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第4章 二十三番めの呪縛
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――凪乃羽。
ふと、耳になじんだ声で名を呼ばれた。なじんでいながら懐かしさを感じる。
――凪乃羽。
二度め、最初の目覚めを促すような声とは違い、応答を待っているかのような声音だった。
――何?
――起きたことと、あなたは関係のないこと。
――起きたことって?
――関係ないの。愛されることは当然のこと。
凪乃羽の質問に答えはなく、いや、はぐらかされたのか、声は云い聞かせるようだ。
どういうこと? そう問い質そうとすると、急に口を開くだけのことが重々しくなった。開こうとしても、神経がうまく伝達されていないかのようにままならない。
――凪乃羽、あなたの存在は宝物だってことを忘れないこと……。
その言葉は尻すぼみになり、姿を見ることもかなわないまま即ち声の主が遠ざかっていることを示す。
凪乃羽が発していた言葉は果たして伝わっていたのか、会話として成り立っていたのか否か。
ま……って……。
無意識に引き止めた言葉は声にもなっていない。凪乃羽は渾身の力を振り絞って口を開いた。
「お母さん――!」
呼びかけた刹那、凪乃羽は自分の声で目覚め、パッと目を開いた。
目が覚めたということは眠っていたということであり、瞬きを繰り返すうちに、凪乃羽は住み慣れた寝室にいることを認識すれば、そのとおり眠っていたのだ。
無自覚に母を呼んだけれど、凪乃羽に語りかけた声が母だとするなら、夢だとして当然だった。母はこの世界には存在しない。否、ヴァンフリーの云ったとおりなら、どの世界にも母はもう存在しない。
シュプリムグッドという世界になじんできても、母が恋しくて潜在的に会えることを待ち望んでいるのかもしれない。違う、かもしれないなどという言葉は必要なく、会いたい。
ヴァンフリーと暮らしてきて母のいないさみしさも紛れていたのに、いままた夢を見るほど母を恋しく思うのはなぜだろう。
ヴァンフリーといることに不安を感じ始めているから?
なぜ不安を感じているか。ヴァンフリーが凪乃羽といることには理由があるという、ハングの言葉があるからだ。そしてまた一つ、ペンタの言葉を聞き流せなかったことが、不安を煽っている。
地球という世界から来たことは伏せるように云われ、凪乃羽の存在を辺境の出身だとした理由はほかにあるのではないか。そんなふうにも考えだした。
昨日の森のなかの出来事からたった一日でこんなふうに疑惑を抱いたのは、すべてを知らされていないと心底で悟っていたからだろう。
たった一日。その内心で発した言葉に注意が向き、ふと、いつの間に寝室で眠っていたのか、どれくらい眠っていたのか気になって凪乃羽は窓に目をやった。
ほのかに明るいのは、朝か夕か。陽の差しこみがないことを考えると夕刻だとわかる。朝はいつも窓からの陽の差しこみによって目覚めるという、東京にいたときには考えられない健全な生活をしている。
今日は城下町に降りたけれど、いくら疲れたからといって丸一日眠っていたはずはない。凪乃羽は記憶を手繰る。
仕立屋に行ったあとにまた市場をひと巡りした。そうして帰り道、森のなかに入りかけたところで突然、ヴァンフリーに抱きあげられた。凪乃羽のちょっとした吐息を疲労だと解釈したようで、おろしてと口にするまえに、力持ちだというのは知っているだろう、と有無を云わせない口調で先を越された。抵抗しても無駄だというのはわかっている。それに、森のなかは子供たちの力で近道できることもわかっていた。
ヴァンフリーの腕に躰をゆだねたところまでは憶えているが、眠いという意識もなく眠っていたことに自分でも驚いてしまう。
凪乃羽は寝台をおりた。すると、目眩いに似た感覚がして少しふらついた。寝台に手をついて躰を支えるとすぐにその感覚はなくなった。気のせいか、もしくは歩きまわったせいで思いの外、脚に負担がかかったのかもしれない。
やっぱり運動不足だ。そんな反省をしながら一方で、ヴァンが閉じこめたがるせいだ――とヴァンフリーのせいにしつつ、凪乃羽は扉に向かった。
