだ。
いくら死なないといっても――
「自分の子供なのにどうしてここまで傷つけられ……」
「私の子ではない」
凪乃羽が最後まで云いきれないうちにローエンはさえぎり、口もとをいびつにして嗤った。
「……え?」
「やっぱり知っていたの?」
凪乃羽が呆けて問い返す間もなく、エムのほうが早く問いかけた。
「私がそれほど愚かに見えるか。ヴァンフリーが大剣を奪った時点ではっきりしていた。ヴァンフリーの奔放さは父親にそっくりだ。だろう、ハング? それと紙一重の怪傑気質に我々は踊らされ、シュプリムグッド帝国の統一まで血を流してきた」
ハング?
ヴァンフリーの父親はローエンではなく、ハングとエムの間にできた子供だというのか。凪乃羽は無自覚にヴァンフリーに目を戻した。変わらず表情には苦痛が浮かんでいるが、フィリルがエムの娘だとわかったときと同じで、驚きも衝撃もその顔によぎることはない。ヴァンフリーもまた知っている。
「踊らされた? そうしてエムを奪い、それでも飽き足らず私を囚人に落とし、最上の独善を得られたのはだれだ」
応戦したハングの言葉にも驚きは見えない。
それなら、と凪乃羽は矛盾と、延いては苛立ちを禁じ得ない。ローエンに痛めつけられているヴァンフリーを、ハングはなぜ助けてくれないのか。
「お父さんがどっちでもひどい」
凪乃羽は無意識につぶやいていた。
フッと力尽きたような吐息に、凪乃羽はそうした主へと目を向ける。痛むだろうに、ヴァンフリーは笑っていた。
「ヴァン……」
「上人とはわがままで慈悲深くもない。おまえの云うとおりだ」
ヴァンフリーは可笑しそうにして凪乃羽をからかう。
「笑い事じゃない。死なないとしても休まないと……」
「そうはさせるか」
ローエンは太い声で吐き捨てた。
鎧を揺するような気配に釣られて見上げると、ローエンが剣を右手から左手へと逆手にして持ち変えていた。剣をしまうのではなく、攻撃するためにそうしていることは持ち主の断固とした顔つきを見ればわかる。
「ヴァンフリー、いや、皆、心して聞け。だれのおかげで永遠を手に入れた? 上人たる力をもたらしたのは、この私だ。皇帝の座は明け渡さぬ」
「ヴァンはそんなもの、望んでいません!」
「凪乃羽、やめろっ」
ローエンはふたりを見下ろして、くつくつと笑う。その実、可笑しそうな気配はなく、見下した嘲笑だ。ローエンは剣を持った左手の上に右手を重ねる。
「望まぬことだろうが、タロの意が退けられないかぎり、おまえたちの意思は関係ない。私がやるべきことをやるまで。見す見すおまえたちを取り逃し、ヴァンフリーをのさばらせておく気など毛頭ない」
「ローエン皇帝」
ヴァンフリーは力を振り絞るようでいながら据わった声を轟かせた。
「貴方の意思こそが無意味だ。……絶対の力を持ったゆえに、都合のいいことしか聞かされず、皇帝は、退屈するしか、ない。玉座にいる、貴方自らが、いま、それを、示されているのでは、ありません……か」
「小賢しいことを!」
ローエンは両手で持った剣を振りあげる。剣先は凪乃羽ではなくヴァンフリーを狙っていた。最初に剣先が凪乃羽に向けられたのはヴァンフリーをいざなうための見せかけにすぎず、ローエンの真の目的はヴァンフリーを討つことにあったのだ。
「ヴァンを傷つけないで!」
「凪乃羽っ」
盾になろうとヴァンフリーの前に出かけた凪乃羽は、そのヴァンフリーによって引き戻される。
「ほう。凪乃羽とやら、おまえはいつ目覚めるのだ? そうしてヴァンフリーをかばい、私を抹殺するか、おまえの父である、この私を?」
反動でよろけた凪乃羽は、ちょうどローエンが鞘から抜いた剣先が自分に向けられたことを捉えた。それが下から突き上げられた瞬間、凪乃羽のすぐ目の前に臙脂色の壁ができた。
ぐ、ふっ……。
壁の向こうで断末魔のような呻き声がこぼれる。
見開いた目に映る臙脂色は、壁のそれではなかった。ヴァンフリーが纏う羽織りで、瞬時に移動して凪乃羽をかばえるのはヴァンフリーでしかあり得なかった。
呆然として凪乃羽が何もできないうちに、またもや呻き声が漏れ、羽織りが不規則に揺らいだ。
だれもが息を呑んでいたのかもしれない。
「ヴァンフリー!」
エムの叫び声を発端に、いくつか同じように名を呼ぶ声が重なる。凪乃羽が聞きとれたのは、いつの間に現れたのか、エロファンとラヴィの声だった。
「やめてっ」
エムの制する声は何を示しているのか、凪乃羽からはまったく見えない。ただ、三度呻き声が発せられたことで、起きていることは凪乃羽にも察せられた。
「ヴァンっ」
精いっぱい声をあげたつもりがかすれた声しか出ない。
四度めにこもった声を漏らしたヴァンフリーは、立っているのもままならいほどの痛みに襲われているに違いなく、普段はびくともしない躰がよろけてかしいだ。