ヴァンはどこにいるのだろう。
扉を開けると、人の話し声がかすかに届いてくる。耳を澄ますと、ヴァンフリーの声と女性の声を聞き分けた。女性はたぶんラヴィだ。
正確には人の話し声ではなく、上人の話し声だ。凪乃羽は自分に突っこみながら、ラヴィの正確を考えると邪魔するのはためらわれ、足音をひそめて声のするほう――広間へと向かった。
「……ヴァンフリー、わたしは協力してあげるって云ってたでしょ」
「知れたら、永遠を失うかもしれないのに?」
話は深刻なのか、そうでないのか、ラヴィの声も、それに応じるヴァンフリーの声も興じている。
「呪いは皇帝にかけられたものよ。皇帝があえて恨みを買うなんて愚かなことをするかしら。皇帝の座を奪うということは、永遠を手に入れるということでしょ。奪われても取り戻せばいいだけ」
「座を奪うためには二十三番めの呪縛が必要だ。どうやって手に入れる?」
ヴァンフリーが問うと、ころころとしたラヴィの笑い声が響いた。可笑しさだけではなく、くだらないことを聞いたような揶揄した様だ。
「まだ秘密にする気? 下界では呪いの噂が広まっているわ。だれが振りまいたのか、わかってるの?」
「だれだ」
「呪いは上人しか知らなかったのよ。いまになって知れ渡ったっていう時機を考えれば、自ずと見いだせるはずだけど? ほんとはわかってるわよね、ゼロ番めの愚かな上人も?」
挑発には乗らず、ヴァンフリーは短く笑ってやりすごしている。それに応じたのはラヴィのため息だ。
「そのうち二十三番めの呪縛を探して狩りが始まるんじゃない? それでいいの? 皇帝の座を明け渡すことになるけど。せっかく手に入れてるのに」
「仮に皇帝の座を奪ったとして、ラヴィになんの得がある?」
「自由よ、真の意味で。あなたもそうでしょ? ご機嫌を窺わなくちゃならない自由なんてうんざり。それに、おもしろいじゃない。二十三番めの呪縛がどんな効力を持っているのか」
「それは、ロード・タロにしかわからないことだ」
「そう? 凪乃羽は知ってるんじゃない?」
広間に近づくにつれてだんだんと声がはっきりしていくなか、不意打ちで自分の名が呼ばれ、凪乃羽はたじろいで足が止まった。
――凪乃羽。
ふと、耳になじんだ声で名を呼ばれた。なじんでいながら懐かしさを感じる。
――凪乃羽。
二度め、最初の目覚めを促すような声とは違い、応答を待っているかのような声音だった。
――何?
――起きたことと、あなたは関係のないこと。
――起きたことって?
――関係ないの。愛されることは当然のこと。
凪乃羽の質問に答えはなく、いや、はぐらかされたのか、声は云い聞かせるようだ。
どういうこと? そう問い質そうとすると、急に口を開くだけのことが重々しくなった。開こうとしても、神経がうまく伝達されていないかのようにままならない。
――凪乃羽、あなたの存在は宝物だってことを忘れないこと……。
その言葉は尻すぼみになり、姿を見ることもかなわないまま即ち声の主が遠ざかっていることを示す。
凪乃羽が発していた言葉は果たして伝わっていたのか、会話として成り立っていたのか否か。
ま……って……。
無意識に引き止めた言葉は声にもなっていない。凪乃羽は渾身の力を振り絞って口を開いた。
「お母さん――!」
呼びかけた刹那、凪乃羽は自分の声で目覚め、パッと目を開いた。
目が覚めたということは眠っていたということであり、瞬きを繰り返すうちに、凪乃羽は住み慣れた寝室にいることを認識すれば、そのとおり眠っていたのだ。
無自覚に母を呼んだけれど、凪乃羽に語りかけた声が母だとするなら、夢だとして当然だった。母はこの世界には存在しない。否、ヴァンフリーの云ったとおりなら、どの世界にも母はもう存在しない。
シュプリムグッドという世界になじんできても、母が恋しくて潜在的に会えることを待ち望んでいるのかもしれない。違う、かもしれないなどという言葉は必要なく、会いたい。
ヴァンフリーと暮らしてきて母のいないさみしさも紛れていたのに、いままた夢を見るほど母を恋しく思うのはなぜだろう。
ヴァンフリーといることに不安を感じ始めているから?
なぜ不安を感じているか。ヴァンフリーが凪乃羽といることには理由があるという、ハングの言葉があるからだ。そしてまた一つ、ペンタの言葉を聞き流せなかったことが、不安を煽っている。
地球という世界から来たことは伏せるように云われ、凪乃羽の存在を辺境の出身だとした理由はほかにあるのではないか。そんなふうにも考えだした。
昨日の森のなかの出来事からたった一日でこんなふうに疑惑を抱いたのは、すべてを知らされていないと心底で悟っていたからだろう。
たった一日。その内心で発した言葉に注意が向き、ふと、いつの間に寝室で眠っていたのか、どれくらい眠っていたのか気になって凪乃羽は窓に目をやった。
ほのかに明るいのは、朝か夕か。陽の差しこみがないことを考えると夕刻だとわかる。朝はいつも窓からの陽の差しこみによって目覚めるという、東京にいたときには考えられない健全な生活をしている。
今日は城下町に降りたけれど、いくら疲れたからといって丸一日眠っていたはずはない。凪乃羽は記憶を手繰る。
仕立屋に行ったあとにまた市場をひと巡りした。そうして帰り道、森のなかに入りかけたところで突然、ヴァンフリーに抱きあげられた。凪乃羽のちょっとした吐息を疲労だと解釈したようで、おろしてと口にするまえに、力持ちだというのは知っているだろう、と有無を云わせない口調で先を越された。抵抗しても無駄だというのはわかっている。それに、森のなかは子供たちの力で近道できることもわかっていた。
ヴァンフリーの腕に躰をゆだねたところまでは憶えているが、眠いという意識もなく眠っていたことに自分でも驚いてしまう。
凪乃羽は寝台をおりた。すると、目眩いに似た感覚がして少しふらついた。寝台に手をついて躰を支えるとすぐにその感覚はなくなった。気のせいか、もしくは歩きまわったせいで思いの外、脚に負担がかかったのかもしれない。
やっぱり運動不足だ。そんな反省をしながら一方で、ヴァンが閉じこめたがるせいだ――とヴァンフリーのせいにしつつ、凪乃羽は扉に向かった。
ヴァンはどこにいるのだろう。
扉を開けると、人の話し声がかすかに届いてくる。耳を澄ますと、ヴァンフリーの声と女性の声を聞き分けた。女性はたぶんラヴィだ。
正確には人の話し声ではなく、上人の話し声だ。凪乃羽は自分に突っこみながら、ラヴィの正確を考えると邪魔するのはためらわれ、足音をひそめて声のするほう――広間へと向かった。
「……ヴァンフリー、わたしは協力してあげるって云ってたでしょ」
「知れたら、永遠を失うかもしれないのに?」
話は深刻なのか、そうでないのか、ラヴィの声も、それに応じるヴァンフリーの声も興じている。
「呪いは皇帝にかけられたものよ。皇帝があえて恨みを買うなんて愚かなことをするかしら。皇帝の座を奪うということは、永遠を手に入れるということでしょ。奪われても取り戻せばいいだけ」
「座を奪うためには二十三番めの呪縛が必要だ。どうやって手に入れる?」
ヴァンフリーが問うと、ころころとしたラヴィの笑い声が響いた。可笑しさだけではなく、くだらないことを聞いたような揶揄した様だ。
「まだ秘密にする気? 下界では呪いの噂が広まっているわ。だれが振りまいたのか、わかってるの?」
「だれだ」
「呪いは上人しか知らなかったのよ。いまになって知れ渡ったっていう時機を考えれば、自ずと見いだせるはずだけど? ほんとはわかってるわよね、ゼロ番めの愚かな上人も?」
挑発には乗らず、ヴァンフリーは短く笑ってやりすごしている。それに応じたのはラヴィのため息だ。
「そのうち二十三番めの呪縛を探して狩りが始まるんじゃない? それでいいの? 皇帝の座を明け渡すことになるけど。せっかく手に入れてるのに」
「仮に皇帝の座を奪ったとして、ラヴィになんの得がある?」
「自由よ、真の意味で。あなたもそうでしょ? ご機嫌を窺わなくちゃならない自由なんてうんざり。それに、おもしろいじゃない。二十三番めの呪縛がどんな効力を持っているのか」
「それは、ロード・タロにしかわからないことだ」
「そう? 凪乃羽は知ってるんじゃない?」
広間に近づくにつれてだんだんと声がはっきりしていくなか、不意打ちで自分の名が呼ばれ、凪乃羽はたじろいで足が止まった。
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