「ヴァンっ」
「下がれっ」
歯を喰い縛った怒鳴り声が響き渡る。
凪乃羽を心配してそうしているのはわかっていても――痛みでヴァンフリーが死ぬことはないとわかっていても、放っておけるわけがない。凪乃羽はとっさにヴァンフリーの左腕をつかんだ。やむを得ず、上体を折るようにしながら床に片方の膝をつくヴァンフリーに添った。
「離れろ、と、云って、るっ」
ヴァンフリーは左腕を後ろに引き、凪乃羽を睨めつけて退けようとする。
端整な顔は歪み、腹部に当てた大きな手は赤く染まって、指の隙間からこぼれる雫が手の甲を伝って床へと滴っている。
「離れない!」
ヴァンフリーは凪乃羽をかばったのだ。離れられるわけがない。凪乃羽は怖れ慄いた気持ちも忘れて、きっとしてローエンを見上げた。
鎧を纏い、仁王立ちをしたローエンは、まさに仁王像のように厳ついがその資質は守護神とは程遠い。自分の身を守るためなら息子を傷つけることも厭わないのだ。一度めの傷は凪乃羽の盾になったのだから不可抗力だという云い訳はつく。けれど、二度めの傷はヴァンフリーを狙ってやっていることだ。
いくら死なないといっても――
「自分の子供なのにどうしてここまで傷つけられ……」
「私の子ではない」
凪乃羽が最後まで云いきれないうちにローエンはさえぎり、口もとをいびつにして嗤った。
「……え?」
「やっぱり知っていたの?」
凪乃羽が呆けて問い返す間もなく、エムのほうが早く問いかけた。
「私がそれほど愚かに見えるか。ヴァンフリーが大剣を奪った時点ではっきりしていた。ヴァンフリーの奔放さは父親にそっくりだ。だろう、ハング? それと紙一重の怪傑気質に我々は踊らされ、シュプリムグッド帝国の統一まで血を流してきた」
ハング?
ヴァンフリーの父親はローエンではなく、ハングとエムの間にできた子供だというのか。凪乃羽は無自覚にヴァンフリーに目を戻した。変わらず表情には苦痛が浮かんでいるが、フィリルがエムの娘だとわかったときと同じで、驚きも衝撃もその顔によぎることはない。ヴァンフリーもまた知っている。
「踊らされた? そうしてエムを奪い、それでも飽き足らず私を囚人に落とし、最上の独善を得られたのはだれだ」
応戦したハングの言葉にも驚きは見えない。
それなら、と凪乃羽は矛盾と、延いては苛立ちを禁じ得ない。ローエンに痛めつけられているヴァンフリーを、ハングはなぜ助けてくれないのか。
「お父さんがどっちでもひどい」
凪乃羽は無意識につぶやいていた。
フッと力尽きたような吐息に、凪乃羽はそうした主へと目を向ける。痛むだろうに、ヴァンフリーは笑っていた。
「ヴァン……」
「上人とはわがままで慈悲深くもない。おまえの云うとおりだ」
ヴァンフリーは可笑しそうにして凪乃羽をからかう。
「笑い事じゃない。死なないとしても休まないと……」
「そうはさせるか」
ローエンは太い声で吐き捨てた。
鎧を揺するような気配に釣られて見上げると、ローエンが剣を右手から左手へと逆手にして持ち変えていた。剣をしまうのではなく、攻撃するためにそうしていることは持ち主の断固とした顔つきを見ればわかる。
「ヴァンフリー、いや、皆、心して聞け。だれのおかげで永遠を手に入れた? 上人たる力をもたらしたのは、この私だ。皇帝の座は明け渡さぬ」
「ヴァンはそんなもの、望んでいません!」
「凪乃羽、やめろっ」
ローエンはふたりを見下ろして、くつくつと笑う。その実、可笑しそうな気配はなく、見下した嘲笑だ。ローエンは剣を持った左手の上に右手を重ねる。
「望まぬことだろうが、タロの意が退けられないかぎり、おまえたちの意思は関係ない。私がやるべきことをやるまで。見す見すおまえたちを取り逃し、ヴァンフリーをのさばらせておく気など毛頭ない」
「ローエン皇帝」
ヴァンフリーは力を振り絞るようでいながら据わった声を轟かせた。
「貴方の意思こそが無意味だ。……絶対の力を持ったゆえに、都合のいいことしか聞かされず、皇帝は、退屈するしか、ない。玉座にいる、貴方自らが、いま、それを、示されているのでは、ありません……か」
「小賢しいことを!」
ローエンは両手で持った剣を振りあげる。剣先は凪乃羽ではなくヴァンフリーを狙っていた。最初に剣先が凪乃羽に向けられたのはヴァンフリーをいざなうための見せかけにすぎず、ローエンの真の目的はヴァンフリーを討つことにあったのだ。
「ヴァンを傷つけないで!」
「凪乃羽っ」
盾になろうとヴァンフリーの前に出かけた凪乃羽は、そのヴァンフリーによって引き戻される。
「ほう。凪乃羽とやら、おまえはいつ目覚めるのだ? そうしてヴァンフリーをかばい、私を抹殺するか、おまえの父である、この私を?」
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